片上鉄道入社の頃から機関士へ

太田一夫

 私は18歳のとき五人の仲間と一緒に、片上鉄道に入社した。その年は、日本がアメリカをはじめとする連合国に無条件降伏して、5年目を迎えていた。沖縄県民は五人に一人の割の犠牲者を出し、広島と長崎には人類最大の悪魔の兵器である原子爆弾が投下されて、数十万人の人々が一瞬に殺されたり負傷させられ、都市という都市は焼けつくされていたが、どうにか新しい日本を築くための基礎固めが出来た頃であった。
 その年の6月朝鮮半島の38゜線では、戦争が始っていた。
 昭和25年9月初め五人は、思い思いの服を着て出勤し、片上駅構内と機関区を見学した。石炭の燃える煙と機械油の匂いでみんなびっくりしてしまった。SLとDCの修理工場では動力部分が解体されていて、私の身長ほどもある動輪やピストンがコンクリートの床に、輪木をして置かれていた。SLの車体はカバーが取脱され赤錆びたボデーが現われて、横長の背にはラクダのこぶに似た丸いドームが載っていた。
 天井クレーンがうなり、エアーハンマーが大きな音をたてて鋲を打ち、足元ではアーク溶接の火花が散ってお互の話声も聞き取れない喧ましさだった。私達は何回も何回も注意を受けながら予定の見学を終えた。それから1か月の研修教育を受けた後本採用された。1年近くSLの掃除と修理の手伝いをしながら、各部の名稱と構造を覚えるとともに石炭の炊き方も模形で練習させてもらった。ボイラーの2級免許は現在のJR、当時国鉄の機関区で講習の便をはかっていただき全員が取得できた。列車の増便が見込まれることになり、先輩達が機関士見習に登用されるとその人数だけセットで助士見習が登用されて、指導機関士に就くのである。
 機関助士になってからは、ベテランの機関士と組み短かくて半年、長い場合は1年間同じ路線を往復するのである。機関士の場合は別にDC仕業があって、それに替わるとSLのような噪音に悩まされることはないが、可愛そうなのが助士であり1年中SLと離れることができない運命が待っていた。
 ようやく10年経ってから欠員ができ、その時まで残っていた私とF君が機関士見習に登用された。それまでに水島コンビナートとか藤田観光、同和興産などへ転職した者もあるなかで、曲りなりにも機関士になれる道が開かれたのであった。それまでにボイラー1級免許も取っていたし、SLの学科試験に受かっていたので、余裕のある気分で毎日を過ごしていた。
  新緑を綴うて黙もく缶を炊く
  花吹雪ふり返り見る山の駅
などの句や駅と事務所の友人と共に創った同人誌が今でも私の手元に残こっている。
 いよいよ私は指導機関士のYさんに、ベテラン助士のSさんの助けを借りながら見習に就いた。それから約7ヶ月間未熟な私に、列車運転技術を余すことなく、識っておられることがらを全部教えていただいた。またYさんには後日DCの見習でも懇切なご指導をしていただき、退職の日までの10年間、運転員としての無事故を通せたことに心から感謝をしているところである。
 さて、実技運転も合格して単独運転が許されてからも、ベテラン機関助士の援助がなければ人命財産をあずかる業務は務まらない。いよいよ自分独りの責任で、運転席に座る前 
 夜は、なかなか寝つけるものでない―――と   聞いてはいたが―――私もその日は気持が高ぶって落つけなかったことが、昨日のように思い出される。
 責任が服を着ているようなきびしい作業でも、いつの間にか慣れてくるとひどい疲れは来なくなるものであって、若葉青葉の季節、木洩れ陽がレールに揺れる中を走るとき、旅にでも出ている気分になれることもある。そのうち自動車運転と同じくペースがつかめると自由自在にやれるものである。とは言っても、発車時のノーショック。長大列車の停止位置合せ、省エネ運転などは経験を積むしか方法はない。
 自分に最適と思えた職場も、やがてディーゼル車が導入され、助士が廃止されることになった。DLはSLとは異なる運転免許証が必要であって、広島まで学科試験を受けに行き、学科が合格してからDCの運転を習得しなければならなかった。別に危険物四種取扱いの免許もとる必要があって、大変な毎日だったことは忘れられない思い出である。

2000年6月



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