私は田村正和のファンだ




 私は田村正和のファンだ。
 沢山の優秀な役者の中で,田村正和を「特別」と見なしているということだ。なぜ田村正和なのか,その理由を明らかにしたい。(これから書くことは酷く個人的なことだ。誰のためにも,何の役にも立たないかもしれない。でも,いいのだ。ファンだからいいのだ。)

 なぜ彼のファンか?
 格好いいからだろ。
 そう言うかもしれないが,違う,そうではないのだ。
 確かに彼は美しい。役者として成功するには,容姿の美しさは重要だろう。だが,理屈から言って,美しい容姿の持ち主はかなり存在するはずだ。美しさは役者で成功する決め手にもならないし,ましてや「ファンになる決め手」にはならない。

 最近のテレビCMで,立っている田村正和が,座っている人間の額に指をあて,「えへへっ,立てないでしょ」と笑うものがあるが,あれは実に田村正和らしくて面白い。
 その面白さをつくり出しているのは,彼の「卑しい笑い」だ。田村正和のこの笑いを見ると,思わず笑ってしまう。飛躍した言い方だが「俺も生きてていいんだ……」という気持ちになるのだ。それで嬉しくなる。だから彼が好きなのだ。
 田村正和の魅力はここにある。「卑しさ」「せこさ」「自分本位の傲慢さ」「自己の枠を超えられないスケールの小ささ」,それが彼の魅力なのだ。お前ホントにファンなのか?と言われそうだが,ファンだ。長所は生き抜く上で役に立つが,魅力にはならない。短所こそが人間の魅力を形作る。
 「卑小さ」が,田村正和を魅力的な役者にしている最大の要素である。彼も,そして彼を起用する作家も,そのことは熟知している。少し前にヒットした「古畑任三郎」「総理と呼ばないで」などにおいても,田村正和の「卑しい魅力」が炸裂している。
 「古畑任三郎」では,同名の名探偵(警部だが,あまりに自由奔放なので探偵と言っておく)を田村正和が演じている。古畑というキャラクターは,「名探偵は性格破綻者でなければならない」という法則(うそかも)に則った正統派の名探偵で,名探偵好きの人間にはたまらない。だが,一歩間違えれば「弱いものいじめの好きなコロンボ刑事」で終わってしまう弱さもある。その古畑を,オリジナリティのあるキャラクターにしているのは,田村正和の「にじみでる卑しさ」に他ならない。そしてこの「卑しさ」があの作品をヒットに導いたのだ。
 もっとも,「総理と呼ばないで」は,卑しい魅力が炸裂しすぎて,私のようなファンには最高だったが,一般的には刺激が強すぎたかもしれない。「なんかオレ,コツ掴んできちゃったみたい」と言って「うへうへ」笑う姿は最高だったのだが。

 私が如何に田村正和のファンであるか,わかっていただけただろうか。賢明なあなたなら,もう一つわかったことがあるかもしれない。
 それは書き手である私が,「卑しさ」「せこさ」「自分本位の傲慢さ」「自己の枠を超えられないスケールの小ささ」をもった人間であるということだ。私は田村正和の中に自分を投影し,それを笑っているのだ。姿形は似ても似つかぬ田村正和は,それでも私の分身であり,それ故彼は「特別」なのだ。そして,田村正和のファンは,みんなそういう人間なのだ(言い過ぎ)。

 性格分析をしたいなら,相手に同姓の著名人で誰のファンかを尋ねればいい。そしてその著名人の長所と短所(滑稽なところ)を聞き出すのだ。この短所がその人が抱える問題を暗示している。
 ちなみに,異性の著名人ではいけない。異性の場合,自ずと投影するものが異なってくる。恐らく自分や自分にとって重要な異性に欠けているものを投影するのではないだろうか。
 なお,性格分析うんぬんという話は,私が勝手に考えたことで心理学に基づくものではない。つまり,でたらめなので使用上注意されたい。

    注:理屈
     美には「めずらしさ」が求められると同時に,「あたりまえ」も要求される。
     「あまりにもめずらしい」容姿は,「めずらしすぎ」ていわゆる美には分類されない。逆に言えば,美しい容姿の持ち主は少なからず存在するわけだ。
     2割から3割くらいの人間は美しい容姿の持ち主だと言っていいのではないだろうか。2割・3割という数字にはなんの根拠もないが,さほど少なくないあるの割合の人間の容姿が,自動的に美しいと認められる仕組みが存在することは間違いない。
     何が「めずらしく」て同時に「あたりまえ」の資質かは,時代や場所によって異なる。16世紀のヨーロッパの絵画には,太って乳房の小さい裸の女が頻繁に登場する。それを見てわれわれは「きっと深い意図が隠されているのだろう」などと思ってしまうが,なんのことはない,あれは女優のヘアヌード写真のようなものにすぎない。当時の男たちは太って乳房の小さい女に欲情しただけのことだ。現代の絵画のように,あえて醜いものを配し新たな美を追求しようという企てとは無縁である。
     では絶対的な美はないかというと,そうではないと思っている。
     ダイヤモンドだ。
     ダイアモンドが放つ複雑な光の束は,時代や場所を超えて人間を魅了する。もしかしたら,あの輝きは嘗て人間がいた場所の輝きと似ているのかもしれない。あの眩い光の中に,記憶にない遠い過去を見て,それを懐かしんでいるのだ。

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