「俺で、本当にいいんですか?」
突然の誘いは、自分にとっては、本当に願っても無い申し出であった。
無名である自分が、監督としての資格をもっても、雇ってくれる所が無い限り、仕事は出来ない。
だからこそ、サッカークラブからの誘いは、本当に有難いものであったのだ。
「私は、是非君にやって貰いたいんだよ。君が、監督としてウチに来てくれる事をずっと待っていたんだからね」
優しい笑顔と共に言われたそれに、太一は少し複雑な表情を見せる。
プロから監督へと替わったのなら、こう言った勧誘も当然かもしれないが、太一はプロとしての活動はしてない。勿論、幾つかの入団勧誘はあったのだが、それは丁寧に断ったのだ。
自分の夢が、サッカーの選手ではなかったから……。
「無名だからと言う理由で断るのなら、それは私にとっては無意味だよ。それに、今開いているクラブで君を知らない子は居ない」
「えっ?」
「中学、高校でのサッカー選抜。すべて見せてもらっているからね。君の実力は、分かっているつもりだ。それに、私の考えに、君の教えはあっているようでね」
そう言って笑う相手に、太一は意味が分からないと言うように首を傾げる。
「サッカーは、楽しむもの。勝ち負けでは決まらないものがあると言う事を、今の子供たちにも教えて欲しいのだよ」
「それは……」
「君が、インタビューに答えた時、何時も言っていた言葉だったからね。だからこそ、君にウチの監督になって欲しいんだ」
相手の言葉に、太一は言葉を飲む。
本当に有難い話。自分の考えに共感して、こうして誘ってもらえる事など、きっともう無いかもしれないのだ。
やはり勝つ事が最優先とされているこの世界。そんな世界で、こんな考えをもつのは、いけないことかもしれないが、それでも、楽しんでサッカーをしてもらいたいし、何よりも、勝ち負けだけで決められない事を、分かってもらいたいのだ。
「勿論、今直ぐに返事をくれなくても構わない。じっくりと考えて……」
「この話、お受けします」
オーナーである相手の言葉を遮って、太一は顔を上げて真っ直ぐに相手を見て、はっきりと返事をする。
自分にとって、これ以上ないほどの有難い話。そして、自分に任せてもらえるのだと言う事は、信頼されていると言う事。だからこそ、何よりも遣り甲斐があるのだ。
「……直ぐに返事が貰えて助かる。では、早速で申し訳ないのだが、明日子供たちに紹介してもいいかな?」
「はい」
「では、契約書だ。引き受けてもらえて、本当に嬉しい。有難う」
感謝の言葉と相手の笑顔に、太一も笑顔を返す。
少し年を感じさせる相手のその笑顔は、本当に安心できるものであった。
そして、自分の夢であった事が、今日から実現する事になる。
「契約してきた?」
「おう!もう即決。スゲー有難い話で、飛びついちまった」
ニコニコと嬉しそうに言われた言葉に、ヤマトが呆れたような表情を見せる。
「なんだよ、祝ってくれないのか?」
「別に、お前が仕事しなくっても……」
「その話なら、きっちり終わった筈だぞ!俺は、俺の夢があるんだって事で、納得しただろう?」
ボソボソと文句を言うヤマト相手に、太一が盛大なため息を付いて、問い掛けた。それに、ヤマトが不機嫌そうな表情を見せる。
「だけど、何もそんな即決で……」
「だって、そこのオーナーは、俺も知ってるけど、スゲー良い人なんだぜ。サッカークラブとしても、人気あるチームだし。だから、俺にとっては、これ以上ないぐらい良い話だったんだよ」
キッパリとした口調で言われたそれに、ヤマトが小さくため息をつく。
勿論、目の前で喜んでいる大切な人の姿は、喜ばしい事だ。だが、何が悲しくって、嫁が仕事に出掛けるのを嬉しく思うというのだろうか?
「……で、何時から行くんだ?」
「明日から!」
なので、これだけはと言う気持ちで問い掛けたその言葉に、直ぐに返された言葉は、自分の予想とはあまりにも掛け離れたものであった。
本当に、何が悲しくって、珍しくある自分の休みの日から、仕事に出掛けるというのだろうか。
新婚である自分達だが、自分の仕事の為に、二人で過ごす時間は、かなり少ない。その貴重な時間が、相手の仕事でなくなってしまうというのは、はっきり言って耐えがたいものがあるのだ。
「……太一、俺は明日オフなんだが……」
「そっか?んじゃ、のんびりと休んでろよ。俺は明日の朝からクラブの方に行く事になってんだ」
本当に嬉しくって仕方ないと言うように言われたその言葉には、自分への愛を感じない。
新婚家庭で、漸く二人だけの時間を持てるというのに、どうして、こんなにも複雑な感情を持たなくってはいけないのだろうか。
「もう、スゲー楽しみvv」
ニコニコと嬉しそうなその姿に、ヤマトは不機嫌そのままに盛大なため息をついた。
どうも、妻の愛情を感じられないのは、自分の気の所為ではないかもしれない。
嬉々として、目の前で夕飯を食べている姿に、それとは対照的に暗い気持ちそのままでご飯を食べるヤマトの姿があったのは、言うまでもないだろう。
空は、快晴。
もう、これ以上ないほどのサッカー日和。
「よし!」
気合十分に不機嫌そのままのヤマトを残して家を出て来た太一は、目の前に広がるサッカーグランドに、笑みを浮かべた。
初仕事と言ってもいい今日、昨夜は、何だかんだと文句を言う一人の人物を完全無視して、契約書をきっちりと読み。更に貰っていたサッカークラブに所属している子供たちのリストに目を通し、出来るだけ子供達の名前と顔を覚える努力もした。
「後は、みんなの反応だよなぁ……」
無名の自分が突然監督になると言っても、普通は受け入れられるものではないだろう。
クラブ入る子達は、強くなるのを目的にしている子が多い。最も、小学生である彼らだから、まだ好きだから入っていると言う子も勿論居るだろうが……。
「太一くん」
盛大なため息をついて、中へ入る事を躊躇っていると名前を呼ばれて、そちらへと視線を向ける。
「…オーナー」
「良く来てくれた!子供達も、君を待ち望んでたんだ。ほら、入って!!」
言うが早いか、そのまま中へと促されてしまう。その顔が、本当に嬉しそうなだけに、太一も大人しく従った。
「まずは事務所の方に来てくれるかい?」
「あっ、はい……契約書の方も、お渡ししたいですし……」
すっと持っていた封筒を差し出せば、ますます嬉しそうな顔が見せられる。
「早いね。それじゃ、今日から君は、ウチの専属と言う事で、よろしく頼むよ」
「はい、こちらこそ、よろしくお願いします」
ニッコリと手を差し出されて、太一も同じようにその手を握り返す。
「八神太一!!!!!!」
その瞬間、大きな声で名前を呼ばれて、太一は驚いて振り返った。
そこに居たのは、数人の子供達。そして、自分の事を指差して、ただ驚いたように見詰めている。その姿に太一は、思わず首を傾げてしまう。
何故、小学生である彼らが、自分の事を知っているのかが疑問に覆えても仕方ない。そう、自分はプロではないのだから……。
「何で、俺の名前……」
「オーナー!八神さんを、口説いたんですか?!!」
「はぁ??」
目をキラキラさせて、自分が質問しようとしたその言葉を遮って、近くにいたオーナーに質問を投げ掛ける小胆たちのその姿に、太一は意味が分からず素っ頓狂な声を出してしまう。
「ああ、失礼。君たちにも紹介しよう、今日からうちのチームの監督をしてくれることになった八神太一くんだ。と、言っても、君たちは彼の事を良く知ってるだろう?」
「勿論です!!!」
「プロの道を断って、監督になった人なんて、八神さんくらいだよな」
「その理由が、一人でも多くのプロの選手を育てる為だって!!」
「俺等の事、育ててもらえるんだ!!」
数人の子供達が、嬉しそうに口にしているその内容に、太一は思わず呆然とする。
確かに、自分がプロへの参加を辞退した理由は、今子供達が話したような内容だったが、それを、どうして今の小学生が知っているのだろうか??
「それに、選抜を優勝に導いたキャプテンって有名だし、今だにその名前は選抜の中じゃ伝説なんだぜ」
まるで自分の事のように嬉しそうに話をしている少年達を前に、太一は何も口を挟む事も出来ずに、ただ見詰めてしまう。
「そう言う訳だよ、太一くん。だから、私は君に頼みたかったんだ」
子供達の反応にどう返していいのか分からないで居る太一の耳に、嬉しそうなオーナーの声が聞えて、太一は、ただ複雑な表情で、振り返った。
「俺の名前だけが、先行してませんか?」
「そんな事はない。このクラブに入ったら、君の活躍した選抜の試合は全て参考にさせてもらっているからね。言った筈だよ、このクラブで、君を知らない子は居ないと」
ニコニコと笑顔を見せる目の前のオーナーを、初めて侮れないと思っても仕方ない事かも知れない。
「それじゃ、君達皆に、ちゃんと監督を紹介したいから、グランドに集まっておいてくれるかな?」
「はい!!!!」
数人の声が綺麗に重なってる。そして、元気な返事を残して、そのまま少年達は嬉しそうにグランドへと走って行った。
「今日から、君はあの子たちが成長する手伝いをするんだ。任せたよ」
グランドに走っていく子供達を見送りながら、嬉しそうな笑顔と共に言われたその言葉に、太一は今改めて、自分が手に入れた夢を実感する。
「はい、至らないと思いますけど、よろしくお願いします」
そして、深々と大きく頭を下げた。
今日から、自分の夢への第一歩が始まる。
ずっと、願っていたその夢を叶えられた事への幸せ。
そして、自分を受け入れてくれる存在が、いると言う事。
「今日から、このクラブの監督をしてくれることになった……」
「…い…あっと、八神太一、です。大した事は、出来ないかもしれないけど、宜しくなvv」
今しばらく、昔のままの名前で、ずっと夢見ていたあの頃を思い出すように……。
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