前夜祭その1(MPUの誕生)

 エピローグ 古い写真

 先日久しぶりで本棚を整理していたら、古いパソコンの写真が出てきました。懐かしいパソコンSHARP「X1」の写真です。そうそう、たかし君のパソコ波瀾万丈伝は、このSHARP「X1」から始まったのです。でも、この物語はそれよりずっと以前から始まります。

                   

(左) 懐かしいパソコン雑誌「月刊マイコン」1983年6月号。たかし君が初めてのパソコンX1を購入したころ。
(右) 残念ながらこの写真は、そのX1ではありません。追々物語のなかで、その写真も紹介していきます。 

 MPUの誕生
 
 この文章を書き始めた2001年10月10日は、米・英国のアフガン空爆で、TVを賑わしています。そうそう、あのトランジスタの誕生から、驚異的な集積回路までの発展をTVで放送した、NHKスペシャルシリーズ番組「電子立国 日本の自叙伝」が放映された1991も同じ中東の地にて米・英国等の多国籍軍と、イラクとの湾岸戦争の年でした。パソコンの心臓部となる、MPUはある日突然出来上がったのではなく、この番組のなかでも語られているように、トランジスタの発明を転機に日米の科学者や企業の血と涙の苦闘より生まれたようです。

 トランジスタの誕生は、1947年にアメリカの科学者達がが苦闘の末、ゲルマニウムという半導体物質で真空管と同じ働きをする装置を発明したことに始まりました。「電子立国 日本の自叙伝」では、第2回の放送で詳しく描かれています。技力でリードするアメリカを必死で追い上げる日本の企業を豊富な取材で余すところなくとらえており作品的にも優れた映像に仕上がっていました。

 当初トランジスタはラジオ等に利用されていましたが、やがて電卓(電子式卓上計算機)に使用されてで黄金時代を迎えました。1台に数百個のトランジスタを使用する電卓は、日本の電機業界の花形輸出商品となり世界を席巻していくとともにトランジスタを製造している企業も大いに潤っていました。しかし、集積回路が誕生し、トランジスタがICとなり、たった1個のLSIで、電卓が出来るようになると、シャープ、カシオ、キャノン等での電卓戦争が激しくなり、当初数十万円した電卓が、数千円になり電卓産業は淘汰の時代を迎えることとなります。この場面は第4回の放送で詳しく放送されました。


 ちょうどその電卓戦争のさなかの1969年、日本の電卓メーカーのビジコン社は、1台で科学計算から土木計算、さらには会計計算処理までこなせる電卓を作り、淘汰の時代を乗り切ろうと考えました。そこでビジコン社は、電卓の心臓部のLSIをアメリカのインテル社に、制作を依頼するためLSIの設計書を携えて技術者を渡米させ交渉することにしました。ところが、当時のインテル社は、半導体メモリーを制作する小さな会社であり、日本のビジコン社の要望にこたえる複雑な汎用LSIを作成できる設備も人員を抱えていなかったようで困惑してしまいます。そのとき、インテル社側の窓口担当技術者であったテッド・ホフ氏は、ハタト閃き、ビジコン社の言う複雑なLSIでなく、マクロな命令を実行するLSIすなわち、MPU(マイクロ・プロセッサ・ユニット)のほうが費用もかからないよ、と逆に設計変更を提案してきました。インテル社側では、アイデアを示して設計変更をすことで制作作業を少しでも少なくしようとしたかったようです。この提案を受けたビジコン社の担当技術者の嶋氏たちは、発想の転換に驚きながらも、電卓への利用の可能性を探るため、いったん日本に帰国し再検討を行います。そして1970年嶋氏が再び打ち合わせのために渡米することになります。

 ところが、アメリカの空港におりたった嶋氏をそこで待っていたものは、インテル社に新しく入社した回路設計技術者のフェデリーコ・ファジン氏でした。テッド・ホフ氏は新しい仕事に着いており、MPUの設計は全然進んでいませんでした。そこで、嶋氏が論理設計を、ファジン氏がLSI回路を担当することになり、本格的に1チップ4ビットMPUの開発が始まりました。そしてついに1971年4月に世界最初の1チップ4ビットMPU、インテル4004が誕生することになるのです
 

           

(左)世界初の点接触型トランジスタ。1947年アメリカのベル研究所で発明される。
(右)世界初の1チップ4ビットMPU、インテル4004(1971年)
いずれも、NHKスペシャル「電子立国 日本の自叙伝」より

 8ビットMPUにライバル社続々参入 

 こうして、
4004は世界最初のMPUとして誕生したが、コンピュータのプロセッサと言うより、実体はまだ電卓のプロセッサでした。このためインテル社は、早速4004の改造に着手し、1972年に8ビットの本格的プロセッサ、インテル8008を発表します。8008は、4004の構成をほぼそのまま拡張したもので、処理スピードはあまり変わらなかったようです。そのため、インテル社はさらに8008を改良したMPU、8080を1974年に開発発表します。このインテル8080は、爆発的な売れ行きを記録し、世界最初のパソコン、アルテアに搭載されることになりますが、その話はまた後で書くことにします。

 年代が少し前に戻りますが、実は日本でもMUPの開発研究が行われていたのです。事の発端は、1968年にシャープに日本コカコーラがPOS端末の開発を依頼したことから始まりました。そのときシャープでは、汎用LSIを作成し、POS端末に組込もうとし三菱電機に作成を依頼します。しかし、三菱電機が断ってきたため、あらためて日本電気(NEC)に依頼することにします。こうしてシャープが設計して、NECで作成された日本初の4ビットMPUが1971年12月に、インテルに8ヶ月の遅れで完成します。ただし、このMPUは日本の技術水準では1チップには集積出来ず2チップのMPUでした。そこで、NECはシャープの設計を一部手直しし、1チップにした4ピットMPU、μコム4を1973年9月に開発しました。1チップMPUではインテル社に遅れること2年でした。また8ビットMPUでは、独自設計のμPD−753。インテル社の8080フル互換MPU、μPD−8080Fと次々に発表します。そしてμPD−8080Fはインベーター・ゲーム機ブームに乗り爆発的売れ行きを記録します。

 アメリカでも、インテル社の8080の成功に刺激されたくさんのライバルメーカが現れました。まず当時、自動車無線で有名だったモトローラ社が8ビットMPU、MC6800をもって市場に参入してきました。MC6800は、インテル社の8080より優れた機能をたくさん持っていました。ちまたでは、プロはインテル社の8080よりもモトローラ社MC6800系を好むと言われました。プログラムの組安さではモトローラ社MC6800が勝っていたようでした。しかし、不思議なことに、モトローラ社のMPUには優れたパソコンに恵まれませんでした。

 また、モステクノロジー社では、6502と呼ばれるMPUが開発されました。6502はモトローラ社MC6800によく似たMPUでしたが、MC6800と違い、APPLEや、コモドール社のPETというパソコンに採用されました。また日本では、任天堂のファミコンにも採用された幸運なMPUでした。

 一方、1974年に、嶋氏やフェデリーコ・ファジン氏がインテル社をスピンオフし、ザイログ社を作り、1975年にZ80という有名なMPUを開発しました。Z80は、8ビットMPUの最終決定版と言うべきすごいMPUで、一部からは、アーキタクチャがすっきりしないとか、半導体屋はめちゃくちゃなアーキタクチャのものを作るとか、いろいろ批判がありました。しかし、とにかく処理スピードが早いし便利な機能がいろいろ付いていたので、8ビットMPUの最後の勝者なりいろいろなパソコンやマイコンを組込んだ機械に採用されました。