推理小説のトリックの一つに、叙述トリックというものがある。物語の叙述方法や作品の構成そのものにトリックを仕掛けるというものだ。 例えば、「私」をいかにも青年のように思わせておいて、最後に実は老婆であったことを知らしめる。こうすることで語ってきた事実の意味あいを一変させてしまう。不可能は可能になり、善人は悪人に変わるのだ。読者は”常識”を劇的に覆され、目が眩むような感覚を味わうことになる。 これに類する手法は推理小説以外でも用いられる。 劇団3OO(さんじゅうまる)を主宰する渡辺えり子の「瞼の女(まぶたのめ)」もその一つだ。 クライマックスで、青年は、この芝居は僕のラブロマンスで、主役は僕だと思っていたと言う。もちろん客もそう思っている。その彼に向かって老婆が腹に響く声でこう叫ぶ。 「バカだね、主役は、主婦にきまってるだろ!」 (なんだ?主婦だ?) 客の戸惑いを無視するように、舞台は一気に物干し場に転換。青年の母である”主婦”が登場し、語り始める。この主婦のセリフにより、”常識”は一変し、客は思いもかけぬ感情を突きつけられる。 それまでむしろ退屈しながら見ていたのに、涙がぼろぼろこぼれて仕方がなかった。 伝えたい思いがあり、それを効果的に見せる演出として叙述トリックを用いるのはいい。ぐらっとした感覚の後に、作者の思いが心に残る。それはとても心地よいものだ。 だが、文学的テーマを持たない推理小説では事情が違う。 目眩いのような感覚の後には何も残らない。あるとしたら、細かい文字で埋め尽くされた契約書を詐欺師に突きつけられ、「よく見てください、ほらここですよ、ね、ちゃんと書いてあるでしょ」そう言われているような不快感だろう。 プロットがサスペンス物として完成度が高いとき、叙述トリックは最悪の効果をもたらす。プロットがつまらなければ、これは何かあると気づきもしよう。だが面白ければ、登場人物に感情移入し、一緒にはらはらしてしまう。最後になって「私」は老婆だったなどと言われたら、今まで作品にのめり込んでいた自分がバカに思えてくる。恋人のことを本当は何も知らなかったことに気づいたような、ひどく寂しい気持ちにさえ感じる。 小説・映画・ゲームなどの娯楽は、のめり込むことに楽しさがある。不可解な殺人事件が続く世界に身を置き、あやしげな人々と出会い、読者自ら謎を解く。それが推理小説の楽しみだ。その世界から身を引き、一字一句罠がないか注意しながら読み進めなければならないとしたら、それはもはや、パズルを解くことでしかない。のめり込めなくて何の小説だろう。また、のめり込んだことをあざ笑われて何が嬉しい。 |