片上鉄道を退職してから

太田一夫

 私が片上鉄道を退職してから、もう30年が過ぎ去った。機関区で22年間輸送にたづさわって青春を送り、心ならずも希望退職に応じた。そのことは今でも私の胸の奥には、悲しさと腹立ちとがわだかまりとして溜っている。しかし、リストラによって別の世界に移り種々の職業を経験できて、考えようによってはすばらしい転機であった。
 平成3年ごろから廃止問題が具体的になり、事あるごとにニュースでとりあげられるようになってくると、いつしかわだかまりも薄らぐようになった。そして名残りの乗車をしてみたくなるのだった。
 「なあ。久しぶりに片鉄へ乗ってみようか」ある日私が家内に言った。
 「そうねえ、それをあんたが言いだすような気がしとったんよ。長い間働いた片鉄が廃止されそうですもの、今度の日曜日学校が休みだから、巴を連れて行きましょう」と同意してくれた。
 5月のある日、私は家内と小学3年生の孫娘と三人で片上駅へ行った。プラットホームに立つと、流れた時間がとても永いようでもあり、それほどでもないような気がした。その日は夏のような太陽が快晴の空から強い陽ざしを投げかけ、気温は30°まで昇って、かげろうが揺らぐ駅構内に、貨車は1両も見当らない。レールはほとんど取拂われて野球ができそうなグランドに変わっていた。
 正面の運転区も人の気配はなく、ディーゼル機関車DD13型1両とディーゼルカーキハ型が2両だけ留置してある。私はまともに顔を合わせしまい少しとまどった。逢いたくない人に突然に逢った感じと同じだ。彼等彼女等が喋べれるなら「20年から寄りつかずに何で今頃になってやってきたの。ずい分とお見限りだったわねえ」と叱られることだろう。
 待合室はマニヤと家族連れで大変賑やかだ。駅務室をのぞいてみると知らない人ばかりで浦島太郎というところだ。
13時ちょうどDC302号車がホームに着いた。運転士はT氏で車掌はM氏である。
 「元気だった。最後までよく頑張って勤められお疲かれさまでした。今日は一往復乗せてください。知らん人ばかりで、無言の一日を覚悟しとった」と私は言って軽く会釈した。
 「そうですがな。C君もO君もこの3月に定年退職で退めて、H君と二人だけになって、JRから運転士を三人派遣してもらいやっているんです」話していると車掌のM氏が打ち合わせにやってきて、昔の話しをするのだった。片上鉄道の廃止が決まると、今年になって土日は全列車ほぼ満員の乗車とのことである。
 いよいよ時間がきて列車は片上駅を発車した。清水駅まで約4kmはほとんど上り勾配が続き、カーブもきつい個所があって難所である。特に下り列車はけん引重量が500トンにもなるので、エアーブレーキの取扱いが難かしく、寿命の縮む思いで脚を踏んばり冷汗を流しての運転であった。現在でも時々ブレーキが甘くて効きが悪く、スピードが思うように落ちない何とも言えない不気味な夢をみることがある。
 トンネルを出ると右手に約250メートルの山がみえる。肌が削られてゴルフ場が造成されている最中だ。次の和気までの区間では、山陽自動車道の工事が進んでいる。人間は自然をどうしてこんなに破壊してしまうのか――。 今後何年この地球は耐えられるのか―――本当に心配になってくる。
 そのうち列車は13時30分定時に和気駅に入って停った。満員の列車で相当難しいブレーキ扱いなのに、さすがにノーショックで定止線にピタリと停めた腕前には感心する。やがてJRからの客を乗せて柵原へ向かった。家内と孫娘は移り変る沿線風景が面白く、キャーキャーさわいで楽しんでいる。私は、昔のことを少しずつ思い出し懐かしんでいた。「この辺だったかな。下り一番DC列車で落石に遭い、折り返し勤務で7種類の列車乗務をこなしぐったりしたのは」また「DLで柵原を出発し、ノンストップで和気まで運転中、コンバーターの送油パイプが破れて運転室が油びたしになり慌てたなあ」など不思議と思い出すのは怖いことばかりである。それだけ記憶が強烈であり、日常的なことはほとんど忘れてしまっている。
 柵原駅も操車場はレールが取り去られて淋しいもので、その後に各地の工業汚水を運ぶバキュームカーが何台も駐車していた。
 それから後、吉ヶ原へ柵原町の力で交通公園が設けられた。DCの動態保存もされて、年に幾度かイベントがあって片鉄OBも一安心というところである。

平成12年6月



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