3月14日。バレンタインという行事が終わって、1ヶ月後にある行事。

 本当に、何が悲しくって、欲しくも無いチョコレートを貰ってお礼を返さなくっては、いけないのだろうか。

「本当、兄貴も大変だよなぁ……」

 平日の今日、朝からバレンタインのチョコレートをくれた少女一人一人に、丁寧な返事と共に、自分で作ったクッキーを手渡している兄の姿を何度も見かけて、豪は思わず苦笑をこぼす。

 水曜日となっている今日、その前の日曜日に、台所でずっとお菓子作りをしていた兄の姿を思い出して、豪は再度苦笑をこぼした。
 自分だって、幾つかのチョコレートを差し出されたが、甘いものが嫌いだからと、一つも受け取らなかったので、今日と言う日に、お返しというモノは必要ない。

 最も、幼馴染であるジュンから貰ったものに関しては、既に兄が作ったクッキーを分けてもらっている。
 もっとも、そのチョコレートだって、自分は口にはしていないのだが……。

「あっ、でも確か……」

 1ヶ月前のことを思い出して、豪は頭を抱え込む。

 一つだけ食べたチョコレートの事を思い出して、思わず顔が赤くなってしまう。
 あの日、確かに自分は一つだけチョコレートを口にした。

 一つと言う表現は間違いがあるかもしれないが、確かにその日に兄が作ったココアを口にしたのだ。
 それは、紛れも無く、チョコレートで作られたモノ。
 甘味のないそれを嬉しそうに飲んだ事を思い出して、ため息をつく。

「やっぱり、お返しは必要だよなぁ……」

 だが、自分の兄が正直にお返しだといってモノを受け取るとは思えない。
 それどころか、自分が送ったものに対して不信がられるのは、目に見えている。

「……兄貴に、直接じゃなきゃ、問題ないよな……」

 そして、考えついた事に、笑みを零すと、豪は自分が持っていた財布と相談して、再度嬉しそうな笑顔を見せた。



「疲れた……」

 家に戻って、自分の部屋に入ってくるなりのその言葉に、ベッドで眠っていた猫が心配そうにその体を摺り寄せてくる。

「ただいま、『夜』……」

 自分に甘えるような仕草を見せる猫に苦笑を零しながらもその頭を撫でてやれば、嬉しそうに喉を鳴らす。
 最近では、何時だって本物の猫のように振舞う相手に、烈はその手触りの良い毛を感じながら笑みを零した。

『…何か、あったのか?』

 そして、満足したように自分から離れると、紫色の瞳が見上げてくる。
 心配そうに見詰めて来るその瞳に、烈は再度苦笑を零した。

「今日と言う日に、疲れただけだよ」
『今日?』

 苦笑を零しながら言われたそれに、『夜』が不思議そうに首を傾げる。
 今日と言う日がどう言う日なのか、知る訳が無い。

 不思議そうに尋ねてくる猫の姿に、烈は疲れたようにため息をつきながら、それでも優しくその理由を教えてやる。

「…ホワイトデーって言って、バレンタインのチョコレートをくれた人へお返しをする日なんだ」
『……チョコレートをくれた人にお返し?……烈は、あのチョコレートくれた人全部に、お礼をしたのか?』 

 1ヶ月前の事を思い出して、『夜』が驚いたように烈を見た。
 確かに、バレンタインだと教えてくれたあの日、烈は沢山のチョコレートを持っていたのだから、驚くなと言う方が無理な話であろう。

「だから、大変だったんだよ……」

 呟かれたそれに、烈は疲れたようにため息をつく
 そのお陰で、今日は朝からゆっくり出来なかったのだ。

 チョコレートをくれた子を一人一人呼び出して、返事を返してから、お返しに可愛くラッピングしたクッキーを手渡す。
 それを一日やれば、流石に疲れない方が変である。

「泣き出す子までいて、本当に、大変だったよ……」 

 その時の事を思い出したのだろう烈が、再度盛大なため息をつくのを見て、『夜』は苦笑を零す。
 目の前の人物が、そんな事を苦手としているのを知っているからこそ、思わず同情せずにいられない。
 しかも、そんな事をしていたと知れば、彼のストレスは並大抵のものではないだろう。
 下手な事をして、ストレス解消の道具にされるのだけは、避けなければいけないのだ。

「心配しなくっても、八つ当たりはしないからね」

 目の前で苦笑を零している猫の姿に、烈はため息をついて、まるで心を読んだかのように言葉を掛ける。

「流石に、八つ当たりもしたくなくなるくらい、疲れたんだよ…」

 そして、再度疲れたように大きく息を吐き出す姿を前にして、『夜』は胸を撫で下ろすようにホッと息をついた。
 疲れているのか、烈はそのまま制服も着替えないままで、座り込んでいる。
 その姿を見ながら、『夜』はまた休むようにベッドに丸まった。
 猫の仕事は、寝る事だといわんばかりである。
 烈も、その様子を見詰めて、苦笑を零すが、別段何も言わずに、ただそんな姿を見詰めて、息を吐く。
 兎に角今は、ゆっくりと休んで居たいと思うのが正直な気分なのだ。

「……っても、もう直ぐ……」

 疲れた体を休ませていたが、ずっと制服と言うのも、落ち着かないので、とりあえず重い体を起こすとゆっくりとした動作で服を着替えて、時計を見た瞬間盛大なため息をついた。

 既に暗くなっている外の様子を見て、烈はそのまま疲れた体を引きずるように部屋を出る。
 もう直ぐ夕飯の時間と言う事もあって、そのままリビングへと重い足取りのまま移動した。

「あれ?兄貴、帰って来てたのか?」

 そして、リビングに入った瞬間素っ頓狂な声が聞こえて、烈は疲れたように声のした方を見る。
 勿論相手など確認しなくっても、誰だか分かっているのだが……。

「お前も、いつの間に帰ってきたんだ?」

 いつも戻ってきた瞬間賑やかなだけに、何時帰ってきたのか分からない相手に盛大なため息をついてみせる。
 だが、その姿が今だ制服のままだと気がつくと、烈は呆れたように苦笑を零す。

「お前、制服を先に着替えてきたらどうなんだ……皺になるぞ……」
「えっ?ああ……だって、俺が帰ってきたのさっきだもんなぁ……」

 呆れたような兄の台詞に、困ったように返事を返されて、烈はもう一度ため息をついた。

「で、ちゃんとジュンちゃんには、お返し渡してきたのか?」

 言わなければ、そのまま忘れていそうな弟を前に、烈は少しだけ睨みつけるような視線を向ける。
 その視線を受けて、豪は慌てて大きく頷いた。

「も、勿論、渡してきた!んで、ちょっと話し込んでて遅くなったんだよ」
「なら、いい……でも、先に制服を着替えて来いよ」

 豪の返事に満足そうに頷いて、烈は疲れた体をソファに預け、今だ制服姿の弟を促すようにリビングのドアを指差す。

「おう、後で……」
「今すぐだ!」

 烈に曖昧な返事を返した瞬間、命令口調で言われた事に、豪は慌てて置いていた荷物を掴むとそのままリビングを出て行く。
 その後姿を見送って、烈は盛大なため息をつく。

「やっぱり、あんたの言う事は聞くんだねぇ…」

 自分の声に、キッチンで夕食の準備をしていた母親が感心したように呟いたそれに、烈は再度ため息をつくのだった。




「兄貴、今日はお疲れさん」

 自分の部屋に当たり前のように入ってきた弟に、烈は正直な気持ちうんざりとした表情を見せる。
 正直、今日はこのまま直ぐにでも寝てしまいたいほど自分は疲れているのだ。

「…で、他に用件が無いのなら、今すぐ出て行けよ……」

 疲れたように短い言葉を相手に掛けて、烈が豪を睨みつける。
 それに、豪は慌てたように自分のポケットからあるものを取り出した。

「えっと、今日がホワイトデーって事だから、本当なら兄貴に何かプレゼントしないといけないの分かってたんだけどさぁ・・・・・・・」
「お前から、お返しを貰う必要はないだろう……」

 戸惑っている弟に、烈が呆れたように返事を返す。
 確かに、バレンタインデーの日に弟にココアを飲ませたのは覚えているが、あれだって別段自分が買ったものではないのだ。

「いや、今日だって、ジュンに渡すクッキー貰ったし……」
「ついでだ。お前の事だから、お返しなんて用意しないの分かってたからな…それじゃ、ジュンちゃんが可愛そうだろう」

 要点を得ない弟の言葉に、烈は面倒くさそうに返事を返す。
 だが、確かに今言っている事は全て本当の事で、別段お礼を貰いたいとは、少しも考えていないのだ。

「でも、やっぱり俺は、兄貴にお返ししたかたんだ……だから、これ……」

 そっと差し出されたそれに、烈は不思議そうに首を傾げた。
 可愛らしいファンシーショップの袋。

「お、俺が部屋から出てから開けてくれよな……」

 少しだけ照れたように言われたそれに、烈は訳が分らないというような表情で、豪を見る。

「色々探してみたんだけど、やっぱりこれが一番いいかなぁって……『いらない』って言うのは、無しな。折角買ってきたんだからさぁ…」
「…お前…」
「疲れてるところ、悪い……んじゃ、お休み、兄貴!」

 無理やりその袋を烈に押し付けると、豪はそのまま慌てて部屋を出て行く。
 それを見送ってから、烈は無理やり渡されたそれを見詰めて、苦笑零す。

「…兄弟で、気を使うなって言うんだよなぁ……」

 渡されたものを見詰めて、文句を言うと烈は素直に渡されたものを袋から取り出した。
 何が入っているのか分からないそれを取り出した瞬間、思わず苦笑を零してしまう。

「全く、こんなモノを用意するなんてなぁ・・・・・・・」

 袋から出てきたモノを見て、烈は笑いを零す。

「もう既に、ペットって認めたって言ってるようなものだよなぁ、これって……」

 まさかこんなモノをお返してとして渡されるなど想像もしていなかっただけに、烈は笑わずには居られない。
 自分では、絶対に買わないだろうと思えるそれ。

「……まっ、気に入れば、付けてくれるんじゃないのか・……」

 苦笑を零しながら、自分のベッドで気持ち良さそうに眠っている黒猫に近寄っていく。

「『夜』お前に、プレゼントだ……」

 そして、そっと優しく声を掛けると、小さく身じろぐその姿に笑みを零す。



 君がくれた大切なモノ。
 きっと、誰にも分らない程大切なモノ。

 君に出会ってから、沢山の思い出が出来た。だから、これも一つの思い出。

 今日君が、正式にこの家の住人になれた証。

「……似合ってるよ、『夜』」

 そっと首に光るそれを見詰めて、烈は優しく微笑んだ。

 迷子札と言える代物のついた猫用の首輪。それは、オレンジ色の綺麗な首輪。
 誇らしげに見せられたそれに、烈は笑みを零した。

「お前からも、ちゃんと豪にお礼を言えよ……んじゃ、とりあえず、ボクは寝るからね……」

 豪から貰ったそれを本来の渡すべき相手に渡してから、烈はそのまま疲れたようにベッドに入る。

 その後、『夜』が素直に豪に御礼を言ったのかどうかは謎。
 
 君がくれた大切なモノ。それは、何時だって小さいけど、確かに大切なモノだから……。