「もう、あんな奴知るもんか!」

 帰ってくるなりそう言った相手に、ヒカリはどうしたものかとため息を付いた。
 勿論、大好きな兄が帰ってきてくれたのは嬉しいのだが、ずっとこんな調子では、素直に喜んでも居られない。

「一体、何があったの?」

 何度目になるか分からないその質問に、問われた人物は、むっとした表情を見せて、そのまま口を噤んでしまう。
 こんな調子では、何も聞き出す事が出来ないと悟ったヒカリは、諦めたように立ち上がる。

「ヒカリ?」

 突然ソファから立ち上がった妹に、太一が不安そうな表情を見せるのに、ヒカリは苦笑をこぼした。

「お兄ちゃん、喉渇いたでしょう?おいしい紅茶があるから、入れてくるね」

 心配そうに自分を見詰めて来る兄に、ニッコリと笑顔を見せてそのままキッチンへと歩いていく。
 言われた事に返事も返せずに、太一はほっと息を吐き出した。
 喧嘩をするのは何時もの事なのだが、今回のように家を飛び出して来たのは、結婚して初めての事。だからという訳ではないのだが、心配してくれる妹にも素直になれない自分に、太一は呆れたようにため息をついた。
 怒っている理由は、きっと言ってしまえば他愛のない事だと自分でも分かっている。
 いや、人が聞いたら、『そんな下らない理由で……』と言われるかもしれない。それでも、自分にとっては、とっても大事で、大切な事なのだ。

「はい」

 疲れたように盛大なため息をついた瞬間、すっと差し出されたそれに、太一は驚いて顔を上げる。

「ハーブティーだから、落ち着くよ」

 ニッコリと可愛らしい笑顔を見せる妹に、太一は小さく礼を言うと、素直にそれを受け取った。
 両手でカップを持ってそっと口元に運べば、独特な香りが鼻につく。ミントの爽やかな香りに、太一はそっと目を閉じた。
 言われたように、自分の心が落ち着くのを感じて、太一は思わず苦笑を零す。
 落ち着いてくると、怒っていた事に対して、今度は逆に泣きたくなってきてしまう。

「……昨日、ヤマトが……」
「んっ?」

 自分の隣でミントティーを飲んでいるヒカリが、呟きにそっと顔を上げてニッコリと可愛らしい笑顔を見せる。
 促す訳ではなく、ただ自分が口を開くのをじっと待っていてくれる妹の視線を感じて、太一は心を落ち着かせるように、一口ミントティーを口にしてから、決心したように口を開く。

「………泊り掛けの仕事の時、どんなに忙しくても、電話掛けてくるのに、昨日は、それがなかったんだ……」

 忙しい身だと言う事は、誰よりも知っている。だが、泊り掛けの時は、何時だって、自分に『お休み』と伝える為に電話してくれたから、ずっと起きて、電話が掛かってくるのを待っていた。
 今まで一度だって、電話が掛かって来なかった事はないから、掛かって来る事を信じて、ずっと待っていたのだ。なのに、昨晩だけではそれがなく、今朝になっても電話のコールは一度も鳴らない。
 何かあったのかと、本気で心配しながら、何気なく点けたTVを見た瞬間、何も考えられなかった。
 何時ものワイドショー。『人気バンドのボーカル・ヤマトが、人気アイドルと親密デート!』と見出しを打たれたそれに、太一は一瞬瞳を見開いて、呆然としたままただ画面を見詰めてしまう。
 今までだって、何度もそんなワイドショーがあったが、今回は、仲良さそうに腕を組んで歩いている隠し撮りの写真が映し出されていたのを思い出して、太一は泣きたいのを強く唇を噛んでグッと堪えた。
 電話が無かった事と、ワイドショーでの記事が益々自分を追い詰めていく。
 ポツリポツリと何があったのかを話し出した太一の言葉を、黙って聞きながら、ヒカリは少し不機嫌そうに眉を寄せた。

「……そんなの、ヤマトさんが、悪いよ。今日は、帰ること無いからね!」

 自分の話に一緒になって怒ってくれる妹の言葉に、太一は思わず苦笑を零してしまう。そして、力強く言われたそれに、思わず小さく頷いて返した。

「……お兄ちゃん、寝てないんだったら、少し休んだ方がいいよ」

 優しい妹の言葉に、太一はもう一度苦笑を零す。
 精神的にも疲れているのは本当の事で、一睡も出来なかったのは、何かあったのかもしれないと言う不安から。何度、ヤマトの携帯に連絡を入れようと、子機を持ったか、覚えていない。その度に、自分に言い聞かせて子機を握り締めた。

「お兄ちゃん、顔色悪いよ……眠れないのなら、カモミールティーでも入れようか?」

 今朝までの事を思い出して、太一がそっとため息をつくのを見て、心配そうに声が掛けられる。それに、太一は顔を上げて、ヒカリに視線を向けて、笑顔を見せた。

「…これで十分だ……ごめんな…これ飲んだら、少し休ませて貰うから……」

 自分でも上手く笑えないと言う自覚があったが、それでも無理に笑顔を返す。心配してくれる、自分の妹に、これ以上の心配を掛けたくないから……。

「気にしなくっていいよ。私は、お兄ちゃんが帰ってきてくれた事が嬉しいから」

 謝罪の言葉を述べる兄に、ヒカリがニッコリと笑顔を見せるのに、太一は思わず苦笑を零した。自分に余計な気を回さないようにしてくれているヒカリに、心から感謝をしながら、入れてくれたミントティーを飲む。
 紅茶を全て飲んでから、太一は言葉通り仮眠をとる為に部屋に入っていった。
 様子を見に行った時、泣き寝入り状態の太一の姿を見て、ヒカリがヤマトに更なる怒りを持ったのは、ここだけの話である。



 電話の音が鳴り響いて、ヒカリが慌てて受話器を持つ。
 まだ、兄が寝ているから、起こさないように出来るだけ声を抑えて、電話に出る。

「はい、八神ですが…」
『ヒカリちゃん?』

 そして、自分の声に帰ってきたそれに、思わず表情が険しくなってしまうのを止められない。

「……何か、御用ですか?」
『……太一、そっちに行ってないかなぁ…家に電話しても、居ないみたいだから……』

 冷たい声が質問してくるのを感じながらも、ヤマトは言い難そうに質問をする。
 ヒカリが自分の事を余り良く思っていないと言う事を知っているので、緊張してしまうのはどうしても否めない。

「……今、休んでます…貴方からの電話を待っていて、一睡もしてないって、言ってましたから」

 嫌味を言うように、ヒカリは冷たい言葉で返事を返す。
 様子を見に行った時、確かに太一が泣いていたと言う事が、どうしても電話の対応を冷たくさせる。
 元々、自分はヤマトの事が、好きではなかった。勿論、嫌いではなかったのだが、自分の一番大切な人を奪っていった人だからこそ、どうしても好きになれないのだ。

『……一睡もしてないって……俺の電話を待てたのか?』

 自分の言った言葉に、驚いたようにヤマトが呟く。

「泊り掛けの時は、絶対に連絡をしてくれるからって……。お兄ちゃんが、寝ないで連絡を待っていたのに、その相手の人は、何処かのアイドルと、楽しそうにデートをしてたそうですけどね」

 目の前に居たなら、絶対零度の笑顔が向けられそうなその言葉。

『デート?一体、何の話なんだ?』

 しかし、それに返されたのは、身に覚えがないと言う様な、ヤマトの驚いた声だった。

「今朝のワイドショーは、『ヤマトさんと人気アイドルのデート!』と言う見出しがトップを飾ったそうですよ。お兄ちゃんに連絡出来ないのは、当然ですよね」

 トゲを含んだその言葉に、ヤマトが慌てたように言葉を返す。
 そんな身に覚えのない事で、ヒカリから攻撃を受ける理由は全く無い。

『ちょっと待って!本当に、知らないんだけど……昨日連絡できなかったのは、メンバーの一人が怪我して、病院に付き添ってたからで……多分、そろそろTVでも言われてると思うんだけど……』

 慌てて自分に言い訳をする相手に、ヒカリは小さくため息をついた。

「……芸能界って言う所が、いい加減だと言う事を怒るつもりはありません。でも、だからって、お兄ちゃんを泣かせるのは、絶対に許さない!」

 まるで、ヤマトの言葉を信じていないように、キッパリと言葉を返す。
 自分の言葉に、電話の向こうで小さく息を吐き出す気配を感じる。

『……確かに、そう言う意味では、いい加減かもしれないけど、俺が好きなのは、太一だけなんだ……だから、信じて欲しい…』

 そして、息を呑む音が聞こえて、真剣なヤマトの声。
 自分に言い聞かせるようなその声に、ヒカリはもう一度ため息をつく。そんな事、言われなくっても、分っている。
 ヤマトが、どれだけ太一を大切にしているかと言う事を、自分はその目で見せ付けられた。

「……今回だけ…」
『えっ?』

 ポツリと呟かれたそれに、ヤマトが聞き返す。

「……今回だけ、見逃してあげます。だけど、今度お兄ちゃんを泣かせたりしたら、絶対に許しませんから!」

 これ以上は譲れないと言うように、言われたそれに、ヤマトの苦笑が聞こえてきた。

『有難う、ヒカリちゃん……約束するよ』

 苦笑と共に返って来たそれに、ヒカリも苦笑を零す。きっと、そんな事を言っても、太一が許してしまえば、自分は許してしまうだろう事を知っているから……。兄が、悲しむと分っているような事を、きっと自分は出来ない。

『それで、これから、太一を迎えに行こうと思うんだけど、いいかなぁ?』
「……今日は、このまま休ませてあげたいんですけど…」

 言い難そうに尋ねられたそれに、ヒカリがチラリと太一の部屋のドアを見て返事を返す。

『どうしても、今日じゃないといけない用事があるから……』
「えっ?」

 困ったように呟かれたそれに、ヒカリはそっとカレンダーに視線を向けた。そして、言われたその言葉に納得する。

「……分りました…でも、お兄ちゃんを起こすのは、自分でして下さい。言い訳と一緒に……」

 少しだけ呆れたようにため息をついてから、言われたその言葉に、ヤマトが頷いて返事を返した。





 ゆっくりとした動作で、部屋に入る。
 布団を抱えるようにして眠っている太一を前に、笑みを零す。
 静かに足音を立てないように、ベッドに近付いて、そっと耳元に顔を寄せた。

「……太一…」

 耳元に、優しい声で名前を呼び掛ける。それに、くすぐったそうに、小さく身じろぎをするが、起きる気配は無い。

「…太一」

 もう一度、今度は少しだけ大きな声で名前を呼ぶ。それに、ピクリとまぶたが小さく震える。そして、ゆっくりとした動作で、その瞳が開いた。

「おはよう、太一vv」

 まだ完全に起きていない様子の太一に、そっとその頬にキス一つ。
 一瞬なにが起こったのか分かっていないだろう太一が、数回瞬きを繰り返す。

「……ヤ、ヤマト?」

 そして、自分の目の前に居る人物を信じられないモノでも見るように見詰める。覚醒しない頭で、きょろきょろと辺りを見回した。
 どう見ても、この部屋が実家の自分の部屋であると言う事を確認して、太一はもう一度目の前に居る人物に視線を戻す。

「目が覚めたか?」

 目の前で優しく笑っている人物に、太一ははっとしたように、持っていた布団を頭からかぶった。

「太一?」

 突然、布団をかぶってしまった相手に、ヤマトは驚いたように名前を呼ぶ。

「な、何で、お前が居るんだよ!」
「…ヒカリちゃんに、入れてもらったから」

 少しだけくぐもった声で質問だれて、サラリと返事を返す。

「そんなんじゃ、ない……俺は……」

 あっさりと返されたそれに、太一が困ったように呟く。

「……昨日、電話しなくって、ごめんな……メンバーの一人が怪我をして、病院に付き添ってたんだ…」

 困惑している太一を前に、ヤマトはそっと息を吐き出すと、素直に謝罪の言葉を述べた。
 突然謝られた内容に、太一の体が小さく震えるのを見逃さない。
 それに、ホッとしたように息を吐き出してから、再度言葉を続ける。

「それから、俺がアイドルとデートしてたって、記事は、でたらめだからな。大体、俺は、そんな記事があった事だって、知らないんだぞ」

 キッパリとした口調で、言われたそれに、太一は驚いて、もぞもぞと布団からそっと顔を出して、ヤマトを見る。

「……でたらめ?」

 顔だけを出して自分を見詰めて来る太一に笑みを浮かべながら、ヤマトははっきりと頷いて返す。

「ああ、俺は、太一以外は死んでもごめんだ」

 優しい笑顔と共に言われたそれに、一瞬太一の顔が赤くなる。

「だから、家に帰ろう……」
「……うん」

 そっと差し出された手を、素直に握り返す。それに、ヤマトが満足そうな笑顔を見せた。
 それから、ヒカリに挨拶をして、二人仲良く家に帰る。

「太一、電話掛けられなくってごめん……」

 運転席で、ポツリと誤られたそれに、太一が慌てて首を振って返す。

「お、俺だって、ヤマトの事信じなくって、ごめん……」

 しゅんとしてしまった太一を前に、ヤマトは思わず苦笑を零した。

「怒ってないけど、今日だけは家に居て欲しかったんだ……」

 苦笑を零しながら言われたそれに、太一は意味が分からないというように首を傾げてヤマトを見る。

「…どうして?」

 不思議そうに自分を見詰めて来る太一に、ヤマトは優しく微笑んだ。

「…帰ってからのお楽しみだ」

 嬉しそうに笑っているヤマトを前に、太一は益々意味が分からないというように首を傾げて見せた。



「ただいま!」

 誰も居ないと分っていても、ついつい挨拶をする太一を前に、ヤマトは笑みを零す。
 だが、帰ってこないと思っていたそれに、意外な返事が返された。

「……猫?」

 小さく返されたそれに、太一が不思議そうに首を傾げる。
 どう聞いても、猫の鳴き声が聞こえてくるのだ。それは、家の外からではなく、家の中から……。

「…ヤマト?」

 不思議そうに首をかしげている自分に、後ろに立っていたヤマトが促すように背中を押す。

「ほら、待ってるんだから、入れよ」

 楽しそうに笑っているヤマトに、言われた事の意味が分からずに問い掛けるように視線を向ける。

「……太一、今日が何の日か、覚えてるか?」
「はぁ?」

 視線を向けた瞬間、苦笑を零しながら質問された事に、素っ頓狂な声を出す。そして、頭の中で今日が何日であるのか思い出した瞬間、太一は大きく頷いた。

「……ホワイトデーだ…」
「そう言う事…俺からのお返しは、ちゃんと用意したから、今日と言う日に、ちゃんと太一に渡したかったんだよ」

 優しい笑みと共に言われた言葉に、思わず顔が赤くなってしまう。しかし、先程から聞こえてくる猫の鳴き声に、太一ははっとしたようにヤマトを見た。

「ちょっと待って!そのお返しって、まさか……」
「そのまさか。とりあえず、見てくれないか、俺たちの新しい家族だ」

 リビングへと促されて、開かれた扉から籠が一つ見える。そこから、子猫の鳴き声が聞こえてくるのを確認した瞬間、太一はもう一度ヤマトを見た。

「…なんか、1匹だけの声じゃないぞ!」

 2重に聞こえてくるそれに、問い掛ければ、苦笑が返される。そして、ヤマトが先に部屋に入って、その籠を持ち上げると、太一の元に戻ってきた。

「見てみろよ」

 そして、そっと籠の蓋を開いて中から1匹の猫を取り出して、太一に手渡す。
 小さな子猫を差し出された瞬間、その子猫の毛皮の色に、太一は驚いたように瞳を見開いた。

「…その色探すの大変だったんだからな」

 苦笑交じりに言われたそれ。そして、ヤマトはもう1匹の猫を取り出して、自分で持つ。その猫の毛皮の色も、自分の良く知っている色。

「……アグモン……」

 今は会えない自分の大切なパートナー。今自分が抱いているオレンジ色の毛皮は、その相手を思い出す。
 そして、ヤマトが抱き上げているその猫は、ヤマトのパートナーデジモンを思わせる毛皮の色。

「……ヤマト…」
「……ずっと、一人にさせてるから……でも、お前にこの家に居て欲しい。だから、太一を一人にしない為に、頑張って探した」
「……ホワイトデーに猫プレゼントする奴なんて、お前ぐらいだぞ……」

 そっと自分の手の中に居る子猫の頭を撫でるながら、太一は苦笑を零した。
 まさか、ホワイトデーに子猫のプレゼントをされるとは思っても居なかったので、驚きは隠せない。
 温かい生き物の体温に、太一はそっと子猫を目の前に持ち上げる。真っ直ぐに見詰め返してくるその瞳は、やっぱりパートナーを思わせる深い緑色。

「……いいんだ…俺が太一にプレゼントしたかったんだからな」

 呆れたように呟かれたそれに、ヤマトも苦笑を零して、そっと顔を太一に近づける。

「他に、お前に送るモノが浮かばなかったんだよ」

 少しだけ拗ねたように呟かれたそれに、太一は子猫から視線をヤマトに向けた。
 そして、顔を上げた瞬間、自分が考えたよりもヤマトの顔が近付いている事に少しだけ驚いて、息を呑む。

「…太一だけが、好きだから……」

 優しい微笑と共に、更にヤマトの顔が近付いてくるのを感じて、太一もそっと瞳を閉じた。

「…ば〜か……」

 唇が重ねられる瞬間、ポツリと呟かれたその言葉に、お互いが笑みを浮かべて、そのまま静かにキスをする。


 そっと、重ねられた唇を感じながら、太一はこっそりと思う。
 どんな甘いお菓子よりも、ヤマトのキスが一番甘いと……。


 雨降って、地固まる。
 そんな二人の些細なすれ違い。
 喧嘩するほど、何とやら……。

 二匹の猫に見守られながら、今日と言う日も、また幸せだと感じるのだった。