日本百名山紀行文

  1.後方羊蹄山 2.大雪山 3.阿蘇山 4.十勝岳 5.富士山 6.トムラウシ山 7.鳳凰山 8.仙丈岳 9.北岳 10.間ノ岳 11.穂高岳 12.槍ヶ岳 13.笠ケ岳 14.焼岳       15.谷川岳 16.木曽駒ケ岳 17.越後駒ケ岳 18.筑波山 19.雲取山 20.安達太良山 21.男体山 22.日光白根山 23.九重山 24.金峰山 25.乗鞍岳 26.八ヶ岳 27.五竜岳 28.宮ノ浦岳 29.祖母山 30.霧島山 31.開聞岳 32.白馬岳 33.八幡平 34.那須岳 35.甲武信岳 36.草津白根山 37.四阿山 38.岩手山 39瑞牆山 40.大菩薩岳 41.美ヶ原 42.霧ケ峰 43.丹沢山 44.石鎚山 45.剣山 46.蓼科山 47.大山 48.岩木山 49.八甲田山 50.御嶽 51.空木岳 52.恵那山 53.会津駒ケ岳 54.燧ケ岳 55.巻機山 56.火打山 57.妙高山 58.塩見岳 59.高妻山 60.悪沢岳 61.赤石岳 62.至仏山 63.平ケ岳 64.白山 65.薬師岳 66.水晶岳 67.鷲羽岳 68.黒部五郎岳 69.磐梯山 70.武尊山 71.苗場山 72.早池峰山 73.飯豊山 74.赤城山 75.大台ケ原山 76.大峰山 77.皇海山 78.鳥海山 79.月山 80.蔵王山 81.天城山 82.両神山 83.吾妻山 84.甲斐駒ケ岳 85.雨飾山 86.常念岳 87.立山 88.羅臼岳 89.斜里岳 90.雄阿寒岳 91.浅間山 92.朝日岳 93.光岳 94.聖岳 95.伊吹山 96.荒島岳 97.剣岳 98.鹿島槍岳 99.利尻岳 100.幌尻岳



富士山

まえがき

東京へ赴任して数年後に長いサラリーマン生活を終えた。その数年間は山三昧の生活で、特に百名山は北海道の二山を残すだけで一区切りとし、出身の北海道に戻る事とした。

 山に行くようになって十五年、会社の社内登山クラブを作って十年、海外旅行に目覚めて十年、山岳会に所属して七年目となった。この間、各界の方達と知り合い懇親を深めていただき、有意義な生活を過ごす事が出来た。

 この近年、定年後に「自分史」 なるものを書く人が多いと聞いている。しかし浅学非才の私には文才も無ければ能力も無い。しかし百名山、海外遠征登山、海外旅行、国内旅行に行き、写真、 ビデオのみでは一過性で消えてしまい何とも勿体無い。

そこで百名山紀行の山行記録的作文ならば書きやすいと考えた。記憶の定かな内に、札幌に戻った二〇〇 六年一月から四月まで山行計画書を引っ張り出して「私の百名山紀行」を書き出した。

紀行とは体験・見聞・感想を書き綴った文章であるが、好奇心の旺盛な私は偏見と独断的視点にたち書きまとめたものである。よって咀嚼(そしゃく)して読んで頂きたい。 

この紀行文を書くきっかけを 作っていただいた人は高崎さんである。所属する山岳会の事務局長で、私の山行の師匠でもある。社会科専攻の熱血教師でもある先生とは海外遠征も共に行き、 よく酒も酌み交せていただいた。何より温泉好きで、私がつけた渾名は山岳会の温泉部長、そして私が温泉副部長。

 師匠で温泉部長の高崎さんは紀 行文を三冊も発行しており、私にも「書きなさい!」と命令された。先生の命令には絶対服従あるべしの精神で今回の紀行作成となるが、指導・印刷・製本まで も高崎さんにお世話になった次第である。伏してお礼を申し上げ感謝申し上げます。このホームページはそのときのCDを編集したものである。

 個人情報重視の昨今、文中には多少の固有名詞が登場しますがご容赦お願いいたします。登場する仲間の方達とは、山を通じて自然のエネルギーを共に分かち合い、良き思い出を振り返ってもらえるならば幸いである。

 参考文献として山行用に利用した国土地理院の二万五千地形図、昭文社「山と高原地図」、JTB「深田久弥の日本百名山」、山と渓谷社、地球を歩くを参考とした。

 紀行文の題名は、「私の百(名山・名湯・美食・景)」略して「山湯食景」(さんとうしょつけい)と考えたが、師匠の高崎さんが「山・湯・暇」(実際は駄目堕山湯暇)なので弟子としては素直な題名とした。

師 匠が言うところの遊びの中から人生の指針が生まれる、作文を書いて心豊かになるは、けだし名言である。遊びに夢中になるのもエネルギーが必要だ。山に行く には本を読み、先達者の行動と思想を学ばねばならない。

 食では北大路魯山人、放浪では種田山頭火、酒と旅で若山牧水、温泉で札幌国際大学教授の松田忠徳、 山は深田久 弥、新田次郎、井上靖、旅小説では椎名誠等の本が参考になった。山と平行して各地を訪ね歩く旅行も楽しい。松本清張の歴史小説、社会小説のように地方の片 隅まで調べ、研究する旅は楽しい。
松田教授が日本列島を車で二回縦断、二五〇〇湯を制覇した講演も聴きに行き、参考にしなければならない。時間が惜しい。定年は五十才にすべきと考える今日この頃です。


1.後方羊蹄山

  遠くから眺めるは良し、登るは険し、美しい円錐形の蝦夷富士

 勤務先である、会社の社内同好会的サークル名が「松岳会」であった。最初は温泉同好会的であったり、海外旅行仲間であったが、何故か山に傾倒して行った。正式な会則があるではなし、会員も不明確でその時々による事が多く、何時もは七~八人であったと思われる。

 その松岳会の変遷は私個人の希望と願望による所が多かったようにも考えられるが、後述としたい。会長は温厚で面倒見の良い山川さんである。ある時山川さんが居酒屋で目を輝かせて語っていた。

その昔、羊蹄山の麓の倶知安町で、 独身時代に一人駐在で仕事をしていて、暇な時には何度か羊蹄山を登っていた、また登りたいな~。これが事の発端で山岳同好会への走りとなるのである。一九 九六年、平成八年の夏である。仲間の年齢は私が年長五四才、殆どが団塊の世代で五十前後、子供の教育もほぼ目途もつき、仕事も中堅で余裕のできる時期であ り、余暇活動に目が転じた頃である。

早速居酒屋で決定した重要案件の実行を企て、一九九六年七月五~六日の休日、たまたまそこに居た居酒屋の飲み仲間、石川さんと三人で実行した。後で考えると無謀としかいようのない、計画、装備、天候、体調、情報等万全ではなく、三人ともに本当は不安を抱えながらの山行であった。羊蹄山を登るには深夜一一時頃から登り、翌日のご来光を拝む、これが羊蹄山登山の基本なんですよ、と山川さんは張り切って言うものだから、札幌を夜九時頃出発、十時中山峠に差し掛かると、ポツリ・ポツリ! 後で三人が正直に語った所によると、内心雨が降ってくれてホッとした、が本音でした。中止と決まると、きびすを返し 脱兎の如く温泉地へ、定山渓は三十分である。素泊まりで結構で~す、冷えた体を温泉で温め、行動食(この頃は宴会用つまみが多かった)で大宴会、いゃあ~ 雨でよかった、良かったと三人は厳しさと楽しさの二面を味わい、その後の教訓としたのであった。

 時を移して反省会は続いた。他の仲間から軟弱だ、だらしない、計画性がない等のそしりを受けたので再度計画した。多少の予行訓練も済ませ、軟弱組み前回三人組と批判組みの急先鋒、板岡さんの四人で一九九八年七月十八日~十九日の好天を期しての山行であった。

万が一の救助隊(何の救助も出来ない人達だが・・・連絡位は出来るだろう)に林田、岡崎各氏に参加してもらい、万全の体制で挙行した。

 夜の登山は実力から無理と考え 日中とし、四人は車で真狩コースの真狩へ、下山は倶知安コースの倶知安へ、そして頼りになる救助隊の三人に我々の車を回収してもらい、ニセコの温泉「雪秩 父」で疲れを癒し、ついでに山岳会結成の大同団結発足式を挙行する(本来はいつもの大宴会)という内容であった。

 暑い日であった。四コースのうち、真狩コースは最も一般的なコースとは言え、登りコースタイムは五時間、下り三時間、合計八時間を要する。標高差一四五〇m。

 成層火山(中心火口から噴出した溶岩流と火山砕屑物が交互に積み重なって円錐形になった火山=例:富士山、岩木山、羊蹄山)の為か、円錐形により登り一辺倒で、アップダウンも平らな所も勿論ない、アップアップばかりでひたすら登りである。きつい山である。

キャ ンプ場の奥から登りだし、林の中の急登を過ぎ、南コブを通過すると木の間から時折洞爺湖、昭和新山、有珠山が見えてくる。六合目から急なガレで七合目から 大きなガレを横切る。九号目手前で石川さんが足をつり休憩が多くなる。交代で足をマッサージしたり休みを多くしたり、救急法を知らないばかりか鎮痛剤、 テープも持ち合わせていない。

後日理解したが、水分不足が筋肉通の原因の一つである。我々全員がこのきつい山と暑いさなかに、一人一~二㍑程度しか水を持ち合わせていなかったのだ。

 九合目には避難小屋があり、入口のドラム缶に水が豊富にあるではないか。天の助けとばかり、雨水を溜めた水をこの時初めての経験で皆で飲む、旨くないと言いながら・・・奥から怒鳴り声が聞こえた、宿泊者と緊急用の水なのだ、勝手に飲むな!

管理人がいたのだ、大人に叱られた悪ガキ連中は、それでも懲りずに静かに静かに水を汲み逃げ出し、この日無事に下山する事が出来たのであった。誠に有難うございました。反省しております。

 頂上で二百mも深さがあると言う釜を見て驚き、外輪山を歩き、この頃まだ高山植物の名さえ殆ど知らない我々だが、綺麗な花に見とれ、倶知安コースを下山する。

ダケカンバ、エゾマツ、トドマツ が五~三合目まであり、畏敬の念を抱かせるほどの大木群が続く。やがて半月湖が見えてくると登山口である。この間、主役の石川さんが下山中皆を楽しませて くれる。まだか~まだか~登山口は! その度に吉本興業の秘密偵察社員の板岡さんが、一一回、三六回と「まだか~」を数えて笑わせる。多分、石川さんは急 登の下山で、ともすると寡黙になるメンバーの気を紛らせる為の「まだか~」であったと思う。その後「間高さん」はトレーニングに一段と精を出したとか、出 さなかったとか・・・

 「後方羊蹄山」と書いて「しり べしやま」と呼ばせる。由来は日本書紀によると六五九年、阿部比羅夫が後方羊蹄に政庁を置いたと記されており、松浦武四郎がこれをもとに山の名を後方羊蹄 山(しりべしやま)と名付けたとある。後方(シリヘ)羊蹄(シ)で、シは雑草のギシギシの古名だという。アイヌ語はマッカリヌプリと言う。時代は移り、今 は「ようていざん」と簡略に呼ばれるようになり、それが今では正式な名称になったという。

 羊蹄山の山麓は特産品のアスパラガス、ジャガイモの産地として知られる。また京極町の吹き出し公園、真狩村のカムイワッカ(神の水)など多くの湧水がある。

 その湧水に詳しいのが「間高さ ん」こと石川さん。羊蹄山登山で疲れているのに、雪秩父温泉に泊まった翌日の早朝三時にはロビーで読書、寝ても覚めても本を読んでいる物知り博士だ。その 博士が会社の朝礼で大演説をした。羊蹄山の湧水は五十年以上も山の上から地中にろ過されて麓へ湧き出てくるのです、五十年もですよ、皆さん! それに引き 換え、我々凡人は・・・大向こうを唸らせ、今でも名演説は語り草となっている。

羊蹄山名水、PH6・4の美味しい水と、真狩村の旨いジャガイモを食べて、こぶしの利いた美声の持ち主、細川たかしが誕生したのでしょう。

社内登山クラブ、松岳会はこうして羊蹄山無事登山をもって正式に山川会長のもと発足したのであった。



2. 大雪山

  北海道の最高峰からの眺望と雄大なお花畑に酔いしれる

                                              


                                              
                         大雪山と高山植物

 大雪山に初めて登頂したのは、以外にも登山ではなくスキーのためであった。東京の学生時代の仲間であった川上氏が、旭川市に 勤務していた関係で誘われたのである。スキー一級の腕前の彼は、春六月位になると残雪を求めて旭岳頂上東面の急坂に、札幌に勤務していた私を毎年誘うので あった。共に独身の二〇代半ば一九七〇年、二五才の頃であった。重いスキーを担いで姿見の池から頂上まで二時間はきつく、根をあげると彼が私のスキーまで 担いでくれた記憶がある。三十年前の事である。その間、小学生の子供二人を旭岳登山に連れ出し、子供達がスイスイと登る姿を見て、登山とは体力・馬力だけ ではなく身軽さ・バランスなのだと感じたものであった。

 本格的に登山を始め出した一九九六年、五一才の時の札幌・空沼岳(一二四九m)から、会社仲間で頻繁に山に行くようになった。

 一九九八年八月二二日~二三日、旭岳温泉~姿見の池~旭岳~間宮岳~中岳~北鎮岳~姿見の池の縦走登山を実施した。板岡・石川・岡崎の何時ものメンバーであった。

 日本最大の山岳国立公園である 大雪山は、二〇〇〇m級の山々の総称であり、最高峰が旭岳(二二九〇m)である。大雪山を訪れる醍醐味は、広大な高原台地に展開する壮大な山岳風景と広大 なお花畑であると、訪れる登山者はよく言う。このコースから黒岳へは大雪銀座とも言われている。

 天気の良い大雪山の眺めは良く、トムラウシ山、十勝岳、石狩岳、ニペソツと三六〇度の眺めは素晴らしいが、ガスがかかるとガレの山で方向を誤る危険な山である。

 好天のこの日、登山を始めて二 年目、装備も整った四人は、ロープウエイで駅に。姿見の池の神秘的な池面に感動しながらガレ場の急坂を登り出す。程なく地獄谷と呼ばれる爆裂火口からもく もくとあがるガスの匂いから逃げるように高度を上げていくと砂礫地の頂上である。残雪が残る大パノラマを満喫し、勾配のきつい斜面を間宮岳へ下り、御鉢平 巡りをしながら中岳へ、そして北鎮岳を登り、黒岳は次回にと課題を残し下山する。

北鎮岳は黒岳方面から見ると、春先には残雪が鶴の形をしており、一際岳人の心を和ませる。

 大雪山にはシマリス、キタキツネ、ナキウサギ、ヒグマ等の動物が多く見られる。黒岳頂上にはエサを求めてシマリスが必ず近寄って来るし、キタキツネも一度位は姿を見せてくれる。また北鎮岳にはヒグマが度々出現し、登山者を慌てふためかしている。

 ヒグマはツキノワグマの倍の体重と比較にならぬ気の荒さで登山者を震え上がらせる。
視覚・聴覚はそれほどではないが、臭覚が発達しており食べ物やその汁さえも捨ててはならぬといわれている。生態系を乱しては成らぬのである。
中岳の下山中、一八九六mに野天の中岳温泉がある。二人入るスペースで、無色透明の硫黄泉である。疲れを癒し本日は「日本秘湯を守る会」の勇駒荘に泊る。安西氏参加。

 松岳会のメンバーは元々、温泉と遊びから出発しており、翌日も深川の「まあーぶの湯」に行き、山川会長、安西奥さん参加してのバーベキューで打ち上げとなる。



3.九州、阿蘇山

  火の山・燃える山、世界一のカルデラ火山

 深田百名山を始めた三番目の山が阿蘇山であった。それも毎年行く社内旅行は、一九九九年四月十六日~十八日、九州長崎のハウステンボスであったが、おじさんグループ八人はテーマパークに魅力は無く、レンタカーを借りての九州北部の観光旅行であった。

 千歳~長崎空港、レンタカーで長崎道、九州道を乗り継ぎ、熊本市内、 熊本城を見て、阿蘇パノラマラインで阿蘇の大自然に触れるうちに、阿蘇山に登ろうと決まりスニーカー登山を決行したのであった。仙酔峡のロープウエイに乗 り、火口東駅から約小一時間、中岳のピーク寸前でバタバタと落ちこぼれが続出し、退却となる。仕事柄連日、酒池肉林?のヤワな環境下では致し方ないとあき らめた。

 火口東展望所あたりから見え出す、第一火口~第四火口の溶岩や火山礫に覆われた荒々しい景観と大自然の驚異は圧倒的である。

阿蘇山は根子岳、高岳、中岳、杵島岳、烏帽子岳の総称である。地名の由来は日本書紀から、景行天皇がこの広々した土地へ来て、誰にも会わないので誰も居ないのかと問うたら、アソツヒコ、アソツヒメの二神が現れたことから、アソと言う地名がついたと言う嘘のような伝説である。

疲れた体をその夜は別府の会社保養所の温泉で癒して泊り、別府の歓楽街を冷やかし、冷やかされる。

翌日観光は別府の温泉を数ヵ所回り蛙の行水、次は湯布院とその露天風呂を満喫し、福岡市内に入り、博多中州の屋台へ、雨だった。

雨に咽ぶ那珂川の夜景も一段と雰囲気よろしく、屋台の酒と焼き鳥、煮込みが実に旨い。

今夜も会社の味気ない、大宰府近くの温泉付き保養所に泊る。

 最終日、長崎に戻りグラバー亭、眼鏡橋等を回り、昼食に有名な江山楼の長崎チャンポンを食べる。チャンポンも美味しいがチャーハンが旨かったのは記憶に残った。

 こうして会社の遊び仲間八人は、何時もは温泉のみの余暇であったが、翌年の富士山登山等で本格的登山へとのめりこんでいった。

そして私は八年に及ぶ百名山踏破、海外登山遠征、山岳会入会で札幌、東京での山行のバリエーションが広まっていったのであった



4、十勝岳

 数十年周期で爆発し人命・財産を奪う恐ろしい火山

                                          

      十勝岳登山口の吹上温泉(町営)             麓の町、富良野の富田ファーム                  ラベンダー畑

 一九二六年(大正十五年)、この時の爆発で白金温泉が埋められたという。泥流は二五k離れた上富良野原野に二五分で到達し、平均時速六十㌔という。遭遇したら果たして車でクネクネしたカーブを逃げ切れるだろうか? この時一四四人が犠牲になったそうである。

最近では、一九八八年(昭和六三年)の小爆発である。白金温泉が安全確保のため、全員避難しホテルも閉鎖して社会的影響が出たという、まさに住民にしては魔の山ともいえよう。

 十勝岳は三重式の成層火山(中 心火口から噴火した溶岩流と火山砕屑物が交互に積み重なってできた円錐形の火山で、それが三重になっている)で日本では今でも噴火している浅間山も有名で ある。周辺の火口からは遠くから見ても白い噴煙をなびかせており、十勝岳頂上の三角錐の綺麗な山容をより引き立てている活火山である。

 十勝岳北方面の望岳台から十勝岳避難小屋までは、かって国設スキー場があったが、爆発で今は無く残骸が残っているのみである。火山地帯の為か、西麓には白金温泉、「北の国から」で宮沢リエが入った露天風呂がある吹上温泉、十勝岳温泉等、名湯が点在している。

 二〇〇〇年六月十八日(日)、快晴を選んで標高一二七〇mで、北海道で一番天国に近い温泉、凌雲閣登山口から登る。十勝岳登山では二年前に苦い経験がある。山川・板岡・本間・赤木で計画したが、当時装備はしたが地図も持たず誠に安易な登山で、安政火口手前から
東に折れるルートを間違い、直進し安政火口の岩場をかなり上まで登り危ない経験をした事があり、引き返し富良野岳を登った事がある。それから本間さんは山を登らなくなった!

 今回は二年間三十山を経験して の再計画である。久保山さんがパートナーとなってくれる。前回のメンバーは、恐れを成してか皆パスであった。根性が少々不足と言うか、賢明というか、前回 の事件は、久保山さんは知りえない。だがやはりと言うか、魔の山は魔の山であった。後半に恐怖の体験が待ち伏せているのであった。

 安政火口手前から、D尾根を越 えて上ホロ分岐で北へ、三峰山を過ぎると眺望もよく十勝岳連峰が青空に映えてくる。上富良野岳を通り、上ホロカメットク山(一九二〇m)の直下は垂直に切 れ落ちた火口壁の断崖で、迫力ある山容に思わず後ずさりする。大砲岩を越えて十勝岳の頂上まではガレ場の連続であった。登山口から頂上まで四時間であっ た。見事な眺望が広がり、大雪山の連峰がテレビで見ていたアルプスのようで印象深い。

下 山は元来たコースを下り始めた。少し年配の単独行の男性が一緒に下山しましょうと、同行してくる。十勝岳は詳しそうである。大砲岩の分岐で近道を行きま しょうよ! と勧められた。OP尾根を通過し三段山から登山口の凌雲閣に下りるコースと言う。躊躇したが、どのようなコースか調べていない。大丈夫だ!  の「志村けん」のような励ましに乗せられ、志村オジサンについて行く。一時間で核心部に来た。オジサンは速い、もう見えない。垂直の二〇m程の壁だ。引き 返すにはもう時間的に遅い。二人はどのように登ったかは記憶に無い。帰りは恐怖を引きずり無言が続いた・・・。それから札幌の山の会で、岩訓練を始める事 になり、恐怖は尚も続くのであった。久保山さんはそれから私を敬遠している・・・。



5.富士山

  田子の浦ゆ うちいでて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける

                                                    

 万葉集、山部赤人の歌にも富士山が登場するように、歴史的・文化的・芸術的・観光的にも、今では富士山は無くてはならない、日本人の故郷的存在である。東京の空からでも晴れた日は望めるし、新幹線からでもあでやかな姿を見ては感慨深いし、海外から戻り飛行機の窓から眺めては、帰国したと安心感を与えてくれる、まさに富士山は昔から日本人の心のオアシスとでも言えよう。 「アッ、富士山!」と老若男女を問わず、皆が感嘆詞を心から発するのも富士山ならではである。

 典型的な円錐状成層火山で、日本には似たような山が全国に沢山見られる。北海道の蝦夷富士しかり、利尻富士、阿寒富士、美瑛富士ときりが無い位似た山があるが、頂に白い残雪を残した秀麗な山容は世界に類をみないであろう。頂上の火口直径は八百mもあり、浅間神社(センゲンジンジャ)は信仰の山として昔から崇められている。

 このような日本の象徴としての富士山も、俗世間の垢にまみれて未だに世界遺産に登録されない。理由はただ一つ、「ゴミ」と「白い川」問題である。登山者と観光客の安易さ、観光業者の商売優先、行政の遅れた対応等が挙げられている。白い川は近くに行くと目を背けたくなる。水に溶けないティッシュペーパーが山肌にこびりついているからだ。

富士山登山をした数年後の二〇〇四年に、新聞に掲載されていた。静岡県側の富士山山小屋二四件、山梨県側十八件、合計四十二件全てが二〇〇六年までにトイレの垂れ流しから開放される、と。環境省が費用の五割を補助、県と市町が四割、山小屋が一割負担する仕組みである。二〇〇六年までに富士山の全てのトイレが環境にやさしい水洗トイレとなる、という内容であった。

今や北アルプス、南アルプスの主要な山小屋は殆どが水洗化してきている。マレーシアのキナバル山でも四〇分毎の休憩所にトイレが併設されているし、南極の最高峰ビンソンマシフは携帯トイレ必携で必ず持ち帰りするように義務付けられて、環境維持をしている。

経済大国、先進国の日本が白い川では情けないと総論では思いながらも、設備の無い山へ行きトイレをもよおすと、各論ではウ~ンと自己責任問題は棚上げとなる。

 夏山シーズンになると富士登山をする人は年平均三十万人を越えるといわれている。大半の人が記念にと、金剛杖一〇〇〇円を求め杖代わりに登る。焼印を山小屋毎に押してもらうと三千円になるらしい。歩けなくなる人には馬が待機している。山は札束で登るもんだ、という人がいるが、けだし名言である。

「富士山、一度も登らぬ阿呆、二度登る阿呆!」とこれもよく聞く名言。よって計画実行。

    
   5合目 鳥居前    前も混雑         後ろも混雑             山小屋で寝る用意       頂上の鳥居
    

    石和温泉の豪華版   石和のワイン試飲    ほうとうを食べて、さあ~   甲府のぶどう畑        河口湖

 社内登山クラブ「松岳会」も発足して四年を経過し、それなりに危険・困難・経験の三Kを体験してきたので、この辺で海外遠征と云う事になった。外国の海外はちと速すぎるので身近な津軽海峡を越えてカ・イ・ガ・イ・の富士山となった。

 山本会長がシービーツアー(中央バス系列)なる富士山ツアーを探してきた。折角行くのだからもう一日観光で石和(イサワ)温泉に、と言い林さんが温泉を予約してくる。

よし、海外遠征ならばオレも行くと、今まで幽霊会員で山には登らなかった安藤さんが密かにトレーニングを始めたりしていた。普段会社業務にはこれほど才能と情熱を発揮しなかった面々が、大器晩成かオクテなのか俄然力を発揮してきたのであった。

二〇〇〇年七月二〇日(木)「祝日」、二一日(金)「平日」、二二日(土)「休日」の三日間、中日一日を皆で年休を取り、ツアー四十人程と千歳発八時、機上の人となる。

羽田九時着、貸切バスで大混雑の首都高、中央道二時間チョイの所を四時間半後の一四時に吉田口の河口湖五号目(二三〇四m)に到着。バス停のある五合目はみやげ物店やレストハウスが連なっており、まるで安藤広重、東海道五十三次の大宿場町のようで賑わっている。北海道大雪山の最高峰、旭岳が二二九〇mだから空気は既に薄いはずである。

岡嶋さんは、体質的に二〇〇〇mを越えると高山病にかかると言うが今のところ心配は無いようである。

決して統制が取れているとは思えない、それぞれがチャランポランなウオーミングアップを済ますと、山岳ガイドを先頭に山本会長好みのツアーの可愛い添乗員を最後尾に野次喜多道中は始まる。一四時半出発。

落石防止用のトンネルを過ぎると三十分・六合目(二三八六m)で、この辺までは高度も無くハイキング気分である。さてこれから本番開始だ、富士山特有の溶岩砂礫のジグザグ登山道を三歩進んで、二歩下がる様な大混雑、数珠つながりだ。いくら信仰の山といっても数珠はいただけない。前の人のケツばかり見ての登山である。七合目まで標高差五四〇mの既に標高二九〇〇mである。岡嶋さんに高山病が義理堅く見舞ってくれたと言う。続いて山本・林・石垣と流行り病のように伝染していく。

私は富士山に行く前、高山病対策の腹式呼吸法なるものを、書店で立ち読みして暗記をし臨んでいた。腹式呼吸のイメージ呼吸法

一、はじめに口からゆっくり息を全て吐く。

  二、鼻からゆっくり時間をかけ吸う。鼻から頭の後ろへ、そして背中を通して、

    お尻を通過し、下っ腹に吸い込むイメージ(五秒)

  三、下っ腹から胸を通り、口からゆっくり吐く(十秒)

後日、海外遠征を何度か経験する事になり、この腹式呼吸は必須条件となる。それと水分である。キリマンジャロ山の時は、一日に八㍑は飲めと現地ガイドから言われる。後は食べ物で腹八分目を意識する事である。アルコールは当然禁止である。三倍酔う。

 混みあっているのは高山病対策には好都合であった。ネパールのエベレスト・ツアー登山では現地語でビスタリー・ビスタリー、キリマンジャロではポレポレ(ゆっくり)と、とにかくスローを心がける。急ぐと高山病になるのだ、気圧が低く空気が薄いので過激な動きは出来ないという。

 何とか八合目(三一〇〇m)の山小屋「太子館」にたどり着く。通常コースタイム二時間半のところを大混雑で倍の五時間、十九時半であった。

 夕食は定番のカレーライス。肉は四方八方探したが一片も無かったのを覚えている。

食後、すぐガイドは寝よ!と言う。未だ二〇時半だ、そして三時間後の二三時半にはもう起きろと言う。寝る前に皆当然の如く考えていた。キチンとした布団はあるのだろう、と。

山小屋は全員始めての経験である。汗臭いシュラフとかび臭い枕一つ、しかも体が上を向いて寝られないほどのスペースしかない。肩と肩がぶつかり、早く寝られる豪傑のイビキが耳元でうるさく劣悪の環境だ。疲れたからウトウトしたかもしれない。

 深夜零時に出発。にわか登山家安藤さんは筋肉の張りがひどく、夜明けを待って下山すると言う。皆心配するが、本音は自分も・・・と言いたいところ。よくぞ、初めての登山で五時間、標高差八百m、高山病にも耐えてきたものと皆で感心する。

 ヘッドランプをつけてまたまたゾロゾロ歩きが始まる。灯りをつけなくとも前後の灯りで不自由は無い、一列縦隊で歩くが気の早い人たちは無理に追い越していく。十分もすると傍らの石の上で座り込んでいる、無理をするから高山病だ。メンバーも青息吐息、顔が真っ青な人もいる。砂礫から大きな岩陵に変わってきている。本八合目を越して九合目に差し掛かるとご来光である。富士五湖の河口湖なのか、湖やら富士の裾野が鮮やかに見え出し、感激の朝陽に感動をする。

 歩き出して五時間、五時にようやく頂上(三七七六m)に全員で立つ。神社や鳥居、山小屋、土産物屋の多さに驚き流石に富士山、と感心する。

 下山となると皆素早い。元々営業マンで都合が悪い時の退却・逃げ足は、板坂さんを筆頭に見事である。下山道の須走り道を脱兎の如く駆け下りるが、世の中そうそう甘くは無い。足に爆弾を抱える石垣さんが足膝のカックリ病で今度は亀さん歩きとなる。

亀さんの好奇心は並大抵ではない。六合目に来るや、馬を見つけて、あれに乗る!と少年のように目を輝かせる。乗った姿を見ると、何と絶世の華やかな美人と相乗りである。

五時間経過の十時半、先に下山した安藤さんを交えて無事下山を祝い、先ずはレストルームで乾杯。長いきつい富士山であった。本当に二度も登る阿呆!と言うが、もう登りたくないと思ったが、海外遠征で高所対応の為には富士山登山が必須であり、阿呆を通り越して今や馬鹿になっている自分に気がついている。

 河口湖のレストランの五階展望風呂で汗を流し、有名なホウトウ鍋を昼飯に食べる。

そしてオプショナルの石和温泉に行き、大反省会を挙行してその夜は爆睡であった。

 翌日最終日は観光。石和のワイン工場で試飲のワインをへべれけになるまで品評し、甲府駅前の武田信玄公の銅像に表敬訪問、城跡、武田神社等
を回る。
楽しい、辛い富士山をひとまず終えた。

 


トムラウシ山

 大岩石、天上の楽園、トムラウシ公園、お花畑を行く

    

   テント       1本!ばかり        雪渓が、日本庭園が、花が      岩石の頂上         下山は元気が良い

  

 トムラウシ山は北海道で二番目の高峰で、百名山中唯一のカタカナ表記の山、北海道の岳人には取り分けあこがれの山でもある。頂上は大岩石を無数に積み上げた、遠方から見るとまるで戦国時代の砦のような感がする独特の山である。寄生火山と呼ばれる周囲の山も同様で岩塊そのもので
ある。

 この山は登山口から頂上に至るまで、特に変化の多い形態を楽しませてくれる。ササ原の林道、シラカバ・エゾ松の樹林帯、ぬかるみの水田地帯、何度も繰り返す渡渉地帯、雪渓歩き、岩礫の斜面トラバース、花畑、ハイマツ帯、岩と水と雪渓と林立する奇岩のトムラウシ公園と呼ばれる至福の散歩道帯、頂上真近の岩礫の灰色・緑のハイマツ・茶色の低木・雪渓の白・花畑のピンクが織り成し大雪連峰が一望に見られる大パノラマ地帯、そして大岩石の頂上と疲れを感じる暇も無いほどのサービス精神旺盛の山である。

 トムラウシ山の名前は、十勝川の上流トムラウシ川に由来し、トムラは水垢、ウシは多いところを意味し、「水あかの多い川」その理由は温泉鉱物のため水がヌラヌラしている事からくるらしい。

 二〇〇〇年八月十九日(土)~二〇日(日)、会社登山クラブ「松岳会」の、この頃になると毎月定例の山行は念願のトムラウシとなった。何度か計画したが天候不順で満を持しての今日の運びとなる。山川・石岡・林・岡山・久保田・白浜のメンバーであった。久保田さんとは、二ヶ月前の十勝岳事件以来、懲りない面々仲間と言おうか、すっかり遅れて入会したベテラン会員である。十勝岳ルート選び間違いで、岩登りをするハメになった反省を踏まえてそれぞれが反省し、貴重な体験からステップアップしているようである。

 私が所属する山の会のエスパーステントで、トムラウシ温泉のキャンプ場に会初めてのテント泊である。初めてのテント泊はなかなか熟睡出来ないものだ。何人かは寝不足の様であったが、山男はそんな弱音ははかないものだと鼓舞しながらの山行となる。

 ここの一般的なコースタイムは登り六時間、下り四時間である。短縮コースの駐車場に車を停めて朝の四時から歩き出すが、若干一名のタバコタイムが多くはかどらず。それでも全員がカムイ天上、コマドリ沢の渡渉、前トム平、ケルン、トムラウシ公園まで何とかたどり着いたが三人は既に頂上アタックの願望が消えている。多分余りにも素晴らしい天然の名園、トムラウシ公園で好天のもと、昼寝をしたい欲望に負けたのだろう。岡嶋さんの無線機一台を昼寝要員一人に預け、果敢に頂上を目指そうとする三人、山川・岡嶋・白浜は元気一杯頂上へ。南沼キャンプ場を東に針路を変えて、岩石の城壁へ喘ぎ喘ぎ到達する。

六時間半の所要時間であった。まさに天上の楽園、大パノラマで色取り取りの沼、雪渓、ハイマツ、岩稜、花畑が広がる、大雪の連峰がこれまた素晴らしい。下山前、無線で連絡をする。相手の声はするが、こちらの声が届かないらしい、よって会話が出来ない、あれほど使い方を伝授したのにやはりである。それでも元気な声が聞こえたので下山し、未だ昼寝をしている豪傑を叩き起こし、六時間も要し無事下山する。トムラウシ温泉で汗を流し、一路札幌へ。さほど戦力になっていない面々は月曜日から居眠りが続いた事であろう。



7.鳳凰山

  南アルプス入門の山

             
          登山口                    静かな樹林帯          地蔵岳とオベリスク           青木鉱泉

  、   白峰三山(北岳、 間ノ岳、農鳥岳)

 勤務先の北海道支店から東京支店に四月に転勤してから、山岳会も首都圏の山岳会に加入した。転勤希望の理由は北海道支店が長くマンネリ化していた事と、営業で培ったノウハウを日本の首都、東京で実践したかった事とあとは家庭の事情による。表向きは日本のアルプスを登りたいので転勤希望しました、と言って周囲を煙に巻いていたが、実際は仕事よりもやはり山優先であったかも知れない。

 山岳会の例会後何時もの飲み会で、情報を得ようと懇意にしていた高崎さんに伺う。手始めに単独で行けそうなアルプスの山を教えて下さい、と尋ねる。ならば鳳凰三山だ!と即答で返ってきた。高崎さんは無類の温泉好き。小学校に入る前からお婆ちゃんに連れられ、四万温泉に湯治に行くなど当時から異邦人?の片鱗を見せていたようである。極めつけは小学校の卒業式まで欠席して温泉に行っていたという、尋常ではないお人である。

その高崎さんに愛称を就けました、山岳会の温泉部長と。別にどこからも認定された格調高いものではない。私が勝手に命名し、ついでに私も副部長に就任した。部員は二人だけである。

チャキチャキの江戸っ子、浅草生まれで温泉部長のお仕事は社会科教師。普段は寡黙で近寄り難いコワモテの人だが、酒が入ると山談義、温泉談義と速射砲、矢継ぎ早、口角泡を飛ばして話が尽きない。最終電車の時刻表を見ながらも話し続ける熱血教師である。

その温泉部長に北・中央・南アルプスの良さと情報をしっかり伝授され最初に計画したのが鳳凰山こと、鳳凰三山である。鳳凰山とは南アルプス北部の薬師岳、観音岳、地蔵岳の三山の総称で通称、鳳凰三山と言われている。南アルプス入門の山で、大・中・小で難易度を示すと、中である。

二〇〇一年六月十六日(土)~十七日()、満を持してのアルプス最初の山である。コースタイム十二時間半とある。長丁場で最初なので不安がある。山岳会に山行計画書を提出し、新宿発スーパーあずさ号で十六時山梨県甲府市に向かう。本来ならば朝早く出て、山小屋で一泊を考えたが、甲府発で登山基地の夜叉神峠(やしゃじんとうげ)行きバスは一日数便でアクセス悪く、止む無く甲府駅前のビジネスホテルないとう、六二〇〇円に泊り、翌朝甲府駅前始発四時半の山梨交通バスに乗る。

凡そ一時間半で、その名もロマン漂う「南アルプス街道」を通り夜叉神峠登山口に到着する。この山には色々な神・仏がいるらしい。夜叉とは顔の怖いインドの鬼神であるし、観音岳には当然観音様、薬師岳には薬師如来様、地蔵岳には地蔵様、お賽銭を用意せねばと歩き出す。

朝六時、標高一三八〇m地点から出発、樹林帯のシラビソ(松科の常葉高木で北限は福島県吾妻連峰~南限奈良県大峰山系)林を快調に高度を上げていく。夜叉神小屋のある夜叉神峠(一七七〇m)では白峰三山(北岳・間ノ岳・農鳥岳)が頂に雪を抱いて悠然と聳えている。よし、次は白峰三山だと決意した。続いて杖立峠、苺平を横切ると南御室小屋(二四三〇m)に着く。北海道には食事の提供される山小屋は殆ど無いのでしばし立ち止まり観察させてもらう。お世辞にも立派とは言い難い。つぎはぎだらけの物置みたいだ。

その日は晴天で温度も高い為か、アルバイトの学生達が屋根に布団干しの最中である。昨日の飯は何でしたか?と問うと、この山小屋は何時も野菜の煮物ですよ、と返ってくる。

尾びれがついてきた。我々アルバイトも毎日煮物ばかりで飽きてしまう、肉が食べた~い、と嘆いていた。山の風物詩的山小屋を見て、小屋前の純度百㌫のような冷たい湧き水をたっぷり戴き、上を目指す。

 小屋の裏から樹林帯の急登で展望が開けると、白砂・花崗岩の大きな岩が現れる。南アルプスの稜線が連なる。私には名前が解らないが、他の登山者が親切に教えてくれる、が名前すらこの頃の私は知り得ない。薬師岳小屋を過ぎるとすぐ薬師岳(二七八〇m)だ。

真っ白な砂と大きな岩に神秘的なものを感じる。三十分も進むと最高峰観音岳(二八四〇m)で、そこからは富士山が青空に映えている。視線を下に向けると一面の白砂に、時折見える高山植物で可憐なタカネビランジがピンク色で輝いている。

 最後のピーク地蔵岳に向かう鞍部に異様な光景を見た。賽の河原(さいのかわら)である。白砂の畳六畳位のスペースに二〇㌢位の地蔵が何十体も縦に安置されている。始めてみる光景である。不思議に見ていると親切な人が教えてくれた。

賽の河原は死んだ子供が行く所といわれる冥土(めいど)の三途(さんず)の川の河原なのです。ここで子供は父母の供養の為に小石を積み上げて塔を作ろうとするが、絶えず鬼にくずされる。そこへ地蔵菩薩が現れて子供を救うのです。別の例えでは無駄な努力の例えとも言われていますね。伝説では、現世と冥土の間にある三途の川の河原に「賽の河原」があり、親より先に亡くなった幼児達は極楽に行けず、本来なら不幸の罪によって地獄に行くところが、幼少の為この賽の河原にとどまり一つひとつ小石を積み上げるというならわしなのです。この地蔵さんはまたの名を子授け地蔵といい、子供が出来るようにと、地蔵さんを彫ってもらい、この場所まで重い地蔵を背負って登ってくるのですよ。

聞いていて、何故かいたたまれない感がしてきて、説明の礼を言い静かに立ち去った。

 賽の河原を見下ろす地蔵岳(二七六四m)は白い巨岩というか、奇岩のようだ。二~五mはあろうかと思われる縦長の白い岩で無数に青い空に縦に何本も重なって林立している。オベリスクという。古代エジプトで、神殿の門前の両脇に立てられた石造りの記念碑、方形で上に向かって細くなり、先端はピラミッドの形をしている、とインターネットで説明があった。

ここの岩で岩訓練をする人が多いと聞く。神・仏の多い神聖な場所で大丈夫なのかと、変な心配をしながら最後の小屋、鳳凰小屋(二三九〇m)に到着する。登山者がいないこの時間帯、人の良さそうな雇われ管理人はニコニコしている。人恋しいのであろう、山奥ゆえに。また聞いた。夕べの飯は? 何時もカレーですよ。カレーは作るのは簡単だが、洗うのが大変でね~、自然を守るのに洗剤は使わないで土・砂を利用するのです。感心!

 下山時、多数の高山植物を眺め下山口の御座石鉱泉に十六時到着。十時間の行程であった。一二六〇円の高い温泉に入り、ビール五百円で済ませ、最後に残ったおばちゃん三人とタクシーに相乗り、二五〇〇円で甲府駅へ。

初めてのアルプスを満喫して帰宅した。その夜、知恵熱が出た、学び過ぎたようだ。


8. 仙丈岳

  三っのカールを抱く南アルプスの女王

      

   仙丈岳頂上              仙丈小屋               北沢峠               小仙丈岳     

 首都圏から中央道の高速道路を長野へ向かい、甲府を過ぎる頃から右手の北東に特徴あるギザギザの八ヶ岳、対する左手西側には雄大な山脈が連なる。仙丈岳、甲斐駒ヶ岳、北岳である。一際目立ち、車の運転もおぼつかなくなる一瞬である。気高く美しい、その様に表現すべきだろうか。中でも甲斐駒と北岳はピラミッドの様に凛とそびえ、一方仙丈岳はゆったりと裾野を広げたようになだらかなのが遠くからも見られ、「南アルプスの女王」と呼ばれるだけの風格がある。

 女王仙丈岳(せんじょうがたけ)の背丈、標高は三〇三三m。日本の山で高さの順位は十七番目である。三〇〇〇m以上の山は二一山あり、高い順に以下の通りとなる。

富士山・北岳・奥穂高岳・間ノ岳・槍ヶ岳・悪沢岳・赤石岳・涸沢岳・北穂高岳・大喰岳・前穂高岳・中岳・荒川中岳・御嶽山・農鳥岳・塩見岳・仙丈岳・南岳・乗鞍岳・立山・聖岳

 ちなみに日本より狭い台湾には、三〇〇〇m以上の山が一三三山もあり、一番は玉山(三九五二m)である。この玉山は戦前の日本統治時代、明治天皇の命名で新高山と呼称されており、日米開戦の暗号電報「ニイタカヤマノボレ一二〇八」は余りにも知られている。

 憧れの南アルプス、一ヶ月前の鳳凰三山に続き今回は仙丈岳に計画し、二〇〇一年七月一四日(土)~十五日()、住まいの東川口から凡そ二時間で新宿に向かう。

アルプス方面に行く登山者で一杯の新宿駅休日のホームは、サラリーマンは殆ど見えずに山男と女で一寸の隙間も無い。老若男女入り交ざっての喧騒がそれぞれの心をはやし立てる。新宿発八時、スーパー梓二号で我先にと自由席に向かう。山梨県甲府駅九時二八分着。

一日数本の連絡バス十二時〇二分で「南アルプス街道」を通り、登山基地の山梨県側広河原に着く。ここで芦安村営バスに乗り換えて(一般車禁止)登山前衛基地北沢峠に十二時五五分着。自宅を出てから七時間である。このコース以外では、長野県側伊那市戸台口、長谷村営バスで北沢峠への、こちらは南アルプス林道である。芦安、長谷両村共に天下の名峰で百名山の北岳、仙丈岳、甲斐駒ケ岳、鳳凰山の四山をエリアとしての収入は多大なものがあろう。現にバス、山小屋、温泉施設、道の駅、レストラン等あらゆるものを村営としている。民間企業が入り込む隙間はなかろう。実に商魂たくましい。経営の悪い企業など見習いに行くべきだろうと思う。

 北沢峠(二〇三二m)は登山者、観光客で溢れている。これからと意気込む人、安堵の下山者様々である。一三時、藪沢コースを取り、樹林帯の急坂、大滝を過ぎると高山植物が見えてくる。

雪渓の藪沢をひと登りすると馬ノ背ヒュッテ小屋、ダケカンバの斜面をジグザグ、ハイマツの稜線をひたすら登ると避難小屋、仙丈小屋に十七時たどり着く。荷物を置き、小屋の予約を済ませて、仙丈岳頂上(三〇三三m)に約十五分で着き、夕焼けに染まる南アルプス連山、富士山に感動す
る。

 避難小屋というが、先着予約には食事も出るし、素晴らしく新しい綺麗な山小屋である。

木造三階建てで、太陽光と風力発電装置を備えた画期的な小屋、クリーンな自然エネルギーで浄化槽を稼動させ排水・汚水を処理する素晴らしい施設を長谷村が一億円以上で作り上げたという。

 今夜は込み合う台所を敬遠し、夜とは言え暖かい外のベンチを借りて、ワイワイガヤガヤと知らない物同士仲良く夕食作り、と言ってもレトルトのカレーとご飯。三〇〇〇mから下界を見下ろしてのビールと飯は尚旨い。直ぐ下には大仙丈カールがあり、万年雪の冷たく美味しい水をプレゼントしてくれる至福の時間といえよう。

 翌日も快晴、富士山から出るご来光を小仙丈ケ岳から見ると素晴らしいというので、四時にはヘッドランプで歩き出す。三十分程見とれた。北岳も雄大である。日本の名峰が朝日を浴びて紅に染まる姿には、言葉では語り尽くせぬ感動がある。

ハイマツと砂礫の大滝頭を通過し、七時に北沢峠に戻る。小休憩し、七時半仙丈岳とは反対北東の甲斐駒ケ岳を目指す。登り四時間、下り三時間のコースタイムである。双児山を通過し、駒津峰に来た所で流石にスタミナが切れてきた。頂上まで僅か一時間半、ピラミダルな山容の頂上も直ぐそこに見えている。この状態で行くと、北沢峠の最終バス十五時にギリギリであろう。山は逃げないを期して次回に託した。仙水峠を経由しこれ以上無いだろうの冷たく美味しい仙水小屋横の水を戴き北沢峠に戻る。

 バスは臨時便が何本も出る。果たしてシーズンにここを訪れる人は何百人、何千人、いや何万人だろうかと考え、興奮冷めやらぬうちにやはり町営の芦安温泉、町営の蕎麦を食べて甲府駅「特急かいじ」で帰る。「かいじ」は甲斐路から命名されたのであろう。ここは甲斐武田の国である。「甲斐路」、歴史とロマンを感じながら眠りについた。



9.10北岳間ノ岳・(農鳥岳

 日本第二位の高峰から眺望の稜線を縦走

    

    北岳              先ずは吊り橋            標識                   敦盛草
  
大樺沢                北岳山荘                北岳頂上

 南アルプス北部にそびえるピラミダルな北岳(三一九二m)は、富士山に次いで日本第二位の高峰である。また北岳の頂上からコースタイム三時間程度で南に間ノ岳(三一八九m)が第四位で連なる。縦走を計画する登山者は更に南の百名山ではないが、二時間半の農鳥岳(三〇二五m)を含めて南アルプスの豪快な稜線歩きをする。三山合わせて白峰三山と呼称されている。

 特に北岳は高山植物の宝庫で登山者の目を楽しませてくれる。稀にしか見れない六月開花で北岳固有の「キタダケソウ」は頂上直下でしか見られないという。

全国のクライマー達が一度は訪れたいと願望する北岳バットレスは、大樺沢(おおかんばさわ)から見上げると反り返って見える岩壁である。

つい二ヶ月前から鳳凰三山、仙丈岳、甲斐駒と登る内に、近くにそびえる北岳の雄姿が印象的で流行る気持ちを押さえられなく計画した。また行き交う登山者から北岳縦走の素晴らしさを情報として会得しての山行となる。

 二〇〇一年八月三日(金)~五日(日)甲府一泊、山小屋一泊の予定である。本来ならば山小屋二泊ならばじっくり稜線歩きが出来るのだが、サラリーマンの悲哀で休みが取れない。金曜日、会社の仕事を早めに終えて、新宿へ。新宿~甲府間は既に何度も利用し馴れている。ビジネスホテルないとうに素泊まり、大浴場に浸かる。八月四日(土)早朝の四時半、甲府駅からバスで南アルプス街道を通り登山基地広河原(一五二六m)に六時半到着。

さすがにシーズンたけなわ、登山者で賑わっている。六時半、野呂川に架かる吊り橋を渡って大樺沢に沿った登山道へ進む。標識もしっかりあるし、何より登山者が沢山いる為迷う事は無く、気楽に歩ける。沢沿いの樹林の中をグイグイと標高を稼いで行く。雪渓に出たり樹林に入ったりを繰り返す。水も冷たく美味しい。ただ怖いのは北岳直下から続く大雪渓が融けて、雪渓の上に止まっている大石が落ちてくる事だ。雪の上を転がるので音がしないらしい。だから始終頭上を眺めながらの雪渓歩きとなる。大樺沢二股、草すべり分岐を超えて北岳肩の小屋を通過すると、四〇分で厳しい急登の北岳頂上だ。十二時四〇分。

三六〇度の展望が広がる。これから向かう南の稜線には間ノ岳がどっしりと横たわり存在感十分である。岩稜を一時間下ると芦安村営、北岳山荘(二八八四m)がある。既に一三時四〇分、これから不案内の間ノ岳へ三時間は厳しいのでこの山荘に泊る。一泊二食七七〇〇円。

日本アルプスの山小屋には初めて泊るので期待した。夕食は焼肉、ご飯・味噌汁はお代わり自由、焼肉は薄くこんな物でしょうか? ビール三五〇㏄四〇〇円、水一㍑一〇〇円。

この日は収容人数百五十人の所を四〇〇人近いという。布団一枚に三人であった。疲れを取るため横になっているだけのようだ。二階から一階のトイレに行くにも、階段の一段段に一人づつ横になっておりつま先歩きでやっとトイレへ、トイレの前にもびっしりと寝ており、戸も開かない。匂いなど気にしてはおれない。

八月五日(日)三時起床、起床と言ってもゆっくり寝たわけでもない。立ち上がったと表現出来ようか。朝飯を弁当にしてもらい、四時、ヘッドランプで出る。ゾロゾロ歩いているので暗くても心強い。岩の稜線を歩んでいるとご来光だ、早速朝陽をおかずに朝飯とする。至福の時間である。

堂々とした間ノ岳の頂上に五時四〇分、しっかり眺めを脳裏に刻み、次の農鳥岳を目指す。農鳥小屋(二七九五m)は鞍部にある。登り返すと農鳥岳(三〇二五m)に着き八時。

この縦走のハイライトはこれからの下山、コースタイム六時間五十分、標高差二二〇〇mもある。行けども行けども終点が見えてこない。吊り橋を何度か渡り、大門沢小屋を過ぎて飽き飽きした頃、十二時早川第一発電所に到着する。何と二時間の短縮であった。

疲れでボ~ッとしていると、車が通りかかり、観光で来たという紳士然とした七〇がらみの男性に車に乗せてもらい、奈良田へ。ここが中里介山「大菩薩峠」で机竜之介が旅した、有名温泉、奈良田温泉かとじっくり味わう。

奈良田から南アルプス街道を通る田舎のオンボロバスに二時間揺られて、身延に着く。身延線のローカルラインで一両運転、この辺はやけに温泉が連なっている。田園もあり、素朴な農村が連なり江戸、明治時代の風情がある。時間が止まっているかのようだ。

富士川に平行して甲府まで車両が走る。この富士川は源を甲武信ヶ岳から発しており、最初は笛吹川という名前である。北海道生まれの私は、笛吹川とか天竜川、梓川、千曲川、信濃川と聞くと、何故か憧れ、ロマンを感じる。多分、五木ひろしの歌の影響でしょうか?

それとも歴史と物語を連想させるのでしょうか。ロマンチックな帰り道であった。


11.穂高岳

  鉄梯子や鎖場の連続、興奮で寝られぬ奥穂高山荘  


    
    新宿西口:あずさ号        上高地:梓川             河童橋                  岳沢ヒユッテ

   
     穂高の山並み           分岐               鉄ハシゴの順番待ち       V字谷の底にある穂高岳山荘
  
     
   夕食:おかずはチョビット      ひしめき合う寝室       岳沢カールとテント村    カールにある診療所:7・8月の死亡6人

 穂高連峰が連なる飛騨山脈を、日本アルプスと名付けたのは造幣局の技師で英国人のウイリアム・ガラウンド、その後英国人宣教師のウオルター・ウエストンが、地元山岳案内人の上條嘉門次に案内され槍ヶ岳・穂高岳に登り、その登山記で世界に知れ渡ったと言う。

ウエストンの功績は日本近代登山の幕開けのきっかけとなり、日本近代登山の父とたたえられている。

 穂高岳は最高峰の奥穂高岳を盟主として、北穂高岳、涸沢岳、前穂高岳、西穂高岳、明神岳が連なる大岩魂である。これらの山を縦走する場合、縦走と言うより岩登り、岩下りと言うほうが適切であろう。そして穂高は他山と比べ、ある程度の経験者がいよいよ穂高へと意気込む山であると思う。体力勝負の南アルプスとは違い、体力プラス技術が必須の穂高である。鉄梯子、鎖場、岩のへつりが随所に現れる油断もスキも無い山々である。

 遠く北海道や、山に縁の無い生活をしていると、時々テレビで放映される梓川やカッパ橋、雪を抱いた穂高の映像がロマン溢れるのどかな光景としてしか伝わらない。カッパ橋周辺の観光客の軽装を見ると尚更である。勝手にたおやかな観光地くらいに想像していて憧れのアルプス、穂高と認識していた。

 南アルプスを、鳳凰三山、仙丈岳、駒ケ岳、北岳,間ノ岳、農鳥岳と一部縦走も経験してのいよいよ穂高であった。それも西穂岳~ジャンダルムを経由の穂高縦走計画である。

山岳会の大先輩は「大丈夫だ~」の一言。後日、この大先輩に問うてみた。何故、簡単に大丈夫と言われましたか?山岳会の会員だからだ、と。よく理解出来ない返答であった。

飄々としているが見識があり、人望の厚い先輩は、会員が岩トレ、沢登りをそれなりにこなしているのを前提に即断しているのであろうと考えた。情宣物で調べもそこそこに臨んだ自分のミスであった。四日間の山行中、二日目で早くも驚きと後悔で一杯になる。

 二〇〇一年八月十二日(日)~十五日(水)、丁度お盆の一番込む頃である。長期休暇は仲間に迷惑がかかるので盆休みしか当てられずに計画した。

新宿駅あずさ一一一号、七時三三分発で長野県松本へ、私鉄松本電鉄のロマン溢れる車体の絵に感動し、新島々でバスに乗り換える。環境にやさしい電気バスである。有名な避暑地で観光名所、登山基地でもある上高地(一五〇四m)に一三時十五分着。自宅を出てから八時間であった。

上高地に着くや否や、梓川に沿ってカッパ橋に向かう。沢山の観光客で吊り橋も落ちそうなほどである。イワナかヤマベか判断できないが無数に泳いでいる。多分禁漁なのであろう。上を見上げると穂高の連峰が遠く高く黒々とした岩肌と雪渓をまとい、畏敬の念を抱かせる。胸が高鳴って動悸が高まるのが自分でもわかる。だがこの梓川の清流は実に綺麗だ。ゴミ一つ無く親子ガモが悠然と泳いでいる。

この梓川は途中から犀川、そして千曲川、信濃川と四度も名を変えて日本海に流れ出る。歌や詩に幾度となく歌われるロマン香る清流である。

昨日、山小屋の西穂高山荘に電話で確認すると、雨が降り奥穂までのジャンダルムは危険ですよと聞き、残念ながらも一部ホッとして岳沢コースから岳沢ヒュッテ(二二〇〇m)に十五時四五分着、一泊する。布団一人一枚であった。一週間前の北岳山荘の一枚三人からみれば天国である。鳥の照り焼きで美味しかった。狭い部屋に十数人は窮屈ではあったが・・・

八月一三日(月)快晴。六時出発、雪渓の残る重太郎新道を慎重に高度を上げながら前穂高岳に向け、トラバース気味に九時、前穂(三〇九〇m)に着く。既にここに来るまでの紀美子平あたりからザレ場、岩稜、鎖、鉄梯子が出てくる。想像とはかけ離れたアルパインの世界である。息をつく間もないと言うか、緊張感そのものである。覚悟を決めてまだ険しい所を両手、両足、おまけに手足の両肘、両膝まで繰り出して、あと使えるのはあごとひたいだけだ、這いずり回るような体制で奥穂高岳(三一九〇m)に二時間後の十二時に到着。喉はカラカラ、眼もうつろ。

自分だけかと思えば中高年は皆似たようなものであり、多少安心する?

 奥穂の頂上の二mもあろうかと思われるケルン(山頂や登山道に、道標や記念として石を円錐形に積み上げたもの)で休んでいると、若者が二人、三人と息せき切って西穂から上がってくる。死ぬ思いをした、と言う人、緊張した、もう行かないと様々であった。

 奥穂から一時間、ハイマツ帯を過ぎて行くと、突然谷が出る。V字で向こう側は涸沢岳、そしてVの底に穂高岳山荘(二九八〇m)がある。五十mもあろうかと思われる鉄梯子は殆ど垂直である。登る人、下る人、順番に緊張しながら番を待つ。山荘に一三時半着いて、予約をし(山小屋は来る人全員を人道上泊める)、テラスで互いに労苦を語り合う。

 夜の食事はアジフライ、何を食べても旨い。生きている実感をしみじみ噛締めながら。

 初めてブロッケン現象をテラスで見た。高い山で霧が立ち込め、涸沢カールを正面にして、背後から太陽光を受けた時に霧に自分の像が写る現象である。自分の体が五倍位に見える不思議な現象であつた。

 本日は布団一枚に三人である。疲れているので直ぐウトウトだ。だが熟睡どころか、夢ばかりでそれもはっきりと今日の行程通りに後を追って両手、両足が鎖、鉄梯子をつかんで緊張している夢だ。朝まで悪夢は続いた。疲労に寝不足だ。

八月一四日(火)本日も快晴。六時出発、V字の昨日来た、反対側をまたまたよじ登る。涸沢岳(三一一〇m)、一〇〇mの岩壁を朝一番から、何でこんな辛い思いをせなアカンのやと思いつつ、ありったけのエネルギーを出しながら頑張る。

北穂高岳(三一〇六m)までの二時間四〇分は私の人生で今まで比較にならぬ体験であった。後も前も混んで順番だ、引き返すにも不安だ、へつりが多くなってきた。岩も崩れないか確認をしながら足場を探し一歩一歩である。足元を見ると崖が五十~一〇〇mと絶壁である。互いに前後の人が声を掛け合いながら、もっと右、左と既に仲良しクラブだ。

昨日までの怖さなど比較にならなかった。それだけに北穂高岳について、遥か彼方の槍ヶ岳の鋭利な山容を見た時の感動は生涯忘れ得ぬ思い出と成っている。傍らに笑顔の素敵な若いお嬢さんがいて、互いに喜び合ったのでまた格別である。

九時四〇分、すぐ脇の北穂高小屋を通り、南稜を涸沢カールに向けて下山する。この頃は危険箇所も少なく、高山植物に感動する余裕も出てきた。カール(氷河の侵食により、山頂直下の斜面が、すくい取った様に円形に削られた地形)を終始眺めながら下山していると、山小屋が数件と雪渓の上に赤・青・黄・緑と色とりどりのテントが無数にある。さすがに日本一の涸沢カール(二三〇九m)、テント村とも言えようか、ここは未だ雪解けのおだやかな小春日和のようだ。一一時四〇分着、山小屋で生ビールとラーメンの美味しさは久し振りで生き返ったようだ。

医科大学の出先診療所がメジャーな山には置かれている。その診療所の前の看板に注意喚起のためだろうが、今シーズンのこの山域で事故二一件、死者六人と掲載されていたのを見て背筋が寒くなり、十二時二〇分更に下山する。

梓川上流に沿って本谷橋、横尾谷を過ぎると登山前衛基地で、上高地、蝶ケ岳、槍ヶ岳、穂高への分岐点である横尾(一六一九m)に一四時十五分到着した。ログハウス調の綺麗な山小屋と言うより旅館風であり、大きな風呂まである。風呂上り、夕食前のロビーで下山仲間と大宴会である。これから登る人は寡黙である。中年の女性が台湾の玉山、雪山の二山を登った話を面白おかしく聞かせる。そして海外の山、日本の百名山の話と盛り上がり、缶ビールがはかどる。美味しい素晴らしい夕食を戴き、畳和式の六人部屋で爆睡した。

八月十五日()最終日晴れ、六時横尾山荘を発つ。高低差百mの上高地まで二時間を、清流梓川に終始沿いながら下山する。深さ一〇~二〇㎝、幅三~五m程の川に魚とカモと緑の植物が風情をかもし出す。殆ど散歩道で観光客もスニーカ、ハイヒールの女性もいる。奥上高地自然探勝路と名がついている。

途中、徳沢に徳沢園という山小屋と言うより旅館がある。女優の市毛良枝が山が好きでよくここへ投宿している所だ。玄関前に「氷壁」の宿と看板がある。

この地点から見える屈指の岩登り箇所、前穂高東壁が望めるビューポイントだ。旭川出身の井上靖の山岳小説「氷壁」の舞台である。社会問題にまで発展した「ナイロンザイル事件」の全容、山をひたむきに愛する若者や美しい恋愛の織りなす名作「氷壁」は今尚愛され続けている。文中の徳沢小屋は現実には徳沢園である。井上靖がここに逗留して書き上げた小説である。

この徳沢園の建物の壁がかなり広くガラス張りで、そこに穂高の山が大きく美しく反射され、それを被写体に写真をマニアが写している。私もにわか山岳写真家になってシャッターを何度も切り、次のポイント明神岳が素晴らしく見える明神に向かう。

明治時代の山岳ガイド上條嘉門次(マタギでもあっただろうと思われる)の嘉門次小屋が代を変えて営業している。

上高地に着くと盆の大混雑でバスに乗るのに整理券発行で二時間待ちであった。ターミナルの売店でキュウリ、トマトを皆の後ろに並んで求め食べる。朝もぎの新鮮さが忘れられない。遠くに赤い三角屋根の大きなホテルが見える。上高地帝国ホテルだという。高級ホテルは山男に縁は無いと恨めしげに眺めてバスに乗る。

帰宅してからあらゆる地図を広げて眺めた。涸沢岳~北穂高岳はしっかり○に危険の危と書かれていた。北穂高岳~槍ヶ岳も危険マークだ。行きたい、とムズムズしてくる自分に呆れた。北アルプスは一際素晴らしい。納得の山行であった。


12・13・14槍ケ岳笠ヶ岳焼岳

  日本アルプスの象徴、槍ケ岳は穂先を天にまで突いていた

   
   うすいスイカが800円        燕山荘               コマクサ        ヒュッテ大槍の豪華食事
   

 ○と→に従い垂直の壁を登る 槍の直下15分は垂直の鉄ハシゴ 槍ヶ岳頂上        タカネナデシコ

 

  

 二〇〇一年八月二五日~二九日。Aグループの編集長隊はアルプスに夢とロマンを求めて。そしてわが、温泉部長隊はひたすら体力と根性の山行であった。 

だから隊員は辛かった…でも槍ケ岳(3、180m)、笠ケ岳(2、898m)、焼岳(2、455m)の100名山を一挙に三つも登れる幸せを隊員は経験したのでした。

 おまけに、「日本秘湯の会」、穂高の中房温泉、上高地の坂巻温泉、新穂高温泉の水明館と槍見館の四ヶ所の近くまで接近出来たことは意義深いものであった(湯に入るには今少しの修業が必要!)。その代わり、上高地の新穂高温泉と中尾高原の民宿、「まほろば」の露天風呂は最高であった。寝る時間も惜しく、朝三時半には床を抜け出し、(温泉部長はグッスリ!)一目散に露天へ、露天へ。貸切だア、で満喫した。

夜明けの薄明かりから見える錫杖岳の眺めがまた素晴らしい、生きていてよかった?

およそ2時間も内湯と露天を往復し、のぼせたら外を散歩し、ロビーで缶ビール、ここも独り占め、何と幸せな一日のスタートだろう。

 思えば昨日の夕餉は会席料理もどきで、アメリカなまずの刺身、牛タンのステーキ、岩魚の塩焼き等々一泊ニ食、昼おにぎりつきで8、500円とは信じがたいのでした。

 「ヤギさん」こと青柳常雄さんとは初対面でした。元、藤原歌劇団の歌手で新宿歌声喫茶で長く歌っていたという。

レコードも出している有名な方という。外国でも公演したという。 だが私は知らない。宴もたけなわ、イタリアでカンッォーネを聞くが如くその迫力と歌唱力にはただビックリ、その夜は心満たされて深い深い眠りに入りました。

 音楽の山行もう一つ、燕山荘クラシックコンサートです。80周年記念行事でその道で有名だという人(私は無知!)。フルート、ヴァィオリン、ヴィオラ、ツェロ、コントラバス、チェンバロの演奏です。モーツアルトのフルート四重奏曲 イ長短KV298より 第1楽章、バッハの?、シューベルトのアヴェ・マリア、川の流れのように、草春賦でした。その人達は小林明日香、近澤侑司、林佐和、廣岡直城、嘉納雅彦、山田朱美他インターネットYAHOOJAPANで名前が出ていました。やはり有名だったんだなア…(独り言=最初から寝てるんじゃなかった。反省!)

 「絵画」… 版画家、畔地梅太郎の絵が燕山荘グループの山小屋で多数見ることが出来、またまた心が満たされました。 

 今回同行の我妻京子さんから、お嬢さんが燕山荘で働いていると聞き、どうしてもその経過を聞きたくて失礼ながらうかがいました。娘さんの学生時代に何度か一緒に山行しているうちに、娘さんが山の魅力にとり付かれたこと、外国の山に何ヶ月も行ってしまったこと、大学を卒業しても山から離れられないこと。

燕山荘にあと一息の所でお嬢さんが「お母さん、頑張って!」お母さんは「来たよ!」と標高差50mを超えての親子愛を垣間見ました。お嬢さんの何と澄んだ目、溌剌とした機敏な動き、顔が明るい。山小屋で働く若者はおしなべてさわやかです。

 私は今シーズン、随分山小屋に泊めていただいたが、どこでも感心してきました(おじさんも見習おう!)。 そのお嬢さんもインターネットに出ていました。「燕山荘グループスタッフ紹介」と入力すると「喫茶・サンルーム主任 我妻里英」さんで登場されます。

「グルメ」… 燕山荘グループの、とある山小屋(有名になりすぎて混むと困るので内緒に!)とヒュッテ大槍の支配人は言ってました(皆さん、ここだけの話ですヨ)。何とワイン、五目寿司、トマト入りスープもどき(私には名前が分りません)、天ぷらや何やら豪華絢爛。今度も絶対「また行くぞ!」と心に誓ってきました。

 「槍ケ岳」を開山した人、播隆上人について。160年も前との事。英人ウェストンが日本アルプスを世に知らしめるより65年も前のことです。

僧・播隆は生涯の殆どを一介の苦行僧として過ごしたという。混濁の世俗を捨て仏門に入ったが、そこも俗界同様のみにくい風潮がみなぎる宗門で、そこで深山霊谷での修業に入り、天を突き刺すような鋭鋒の頂きに、清浄静寂な極楽浄土への道を発見したそうです。その一つに辛苦を重ねて頂上を踏みしめたとき、5色に彩られた虹の環の中に阿弥陀如来の姿が出現したといわれています。感動的な御来迎の奇跡はブロッケン現象(高山の山峰で前面に雲霧が立ちこめているとき、太陽を背にしている場合、自分の影が前方の雲霧に写され、その影の周りに七色の美しい輪が見られること)であると後日言われています。

私も8月13日、奥穂高岳の、穂高岳山荘で貴重なブロッケン現象を経験し感動しました。

僧・播隆は槍ケ岳開山の18年も前の1、823年に笠ケ岳登山をしています。

苦行僧・播隆の歩んだ「槍ケ岳」と「笠ケ岳」を、我々四人も苦難に耐えて頂上を極めてまいりました。多分四人は「清浄静寂な極楽浄土」へ行けるものと確信しています。

 今回は穂高駅から中房温泉、合戦尾根の高いスイカを食べ、燕岳、大天井岳、「槍ケ岳」の東鎌尾根と西鎌尾根を歩き、双六小屋から南下して端正な笠ヶ岳を登り、笠新道の長い長い下りに耐えて新穂高温泉の中尾温泉に泊る。

そして、焼岳のガスを気にしながら上高地に下山する、穂高山系をぐるりと回る山行であった。

中でも槍ケ岳は素晴らしい山と実感した。遠くから見るとあの穂先になど登れないのではと思っていたが、近くに行くとやはり人間の力はたくましい。頂上直下の槍岳山荘から頂上まで二〇分だが顔を後にそむけないと見えないくらい反り返っている。しかも登り、下りと鉄ハシゴは一方通行である。これで信号があると下界の道路である。頂上はやはり狭く写真タイムは順番である。眺めは素晴らしく表現の言葉がない。

天気も良し、眺望も良し、体調も良し、極楽浄土への切符も予約?したし大満足。

おまけに行程表になかった「焼岳」にも登り、ロマン溢れる上高地の梓川も散歩し温泉部長に大感謝です。今年の夏は素晴らしい夏山を経験出来て思い出のページとなります。


15.谷川岳

    

ロープウエイ乗り場          双耳峰の谷川岳     ロッククライミングの急峻な壁   頂上:オキの耳      一の倉をバックに

 ロッククライミングのメッカ、遭難者七百名の「魔の山」

 東京から近くて良い山の百名山と言えば谷川岳。ロッククライミングではここ谷川岳の一ノ倉沢、北アルプスの剣岳、穂高岳が日本三大岩場として有名だが、一般登山はロープウエイ、リフトを使用し天神峠経由で頂上へ、そして往復。比較的ポピュラーな山である。

 谷川岳は群馬、新潟県の県境で日本海側と太平洋側との気候区界にある。とにかくこの一帯は天候が安定しない変化の多い所である。よって谷川岳頂上(一九七七m)は二〇〇〇mに満たないが、三〇〇〇m級の高山の様相がある。

 この谷川岳の下を上越線と上越新幹線、高速道路の関越道の三本が一㌔に及び走っている。車で走るたびに科学というか、日本の土木事業の技術は素晴らしいものだと感心しながら通り過ぎる。JRで行くと登山降車駅の土合(どあい)に着く。土合駅は上越線の新清水トンネル内のホームにある駅として有名である。看板に「ようこそ日本一のモグラえき土合へ」とユニークである。ここから登山者泣かせの階段三三八m、四六二段が始まる。

土合駅の両隣の一方に「土樽駅(つちたる)」がある。名作、川端康成の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」の雪国はこの土樽駅を舞台としている。小さな民家のような駅だ。

また一方には「湯檜曽(ゆびそ)駅」があり、前夜泊で来る登山者は土合の駅が混んでいると、この湯檜曽駅の広い待合室にテントを張ったり、シュラフにくるまり仮眠する。

また谷川岳にはマチガ沢、一ノ倉沢、幽ノ沢とクライミングの場所があるが、麓で雪山訓練をする山岳会が多い。滑落停止、救助訓練など毎年行く機会が多かった。

二〇〇一年九月二二日(土)~二三日()、今回は車で夜五時埼玉を出発。八時にマチガ沢出会にテントを張り、遅い夕食となる。

翌日四時起床、テントの外へ出て改めて驚く。昨夜真っ暗なマチガ沢岩稜上部や中間点にヘッドランプの小さな灯りが三ッ、四ッと見えていた。上にたどり着けず、止む無く窪みで朝までビバークしていたのだろう。朝になり再度眺めると、どのようにしてあの急峻な壁を登るのだろうかと驚きの何物でもなく、しばし口をあけたまま眺めた

今回は初めての谷川岳でもあり、土合口のロープウエイとリフトで天神峠(一四八四m)へ降り立つ。天神尾根を登り双耳峰のトマの耳(一九六三m)、オキの耳(一九七七m)の最高峰に一〇時に到着。オキの耳近辺の東側のぞきから下を見下ろすと、まさに絶壁である。

クライマーを時折見かけるが背中がゾクゾクして吸い込まれそうで長くは見ていられない。

下山は中芝新道を選んで下りるがこれまた厳しい。道があっても獣道に等しい。アルパイン好みの女性リーダーは安易に終わらせてくれない。絶壁に近い岩場とザレ場を、渡渉しながら辟易して、芝倉出合、幽ノ沢出合、一ノ倉出合、マチガ沢出合、土合と下山し一四時に水上温泉のひなびた温泉でお開きとなった。


16.木曽駒ケ岳

  氷河地形の千畳敷カールから鋭利な宝剣岳の岩峰が天空を突く

中央アルプスの百名山には木曽駒ケ岳、御嶽山、空木岳、恵那山が南北に連なっており、中でも木曽駒ケ岳はロープウエイを利用すると、コースタイム四時間弱、標高差三〇〇mで比較的気軽に登れる山であった。

木曽駒は、日本アルプスの殆どが集中する長野県の中央部にあり、木曽谷と伊那谷が分かつ中央アルプスの峰主ともいえよう。

駒ケ岳という名前の山は百名山の中で四山ある。越後駒、会津駒、甲斐駒、そして木曽駒で何れも名山と言えよう。駒ヶ岳の名前の由来は共通していると思うが、駒は子()()は馬から転じて馬の事を指し、残雪期の雪型が馬に似ていることから駒ケ岳と命名されたようである。

この木曽駒ケ岳の千畳敷カールは大変大きく目を見張るが、特殊なカールとして珍しいそうである。それは山麓の駒ヶ根市郊外にある切石公園で見られる巨石群が、氷河が押し出した岩石が更に土石流によって運ばれたものと言う事である。「迷い石」と呼ばれる同様の巨石は、ドイツやデンマークで多く見られるらしいが、日本では、人間の暮らす平地まで氷河による巨石が押し出された例は極めて珍しいそうである。

    

 ロープウェー下駅             木曽駒頂上の祠と遠くに御岳山           頂上から夕焼け             頂上の標識                頂上から宝剣岳の山並みを見る

珍しいと言えばここのロープウエイである。東洋一のロープウエイで日本最初の山岳ロープウエイで六一人乗り、高低差九五〇m、出発駅のシラビ平一六六一m、到着駅の千畳敷駅二六六一mは高所でも日本一ではなかろうか。大雪山旭岳が二二九〇mであるから、雲の上に飛び出るロープウエイであろうか。関東で身近な谷川岳ロープウエイは始発地七五〇m~到着地一三二一m、標高差は五七一mである。

ちなみに世界一の高所ロープウエイはフランス・シャモニーからエギーユ・ディ・ミデイ間で標高三八四二m地点にある。富士山(三七七六m)より高い所に一瞬に出るので高山病にかかり易いので長居は出来ない。そこはモンブランの直下である。一方、世界一長いロープウエイはオーストラリア・キュランダの七・五㌔である。

二〇〇一年一〇月一三日(土)~一四日(日)、紅葉の真っ只中の快晴に今回は都市間バスで行く。新宿西口京王バス九時発、長野県駒ヶ根インター十二時五十分着。往復三六五〇円は割安である。混みあう首都高~中央道、右手に八ヶ岳を見送ると、大きな湖が町の真中に存在感たっぷりに青空に映えている。諏訪湖である。湖は山の中か、辺ぴな所と私は決め付けていたのだが、ここの湖は都会派なのだろうか? 

岡谷JCTの右に長野道と分れ、左、名古屋方面に走る。広い大きな天竜川沿いに差し掛かると両方に山脈が見え隠れしてくる。左は南アルプスの連山、北岳、甲斐駒ヶ岳がその秀峰を見せ付ける。右はこれから登る木曽駒ケ岳だ。圧倒的な威圧感でカールを抱いて屏風のような広がりを見せる木曽駒、こちらも青空に輝いて駒ケ岳同士が競い合うようだ。

バスを乗換え、登山ベースのしらび平駅に行く。一瞬驚く、広場は黒山の如く観光客で身動きも出来ないくらい混みあっている。紅葉目的の観光客だ。山岳会の温泉部長がよく言う台詞、「休みの日位は皆家に居ろよ!」と恨み言を言いたくなる。二時間待ちだと言う。

二時間草原で昼寝をして駅に行く。上から大きな乗り物のロープウエイが降りてくる。超満員。、と、一番前に見かけた人がいる。眼をこすった、やはり会社の高林さんだ。手を振ると気付いて近寄ってきた。やはり紅葉を眺めに来たという。お互い危ない女性連れでなく良かったと変な安堵感であった。

十六時から歩き出し、千畳敷カールの反り返る様な急登を、ナナカマドの紅葉が美しい八丁坂、岩壁の乗越浄土、二件の山小屋の前を通り過ぎると中岳と順調だ。夕焼けがやけに美しい、見とれて足が進まない。三十分もシャッターを押しまくる。今夜は木曽頂上小屋にお世話になる、十七時半。今夜の楽しい夕餉は肉ジャガ、長いも、野菜の三皿。

二百人収容の山小屋に本日は三十人程度、既にシーズン・オフで少ないようだ。登山者の一人が詳しく中央アルプスについて語ってくれる。中央アルプスは北・南アルプスから氷河期に押し寄せられたので勾配がきついのです、と。道理でロープウエイの約八分の間に垂直に切り立った岩壁に滝が沢山見え、その白さに赤・青・黄・緑の紅葉が素晴らしく、まさに山上の楽園であった。

     

  宝剣岳の岩壁              駒ケ岳神社              日本最高所ロープウエイ       ロープウエイからの紅葉      こまくさの湯

一〇月一四日(日)快晴。七時小屋を出て、木曽駒ケ岳(二九五六m)の頂上を踏む。御嶽の特殊な台形、南北アルプスの雄大な山並みに見とれる。神の声が天から届きそうな神秘的な景観である。下山は岩場、鎖場の危険地帯、宝剣岳に登り、三ノ沢分岐、極楽平経由で千畳敷にでる。噂にたがわぬ岩場であったが、穂高を経験しての後ゆえ、スムーズであったが、一〇人位が核心部に来ると八人までが引き返していた。「すっご~い」の黄色い言葉で張り切った自分がいた。こまくさの湯で汗を流し帰宅した。納得の中央アルプス。

                                        


17.越後駒ケ岳

  アルペン的な山容にクシガハナ・コースのアルパイン山行

 越後三山は魚沼三山とも云い、駒ケ岳(二〇〇三m)、八海山(一七七八m)、中ノ岳(二〇八五m)の三峰を指す。

関越トンネルを過ぎて来ると、右側に白い頂が三山並んで歓迎してくれるようだ。清酒八海山はこの八海山から流れ出る美味しい水から作られる銘酒なのだろう。また米どころ越後を走る時、黄金色に輝く秋の稲穂を見るとこれがコシヒカリかと妙に美味しく感じられるから不思議である。

二〇〇一年一一月二三日(祝日)~二五日()、快晴を期して今シーズン最初の雪山山行となった。北海道から転勤して初めての雪山でもある。北海道の冬は殆どが山スキーに対し、本州はツボ足と言うか、アイゼン、ピッケル、ワカンのアルパインスタイルであった。東京・埼玉・神奈川周辺の一〇〇〇m前後の山は雪も少なく夏山とそんなに変わらないのがうらやましい。北海道では札幌市内の藻岩山みたいなものである。

今回は一一名で二台の車に分乗し朝七時出発、谷川岳の真下のトンネルを通過し、関越道・新潟六日町インターから水無川を遡上する。水が無いと書くがしっかり水はあった。

通常ポピュラーな登山道は駒の湯からの小倉尾根か枝折峠からだが、アルパイン好みの今回の参加者は厳しい急登の続くクシガハナコースを選んでの山中2泊の山行である。

食事を作る水の心配をしたが、麓から見えるテン場当りの一〇〇〇mは雪がありそうで先ずは安心し用意をする。なにぶん登山口からほぼ頂上まで見渡せるのであるから、いかに急登かが分ろう。登山口三〇〇mから二〇〇三mまでの標高差である。共同装備が重いの、軽いのと言い合い出発。ツガ、檜、松の根っ子や岩にしがみつき、両手両足、猫の手でも借りたいような急登の連続だ、汗・汗・鼻水・よだれと気にしておれない。十二平と言うが平らな所は無い。ふと見上げると後方に八海山の岩峰が迫力を持って聳えている。右前方にはこれまた最高峰の中ノ岳がこちらに向かって構えている。

汗をしっかりしぼられた頃、四時間後の一三時四〇分、一〇〇〇m地点にテントを張る。

本日はリーダ特性のマグロの漬け丼、こんな山奥でこんなに美味しい物を食べられるとは幸せと言いながら、あらゆる和洋中の酒を飲み、またもや議論伯仲。八合の飯を一一人で平らげたようだ。疲れて八時には就寝。トイレに起きて星の輝きに驚いた。光が周囲に無い為見事に映えている。三時起床し六時出発、ワカンとピッケルで頂上に一〇時到着する。

三六〇度の展望を楽しむ。飯豊連峰、燧ケ岳、巻機山、谷川、平ケ岳・・・

膝まである新雪を楽しみながら、険しい岩稜帯を注意深くテン場まで一三時半降りる。

チラホラと酒の匂いがしてくる。待ちきれない面々が始める。今夜は上神さん渾身の手料理、うな丼だ。これまた旨く一一人五合であったらしい。翌日も下山に苦労しながら二時間後に下山、辛い厳しい雪山であった。気の抜けない終始緊張の山であった。

 六日町五十沢の温泉「さくり」に入り、同町の郷土料理「リトル北海道」で地酒、魚を食べて打ち上げとする。魚は北海道かららしいが、本場北海道より旨かった。

 本州最初の雪山は楽しく、美味しかった。なにより良い仲間達である。


18.筑波山

 百名山最低標高(八七六m)の山が選ばれたのは歴史の古さから

 百名山で一〇〇〇mに満たないのは、筑波山と鹿児島の開聞岳の二山だけである。開聞岳の選定理由は見事な円錐形とロケーションの良さかららしいが、こちら筑波山もロケーション抜群の山である。

 晴れた日の東北道から東を見ると、筑波山の山容が周囲の中でポツンと際立って見える。

関東一円どこからも望める親しまれている山である。霞ヶ浦を抱える常陸平野の中には大きな山がないせいでもあろう。愛知以北で百名山が無い都道府県は隣の千葉県位で、ここ茨城県は辛うじて筑波山という歴史とロマンを秘めた名山が観光の一端となっているようだ。

「筑波嶺(つくばね)の 峰より落つる 男女川(ミナノカワ) 恋ぞ積りて 淵となりぬる」万葉集の歌である。昔から歌や歴史ものに良く出てくる山である。

秀麗な山の姿は朝夕にその色を変えるところから「紫の山」「紫峰」などといわれ、昔から関東の名山として西の富士、東の筑波と並び称されている。秘められた歴史とロマンの話には、昔神様に一夜の宿を頼まれ断った富士山は雪積もる淋しい山となり、迎えた筑波山は四季賑わう山になったと言う民話らしきものがあると言う。

 二〇〇二年二月一〇日(日)、そろそろ梅の開花時期に合わせ山仲間の板坂さんと計画。

会社同僚、労働組合組織化の仲間、山仲間、単身転勤仲間と付き合いの深い一人である。

三浦友和に似ていると、酔うと饒舌になるが、自分で云うのだからそうなんでしょう。

 東京駅八重洲南口から高速バスで一時間二〇分筑波に向かう。レンタカーを借り筑波山神社の登山口から中の茶屋、双耳峰の男体山、女体山(最高峰八七六m)、弁慶七戻りの石門、白蛇神社、筑波山神社と回るルートをとる。この山は今や観光が主体なので麓からロープウエイ、ケーブルカーまであり歩く必要は無い。しかし我々はいみじくも山岳会所属のクライマーだと歩く事にした。結構きつい山で汗をしっかりかかせられた。頂上からは残念ながら雲海で関東平野の一部しか見えない。登り下り共に一時間。ここはガマの油発祥地の様で至る所に、ガマの油と置物の店が並んで
いる。

 折角来たのだからと、水戸偕楽園に車を走らせる。水戸の町に近い千波湖の小高い丘に偕楽園がある。梅の景勝地でもあるし、そこを流れる川は桜川、梅と桜の競演である。

JRの臨時駅、偕楽園駅まである。さすがに一〇〇種類、三〇〇〇本の日本一の梅林と日本三名園の偕楽園である。園内には数えられない程の露天が連なり、植木・盆栽・金魚救い・わたアメ・イカ焼・焼きソバ屋と商魂たくましい。黄門さまもヤジさん、キタさんを従えて茶店でダンゴと茶を飲んでいても可笑しくない風情がそこには漂う。

(クリック拡大)

 日本三名園、これで全て見学する事が出来た。

    金沢の兼六園は池泉(ちせん)回遊式庭園(江戸時代に発達した日本庭園の一様式。池とその周囲を巡る園路を中心に作った庭)で一六八一年加賀藩前田侯。

    岡山の後楽園は同じく池泉回遊式庭園、一七〇〇年烏城で有名な岡山城の池田綱政が作る。中には茶畑や水田までもある。非常時に備えたのであろうか。

    水戸偕楽園は自然性植栽園で一八四二年水戸藩、徳川斉昭が造園、庭内には梅を飢饉と軍用の非常食のために植えさせたと言う。

花札で一月松、二月梅、三月桜、四月藤、五月菖蒲、六月牡丹、七月萩・・・と続く。北海道に居た子供時代、大人と一緒に花札で遊んでいた時不思議であった。北海道では梅と桜は四月から五月で無ければ咲かないのに、それも一緒に咲くが・・・?

 シテイボーイは忙しい。松はともかく二月から梅・桜・藤と名所巡りで繁忙が続き、ボヤボヤしているとアッという間に時期外れになり見過ごしてしまう。 

 会社の営業で水戸の駅に立ち寄った時、名物納豆が売られていた。そうだこの地は納豆だと思い出す。会社スタッフの派遣女性に何かと世話になっているので、機嫌取りに土産を探した。納豆アメがある、珍しい、でもネバネバして気持ち悪いのでは、と思いながらも遊び心で買い反応を見た。美味しい! と黄色い声、アイデアの名産であった。

また水戸の少し先、北に東海村がある。原子力発電所がある町だ。小さな町なのに家が殆ど新しい。水戸からきているというタクシーの運転手が苦々しく語る。命と引き換えに金を貰い、新しい家に入っても事故にあったら先祖様に申し訳が立つのか、と。やはり事故は起きたのである。

水戸市内の理髪店に勤める東海村の娘さんが、客に言われたそうである。東海村に住んでいる人に髪を触られたくない、と。互いに切実な問題である。住む人も行政も辛い選択である。

筑波山は長い間、色々な喜怒哀楽を見てきた山なのであろう。



19.雲取山

  都会派百名山、東京都の最高峰へ

 東京、埼玉、山梨の都県境が頂上の雲取山は東京都にしては最高峰である。頂上から眺められる大きな山で、百名山は北に両神山、南に大菩薩峠、そして西に甲武信ヶ岳、金峰山と続く。

 山名は雲に手のとどく高い山と言うらしい。またこの山からの水源が東京都の水の二割を維持しており、水がめ湖の奥多摩湖が雲取山の登山口の一つになっている。

 東京、埼玉、神奈川、所謂首都圏の住民で、登山を趣味としている人々は、この一帯の奥多摩、奥秩父の一〇〇〇m内外の山歩きを、四季を通じて楽しんでいる。冬でもさほど雪も無く軽装備で行ける身近な山である。休日ともなれば、八高線、秩父鉄道、西武秩父線、青梅線ともに車両の大半を登山者で埋めており各駅で降車して行き、夕方はまた乗り合わせて会話がはずむ。この地域の一つの風物詩とも言える。

 二〇〇二年二月二三日(土)~二四日()、頂上にある通年営業の山小屋、雲取山荘に事前に電話で確認しておいた。ストック、軽アイゼン、寒さ対策をしっかりしてお出で下さいとの歓迎の返答であった。早速、何時もの暇人クラブで山仲間の板坂さんを誘う。

 山に行かない通常の土・日の一日は洗濯、掃除、買物、掃除、クリーニング店と大忙しだが、山に行く週は平日に済ませねばならず大変である。タイミングがずれると一、二週間掃除もしない事がままある。

 朝六時に電車に乗り西国分寺、立川と乗り継ぎ奥多摩からバスで登山口の鴨沢(五三〇m)一〇時二〇分着。実に四時間強も乗り物ずくめだ。途中奥多摩の広く大きな湖水にドラムカン橋があり、向こう岸に連なっており、登山者が渡って行く、一度は渡りたいと願いつつ眺めている。小袖乗越を越えるとヒノキなどの植林地と広葉樹の自然林が交互に現れ、傾斜に小さな農家の耕作地が鹿に食べられないように柵が施されている。冬は鹿も食べる物が無く、農家も柵代にお互い大変のようだ。堂所を過ぎると登山道がアイスバーンとなりストックで慎重に進む。大学生の女性が一人で歩いており合流してくる。卒論にカラスをテーマに書いているという変わったボーイッシュの女の子である。

 七ッ石山(一七五七m)に来ると目指す雲取山が小雲取山の先に頂上を少し出して見えてきた。この辺まで来ると日が当る所は雪も無い。登山道は幅一~二mもあり広々と、そこにカラマツの黄色に染めた木と広葉樹の落ちた葉の道を確実に高度を上げていく。

 斜面に緑のササ原が美しい広場で昼飯とする。珍しくコンロとラーメンを持参したのでカラス女子大生と三人で食べる。若い女の子がいると雰囲気が和らぎ華がある。写真を沢山撮り、後で送るねと板坂さん、住所を書いてくれたメモを紛失したと未だに送っていないという。そう、この人はそう言う人なんですね。

 十六時、鹿が多い雲取山頂上(二〇一七m)に着く。緑の山並みとカラマツのこげ茶や黄色が折り重なって綺麗だ。頂上の傍らには新しい雲取山避難小屋があり、彼女はそこで泊るというのでお別れとなる。板坂さんの顔に淋しさが一瞬はしる。会者定離!

 十五分下ると雲取山荘、二百人収容の新しい二階建てログハウス調小屋。二食付きで七〇〇〇円、トイレは水洗で綺麗、食事も美味しい。
すいており静かで八畳の部屋に二人のみ、コタツまであり暖かい。単独の年配者が部屋に遊びに来る。酒のつまみに外国の赤いピーマンを食べている。軽くて美味しいのだというが、おすそ分けはしてくれない。

後日食してみたら成る程美味しかった。そこで山岳会のパーテイ山行で師匠の温泉部長に無理やり一片だけでもと、生まれて一度もピーマンを食べたことが無い人に食べさせた。どうだ、というと、味をみないで飲み込んだという。多少優越感に浸ろうと考えていたが、相手が一枚上であった。

 翌日七時、秩父湖方面、三峰に下山する。見事な原生林を通り、ヤセ尾根をおっかなびっくりで歩き三峰神社に一一時到着。境内には五mの日本武尊の銅像がすっくと立っている。素晴らしく大きな神社で驚いた。おまけに五階建ての興雲閣と言うホテルに温泉まで併設されている。当然何かを期待し入浴した。「神の湯」という名の温泉で、何となく落ち着かない感じであった。信仰心が不足しているからかなと考えたが元々持ち合わせてなかったので、今後の課題にしておいた。

 この近辺の駅名にユニークな名前がある。バス停の「お祭」、秩父鉄道の「御花畑」、青梅線の「軍畑」(いくさばた)、「古里」等。何かを想像させる駅名である。

 冬が過ぎ、春を迎えようとする好天の陽だまりの中、のんびりとした山行が出来て関東の山の良さを満喫し、家路についた。


20.安達太良山

  智恵子がいう、ほんとの空からは小石が飛んできた

 詩人の高村光太郎が愛する妻の生地、福島県に寄せて詠んだ「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」や「阿多多羅山の山の上に、毎日出ている青い空が、智恵子のほんとの空だといふ」で安達太良山の名が全国に広がったと言う。

 安達太良山、名前の由来の一つに、万葉集で「吾田多良」と表現されているくだりがあると言う。福島・田園地帯にふさわしい名前とも言えよう。

 那須火山帯に属するこの辺りは百名山の三山が三角形に配置されている。北に吾妻山、西に磐梯山、そして東に安達太良山と、二〇〇〇m内外の山はそれぞれが多くのスキー場を従えて麓を賑わせている。

 また東北道を走る時、安達太良山のなだらかな膨らみの上にちょこんと突起があり、乳首山(ちくびやま)の別名も納得できる。ほのぼのとさせる安達太良山である。

 安達太良山の情報は、一般的に岳温泉の上のスキー場からゴンドラに乗り、頂上を経てくろがね小屋を通過して下山する三時間コースがポピュラーで、一七七〇mでさほど高山ではないが、常に風の強い山であること、くろがね小屋温泉の有名さを聞き知っていた。

 二〇〇二年三月九日(土)~一〇日(日)、今回は山岳会六名の参加である。計画をしたのは当然温泉好きで通称温泉部長の高松さん、その人が行くならば副部長の私は、♪何はさておいても~行かねばならぬ~停めてくれるな、おっかさん!♪と。板坂さんも同行。

大宮から六時四五分、東北道郡山を過ぎて、二本松インターで高速道路から岳温泉を経由して奥岳温泉の奥岳のあだたらスキー場(九四〇m)に八時半到着。通年営業のゴンドラリフトで八分、薬師岳山頂駅(一三五〇m)に降りる。天候はまあまあというか、問題は無い。アイゼン、ピッケル、ストックの装備確認。

スキー客が頂上目指してそれなりにいる。多分シールをつけた山スキーであろう。通常ならば一時間で頂上に行き着くはずだが、名物の風が厳しい。手袋をオーバー手袋にしたりありったけの防寒着を付け出す。手袋を強風で飛ばされた人もいる。何とか乳首と見える頂上の突起になった陰の所に駆け込む。目を開けているのも至難のわざと言えよう。

尾根に沿ってくろがね小屋に向かおうとすると、沼の平爆裂火口の方から強烈な強風が吹いてきて前に進めない。小石や砂利が顔面に当り思わず手で覆う。尾根から斜面を下り、風の和らぐ遠回りの道を探してようやく安達太良山の中腹にある、くろがね小屋(一三四〇m)に一四時たどり着
く。

県営の小屋で入口に黒い鐘がぶら下がっている。一応あるのだから叩いてみる。一階の食堂兼ロビーには懐かしいダルマストーブがあり暖かく迎えてくれる。早速、温泉部長と副は名物温泉にわれ先と急ぐ。青森ヒバの香りする湯船に白濁、硫黄の名湯だ。窓から覗くと小屋の百mほど上からホースで源泉を引いている。まさしく源泉かけ流しである。

夕食のカレーライスがこれまた美味しい。皆が二杯ずつ戴いたと思う。このような美味しいカレーはその後お目にかかっていない。翌日土湯温泉峡の野地温泉にもしっかり入り、東北の名湯と詩人の心に少し触れて帰宅した。


21.22.男体山日光白根山

 中禅寺湖を見下ろす男体山、関東以北最高峰の日光白根山

 男体山は別名「二荒山」(ふたらさん)とも呼ばれ、徳川家康を祭る二荒山神社からが登山道となっている。この神社は日光・中禅寺湖の麓にあり華厳の滝も至近の距離だ。

日光の地名の由来に、一つは「二荒山」を音読みし、「にこうざん」となり日光と言う文字をあてたという説。しからば男体山の「二荒山」はというと、観音菩薩の浄土をさす梵語のポータカラを漢字にあてはめ生まれたという。この辺になると信仰心薄い自分としては理解できなくなる。 

一方、日光白根山は奥白根山とも云い、草津温泉に近い草津白根山と冠省で区別されている。この男体山と日光白根山の真中に戦場ヶ原という広い湿原があり、伝説が昔から伝わっている。日光の男体山に住む大蛇と赤城山の大ムカデが領地をめぐって、この戦場ヶ原で戦った。傷を負って逃げ帰った大ムカデの血潮で、山が真っ赤に染まったことから以来赤木(赤城山)と呼ばれるようになったとか。その話を知っているかと、白根山に聞いたところ、知らねェ~。時代が進むうちに赤城山に住んでいた国定忠治と日光東照宮から退屈で出てきた徳川家康が共に湯元温泉に入っていたなんて噂話も広まりそうな・・・、有名人、名山、名湯、有名滝・湖を輩出する伝説の地である。

 二〇〇二年六月一日(土)~二日(日)、今回も温泉部長の高岡さん、俺は三浦友和に女性から似ているとよく言われるという板坂さん、そして料理学校の副校長先生の四人で、東武鉄道で東武日光へ。駅前にたむろする白タク?に乗り中禅寺湖麓の神社登山口(一二七四m)に着く。

 男体山(二四八四m)は巨大な裾野を広げる成層火山で円錐形の姿は北海道の羊蹄山、九州の開聞岳とよく似ている。円錐形の山は遊びというかアップダウンがなく、ひたすら登るという厳しい山が多い。七合目までは樹林帯の急登、それから先は崩れやすいガレ場の急登が頂上まで続く。権現様からの叱咤激励を受けてようやく頂上だ。残念ながら山頂はガスで、展望はおろか乳白色に覆われており何も見えない。

 副校長のレシピで美味しい中華風何とか(難しくて覚えられない)をいただく。山の上で中華の鉄人の料理を食べられるのだから、こんな贅沢はないと営業トーク。また宜しくとしっかり予約しておく。登り三時間、下り二時間半。

 下山して本日の温泉地、日光湯元温泉に向かう。そこへ行くには戦場ヶ原を通らねばならぬ。湿原に木道がしっかりひかれ、湿原植物が腰のあたりまで延々と続く。大蛇やムカデが本当に出てきそうな雰囲気である。

 旅館やまびこの料理は良く覚えていない。温泉と、山頂からの眺め、旅館の料理の記憶は全て乳白色であった。源泉かけ流し、乳白色、硫黄臭は私の温泉の絶対的哲学である。よってここは合格で嬉しい宿だ。

 翌日六月二日(日)快晴。六時宿を出る。鉄人は久し振りの日光中禅寺湖周辺を散策したいと別行動。三人で登山口の栃木県・湯元スキー場から始める。人気のコースは群馬県沼田側の高原ゴンドラを利用する標高差三〇〇m、登り二時間半である。われわれの選んだコースは登り四時間半、下り三時間半の標高差一〇〇〇m以上ではなかろうか。

 ひたすら樹林帯の急登の中で、ハクサンシャクナゲの白とピンクが鮮やかである。まるでシャクナゲのアーチをくぐるようで疲れを癒してくれる。天狗平、前白根山(二三七二m)、避難小屋を通過し、石のゴロゴロした山頂(二五七八m)に一一時到着する。

 頂上は安直なゴンドラの群馬コースから来た、近ツリの団体、百人程で喧騒そのものである。かたや我々コースは誰も後にいないし下山する人もいない。少々気合抜けする。

 十五時に下山すると、旅館の女将が帰りに温泉に入ってから帰りなさいという言葉に、気を良くしてたっぷり白濁硫黄に浸かり中禅寺湖のバス停に向かう。混んでいるバス停で缶ビールをしっかり買い、飲み、イロハ坂に揺られて伝説の夢を見ながら眠っていた。


23.九重連山

 ミヤマキリシマと坊がつる&法華院温泉に酔いしれる

 所属する山岳会は、年に一度は遠く九州、四国、北海道、東北まで遠征する。それも少ない費用で済ますのが目的で、全て車での移動である。

ワゴンタイプの六人~八人乗りで、参加人数により台数が決まる。運転はほぼ二時間毎、助手席は免許の無い人がやはり交代でナビ代わり、実態は運転手が居眠りしないようにお目付け役である。ほぼ高速道路を走り、サービスエリアでトイレタイム、軽食タイム意外はノンストップで夜通し走るのである。運転手とナビ意外は後部座席で仮眠か本眠かスヤスヤである。

少し困るのはナビ代わりが終始隣席でウトウトされる事である。しかし運転手は大事な命を預かっている事から、緊張感を維持する為に、眠り防止のサンプルを飲んだり、飲みたくも無いお茶を飲んだり、食べたりとひたすら二時間を耐えるのである。一番有難いのは、全員起きている時間帯に色々な楽しい話、面白い話で盛り上がる時は眠気もどこへやら、目が冴えるのである。その様な遠出山行をしているが、未だ違反、事故は無く、山に対峙する時の緊張感と注意力、連帯感は想像に値するものであろうと思われる。

二〇〇二年六月六日~九日の四日間、テント一泊、車中二泊の強行スケジュール。

ミヤマキリシマの満開時期に合わせての計画実行である。二十一時出発、参加人員十二人、車二台で首都高、東名道、名神道、中国道、九州道、大分道を乗り継ぎ、十六時間後の六月七日、一三時に九重ICにたどり着く。九重町の名物、豊後牛のステーキに歓声を上げ舌鼓する。久住山をはさんで北に九重町(ココノエマチ)、南に久住町(クジュウマチ)があり、長い間山名の争奪戦があったと言う。取敢えず山群の総称を九重山、山名を久住山と言う事で落ち着いているらしいが、誠に苦渋の選択だったでしょう。

 九重町から牧歌的なやまなみハイウエイを通り、登山基地で有名な長者原(一〇三九m)に駐車、十五時自然観察路、九州自然歩道を歩き出す。三俣山を迂回し、余りにも有名な坊がつる湿原を経由、周囲の山々を既にピンク一色に染め上げたミヤマキリシマに感嘆しながら十七時目的地、法華院温泉山荘(一三〇三m)に到着する。法華院温泉山荘

 今夜はこの山荘近くのテント場に二張りのテント、レシピは酔っ払いすぎて覚えていない。温泉部長と副部長の私は着くや否や、わき目も振らずに温泉に一目散。

織田信長の戦乱の時代、秀吉が敵陣近くの山あいに作ったような板塀の要塞そのものが法華院山荘だ。温泉は五百円、白濁、硫黄臭がかすか、湯壷は広くは無いが、壁一面は檜作りで風情満点である。

 酔いが回ると疲れも手伝い、何時ものようにウンチク、講釈、激論が果てしなく続く。何の益も、前進も、建設的意見もあるわけではない、ただあるのは相手を理論で踏破したいという野望だけのようである。野望を満たした所で何に成るわけでもないが、聞いている方も結構面白いのである。

その内に出ました、広島大学山岳歌で芹洋子が歌い、全国の岳人に歌い慕われ、余りにも有名になった「坊がつる賛歌」を全員でこの時は仲良く、仲良く歌いだしたのです。          

人みな花に 酔うときも 残雪恋し 山に入り

     涙を流す  山男 雪消の水に 春を知る

  ♪みやまきりしま 咲き誇り 山紅に 大船の

      峰を仰ぎて 山男 花の情けを 知る君ぞ

新宿東口、「うたごえの店 ともしび」に行く度、この「坊がつる賛歌」を歌い、歌い継がれている。若き青春の思い出の歌の一つであろうか。

坊がつるの名の由来は、以前この地に天台宗の寺があり、その坊さんの坊と、水流の平坦地(湿原)をこの地ではツルと言い、坊がつるとなったそうである。詩・メロデイー共に当時の山好きの学生(後に大学教授)達により作られた歌であるが、何とも、うら寂しく悲しみを帯び、切なくかつロマン漂う歌は人を純粋にして歌わせる名曲である。

私はこの夜、気候もよく、シュラフを持ち出し満天の星の下で眠りについた。寝るには惜しい星空であった事は言うまでに無い。

山一面、ミヤマキリシマハイキング組と別れ、縦走組みは六時二十分スタート、中岳(九州最高峰一七九一m)、久住山(一七八六m)、鉾立峠、大船山(一七八六m)法華院一四時と回る。久住山はさすがに時期的に大勢の登山者で溢れていた。このあたり山全体がミヤマキリシマのピンク色に覆われ、まさに桃源郷である。桃源郷はここと山梨県勝沼のブドウ、桃園の桃源郷しか私は知りえない。まさに楽園、パラダイスと言えよう。

十五時テント撤収し長者原に返し、一路別府に向かう。大学の時の寮の友人がこの近く、大分県豊後大野清川村にいる事に気付き、電話で別府の明礬温泉を教えてもらい、直行する。そして折角だからと、当地の居酒屋で名物城下カレイ、セキアジの豪華刺身で打ち上げとなる。飲む、食べる事にはケチケチしないのが、この山岳会の特徴である。次から次へと注文し、へべれけになる。お酒を飲めない人に最初の運転を頼み、気がつく頃は関門海峡を通り、山陽自動車道瀬戸内海である。楽しい、思いで深い九州路でした。                            

費用は占めて、2万5千円也、安く内容の濃い四日間でした。


24.金峰山

 奥秩父の秀峰と、打ち出の小槌を持った大黒天の五丈石の奇岩

 山梨県と長野県境にある金峰山の頂上は巨岩がゴロゴロしており、一方西側直ぐ隣にある瑞牆山(みずがきやま)は花崗岩の岩峰群がそそり立つ、共に特徴ある巨石と岩峰の百名山である。またシラビソのうっそうとした樹林帯を森林浴の様に歩けるのが共通した山という印象である。

 二〇〇二年七月十八日()~十九日()、山岳会メンバー六人でわが愛車エステマの初デビュー山行となる。何時もの高岡温泉部長、料理の鉄人星野さん、会報編集長のSさん、S夫人、そして岩訓練で岩から岩へとターザンの様にザイル片手に飛び回る新人の及河さんである。

 編集長は今や悠悠自適の生活だが、超一流企業の現役時代は組合活動で活躍、法廷闘争においても確固とした固い信念で長年に渡っての勝訴を得るなどの筋金入りの闘士である。

見識高く温厚、博学、熱心と見習うべき多い紳士である。

 一方、温泉部長も組合の労働運動の闘士である。このお二人と山岳会の雄弁な会長がテント泊で議論になると、浅学非才の私なんぞはいつも子守唄にして寝るしかない。

 山岳会には六〇人程在籍しており、職業で目立つのは保育園・小学校・中学校・高校の先生が多いのと、福祉関係の従事者も多いと記憶している。特に女性は殆どが有職者で、山行の費用は自分で作る独立心の強い人たちである。

 何時ものように七時出発、混みあう首都高を走り、中央道の勝沼インターから塩山市に入る。林道川上牧丘線の大弛峠(おおだるみとうげ)(二三六〇m)に向かうが、三〇〇m手前で山崩れの為に歩きとなる。本州の山は高い所まで道路が伸びていて感心する。乗鞍岳などは二七〇〇mまでバスが入り、頂上までは標高差三二六mしかない。

私は当山岳会で初めての食当になり重い食材を担いでの歩行である。峠のテン場に到着しテントを張り、本日の計画した北千丈岳(二六〇〇m)、国師ヶ岳(二五九二m)に登る。何れも原生林をまとった良い山である。

私の本日のレシピは牛スジ鍋にイカ細切りサラダ、たくわん。牛スジは昨日二時間も煮込んで持参した。振舞う相手は強豪?ばかりで口に合うか心配だ、料理学校の副校長、栄養士の及河さん、美食家のSさん、料理上手のS夫人、唯一安心なのは何でも旨い旨いと食べてくれる高岡温泉部長だけである。その温泉部長は明日の朝食担当、やはり初めての食当だ、家でも作ったこともない、食べ専門家である。そのレシピは「ラーメン」、文句なく美味しかった。

金峰山(二五九九m)までの高低差は二三九mでハイキング気分、鬱蒼としたシラビソの樹林帯歩きは七月の暑い時期には何とも云えぬ涼しさがあり良い森林浴だ。百名山の中での樹林帯歩きはここがNO1と思われる。朝日岳、鉄山を越して賽の河原を過ぎると巨岩の金峰山頂上である。直ぐ側にはシンボル五丈岩の偉容も現れる。途中まで登るが危険な為引き返す。かって平安時代の鏡、刀剣まで収められた信仰の山という。

温泉部長推薦の山梨県、牧丘町の花かげの湯に入り、二人の迷作料理山行は無事終了。


25.乗鞍岳

  山岳道を利用し、標高差300mの3000m峰を楽しむ

 乗鞍岳(三〇二六m)は北アルプスの南端に位置し、火山標高では富士山、御嶽山に続く日本第三位の成層火山であり、山頂部は二三の峰、七つの池沼、八つの平原からなる素晴らしい山岳高原である。

 登山開始点と言うより、観光客の方が圧倒的に多い畳平は観光バス、乗用車で埋まる大駐車場だ。北に通じる「乗鞍スカイライン」は北に白骨温泉、穂高の上高地へ、西へ行くと奥飛騨温泉郷に通じる。かたや畳平から東には「乗鞍エコーライン」があり、南に行くと野麦峠、野麦街道で長野松本に通じる山岳高原である。

 二〇〇二年七月二〇日(土)~二一日()、今回は私の計画リーダーで、山岳会と通称鈴木建設営業三課(日本アルプスを登るので転勤をしたという私を、映画釣りバカ日誌の浜チャンそっくりだと、温泉部長が命名)の共同山行で七人編成となる。

乗鞍岳頂上メンバーは温泉部長夫妻、専門学校先生の木村さん、営業三課岡嶋さん、私は何時までも女学生の様に瑞々しいのよと仰るさわやかな佐々木さん、そして一ヶ月前に穂高・涸沢カール(二三〇〇m)でデビューして今回百名山二山目の営業三課突撃隊長の高林さん。

その高林さんはザック、登山靴、ストック、ウエアー、帽子・・・一分のスキも無い位にパリッと決めてきたから皆唖然!ゲートに入って鼻息荒い競走馬然としている。

 大宮から甲府、松本、新島々、中の湯、平湯と繫いで乗鞍岳登山口の畳平に入ろうとしたが、海の日のこの時期、交通は混み、大幅遅れで頂上は明日に延期し、白骨温泉へ行く。昨年も行った大石館の白濁硫黄の露天風呂に先ず満足する。次は上高地手前、梓川眼下にエコーライン、残雪には多くのスキーヤーの橋のたもとにある一軒宿で「日本秘湯を守る会」の坂巻温泉に泊まる。温泉は七四度もあり、館内の暖房も温泉でまかない、炭酸水素質の澄み切った良質の名湯。美味しい鯉こく食事の後の二次会は延々二時間も続いた。

翌日、さてと張り切って畳平駐車場を目指すが既に満車、かなり引き返し空き地を探して車を置き歩き出す。一時間五十分で頂上の剣ヶ峰に、直下にはコロナ観測所がある。またこの時期でも雪渓が残っており若者がスキーに興じている。頂上からは遠く富士山、八ヶ岳、南・中央・北アルプス、御嶽山、白山と三六〇度、近くには乗鞍高原の緑一面がさわやかに広がっている。高林さんは三〇〇〇m峰の高山に登り、感極まって携帯電話で何処かへ知らせている。

 時間も早いのでと、エコーラインの有料道路にまたまた金を取られ、乗鞍高原散策をする。帰る途中にある平湯で温泉部長がここもマーキングすると云い、皆で付き合う。

 三〇〇〇m高山だが、余り汗をかかないし、少し物足りない山だが、温泉三箇所は充分堪能できる山行であった。


26.八ヶ岳

  ロマン溢れる赤岳、横岳、硫黄岳の展望は抜群 八ヶ岳・権現岳より富士山(冬)

いつも松本訪問に山行の時に、ギザギザの山群を見て見とれていた私。それが八ヶ岳。

 七月二十七日七時、念願がかない新宿発、スーパーあずさにいつものように新鮮な気持ちで乗り込む。この新鮮な気持ちと多少の緊張感、そしてこれから遭遇する山への期待感は何とも応えられない。

茅野で例の独占企業、松本交通のバスに乗り込む。美濃戸口十時発、美濃戸山荘、行者小屋十三時、文三郎道の鉄パイプ階段はビルの階段と同じで三十分近いきつい登り。

二八九九㍍の赤岳頂上に十五時到着、絶景・・・ムムウ、言葉が出ない。この感激、この素晴らしさ、このパノラマ、ポエムだ、ビューテイフルだ、三六〇度全~部見えるじゃないか。富士、北アルプス、中央アルプス,乗鞍、御岳・・・。

知っている人、知らない人も皆で、あの山は何、こちらは何とにわか友達の連帯の輪。

NHK、小さな旅「八ヶ岳をマラソン登山の老人」と言うようなタイトルのロケに出くわした。行者小屋~赤岳間は往復五時間はかかると思われるところを何と二時間。七〇才を超える風袋の老人が若者数人と軽やかに飛んで走っている。猿飛佐助か霧隠才蔵か?伊賀か甲賀か?夢か幻かと信じられない。大変なのはNHKのロケ班、重いカメラを担いで眼は白眼でグロッキー。どちらもご苦労様。

赤岳から三十分下り、今日の山小屋は天望荘。個室千円高の八千五百円に惹かれて案内されたのは、確かに大部屋でないが四人部屋。しゃ~ないか、山だもんな~。シャワ~があると書いてあるので尋ねると、本日は混んでいるのでつかえません。フ~ン。

南八つ・権現岳(冬)売店でビールとワインを買い込み、しばし富士山をツマミにほろ酔い気味。贅沢。

皆さ~ん、夕食で~すッ。

唖然・・・目を見張る。目の錯覚か、それともブロッケン現象か。そうです、ホテルで出るバイキング料理なんです。

中華・洋食・和食、おまけにデザートもある。皿は発泡スチロールの立派な器です。

美味い、食べきれない。翌朝の朝食も案の定バイキング、ノリに生卵、鯖の切り身もある、サラダも・・・。朝も夕も十品であった。世の中、本当に変わってきたもんだ。

いつも冗談に言う、疲れたからタクシーを呼ぶか、も実現するかも。

 中央アルプスに沈む夕日に感動し、富士の片隅から出る朝日を拝み聖人君子の境地に浸る。今日も私の心は洗われる。八ヶ岳・赤岳と中腹の天望荘

カモシカと競争しながら、横岳、硫黄岳へと快調に進む。硫黄岳山荘の近辺で、お花畑のコマクサ、イワギキョウ、トウヤクリンドウに表敬訪問。

山小屋で食べるトマト、キュウリ一個百円はまた美味い。沢水の味もまた格別。行き交う人々の顔もまた明るい。ほんに山は良いとこまたお出で。

 今日の温泉は「原村ご用達、八ヶ岳温泉 もみの湯」。地元の人の会話を耳にし、風土にふれる。

帰りは同じくJR。弁当におせんにキャラメルではなく、ビールにつまみに缶チューハイ二本。同行の板坂さんと尽きるともない四方山話に花が咲く。温泉部長の影響で最近、缶チューハイが美味くて、甘くて耐えられない。生きてて良かった、帰ったら今晩は八ヶ岳と缶チューハイの夢でも見よう。ロマンとポエムの八ヶ岳であった。


27.五竜岳

  後立山連峰の重鎮へ八方尾根のお花畑から望む

 何故、「うしろたてやま」と言うのか不思議である。地図を広げると富山県の黒部川が黒部五郎岳、鷲羽岳、水晶岳から源を発して北の富山湾に流れ出ている。その西側に立山、剣岳が連峰を連ね、一方東に対峙するのが北から南に白馬岳、唐松岳、五竜岳、鹿島槍ヶ岳、爺ヶ岳、針ノ木岳と「後立山連峰」がまるで競い合うが如くスクラムを組んでいるようだ。この「後」、うしろとは名峰剣岳や立山の富山県側から見るからうしろなのかと考える。一度古老に尋ねてみようと思うが今になっている。

 日本アルプスの北に位置する後立山連峰は豪雪地帯で麓は穀倉地帯でもある。春未だ融けやらぬ山々には遅くまで残雪が残り、その残雪の雪形で農作物の豊凶を占う習慣があると言う。またその雪形が山名の由来にもなっている。

白馬岳は農作業の「代かき馬」(しろかきうま)に似ていることから代馬(しろうま)、そして白馬に転じた。同じように雪形で爺ヶ岳の「種まき爺さん」、常念岳の「常念坊」、蝶ヶ岳の「蝶」となる。さて五竜岳は東面の菱形の岩を武田信玄の紋の武田菱、すなわち「武田の御菱」(ごりょう)と見立て、それが「五竜」に変化したと言う説もあるそうである。

 関東に転勤して二年目の夏を向かえ、百名山も三十山になろうとしている。この頃は百名山という意識は全くなく、関東、東北の山を手当たり次第という山行であった。しかし深田久弥が百名山の選択基準とした、山の品格、山の厳しさ、美しさ、山の歴史、山の個性など確かに頷ける要素であり魅力を感じていた。

 二〇〇二年八月九日()~十二日()の盆前を利用し、唐松岳、五竜岳縦走となる。帰宅して翌日からは宮之浦岳、開聞岳等の九州ハシゴ登山を計画しての予備山行であった。

今回の同行者は同じ山岳会ベテランの宇田さん、写真、ビデオはセミプロ、コンテストで何度も入賞経験のある芸術家である。今回は八方尾根の花の写真を撮りたいと言うのでご一緒させてもらう。今回は八方尾根をつめていく。

白馬駅 唐松山荘遠景 唐松岳 五竜山荘 無数の高山植物

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金曜日、互いに仕事を終えて二一時出発、翌一時半に八方山駅のリフト駐車場に着き仮眠を取る。朝六時何回かリフトを乗り継ぎ登山口へ。既にリフトからピンクのしなやかに垂れ下がるシモツケソウの群落が足元一面に広がる。夢の楽園を行くが如しである。

登山口一九〇〇mから本日の山小屋である唐松岳頂上山荘(二六二〇m)までは四時間強のコースタイムだ。有名な八方池で白馬連山が水面に写る光景をパチリ、タカネナデシコの淡い繊細な花びらをパチリ、クルマユリの愛らしさ、ハクサンシャジンの気高さ、うつむきかげんの白や黄色のツガサクラをパチリパチリと忙しい。この日、唐松岳頂上(二六九六m)直下のハイマツ帯で見かけた雷鳥の子達が、親の心配をかえりみず、あちらチョロ、こちらチョロと動き回っている姿と二人は同じである。

 ガレ場で高山植物の女王と言われる「こまくさ」の群落がある。根は四〇~五十㎝も地中に張り、他の花とは決して共生しない、勿論雑草のある所にも生えないガレ場にしか咲かない孤高の美人である。しかも根がついて花がつくのに五年もかかる。誰が名付けたのか名前の由来はつぼみの形が馬の顔に似ていることから駒(馬の意)、もう少し良い名前を付けてあげればよいものを・・・多分、命名者は女性でしょう。何故ならば、コマクサの美しさに嫉妬した? 間違いありません。

 唐松岳や山小屋から北に、終止白馬、西には剣、立山連峰が雲の途切れ途切れに顔を出す。夕焼けと連山を前にビールを飲みながら至福の時間だ。

翌日日曜日、いよいよ五竜岳往復六時間の予定、朝から小雨模様。なかなか来る機会はないと思い歩き出す。かなり岩稜のアップダウンを繰り返し、雨に濡れる岩は滑りやすいので緊張の連続である。五竜岳頂上(二八一四m)を踏むが展望はさっぱりなのでそこそこに下山開始。滑ると数十メートルも落ちるので全神経を傾注しての歩行である。

山小屋に二泊の予定を展望も悪いので、白馬村の温泉に変更して下山する。途中から晴間が広がり、また雷鳥の子供と同じように二人でウロウロ、チョロチョロと写真タイム。

白馬村のベルクトール丸北の温泉に泊まり疲れを癒し、美味しい料理と旨い酒を飲み命の洗濯をまたまたしての山行であった。

 


28.29.30.31.宮ノ浦岳祖母山霧島山開聞岳

 南国、九州名山ハシゴ登山

二〇〇二年八月一三日(火)~十八日(日)の六日間、盆休みと有休を取り、百名山の九州地区のハシゴ登山計画をした。他の九重山、阿蘇山は既に登り終えていたので四山とした。幸い六日間ともにほぼ天候に恵まれ思い出深い九州と相成った。

八月一三日(火)羽田空港から屋久島空港へ

宮ノ浦岳登山口

 一一時五十分羽田発~一三時三十分鹿児島空港着、一四時二十分同空港発~十五時〇〇分屋久島空港着。機内から種子島と青い海のコントラストが素晴らしく、見とれている間に屋久杉と世界遺産の屋久島に着いた。

 空港からバスで安房港の中心街まで三五分、タクシーで登山口の淀川登山口まで一時間、六千円、十七時着。海抜ゼロmからここ一、三六〇mの登山口まで一挙にタクシーで上がってくると、乗っているこちらまで息苦しくなりそうである。運転手は山の情報を親切に教えてくれる。登山口の広場は広く、トイレや水場もあり、標識もしっかりあり、流石に人気の山である。整備された登山道を歩き四〇分で淀川小屋に着く、十八時十分。

 四〇人収容の無人小屋だが綺麗で、ほぼ満員状態。周辺には綺麗な小川が流れており、苔も密集しており屋久島を感じさせる。町から買ってきた弁当と、湯を沸かしての夕餉とし、早めの就寝とした。

八月一四日(水) 淀川~宮之浦岳~縄文杉~荒川口~安房

 南の島の夜明けは遅い。速い朝食を冷たい弁当で済まし、夜明けの五時十五分に出発。杉、モミ、ツガ、ヒメシャラ等の巨木が茂る森を歩いて行くと、やがて日本庭園を彷彿させる小花之江(こはなのえ)湿原に着く。高山植物のアザミ、フウロ、リンドウが見え出してくる。湿原の木道伝いに進み、高度を稼ぐと、黒味岳分岐、投石平、翁岳分岐一、七五〇m地点まで来る。ここからいよいよ宮之浦岳への登りが始まる。ヤクシマダケ草原帯の斜面をジグザグと登り栗生岳のピークを越えると九州最高峰、宮之浦岳(一、九三五m)である。頂上は岩だらけで、眼下には青い海原が歓迎してくれている様であった。

 頂上着八時四五分、時期的に多いのか三十分の間に三十人位が登って来た。平均にここは若者が多かった、小屋もそうであったが、何故だろう?

  頂上 縄文杉

 屋久島の説明書によると、屋久島全体が森に覆われており、驚くべき樹木の繁茂ぶりで、下の方は南国産の広葉樹だが、上に行くに従い植物景観が変わり、頂上一帯には寒帯性の高山植物まで見られるとあったが、珍しい光景である。また海岸から山頂までの標高差二、〇〇〇mの間に南から北までの日本の気候が詰め込まれており、年間九、〇〇〇mmにも及ぶ降雨は屋久杉の森を潤し、滝となって照葉樹林を潤しサンゴ礁の海に流れ込むと言う。

ここ屋久島で、この島を舞台に林芙美子が書いた小説「浮雲」では、「一ヶ月に三五日、雨が降る」と表現されているのは有名である。

 頂上を九時二十分出発、下山口の荒川口に着いたのは六時間四〇分後の十六時であった。

昭文社のコースタイムと同じであった。○○杉が大きく圧倒されるので離れ難いのである。頂上から三時間で、縄文杉。樹高二五m、胸高周囲十六m、推定樹齢七、二〇〇年、中国の四、〇〇〇年歴史など問題外である。

観光客が荒川口から続々と上がってくる。テラスも設置されている。数十人がたむろしている。それも殆どがスニーカーである。殆どが若い男女、家族連れが多い。ここは標高一、三六〇m、標高差六〇〇mはある。登山者で無ければ往復十時間はかかろう、ミーハーでもここまで来るのはたいしたもんだと妙に感心した。案の定、下山口近くになるとグロッキー組が多発していたが・・・

夫婦杉、大王杉、ウイルソン杉、翁杉とミーハーと共に感動しながら、途中から軌道跡の歩きにくい二時間は特に疲れる。縄文杉から軌道跡の始まりまで三時間は全て木道で、世界遺産の貫禄だろうか。

荒川口最終のバス十七時に乗り、安房市内のホテル「屋久島ロイヤルホテル」一万円、林芙美子「浮雲」執筆の宿に泊る。「浮雲」に惹かれたが、温泉ではなかった。だが宮之浦岳はしっかり見えるし、漁港につながる川と多数の漁船の色取り取りの帆、白いカモメと鳴き声のコントラストは素晴らしく、風情があった。小説はこういう場所から発想されるのだと感じ、体験出来たので一万円はしょうがないか・・・。

八月十五日(木)屋久島空港~鹿児島空港~大分・神原民宿

 屋久島空港九時三十分発~鹿児島空港着十時十分、レンタカーで鹿児島空港一一時発、

九州自動車道、鳥栖JCTから大分道へ、大分光吉ICで一般道、豊後竹田を通り「神原」(こうばる)の登山基地、民宿に十五時三十分着く。広い九州を縦に隅から隅まで走った事になり、四時間半、およそ三〇〇Kである。

 一合目の滝まで車で十分、神原コースを十六時歩き出す。十八時半には九合目小屋(無人)に着き、泊る計算である。日照ぎりぎりの計画であった。歩き出して三十分、沢沿いに登って行くが、一時間後異変に気がついた。沢の道が無くなってきたのだ。多分ルートを途中から外れていたのだ。読図しながら別ルートの道に突き当たると思い、そのまま進んだが、既に山は薄暗く不安になる。携帯電話がつながる所で民宿に電話するが、主人不在で当を得ない。十九時近い、来た道(道は無い、迷い込んだ)を必死に探し、やっと赤いリボンを見つけて登山道に戻り、神原の民宿に泊めてもらう。二十時であった。長い山行経験で初めての事件であった。

神原・民宿「清流」  祖母山頂上 看板が寂しい

 翌日、民宿に泊っていた埼玉越谷の夫婦連れを、相乗りさせて再度トライする。間違いの地点に来た。沢すじを向こうに渡る立派な山道が付いている、これが間違いである。ふと左には細い道があり、少し上に木の破片にルートが書いてある。これならば殆ど間違うであろうと思い、登り出す。この日、同ルートの登山者は四人であった。人気の無い山なのか。五時十五分登山口、五合目、国観峠、九合目小屋の美味しい水を飲み頂上(一、七五六m)に八時〇五分着。急坂の連続の山、原生林の山と言えようか。霧島山群の高千穂と同じく、天孫降臨の伝説が伝えられる山であると言う。祖母山の名前の由来は神武天皇の祖母、豊玉姫命を祀っていることにあると言う。

 八時三十分下山開始、一の滝十時三十分、神原経由、阿蘇回り、九州自動車道を戻り、

えびのJCT経由、小林ICから霧島登山口のえびの高原に一四時五十分着。約四時間。

 十五時霧島山登山開始、頂上韓国岳(一、七〇〇m)十六時十分着、この日珍しく夕立にあい、そそくさと下山、十七時登山口へ。チラホラとミヤマキリシマがあり、観光客で混雑する硫黄山周辺を歩いて、今夜の宿、国民宿舎えびの高原荘、一二、〇〇〇円に泊る。新築に近い素晴らしい宿で何より温泉が良かった。鹿のステーキは結構でした。

八月十七日(土) 霧島山~鹿児島・開聞岳

 本日はスケジュール的に一番楽な日となる。霧島八時三十分発、鹿児島十時着、観光名所の指宿市を通り、日本最南端JR駅、開聞駅の近くの開聞岳二合目登山口に十二時三十分着。十二時五十分登山開始、十五時頂上、十六時三十分下山、十七時十分ホテル着。

 開聞岳は薩摩湾を眼下に秀麗な山容の薩摩富士と呼称されている。見事な円錐形で、どこから見ても同じ形である。百名山の中で茨城県の筑波山(八七六m)に次ぐ低山(九二四m)であるが、深田久弥は「これほど完璧な円錐形も無ければ、全身を海中に乗り出した、これほど卓抜な構造もあるまい。名山としてあげるのに私は躊躇しない」と述べている。

快晴で絶好の山日和のせいもあるが、長渕剛の歌、錦江湾の青い海原、桜島、佐多岬、樹林の合間から見える池田湖、そして大隈半島、薩摩半島が見事に映えている。六合目までは南に真直ぐ登るが、それから先は東から西へと回りこみ、岩場を越すと頂上である。ぐるぐると一回りする山であった。五合目から太平洋が見え隠れする、大変眺めの良い山である。

本日の宿も国民宿舎、「かいもん荘」海辺に佇み、開聞岳と東シナ海を眺めながら入れる露天風呂という言葉で予約した。かなり建物は古いが、夕日沈む露天風呂は格別であった。

八月十八日(日) 鹿児島観光~東京へ

 本日は鹿児島市内観光、市内を車で走る。目を引くのは黒豚料理の看板が多いのと、やはり焼酎、泡盛の居酒屋であろうか、昼食には黒豚ラーメンなるものを食べたがかなり美味しかった。北海道の政治家、青嵐会所属 故中川一郎の母校、鹿児島大学を車内から眺める。北の端から南の果ての鹿児島大学へ、何故選んだのであろうかと考えたが解ろう筈は無い。人口六十万の中核都市を走り抜け、内陸の山あい、知覧町へと走る。

静かなたたずまいを見せる「知覧武家屋敷群」を見学する。徳川幕府の天下統一が、一国一城を厳守させる事にあったため、薩摩藩では鶴丸城を内城とし、領内に一一三の外城を作り、防衛の役割を果たす事にした、いわゆる幕府の目をそらす為の苦肉の策であろう。

その中の一つが知覧武家屋敷である。

薩摩藩・外城の庭薩摩藩は幕府の執拗な探索から逃れる為に、言葉まで方言に変えて、幕府の間諜に対抗し、今日の鹿児島弁になっている。青森の津軽藩が、岩手の南部藩に対抗するために津軽弁を使わせたと同様であろう。果たして、鹿児島弁と津軽弁の人が会話したならば如何様になるだろうか、興味が深道端の花
まる。

「日本の道一〇〇選」に指定された道の両側に、素晴らしい枯山水式の庭園と低い石垣が続き、調和のとれた町並みは古風で落ち着きのある静かなたたずまいである。塀の片隅から、西郷隆盛、大久保利通が何時出て来ても不思議ではない、光景であった。

知覧にはもう一つ見過ごせない物がある。「知覧特攻平和会館」である。太平洋戦争末期、沖縄決戦に、人類史上類の無い爆装した飛行機もろとも肉弾となり、敵艦に体当たりした陸軍特別攻撃隊員の遺影、遺品、記録等貴重な資料を収集・保存・展示して当時の真情を後世に正しく伝え世界恒久の平和に寄与するという会館である。

特攻隊員の兵舎。敵の目をそらすため、地下を広くしている。若く散っていった隊員への千羽鶴

幼い十代の子供が最後の夜、母、父に書きしたためた遺書の綴りは見るに忍びないものがある。会場には多数が見学しているが、私語一つ無く、静寂が立ち込めていた。

尊き、若き命の犠牲によって戦争終結した今日、平和を噛締めながら観光出来る有難さを自覚して鹿児島空港に十五時着。長く充実した九州の山行を思い出しながら機上の人となる。

 


32.白馬岳

  名湯蓮華温泉から朝日、雪倉、白馬岳、そして大雪渓を行く

 真夏の八月でも豊富な残雪を抱く白馬の大雪渓、そして多彩な高山植物が咲き競うお花畑と壮大な眺めは、北アルプス後立山の最高峰で、多くの登山者を魅了してやまないのが白馬岳(二九三二m)である。

 白馬岳の東側に位置する白馬大雪渓は、八月上旬の夏山最盛期でも、全長一、五㌔、標高差五百mに及ぶ本州最大規模の雪渓である。北アルプスでは剣岳の剣沢雪渓、針ノ木岳の針ノ木雪渓と共に三大雪渓と呼ばれている。

 また白馬岳をはさんで北東に蓮華温泉(標高一六〇〇m)、南に白馬鑓温泉(二〇一〇m)と、温泉好きにはたまらない名湯、高所温泉がある山域である。また山小屋も白馬山荘(二八三二m)が一五〇〇人収容、村営白馬岳頂上宿舎(二七三〇m)は一〇〇〇人収容とマンモスであり、それだけ人気の北アルプス、中でも一際抜きん出るのが白馬であろう。

 二〇〇二年八月二二日(木)~二五日(日)、年休二日を無理矢理取得し、憧れの白馬岳縦走に参加する。山岳会ではこの時期には沢中心となるが、私には沢よりも先ずアルプスである。温泉部長、編集長夫妻、料理の鉄人夫妻、高校時代生物の男性教員のフアンであったというマドンナ、そして山上のマドンナと八人グループの賑やかさである、

(クリックで拡大)

 またルートは長野大糸線に沿って北上し、新潟の姫川温泉の平岩から南下すると蓮華温泉に到着し一泊する。これで七時間、一日は過ぎる。蓮華温泉

 早速、白馬岳蓮華温泉ロッジに着くや否や、雲上の露天風呂に温泉部長先頭に、標高差五十m程上の山肌に噴きこぼれる湯を無造作にパイプで流し込んだ四つの風呂を上から順に入る。蓮華八湯と呼ばれたらしいが今では四つしかない。上から総湯、三国一の湯、薬師の湯、黄金の湯といい、単純泉、単純酸性泉、炭酸土類泉、酸性石膏泉と種類も豊富である。先ず男性グループが先に一番上の広い野天風呂に入る。青い空の直ぐそこに明日登る朝日岳(二四一八m)の頂が白銀に光る。天の匂いを満喫する湯あみの気分はまさに千金のあたいである。女性陣が早く出よとしきりにこちらを牽制するので順番に下の野天に場所を変えていく。夕食の後、温泉部長と二人でヘッドランプを点けてまた野天風呂に入ると、夜空にはダイヤを散りばめたような大きな星のきらめきが広がっており、さすがアルプスならではの夜空の宴であった。

 二日目、二三日は蓮華温泉から樹林帯を歩き五輪尾根をひたすら登り、標高差八百m上の朝日岳(二四一八m)まで八時間半の行程だがのんびりと花を見ながら歩く。朝日小屋は四〇分先にあり食事も美味しかった。三日目、二四日はいよいよ白馬を目指し、静かな山旅を好展望の尾根歩きとなる。すれ違う人が殆どいない健脚向きのコースである。雪倉岳(二六一〇m)は二百名山、雄大な山並みの一角だ。本日も小屋まで凡そ八時間のコースだがアップダウンがきつい。三国境(二七五一m)は新潟、富山、長野の県境である。たったの一歩で三つの県をまたげるのも感動である。白馬頂上はガスでしっかり展望が利かなく翌日朝に再度登り感激の一瞬を味わう。まず人気の白馬岳だけに人・人・人で溢れている。若い女性が特に目立つ。今夜は白馬山荘に宿泊する。一五〇〇人収容の最大山小屋であり、大部屋の他に二人用のベッドの綺麗な個室やら和室、八人用と多彩だ。昭和大学医学部の診療所もボランティアで併設されている。レストランで先ずは生ビールで乾杯する。

一杯八百円は安いのか、高いのか三杯も飲んでしまう。このレストランは小学校の体育館位の広さである。何でもジャンボである。

朝日岳 白馬岳頂上 白馬頂上山荘 白馬大雪渓

 夜の食事は順番で列を作り、大学の学食みたいにトレイを持って並び、ご飯、味噌汁と順にトレイに乗せてもらう。食事の後は大部屋に戻り各自の持ち込みアルコールで楽しい談笑である。

 最終日は頂上に再度登り三六〇度の展望を楽しむ。後立山連山、剣、立山連峰、北アルプス、近くには白馬三山の杓子岳(二八一二m)や鑓ヶ岳(二九〇三m)がいかにも歓迎するかのように佇んでいる。ヘリコプターが朝早くから何機も飛び回る。町から食材を運び、小屋からは空き缶、ゴミを下げるのだ。五分で、ン十万という高い値段だそうだ。

昔はボッカで担ぎ上げたと言うから隔世の感がある。

 大雪渓を下りる。本日は天候もよく下界では八月の猛暑たけなわであるが、ここ大雪渓は涼しくさわやかである。通常は軽アイゼンが必要だが、暖かく靴でザクッ・ザクッとバケツを彫るように軽快に下りられる。両サイドの山並みが青空に映えて美しい。

何度もデジカメのシャッターを押し、下山を惜しみながら歩くと下から登山者が次から次へと汗をかきかき明るい笑顔で上がってくる。聞きしに勝る白馬はロマンの山である。

 猿倉に下山し、白馬村八方温泉、みみずくの湯に入り駅前の食堂で打上をし、長い山旅を終わる。


33.八幡平

 百名山初めての沢登りを楽しむ

 今回の八幡平は主目的が秋田、岩手両県境にある安比川を詰める沢登りが主体であり、一時間半の歩行で八幡平に行けるので「ついで登山、ついで百名山」となった。

 山岳会会長はまだ四〇代、花の独身、高校生の時からの山岳会会員で文字通りの山男、山を中心としての人生を歩んでいる羨ましい生活である。山に入り込むきっかけは、高校の音楽教師で後に全国連盟の副理事長の要職をこなし、人望を得た同じ山岳会に属する恩師の影響と聞き及んでいる。高校生の彼は恩師に連れられて山に行き、テントでは大人が酒宴を催すとコップに注がれている隣の人の酒を、こそっと飲み干す得意技で酒の腕を磨いたという豪傑である。今や県連の副理事長もこなし、ヒマラヤは勿論、オールマイテイの山やさんである。優しく、時に厳しく親切で絶大な人望を備えている頼りがいのある会長である。

 メンバーの高山さんは凄い魔女としか言いようがない。十年(とおねん)とっての五十半ば、海外遠征は数え切れない。南米の六千m峰、ヒマラヤの未踏峰、ハイキングからアイスクライミングまでこれまたオールマイテイである。何時もテントで美味しい食事を率先して作ってくれる河原さん、乙女と呼ばれる佐々さん、セミプロカメラマンの宇野さん、合計六人で車での移動。

 二〇〇二年八月二一日(金)~二三日(月)の連休を使い、東北道盛岡を過ぎた松尾八幡平インターから岩手県安代町、安比高原赤川林道に入り一〇〇〇mの終点に車を止め仮眠する。

 二一日朝から沢に入り秋のさわやかな安比川を遡上する。さほど滝らしい滝もなく、ベテランばかりでザイルを出す箇所もなくのんびり、のんびりと紅葉を満喫しながらの沢である。凡そ六時間位で八幡平(一六一三m)とその東側茶臼岳(一五七八m)の中間点、黒谷地湿原を突き上げた山道(一四四六m)に出る。そ八幡平 頂上こは秋の紅葉を見にきた登山者が沢山いて我々の沢スタイルのヘルメット、ハーネス、スパッツ、ガチャ物を見て驚く。一般の登山者から見ると異様な人種に見えるのかもしれない。何で!どうして!すごい!とか聞こえてくる。この日は茶臼岳に登り、岩手山の特徴ある山系に見とれ茶臼山荘の避難小屋に泊る。安比温泉 野天風呂

 二二日は一時間半で八幡平に向かう。途中八幡沼や綺麗な山小屋陵雲荘を通るがこれまた立派な木道が敷かれている。直ぐ下方に八幡平アスピーテラインが東西に走り、景観を悪くしている。八幡平の名の由来は、坂上田村麻呂が戦勝祈願で八本の旗を立て、八幡大神に祈願したことからこの一帯を八幡平というようになったという。頂上は太い木の柱で組んだ三m程の立派な大展望台で周辺の森を見渡せる。下山は元に戻り、安比岳コースを通り、登山口近くの安比温泉の野天風呂に入る。女性の後に白濁硫黄の湯に心行くまで浸かる。上を見上げると、青空に紅葉の葉が映えてこれまた素晴らしい。下山後安代町の綿帽子温泉、あずみの湯に入り打上とする。この界隈は西に後生掛温泉、玉川温泉、南には松川温泉、網張温泉と温泉の宝庫だが次の機会にゆずり一路東京へ。


34.那須岳

  四〇分で頂上、活火山の茶臼岳へ  

 那須岳とは、日光国立公園に属する那須火山帯の総称で、その中央に聳える活火山の茶臼岳を指して那須岳(一九一五m)と呼ぶ事もあるそうだ。

 本来は朝日岳(一八九六m)、三本槍岳(一九一六m)を繫いでの周遊コース五時間だが、ピークの茶臼岳のみになった。登山と言うよりハイキングの百名山であった。

 東北道の那須インターから一般道で那須高原に向かう。この一帯は天皇家の那須御用邸もある避暑地でもあり、のどかな高原が広がる。一三八四mの那須岳山麓まで車は入り、那須岳ロープウエイで更に一六八七mの山頂駅に降り立つ。残り二二八mはせめて自分の足で歩かねばご先祖様に申し訳ないと、観光客も気楽に頂上まで凡そ四〇分で行き着く。

 しかし火山特有、ザラザラの火山礫に足をとられ歩きにくいが、ロープもしっかり張られガスが出ても迷う事もなかろう全く観光客向けの山であった。頂上からの眺望は那須高原一帯を眺められ、点々とする牧場の青い草原が一段と映える牧歌的な環境である。

 今回の本来の目的は温泉部長と行く那須湯元温泉めぐりにあった。鈴木建設営業3課の板坂、岡嶋さんの温泉好きの四人がメンバー。温泉部長から有名な那須七湯の説明を受ける。鹿の湯、弁天温泉、北温泉、大丸温泉、高雄温泉、八幡温泉、三斗小屋温泉の中の本日は鹿の湯。那須岳山麓ロープウエイ駅の直ぐ近くで大駐車場があり、那須湯元温泉の中に民宿や温泉神社まである。

 鹿の湯は朝八時に開き、常連客や観光客、登山者が次々と入る。先ず中に入ると湯治場そのものの雰囲気である。高い天井に広い場内、湯気がもうもうと硫黄の匂いが蔓延としており温泉好きにはたまらない情景である。最初に打たせ湯とかぶり湯がある。常連は桶とひしゃくを持って入り先ずそのひしゃくで何杯も頭に湯を掛けてはいる。奥には六つの湯船がありそれぞれ四人位が入れる広さだ。六つの湯船に温度が表示されている。四一度、四十二度、四三度、四四度、四六度、四八度と二列ずつ並び奥に行くほど熱くなる。

 白濁硫黄の湯に手前の四一度から順に入る。奥の四六度までは何とか少し入れるが、最高の四八度は足を少しつけるだけで我慢できない。常連の何人かはそれでも注ぎ込まれる湯の注入口源泉の熱い湯を入れようとしている。そして五分ほど入るが上がるとタコみたいに真っ赤に燃えたぎっているようだ。一種尊敬の眼差しがその人に集中する。

とその時、アメリカ人らしき中年が入ってきて、一番奥の熱い湯に向かった。多分最初の経験で表示温度も目に入っていないのだろう。ザブン、と入ったその時、ギャッと言う悲鳴、飛び出る素早さ、大声で笑う注目していた大衆、日米友好の一幕であった。

 この日は温泉に泊まろうと車を走らせる。高原の信号のある四つ角の五階建てホテルに、垂れ幕があり一泊二食五千円とある。直ぐ入る。結果論として安いには裏があった。

浴衣は衣文掛けに何故か掛けてある、たたむのが多分面倒なのだろう。湯飲み茶碗の下に垢がこびりついている、洗っていない。温泉だという風呂に行く、どうも温泉らしからぬ。夕食はシャブシャブ、お代わりしても時間がかかる、七十代のお婆ちゃん一人だから無理もいえない、時間をおいたらもう食べたくない。散々なホテルであった。ア~ア!


35.甲武信岳

  深い森と渓谷をたどり埼玉・長野・山梨の県境を歩く

 甲武信岳は、山梨(甲斐)埼玉(武蔵)長野(信濃)の旧地名を一字づつ取り、山の名前としたとする説が有力のようだ。また甲武信岳から流れ出る一滴、一滴の水が三方に流れ行く所謂分水嶺があり、一方は千曲川となり長野県を経由して信濃川と名を変えて新潟へ、一方は埼玉を経由して東京で荒川と隅田川に別れ東京湾へ、一方は笛吹川となり山梨県を経由し富士川と名を変えて静岡へ、それぞれ長い旅をすることになる。

千曲川にしても、信濃川、隅田川、笛吹川にしても子供心に名前の響きが良く、かつ歌に物語によく登場する懐かしい名称である。その様な川の源流を見られ、神秘的とも思われる分水嶺は興味の的でもある。

 二〇〇二年一一月二日(土)~四日(月)、一泊は今回の登山口である西沢渓谷の民宿、更に一泊は頂上直下の甲武信小屋とした。メンバーはいつもの温泉部長夫妻、夢多き乙女さんの四名である。

 私の百名山の山行形態を後日分類すると、単独行が三三山、温泉部長の高岡さんと同行が三十九山、その他複数集団山行が二八山となり、温泉部長との楽しい温泉付山行は思いで深い忘れられない山の師匠となっている。海外遠征を含めると永遠にザイルでつながれていなくては成らない存在の人である。何時も感謝をしているかけがえのない人でもある。

 車で山梨県牧丘町の笛吹川上流に沿って有名な西沢渓谷に入る。紅葉がそろそろ終りに近い秋の日で紅葉狩りの観光客が多い。高速道路が混んだので大幅に遅れる。途中笹子雁が原摺山に登り、笹一酒造で美味しい酒を買い、鉱泉温泉の民宿、治郎兵衛荘に泊まり、四人で生い立ちの環境をどういうことからその様になったのか互いに話し出す。酒ははずむし、話も弾む。何を話したか酔って記憶も薄れてしまった。

 本日の行程は戸渡尾根・徳ちゃん新道を通り、甲武信岳(二四七五m)まで凡そ六時間、標高差一四〇〇mである。幸い天候もよく秋の行楽日和であり心も弾む、弾まないのは飲みすぎて重い足だけであった。標高一八六九mの分岐出会いまでは急登の連続でいっきに二日酔いも取れてしまう。美しい渓谷と深い樹林は心も和ませてくれる。富士山が右手樹林の合間に端正な姿を出して励ましてくれるようで、一服の清涼剤となる。

 やがて、八月には庭先にヤナギランの花で一杯になるという甲武信小屋の、如何にも古い歴史のある木造の前にたどり着く。何となく落ち着いたたたずまいである。何千、何万と登山者を迎えたのであろう、ほのぼのとした風情がある。

 荷物を小屋に置き頂上を目指す。二〇分で着くが、四〇分先の三宝山(二四八三m)にも行く。見渡す限り緑の森林である。そして分水嶺の標識を見て小屋に戻る。

 夕食前の団欒の酒を、互いに登山者が酌み交わせている。隣組は日本酒を担ぎ上げ、徳利まで持参しヤカンに入れて燗をし、燗酒で盛り上がって飲んでいる、もう料亭みたいだ。

お酒は ぬるめの 燗がいい~ 肴は あぶったイカでいい~

   女は無口な 人がいい~灯りはぼんやり ともりゃいい~♪ 

ご存知!八代亜紀 「舟歌」

歌の通りこちらも負けずにダラ燗、ぬるめの燗である。そしてたまたまイカのスルメを持参していて薪ストーブであぶりだした。匂いが強烈で、皆羨ましそうな顔でこちらを見る。

灯りは元々山小屋で薄暗い。後は無口な女がいい~とはいかない。だが雰囲気抜群の女がいるではないか、それも和服にモンペ、割烹着、髪も日本髪に綺麗に結っている、「舟歌」の居酒屋の女将そっくりだ。ここは山だぞ! 聞く所によると、燗酒グループの山岳会仲間で一年三六五日、和装だと言う、洋服は一枚も持っていないという人は五十代か?

不思議なブロッケン現象を見たようだ。靴は登山靴であった。下駄かと思ったが、残念!甲武信岳

山小屋の親父がビデオ撮影会をする、NHKの小さな旅を見せるがもう、眠くて眠くていつのまにか寝てしまい、寝言で舟歌を歌っていた。

 翌日また頂上に登り、綺麗な富士山に見とれてうっすら雪のある山道を下山した。

秩父の大滝温泉で風呂と昼食をして帰路についた。

 

「・・・・♪ しみじみ飲めば しみじみと~  思い出だけが 行き過ぎる~

        涙がぽろりと こぼれたら~  歌いだすのさ  舟歌を~♪     

山頂

   ♪ 沖のカモメに~ 深酒させてヨ~ 

      いとしあの娘とヨ、 朝寝する~  ダンチョネ~♪」

 

いい歌です。無口な男と、無口な女 そこに酒とイカがあれば何にもいらない!

                      日本の風景がそこにはありますね~。



36.草津白根山

  山麓の草津温泉、万座温泉に酔いしれる  

 草津白根山は白根山(二一六〇m)、逢ノ峰(二一一〇m)、本白根山(二一七一m)の三山を総称した呼称である。標高二〇一〇mまでバスが入る典型的なハイキング百名山である。

 白根の由来は噴出する硫化水素や水蒸気が創りあげた火山活動に起因する白い山肌が山名由来であるらしい。日本の三大名湯といわれる、有馬温泉、道後温泉、そして近くのここには草津温泉がある。

 草津温泉には何度も行く機会があり知り尽くしているが、万座温泉はなかなか行く機会がなかった。そこで温泉部長が企画をしてくれ、やはり山岳会なので山は外せないと、簡単で近い草津白根山となった。

二〇〇三年五月三十一日(土)~六月一日()、温泉主体のメンバーが揃う。温泉部長夫妻、鈴木建設営業三課板坂、私 、田川夫妻、そして温泉部長の先輩で私に生き写しの小川さん七名となる。小川さんは現役の頃は社会科の教師と言う事で博学多才である。現在も川の研究をテーマーにしているそうだが、また別に国定忠治の事についても詳しい。よく聞くと忠治と同じ国定村に縁があるという。車中も部屋でも延々と質問に適確に答えてくれる。イタワリのアサタロウは何故イタワリなのか? 社会科の先生ゆえ、話が上手く感心して聞く。久し振りに中学校に戻ったような錯覚を覚える。白根山・湯釜

車を降りて十分でコバルトブルーの水をたたえた湯釜に着く、神秘的である。木道でもなく、ここはコンクリートで舗装されている。全てではないが舗装の百名山は初めてである。

 気合が入らない山行なので早々に切り上げ、万座温泉に速めに向かう。この辺りは温泉の宝庫で地図を広げると温泉だらけである。万座ハイウエイ、浅間白根火山ルート、鬼押しハイウエイと連なり浅間山にも近い。

万座温泉日進館今日は温泉部長が三十年前くらいに泊まった思い出のホテルに行く。「万座温泉ホテル」立派なホテルだが値段はリーズナブルである。標高一八〇〇mの高さにあり、八十度の高音で九つの天然温泉の源泉をひいている。姥湯、姥苦湯、ささ湯・・・覚えられない。

内風呂が三箇所にも分かれて階段、廊下を歩くだけでも今日の山より数段きつい。地元、福田元総理大臣もよく来て風呂に入ったと言う。白濁硫黄から各種風呂があり草津温泉に勝るとも劣らない良い温泉であった。

 食事も体に気を使った、まめ、ごま、わかめ、やさい、さかな、しいたけ、いもを中心にしている「まごわやさしい」と言う料理、最初のそれぞれ一字をとった名前らしい。

 夜のショーはプロの歌手が歌うと言うので冷やかしに行く。「泉 堅」いずみけんと言うらしい。知らない、仲間の誰も知らない。まあ、プロだから上手いのだろうが、聞いて驚く、ここのホテルのオーナーだと言う。適当にそっと切り上げて風呂にまた行く、こちらは本物の温泉だ。プロも素人もない、温泉はいいものだ。

今日は国定忠治の知らない話を随分聞いた。そのうちに広沢虎造の国定忠治のテープでも買い、車のBGMにしょうと考えながら眠りについた。


37.四阿山

  百名山の中で難しい読み方の山、NO1

 「あずまやさん」と呼ぶこの山のように、百名山の中には難しい読みの山が多い。例えば、後方羊蹄山(しりべしやま)、燧岳(ひうちがたけ)、皇海山(すかいさん)、武尊山(ほたかやま)、瑞墻山(みずがきやま)、光岳(てかりだけ)等は代表的である。

 庭園などに設けた四方の柱と屋根だけの休息所を東屋、四阿、阿舎とも云う。この四阿から四阿山と名が付いたそうである。何故かと言うと、この山はゆったりと裾野を広げた山容が屋根の棟の様に確かに見える。

 二〇〇三年九月六日()~七日()、何時もの山仲間、板坂さんと山と温泉の旅に出る。

関越道、上信越道を走り異様な山並みの妙義山を通過し軽井沢を越すと、菅平インター、一般道に入り登山口の菅平牧場(一五九四m)から登り出す。牧場の緑の草原を行くとシラカバ林、勾配がきつくなるとカラマツ林と変化し、ササの斜面から針葉樹林を越えると、階段上の木道を登りきり四阿山(二三五四m)のピークにつく。

 生憎小雨交じりの天気になり展望が利かなく、根子岳経由をあきらめて元来た山道を下山する。菅平牧場はミニ動物園や牧場を利用した遊園地、売店では搾りたての牛乳、アイスクリーム、みやげ物、食堂と家族連れ、カップルが多い。また一帯の菅平高原の冬はスキー場、夏はラグビー合宿のメッカとして有名だ。グラウンドは八八面を数え、八〇〇を超えるチームが練習試合の対戦相手を求めて合宿に訪れるという。

まさに四阿山はレジャー、スポーツ等の延長線上の百名山とも云えようか。

この地域は北に草津白根山、南に浅間山が至近距離にあり、避暑地の軽井沢、志賀高原も圏内である。高原野菜の栽培で有名な吾妻郡がある。「あがつま」とこの辺では呼ぶ。あずまとは云わない。人の名前もあがつまさんなのだ。似た意味の地名で「嬬恋村」(つまこいむら)がある。名前の由来は日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征中に、海の神の怒りを静める為、妻が海に身を投じた。その愛妻をいとおしみ、しのんだと言う故事からついたのが嬬恋村である。吾妻郡にしろ嬬恋村にしろ、女性を大事に意識した様なほのぼのとする地域で、この辺はその様なほんわかムードの漂う高原である。

今夜は志賀高原を越えた「日本秘湯を守る会」の七味温泉「渓山亭」に泊る事とした。

門構えの玄関が風情があり、単純硫黄温泉の露天風呂が実に山と渓のなかにある。暮れ行く秋の夜長に、何度も何度も露天に身を沈め人生を考えた。


38.岩手山

  名湯・秘湯の宝庫、松川渓谷・森の大橋の紅葉

 二〇〇三年十月十日~十三日 この時期、全国何処へ行っても大混雑、しかし紅葉はシーズンたけなわである。連休が続くので遠出となり、岩手山と決まる。

合計六人だが運転手が不足ゆえ、今回は新幹線の札束登山となる。当山岳会では珍しい。

 20:28発~盛岡22:27着、二時間に一分お釣りがくる。車ならば八時間はかかるだろう。駅前のビジネスホテル、四、七二五円也にチェックインし、駅前のコンビニで仕入れたつまみと酒で先ずは乾杯!何度も乾杯!またまた乾杯!

駅レンタカーで今回は走り回る予定。岩手山(二、〇三八m)、姫神山(一、一二四m)、七時雨山(ナナシグレヤマ 一、〇六〇m)のハシゴ登山である。

ナナシグレヤマ、漢字も良し、響きも良い名前である。岩崎元郎百名山に選定されている。双耳峰の山でゆったり静かな山である。麓は牧場でまさに牧歌的、下山して皆、昨夜の寝不足を牧草の上に横たわりスヤスヤ・・・。

 今夜と明日の二泊をここ、岩手山の裾野に広がったアウトドアフイールド、焼走りキャンプ場でテント泊。日帰り温泉、「焼走りの湯」で先ず疲れを癒し、今夜のレシピは「最高級牛肉のすき焼」、一番高い牛肉だ、新幹線と高級牛、身分不相応な感もした、が負けずに食べる。飲めば飲むほど、うん蓄、能書き、講釈が出て大激論、何時もの風物詩である。

 十二日六時出発、紅葉のトンネルの中を歓声と気勢をあげながら二時間、溶岩噴出口を通り、火山砂礫をトラバース、樹林帯を抜けていよいよ頂上直下のザレの急登、一一時噴火口の外輪山にたどり着く。巨大な噴火口の全貌が見渡せる。最高峰の薬師岳で証拠写真、森の大橋の見事な紅葉

岩手山頂上

山座同定をして御鉢めぐりをする。八甲田、姫神山、七時雨山、鳥海、早池峰、八幡平が鮮やかに青空の下に映える。松川温泉の湯の煙まで見える。

 往路と同じコースを4時間で下山し、またまた焼走りの湯に走る。今夜はトン汁、またまた美味しい、酒も旨い。昨日をコピーしたように大宴会がとど懲りなく始まり、いつしか眠っている。

夜半、テントをシトシトとリズムカルに、心地よく響く。残念な様な、ホッとした様な安心感でまた眠る。姫神山雨で中止、温泉めぐり、やった! どしゃ降りの中をテント撤収、

松川温泉、松楓荘の洞窟風呂、網張温泉・仙女の湯の露天風呂、国民休暇村温泉館をハシゴし、大満足。松川渓谷・森の大橋の紅葉に酔いしれて気がつけば、新幹線!


39.瑞牆山

  城壁のような花崗岩の岩峰群がそそり立つ頂へ

 みずがき山という名前は難読山名の代表である。由来は対峙する金峰山から見ると、北西に見える瑞牆山の尾根の端に、砦か城壁のように見えたことから命名されたと言う。山頂部は花崗岩の岩峰が林立し特徴ある景観を見せてくれる。

 二〇〇四年三月二七日(土)~二八日(日)、今回も板坂さんがパートナー。昨年秋に二年をおいて早期退職をした私は、城山三郎の「毎日が日曜日」を謳歌し、山三昧の生活に突入していた。百名山に限ってもこの年は四四山を数えている。

 パートナーの板坂さんとも百名山は、二六山を一緒に登っており付き合いが多い一人である。山と温泉、酒と旨い物、そして花鳥風月、旅、目的
は多い。

 今回は中央道、甲府の先の須玉インターから増富温泉を経て、金山峠(一五一五m)、瑞牆山荘の前の登山口から登り出す。ミズナラの純林の中を緩やかに行くと、カラマツ林の富士見平、素泊まりの富士見平小屋を過ぎると樹間から頂上の岩峰群が望むことができる。天鳥川を飛び石伝いに渡ると、巨石が二つに割れた桃太郎岩があり度肝を抜かれる。シラビソの山複を登り、初夏の時節ならばシャクナゲのトンネルが出来るという急登を越すと花崗岩の巨大な一枚岩を置いたような瑞牆山(二二三〇m)山頂に立つことが出来た。三六〇度の展望は云うまでもない。

 頂上に登るまでは険しい山峰群ゆえ、岩場の厳しい登山を予想していたが、案外岩の合間を上手に登山道は作られており、スリルは味わえなかった。

 本日の宿泊温泉は有名な増富温泉と決めていたので元来た道を戻り、数件の温泉ホテルに空きを確認するが全てが満室だと言う。未だ三月の何もない時期にどうしてかと問うと、温泉療養で平日も殆ど年中混んでいるという。

 情報不足であった。日本には温泉が二五〇〇ほどあり、ラジウム温泉はその内五〇〇、中でも増富温泉は世界一のラドン及びラジウム含有量が多いので有名である。日本の三大ラジウム温泉はここと玉川温泉(秋田県)、三朝温泉(鳥取県)であるが、これほど混むとは誠に情報不足であった。玉川温泉に行った時も異常な混みようであったが頷ける。

 今や近代医学、綿密に言うならば西洋医学や東洋医学にさえ見放されたガン患者が行き着く所はPH一・五の玉川温泉や増富、三朝なのだろう。

混んでいるならば日帰り温泉でちょいと、ひとっ風呂と考えたが玉川温泉で聞いた言葉を思い出して止した。「病気の人は悪を悪で退治するから体に良いが、健康な人は悪に犯され病気になるから余り長湯はしない事」と湯治客に言われて早々に湯からでた記憶がある。その位、玉川温泉の湯は悪、すなわち強烈なのだろう。玉川温泉の入口に看板が出ていた、源泉に五分以上入らない様にと。

 ここの増富温泉は三十度そこそこ、長湯をしなければ温まらない。その内にガンが移っては泣くにも泣けない。諦めて甲府、湯村温泉に行くがこれまたひどい。午後三時に電話予約したが夕食は作れません、近くでお食べください。石和温泉も満室であるし、高い居酒屋で食事して湯村温泉ホテルでお眠りとした。


40.大菩薩岳

  妖剣をふるう剣士・机竜之介を訪ねて青梅街道へ

 関東の山に行くと中里介山の長編小説「大菩薩峠」の舞台に出くわす事がままある。ここ大菩薩峠は勿論の事、山梨県・奈良田温泉は温泉療養の舞台として、埼玉県秩父市は机竜之介の甲源一刀流の道場として、その道場は今も受け継がれているという。その作者の中里介山の名を取り、山小屋は介山荘、有名な小屋である。親切で愛想が良く食事も旨く商売が上手である。親父と息子の親子営業だが、とにかく親父の腰の低さと人柄は日本の山小屋ナンバーワンであると思われる。

通年営業の山小屋は常に繁盛しており。年末年始のやみ鍋、そして飲み放題サービスは評判でフアンも多いと聞く。私は二度泊らせてもらったが、居心地の良い楽しい小屋である。

 大菩薩は穏やかな地形で標高差も四、五百m、日本百名山登山の入門的なコースの山であり、首都圏からのハイキングコースとして高い人気を得ているようだ。

大菩薩峠 大菩薩岳頂上 日本一親切な山小屋、介山荘 大菩薩からの富士山 やまぶき

(クリック拡大)

 二〇〇四年四月十七日(土)~十八日(日)、編集長、温泉部長夫妻、マドンナ、平山さんの六人で体力テストを兼ねて新緑の縦走を計画した。一日目は四時間半ながら二日目は九時間以上のコースタイムである。ピークは九つ位あったように記憶している。

 新宿あずさ三号で塩山市、タクシーで奥多摩と甲府市の最高地点、青梅街道の柳沢峠へ。

六本木峠、丸川峠、大菩薩嶺、大菩薩峠(泊)、石丸峠、小金沢山、牛奥ノ雁ヶ腹摺山、川胡桃沢ノ頭、黒岳、湯ノ沢峠、ハマイバ丸、大谷ヶ丸、鎮西ヶ池、笹子駅へとアップダウンの連続であった。峠に差し掛かると富士山が素晴らしく晴間に広まり、絶好の写真タイムとなる。この一帯はササ原が多く見事な斜面が広がる。大菩薩嶺のピークは林の中で展望はないが静かな深山の雰囲気は十分である。

 滝子山を最後に登る予定であったが足のつる人、疲れた人でパスし、鎮西ヶ池から下山し甲州街道に出る一時間の間、山すそに見事な黄色い山吹の群生が広がる。山吹を見慣れていない北海道出身の私は感激し見とれる。山ツツジのように斜面に一面黄色い花が張り付き、山全体が黄色い山に変色されているようだ。

 私がナナエ、ヤエ・・・とたどたどしく言いかけると、マドンナがすかさず電光石火の如く?しかもスラスラとそらんじた。

      「七重八重 花は咲けども 山吹の 

            みの一つだに なきぞ悲しき」

 笹一酒造に訪れるのは三度目位だろうか、何時も試飲させていただき荷物になるので買わないが、美味しいお酒である。売店や食堂もあるので珍しい物をいただき思いで深い蔵元である。この日は余りにも疲労が激しいので皆がこってりのラーメンと酒ではなく生ビールとなる。

 一日中富士山を見られ、介山荘の美味しいカレーとサービスのワイン、大盛りのサラダ、春の山吹、笹一のお酒と、今年の春は一段と素晴らしい時節である。


41.42.美ヶ原霧ヶ峰

  諏訪湖を見下ろす百名山美ヶ原

 諏訪湖を見下ろす百名山は美ヶ原(二〇三四m)、霧ヶ峰(一九二五m)、八ヶ岳(赤岳二八九九m)と三山が取り囲む状態にある。三山と諏訪湖は地形状からも関連している。

 長野県中央部、諏訪盆地にある断層湖(断層運動により凹地に出来た湖)の諏訪湖は八ヶ岳の噴火により更に形態が変わって今日に至っていると言う。冬は結氷し「御神渡(おみわたり)」と呼ばれる、氷の割れ目に沿った氷堤が見られる神秘的な現象で有名である。

諏訪と言うと、戦国武将の諏訪頼重が歴史上で有名だ。武田信玄に滅ぼされ、その娘は絶世の美女で信玄の側室とされ、勝頼が生まれて武田を継ぐが織田信長に滅ぼされる。美女の側室は諏訪御前と呼ばれて長く諏訪に住んだと言われる。

霧ケ峰 頂上のドーム諏訪市は江戸時代から明治まで国の産業育成もあり製糸業が盛んで、遠く岐阜方面から女工は集められ有名な野麦峠を越えて諏訪に来ていたのである。当時の財閥片倉佐一はヨーロッパの福利厚生施設を視察し、地元諏訪に片倉館千人風呂を作り、女工が一度に沢山入れるように一一〇㎝の深さに立って入り、また湯槽の底に玉砂利を敷き足裏に心地よいように作られた。今日も観光客に開放されている。中はヨーロッパ調でステンドガラス、大きな絵画もあり、当時としては奇抜であっただろう。

諏訪はその後、製糸が外国製品に変わられ、産業の主体は時計・カメラ・IT産業機器等の精密機器へと移行していく。気候風土が盆地諏訪湖で梅雨がなく精密機器に最適と言われているもようである。今や東洋のスイスと呼ばれている。

全国諏訪社の本社である諏訪大社は、七年毎の御柱祭がこれまた有名で日本三奇祭とも言われている。

首都圏から中央自動車道を走り、甲府を過ぎるとまもなくハイウエイ諏訪湖SAがあるが、そこには温泉があるくらいの温泉のメッカである。また高速道路は丘の上を走るが眼下に見える諏訪湖は平坦な町のど真ん中に大きく位置しており、周囲十六kもある。

その様な諏訪湖越しに美ヶ原と霧ヶ峰は広大な高原台地として遠くから眺められる。既に諏訪湖周辺は標高八〇〇mは越えている物と思われる高地である。

真田の上田城

美ヶ原はビーナスラインの道路が一九九〇mまで延びており、最高地点の王ヶ頭は二〇三四mで高度さは四四mであり平坦に近い。

二〇〇四年四月二四日(土)~二五日()、温泉部長の案内で板坂、安藤さんの四人でハイキング、温泉の旅となる。車で町から僅か、歩いて僅かで美ヶ原を終えて、またまたビーナスラインで霧ヶ峰の車山肩一八〇〇mに行き歩く。頂上は車山(くるまやま)一九二五m、一二五mの標高差を三十分の歩行である。寒い日で小雪が舞っていた。

早々に二山を終り、長野県・霊泉寺温泉の中屋別荘の古い旅館に泊る。ワビサビの雰囲気の風情がある。翌日、別所温泉公共の湯「石湯」に入り、「男はつらいよ、寅さん」の旅館を見て歩く。風雲真田城の上田城を見学し、丘の上の美味しい蕎麦を食べて山・温泉・グルメの旅を終了した。


43丹沢山

  環境庁指定「全国名水百選」の丹沢を行く

 東京新宿から出る小田急線で一時間半、秦野駅か渋沢駅が丹沢へのポピュラーな登山口の一つである。丹沢への登山路は複数あり、さすがに首都圏から一番近い百名山で人気もあり、かつ四季を通じて楽しめる庶民的な山である。

 丹沢山地と渋沢丘陵にはさまれた秦野は、丹沢の山々から流出した土砂の層で形成されており、雨水の大半が地下水となって貯えられ、ミネラル分たっぷりの水となって湧き出してくる。丹沢山麓の各所に湧き出す名水は、地元の人々はもとより、訪れる登山者にとっても喉を潤す命の水となる。

 蛭ヶ岳山荘のパンフレットを見ると、丹沢の生い立ちが掲載されていた。実は丹沢山系は暖かい南の海で生まれたと言う話である。今から一五〇〇万年前、伊豆や丹沢は、南の暖かい海に浮かぶサンゴ礁の発達する火山島として存在していて、その後火山活動が激しくなり伊豆や丹沢の島を乗せたフイリピンプレートが移動した。丹沢は日本列島に衝突し、その後伊豆半島が丹沢に衝突し、丹沢とその周囲の海底を持ち上げ、山脈に作り上げたという。よって丹沢は自然が作り上げた芸術作品だという、嘘のような本当の話である。

 丹沢山系には今回で四度目である。過去は小川谷廊下とマスキ沢の沢登りの二回、温泉部長との大室山~檜洞丸コースであった。今回は正統派丹沢山縦走を単独計画とした。

 二〇〇四年五月十二日(水)~一三日()、小田急線渋沢駅で降車しバスで大倉へ。

大倉からは大倉尾根コースをとり、塔ノ岳、丹沢山を経由して蛭ヶ岳に泊まり、同じコースを戻ることにした。

 大倉から一本松跡を過ぎると砕石が敷き詰められた木と石の階段が延々と続く。土砂の流出を防ぐ為だが非常に歩きにくい。駒止茶屋の頃になると視界が広がり神奈川県の町並みが見え出す。木道の急坂を過ぎ塔ノ岳(一四九一m)までは殆ど木道であった。単調な登りにミツバツツジの可憐な花が心を和らいでくれた。尊仏山荘という小屋がありここまで三時間のタイムであつた。平日だが人気の山であるのか登山者で溢れていた。アップダウンを繰り返し一時間で丹沢山(一五六七m)のピークに立つとガスで展望は利かない。みやま山荘という小屋があり多少賑わっている。大きな看板に百名山、丹沢と書かれており証拠写真を撮り合っている。不動ノ峰、棚沢ノ頭、鬼ヶ岩ノ頭という急坂や岩のゴツゴツのアルパイン的昇り降りとガスと風でコンディションは最低ながらも二時間後に蛭ヶ岳(一六七二m)に着く。蛭ヶ岳山荘に今夜は宿泊する。二〇人位で空いている様だ。食事は定番のレトルトカレー、何の変哲もない。最近の山小屋はボッカで荷物を下から上げずに、ヘリコプターを使うので食事も変化が出て美味しいがレトルトカレーをソレと出されるといささかげんなりとする。ここの親父は二人で交代に山梨から来ているらしいが、元営業マンというだけありお喋りは得意のようで、特に女性にはメロメロ優しく離れない。お喋りが忙しいのでレトルトか、とひがんでしまう。

 勤務していた会社の近く、北区王子の食堂「丹沢」では美味しい定食と現地から運ぶ水、そして丹沢の写真があり癒されていた。これで丹沢も登り満足の帰途についた。


44.45.石鎚山剣山

札束で登る四国百名山ついでに八十八箇所巡り

早期退職で素浪人になって、毎日が日曜日の私は今、すごく忙しい。夏山シーズン真盛りで登山計画を組むのに大変なのです。

土・日山行はもとより、念願の平日山行も踏まえてパソコンで全国の天気図調べで一日が始まります。

 2004年5月26日(水)~28日()、四国の石鎚山と剣山に決定。次にやはりパソコンで格安航空券をゲットしてイザイザ出発進行。羽田発徳島空港へ、レンタカーで松山自動車道を経て、伊予西条ICから石鎚山登山口の山麓下谷着。さらにロープウエイで山頂成就駅、今夜の山小屋白石旅館に十六時着。まだシーズンオフの平日でもあり、広い旅館は私と七人連れの御遍路さんご一行のみ。この山は神社なのに何故御遍路さんなのか?謎である。御遍路さんは八十八箇所巡りではないか、それは後で判明した。

石鎚山入り口神社の鳥居に有る山小屋、白石旅館

 山小屋なのに、旅館とある。しかも立派な風呂まで、ぶくぶくと泡風呂付きでバスクリンまで入っている。食堂に行くと今夜は山菜づくし、女将に素早く生ビールを注文する。別に素早く頼まなくとも、客は少ないのだが・・・。

 暇な女将が私の側で語り出した。レシピの説明、山菜なのだからさほど説明は要らないのだが。フンフンと聞いていると、石鎚山の講釈が始まった。石鎚山は日本百名山、日本七霊山、西日本最高峰で1,982M。七霊山とは白山、富士山、大峰山、釈迦嶽、立山、大山そして石鎚山なのです。女将の舌はこの頃から滑らかになる。麓の西条市に神社の石鎚本社があり、この旅館がある山頂成就駅は1,300Mで成就社と言う神社、頂上直下の弥山(ミセン)は1,974Mで奥宮頂上社、この三社を総称して「石鎚神社」と言います。更に頂上は天狗岳で1,982Mです。

 山開きの7月一日~一〇日までは一〇万人の信者が訪れ、「ナンマイダー」の念仏が登山中聞かれます。「女将さん、何故ナンマイダーなんですか?」と素早く私は聞いた。それは「神仏背合」の名残なのですよ。「ン~ん?」よく分らない! だから御遍路さんもついでに来ると言う。

サッカーボールの大きさの鎖

頂上近くの神社

登り2時間半、下り1時間半ですよ。途中、1の鎖は33M、2の鎖は65M、3の鎖は68Mで殆ど垂直ですね。自信がなければ迂回路を行って
下さい。

 白石旅館の女将はすらすらと数字を並べて説明してくれた。数字を憶える能力の衰えた私は、会話の中に3つ以上の数字を混ぜて話を出来る人を無条件で尊敬してしまう傾向がある。尊敬する女将の顔を観音様と置き換え、由緒ある神社の麓に抱かれて今夜は有難い夢を見ようと速めに就寝。

 翌日、四国の空はきちんと晴れていた。しっかり鎖で登り、頂上の天狗岳にも行き着いた。しかし天狗はいなかった。6時半スタート、11時下山。

2,000M以下の山とは言え、頂上直下から仰ぎ見る頂上の急峻さはダイナミックそのものでした。非常に印象に残る山の一つでした。

絶好調で体力十分。よし、剣山も明日の予定だが、行っちゃえ。レンタカーは更に走る。

 松山自動車道を戻り,、美馬ICで降り、剣山登山口の見ノ越16時着。

剣山は殆ど全てが木道

剣山(1,955M)、麓の駐車場美ノ越は1,400M、その駐車場まで日光のイロハ坂のようなクネクネ坂を1時間も運転するのはチト辛い。車を駐車場に置き、リフトがあるので乗ってしまった。降りるとそこは1,710M。頂上までは標高差245M,20分で汗も出ない。ナ~ンダ!剣山と言うから、北アルプスの剣岳と似ているかと思ったが・・・少々落胆。でも眺めは良いし、平坦で長閑、雰囲気の良い百名山でした。剣山の頂上

 徳島駅に近い一等地、東急インが今夜のホテル。格安航空チケットは一泊込みで2万5千円。ホテルの料金表では一泊一万五千円とある。何と往復飛行機代は1万円の計算になる。ラッキーと思い、今夜は「噂の居酒屋、とくさん」へ直行。徳重さんが経営とはチャウ。マァ、別に誰が噂しているわけでもないが、東急インのフロントの姉ちゃんが「オイシイヨ~」と教えてくれたのでした。

お奨めの刺身、本場「せきあじ」は抜群でした。そして「泡盛」のロックもイカッタ~。。。

 最近、泡盛に堪能しています。今年春4月に、歴史と社会勉強、そして文化に触れるため、15日間の「南の島巡り」をして泡盛三昧に浸りました。

石垣島、竹富島、黒島、波照間島、小浜島、西表島、宮古島、与論島、徳之島、奄美大島、沖縄本島・・・。20年もの、65度の泡盛はン万円、試飲だけね、お姉さん。といって三倍もゴチになってしまった。

 山は時に、スルリとサスペンス、ミステリーを伴ないやすいが、下山すると、トロピカル、ハーレム、パラダイスが時に待ち受ける。怖さと楽しみが倍加するから堪らない。

 翌日一日は観光。徳島城跡を見学、蜂須賀小六の歴史に迫る。

四国に来たならば、やはり八十八箇所巡りです。一番霊泉寺、二番極楽寺、三番金泉寺・・・三番で見切りをつけた。何処へ行っても「ん?」で終わる。

八十八ヵ所巡り、1番霊泉寺 巡礼の見本衣装 2番、極楽寺 標識はしっかり、うどん屋もしっかりある。 八十八箇所の地図

悟りとか開眼とか微塵も欠けらさえも感じられない。皆、白装束、教本片手にぶつぶつ云って、真剣な顔である。そうか、私は悩みがないからか、悩みのないのが悩みだと悟りを開いてやめにした。

 売店の小母ちゃんに聞いた。寺参りツァーはあるの?ウン、11泊12日全周のバスツァーで198,000円ありますよ。ほほう~。

定年後、よく八十八箇所巡りをする人が多いと聞いているが、当分先になるか、どうなるやら。色んな山に行っていると、弘法大師に始終会えるし、3番で勘弁願うとするか。

46蓼科山

  シラビソ樹林の不思議な縞枯現象を見る

 蓼科山の北側斜面のシラビソ樹林が、縞模様の帯状に立ち枯れている場所がある。原因は成長した高木が深く根を張りにくい土壌と冬の偏西風とも考えられているそうだが、ならばどうしてそれが縞なのかは未だに謎であると言う。だが立ち枯れた山肌は次の世代の若木が育ち、森はいずれ元の姿に戻るそうだ、所謂世代交代である。蓼科山と南の八ヶ岳の間にはこの現象と同じ名前の縞枯山まである。

 八ヶ岳連峰の北に位置する所謂、北八つは急峻な南八ツに比べ比較的たおやかな山が多い。だが蓼科山(二五三〇m)は標高も高く円錐形の山容を呈し諏訪富士の別称を持つ。

 二〇〇四年六月五日(土)~六日(日)、温泉部長夫妻、板坂さんと山と温泉の企画である。車で長野県側、佐久市を経由し蓼科スカイラインに入り、大河原峠から歩き出す。

縞枯れ現象登山口から既に針葉樹の原生林が広がっており、苔むした林床は悠久の時を感じさせ、せわしい日常を忘れさせてくれる。歩き出して一時間、シラビソの縞枯現象の地点に通りかかる。高い地点から見ると見事な縞枯れで帯状である。感心しながらしばし見とれる。

 温泉部長は社会科の教師で、日本、海外、山、町どこへ行っても教育的観点で物を見る熱心さは感心する。対して私はただの好奇心の塊で目的はさほど無いに等しい。だが先生と同行しての山行は大変勉強になる。もう一度義務教育で教わっているような得をした感がする。社会科の先生というより、社会の先生と言えようか。

 将軍平(二三五三m)の小屋からは岩のゴロゴロ積み重なる急登を頂上の二五三〇mまで登ると、独立した山容だけに展望は抜群だ。四時間の行程である。南に八ヶ岳連峰、南西に富士山、南アルプス、西には中央アルプス、北西に北アルプスと三六〇度の素晴らしい眺めが広がる。蓼科山頂上

 今回の温泉は上田市に近い沓掛温泉、長野県小県郡青木村の小さな温泉街である。「日本秘湯を守る会」のおもとや旅館もあるが今回は風情のある「かなふや旅館」に一泊する。

泉質は単純硫黄泉で数件ある温泉旅館の片隅には村の共同湯と部落の炊事場もある。野菜を洗い洗濯もする昔ながらの風情のある所である。

 旅館の亭主は以前紀伊国屋書店に勤務していて画家でもあったという。叔父が洋画家でもあり旅館には多数の絵画が飾られており芸術の香りする旅館であった。

 翌日帰りも歴史ある長野の宿場町、有名蕎麦屋を食べ歩き、山・温泉・グルメ・百景と満たされた山行であった。

 「信州信濃の蕎麦が良い、私ゃ貴方の側が良い」と歌われるように、信州、長野は蕎麦屋が非常に多く美味しい。北大路魯山人といかずとも、食べ歩きの旅は果てしなく続く。

二日後は鳥取、大山を計画している。鳥取はカニだろうか?

温泉は米子の皆生温泉もあるし、何故山には温泉が多数あるのだろうか?つい嬉しくなってほくそ笑む自分にきずくのである。


47大山

  伯耆富士(ほうきふじ)と呼ばれる中国地方最高峰

 大山(だいせん)は裾野を長く引いた姿が富士山に似ている事から「伯耆富士」または「出雲富士」とも呼ばれる。また山陰地方では山を「セン」と呼びならわすので、大山はダイセン」、弥山は「ミセン」と呼ばれている。

では伯耆とは、旧国名で伯耆の国からきており、現在でも伯耆町もある。語源は山脚が断崖となって水に落ちるところなど、諸説があるそうだ。

 大山は日本海、山陰に属し、北に隠岐諸島、東には鳥取砂丘、西は米子、境港、宍道湖、出雲大社があり、山陰地方の要ともなっている。

 二〇〇四年六月八日()~十日()、今回は東京・浜松町から出る、深夜高速バスを利用した・。高速バスは北は青森、南は福岡まで料金も安く、三列縦隊、リクライニング、トイレ、冷水付、毛布、スリッパでそれなりに快適である。今までは秋田県の後生掛温泉の湯治体験、奈良の大台ケ原山、大峰山登山、大阪、アルプス登山でよく使用した。

米子駅浜松町二〇時三十分発、米子駅には翌朝七時到着、十時間半の行程である。客はサラリーマン、若者、中高年さまざまであり、弁当、飲物を思い思いにもって乗り込む。ビールを二缶飲み、直ぐ眠りにつくと、明け方四時頃には鳥取県の農村地帯をバスは走り、山陰の静かで雰囲気の違う田園が目に入ってくる。初めての土地は新鮮味があり、何を見ても清清しいものがある。米子駅の食堂で朝食を済ませ、登山口の大山寺行きバスを待つ。米子駅は六階建ての立派な駅で近代的な駅前である。駅前のホテルの屋上看板を見て感心した。

シングル二五八〇円より、朝・夕食無料、温泉・サウナ無料となっている。早速証拠写真を撮っておく。証拠を撮ってもしょうがないが・・・。

およそ五十分で登山口につく。冬はスキーのメッカのようでリフトが多数見える。大山寺バス停はちょっとした宿場町のようで旅館、ホテルが四〇件、土産物屋が軒を連ねている。ここは山岳仏教の修験場として創建された大山寺の参拝者が多いのだろう。寺、神社も宝物館、霊立派な木道が続く峰館、阿弥陀堂と次から次へと登山道に沿って現れる。一合目から頂上の弥山(みせん)まで標柱が十~二〇分間隔に建っており目安になる。やがて四合目を過ぎる頃から眺望もよくなる。日本海が綺麗である。西日本・中国地方唯一、琵琶湖より西では唯一の百名山でもあるせいか、整備は素晴らしく行き届いている。一合目から七合目まで全て丸太の階段で、八合目からは木道でダイセンキヤラボクの大群生も見られる。

大山頂上

最高峰は剣ヶ峰(一七二九m)だが崩壊で立ち入り禁止の為、弥山(一七一一m)で眺めを満喫して下山する。登り二時間、下り一時間半の行程であった。

温泉は皆生(かいけ)温泉が有名である。もう少し東にはガン治療で有名な三朝(みささ)温泉もあるが遠すぎるので、ひとまずバスで皆生温泉に十五分ほどで行き、日帰り入浴する。日本海ぎりぎりに立地する温泉街で、食塩泉の湯が体に優しい。散歩で海岸を歩くと温泉街と隣り合わせに華やかな看板があるので見に行くと、客の呼び込みをしている。ソープランドが軒を連ねている、ここは男の天国らしい。バスの時間も迫っているので後ろ髪引かれるようだが後にした。新婚カップル、熟年夫婦が見たなら、どう写るのやら。


48.49.岩木山八甲田山

     青森にそびえる盟主二座

 首都圏から青森の山を目指すのは、九州の山と同じ位アクセスが悪い。新幹線か深夜バスの利用となるが、二座となると一泊込み概ね費用は五万円近い。単独行となると、交通の時間帯やバス、宿泊場所の手配等で結構手間隙がかかる。オリジナルの計画を作るのもまた楽しい事もあるが、気に乗らない時もある。

 山小屋に行くと、ツアーガイド会社のチラシを良く見かけていた。その中で中堅の㈱アルプスエンタープライズの岩木・八甲田が六万二千円、しかも往復飛行機、宿泊は八甲田山荘、帰りはあの有名な酸ヶ湯に入る、すぐ決めた。二〇〇四年六月十二日~一泊二日。

海外ツアーのアルパインツアーサービス㈱はエベレストトレッキングで体験していたが、国内ツアーは始めてである。どの様なガイドなのか非常に興味を感じてもいた。

 電話で申し込む、女の子が愛想良くテキパキと応答する、こういう手法は電話の応対で九十%は決定すると思われる。二日後に「ご予約確認書 ご請求書」が送られ、振込先を指定してくる。支払うと、出発・集合の案内と、登山装備リストが送られて、当日顔合わせである。羽田に着く、岩崎と言うチョビひげ(チョビ)の五十代のリーダーが、ツアー会社の小旗を持って、サブの北島(ハンサム)と待機している。ザックと登山ウエアを着ているので、誰でもわかる。本日は十八人、男六人、女十二人、全て中高年である。

土・日だから少しは二十~四〇代いても良いのに、若者はハンサムの二十代のみであった。

羽田から青森空港まで一時間、その後マイクロバスで岩木山スカイライン八合目(1250m)まで約二時間、次はリフトに乗り九合目(1480m)、何にも歩かず11:30、

昼食である。晴天で景色は抜群、思い思いの場所で津軽平野を見ながらの食事は旨い。

 津軽出身の太宰治はその秀麗な山容を「十二単の裾を、銀杏の葉をさかさに立てたように・・・」と表現しているがまさしくなだらかである。

 ここ岩木山は山スキーでも有名だ。「シーハイルの歌」を思い出す。岩木山

 

   ♪岩木の下ろしが 吹くなら吹けよ

       山から山へと われ等は走る

     昨日は梵珠嶺(ボンジュネ) 今日また阿闍羅(アジャラ)

       煙立てつつ おおシーハイル ♪

 

 いよいよ登山開始、一番から十八番まで順番を決められてチョビ・リーダーとハンサムサブは先頭と最後列で出発進行。と言っても頂上(1625m)まで標高差は145mで、すぐそこに見える、汗さえかかない距離だ。だが流石に岩木山、頂上直下はガレ場の急騰で浮石も多く足元はおぼつかない、慎重に歩を進めて三十分で頂上である。

岩木山、8合目リフト乗り場

岩木山頂上 

 山頂には岩木山神社奥の院、山頂避難小屋があり、津軽平野、八甲田、日本海、北海道の海岸線まで見渡せる。

下山はしっかり自分の足でと言う事で、岳コース・岳温泉口まで概ね二時間。途中、ミチノクコザクラとヤシオツツジが綺麗で目を楽しませてくれる。女性陣は何処でも花に詳しい。だがたまには名前に自信の無い花が出てくると、ハンサムサブに「北島さ~ん、この花、何ていうの~」と鼻声の甘えた声で聞く。すかさず、ハンサムが見て答える。先ず詳しい、そして花どころか、木についても植生とか学術的にも立て板に水が如き、教えてくれる。後で聞く、ツアー常連の女性陣の数人から、このツアー会社は特に皆が勉強して研修してるのよ! 成る程、と頷く。このハンサム北島君は東京農大出で山が好きで、当面この仕事をしていると言う事であった、道理で特に詳しいわけだ、この二十代の若者に接し、人生の生き方の一つを教え導かれた感がし、すがすがしい気持ちで見ることが
出来た。

 バスでメインルートの岩木山神社に回り、拝殿等を散策し、今夜の宿泊地八甲田温泉に近い八甲田山荘に向かう。立派なログハウス風の山小屋と言うより、ちょいとしたホテルの様だ。浴衣、タオル、バスタオルまであるし、食事がこれまた旨い。流石に札束で登る百名山ご一行様の様で、ビール、地酒ともう大宴会。ツアー常連が何人もいて、山の話で盛り上がる、流石に本日は私も出番が無く聞き役に回る。男ばかり六人部屋でイビキ合戦は凄まじかった。

 翌日も晴天なり、バスに乗り登山口である酸ヶ湯(スカユ)温泉の裏からスタートである、8:30スタート。春六月は、山道は雪解け水でぬかるみ泥だらけだ。城ヶ倉温泉分岐(三十分)頃から、笹薮でガサガサ、ゴソゴソと音がして、皆立ち止まる、熊! と思いきや人だ! 何のことは無い、竹の子取り、一人何十本も抱えている。

八甲田山は、正確には八甲田火山のカルデラに生じた中央火口丘群をさしている。八甲田連峰

標高1584mの大岳を主峰に、前嶽、田茂萢(タモヤチ)岳、赤倉岳、井戸岳、石倉岳、高田大岳、雛岳の8峰で構成された総称を八甲田といい、所々に発達する高層湿原を田とみなして「八甲田」と呼ぶそうな。

大岳に向かう間、チングルマ、ワタスゲ、キンコウカの高山植物が鮮やかに咲き誇る、木道も整備され人気の山である。大岳と井戸岳の間に立派なログハウスの避難小屋があり、トイレも綺麗である。150mの急騰を登り大岳頂上だ。快晴の為か残雪と、アオモリトドマツの緑、山々の黒いピークが何ともいえぬロケーションである。見ていて安らかになる景色である。岩木山の山が素晴らしい眺めで見惚れると言う表現しか見当たらない。太平洋、弘前・青森の市街、眼下に井戸岳、赤倉岳と続く主稜線や噴火口が望める。

明治三五年に起きた陸軍の雪中行軍遭難事故は、この八甲田を余りにも有名にした事を思い出しながらしばし眺める。

赤倉岳を越して五色岩からの二百m急坂に雪渓がある。アイゼンを付けよとリーダーが指示、良い天気で雪質も和らいでいるので、ノーアイゼンで降りた。女性陣数人がアイゼンをつけられないでモタモタしている。つけ方を知らないようだ、しょうがないから手伝ってやる、アイゼンの使い方も知らないで、よく百名山を登っているもんだとあきれる。

湿原のワタスゲ 田茂萢湿原、下山口に近い湿原で、ヒナザクラ、ワタスゲの群落である。真っ白い花が風に吹かれてそよいでいる、それをカメラアングルに入れて降りてきた八甲田を写真に皆が収める。

八甲田山頂公園駅からロープウエイに乗り、昨日の八甲田山荘のある山麓駅に降り、バスに乗り、待望の酸ヶ湯温泉で混浴風呂に入る。ツアー仲間の若手の?女性も平然と入ってきた。男供、一瞬目をそむける。スッパイ温泉に満足して、今度は皆でビールで乾杯!

おでんが美味しかった。時間が遅くこれしかなかったためもある。十八人既にすっかりお友達になっていた。

 帰りの飛行機の中も山談義、酒も進む。羽田から浜松町、話は尽きない。富山から来ている女性は残り三っで百名山達成と喜んでいる。これから富山まで夜行で帰るのよと、まだまだ元気! 恐るべきは女性、と再確認したツアーでした


50.51.52御嶽空木岳恵那山

  天竜川、木曽川、飛騨川に挟まれた中央アルプス三名山 

御嶽 

「♪木曽のナ~ア、御嶽山は~♪」で知られる御嶽は古くから信仰の山として知られ、白装束姿の信者が列をなして標高差八~九百mを登る姿は爽快である。

 信仰の山として有名なのは、月山、立山、御嶽、富士山、白山、大峰山、大山、石鎚山等があり白装束の登山者によく出くわす。また本州の山は弘法大師(空海)を祭る山が非常に多い。難行苦楽、千辛万苦の修業が信仰の対象となったためであろうか。

 二〇〇四年六月十五日()~十七日(木)、私と同様に山に魅力を感じ、早期退職した、ある山岳会の古橋さんと中央アルプス三山のハシゴ登山となる。

古橋さんとはシャモニーのモンブラン、アフリカのキリマンジャロ、マレーシアのキナバルと海外遠征で一緒したよき仲間である。車中泊二泊三日の山行である。

 長野自動車道、塩尻インターから木曽福島町へ出て、黒澤口登山口に入る。更に木曽温泉、鹿ノ瀬温泉、中の湯まで行き駐車場に駐車する。御岳ロープウエイは事故で運休中。

御嶽登山口、相棒さん

行場山荘、女人堂、金剛堂、覚明堂、神社等、仁王像やら金剛像の怖い顔の銅像が随所に出てくる。信者はこれを見て敬うのだろうが無宗教の我々としては気味悪い何物でもない。

 御嶽は遠くから眺めると、上が台地上の台形に見える独立峰ゆえ、樹林帯、ハイマツ帯を抜けると眺望が抜群に良くなる。上り三時間半で御嶽頂上剣ヶ峰(三〇六七m)に到達する。立派なコンクリートで固めた床に神社が建ち、仁王様のような三m位の像の目は白く光って睨んでいる様だ。少し下方には修験者用なのか、山小屋が多数立ち並んでいる。一~六の池まで雪解けの池がコバルトブルーに輝いている。日本一の標高を誇る高山湖である。

御嶽頂上の神社

 三の池の水は腐敗しないという事で「御神水」として信者に崇められているというらしい。また御嶽山中には清滝、新滝など水行に適した大小さまざまな滝があり、滝に打たれる信者で賑わうらしい。山道は高齢者を対象にしてきた山だけに、よく整備されており危険箇所はなく日本有数の信仰山岳である。まだシーズンオフのようで行き交う人は一人であった。二時間で下山、鹿ノ瀬温泉で汗を流し、自家用車で次の登山基地、空木岳の駒ヶ根に向かう。本日は駒ヶ根の駒ケ池周辺に車中泊とする。スーパーで酒、料理を買い込み、たらふく飲み食いする。宴たけなわになると古橋さんの恋愛論が出て退屈しない。

空木岳

空木岳と駒峰ヒュッテ

 深田久弥は山の由来は植物のウツギだろうと言っている。登山道は南北東西から四通りで駒ケ岳からの縦走が一般的で、急な池山尾根で下山するコースが多い。しかし体力のある二人は、今回、厳しい池山尾根コースに挑む。車でタカウチバ展望台(一四三〇m)まで行き、樹林帯をジグザグに登り出す。途中崩壊地、ヤセ尾根が出てくるとロープや丸太を伝って核心部の大地獄、小地獄に遭遇し鎖、空木岳頂上ハシゴ、ロープ、丸太と何でも出てくる。

ハイマツを過ぎると尾根伝いにしばらく進むと空木岳駒峰ヒュッテに出てくると頂上は近い。大岩の花崗岩が重なる空木岳頂上(二八六四m)である。標高差一四〇〇m、六時間のコースタイム通りであった。難所が多いので時間が詰められなかったのと、前日に続く暑さでへ張り気味であった。眺望は申し分無く、変化の多い良い山であった。

この山は「サルオガセ」が多く幽愁の感がする山でもある。下山は同じコースを四時間半で、元の駒ヶ池駐車場に連泊する。温泉は公営のこぶしの湯に入り、本日もスーパーで食材を買い、車中宴会とした。

恵那山

 中央アルプスの南端に位置するこの山の北を中央自動車道、恵那山トンネルが八五〇〇mの長さで横切っている。

恵那山登山口

 恵那山と言うと、島崎藤村の「夜明け前」が余りにも有名である。明治維新動乱の時代を背景として、新撰組隊士青山半蔵の一生を描いている。モデルは作者島崎藤村の父、木曽馬籠宿の旧家の当主である。

恵那山頂上は樹林の中

飯田インターから一時間半、昔の農村地帯は風情があり、月川(げっせん)温泉を過ぎる頃から「夜明け前」の雰囲気が感じられる。コースは空木岳の小屋の管理人から新しいコースで二時間半を紹介されていた、広河原登山口である。営林署の作業道を二〇〇一年に開通したコースは急な斜面をジグザグに登り、頂上恵那山(二一九一m)まで眺望は一箇所のみであった。また頂上は樹林の中で視界は無く、標柱もみすぼらしく文学的傾向の山にしては淋しい限りである。近くには社(やしろ)があり、恵那山神社の二の宮がある。

恵那山の由来は、天照大神の胞衣を山頂に納めたという伝説かららしい。

長閑な田園の月川温泉に入り、中央アルプス三連山は無事に終えて満足する。



53.54会津駒ケ岳燧ケ岳

  日本を代表する湿原・尾瀬を抱いて聳え立つ百名山

 日本を代表する湿原、尾瀬沼と尾瀬ヶ原の規模は膨大である。新潟県・福島県・栃木県にまたがり、百名山を中心として名だたる山を七山も従え
ている。

燧ケ岳を中心として、北から時計回りに会津駒ケ岳、帝釈山、田代山、鬼怒沼山、至仏山、平ヶ岳、と殆どが二千mを越えている。半径をもう少し広げると、茶臼岳、男体山、皇海山、赤城山、武尊山、谷川岳、草津白根山、苗場山、巻機山、越後駒ケ岳と百名山だけでも一〇山も集中している。越後山脈の背骨でもある。

 「夏がく~れば、思い出す・・・♪」の歌で有名な尾瀬、その尾瀬に私はそれほど行って見たいと魅力は感じていなかった。知識として所詮、「沼」だろう位の浅学非才であった。

ところが、関東北部の山行が多くなるにつけ、近辺に良い山があることに気が付きだし、ついに尾瀬の自然に触れるようになった次第である。

 沼と言えば、出身の北海道では雨龍沼が最大である。標高八五〇m、東西二km、南北一km、花も綺麗であった。かたや尾瀬沼は標高一、六六五m、日本一高所にある沼で、周囲は八kmに及ぶと言う。また西に広がる尾瀬ヶ原は東西六km、南北二km、標高一、四〇〇mとスケールが違っていた。

 尾瀬を取り巻く山では、既に帝釈山、田代山、鬼怒沼湿原を踏破していたので、今回は会津駒ケ岳と燧ケ岳を計画、その後に至仏山、平ヶ岳とした。

二〇〇四年六月二十三日(水)~二四日(木)、好天を期し住まいの東川口を早朝四時出発。東北道・西那須野塩原ICから四〇〇、一二一、三五二号線経由、檜枝岐村(ヒノエマタムラ)登山口に七時到着。東北道片側三車線の高速道路の早朝は空いている。会津高原をひた走り、一車線やっとの秘境、桧枝岐川を遡上していくこの当りは両側の山が押し寄せてきそうである。昔はマタギが活躍した杉、檜の山々が連なる。村の地名にまで檜がついている事からも頷けよう。

民宿「すぎのや」料理が良い

車を会津駒ケ岳登山口の前にある民宿「すぎのや」に置かせてもらう。ここの女将さんとは一ヶ月前にも、会津駒登山に来て宿泊し顔見知りである。丁度登山開きの時であったが、終始小雨で退却となったほろ苦い一ヶ月前であった。相棒の板坂さんと一緒で、その後は会社、首都圏組合OB会が那須であり参加した記憶がまだ新しい。

会津駒ケ岳(二、一三二m)はなだらかな山稜を四方へ広げて、ゆったりと横たわっている。頂上周辺は池塘が多数あり湿原がひろがるさまは「山上の庭園」と呼ばれ、登山者を魅了している。七時十五分、登山口九三〇mから水場の一、六六一mは急登でしっかり汗をかかせられる。岩から染み出す清水は非常に美味しい。針葉樹のオオシラビソが目立つとほどなく頂上からの傾斜湿原に出る。木道を渡って行くと左に駒の小屋が現れ、高山植物のハクサンコザクラ咲き乱れる丘陵帯をゆっくり登ると、樹林多い頂上十時十分である。    

樹林の合間から平ヶ岳、燧ケ岳、遠く至仏山が見え、眼下には尾瀬ヶ原が見事に広がっている。頂上から北へ、残雪残る木道を中門岳(チュウモンダケ)へ足を延ばし、雪渓の涼しさを味わいながら下山する。途中、ヒゲを生やしたいかにも山男が登って来る。

事前に女将に聞いていたが、息子だと言う。駒の小屋を経営しており、団体が今日泊るので仕入れに行き登って来たそうで、三十K担いでいると言う。本日はその団体十人を含め、行き交う人は一四人であった。平日登山は空いていて静かで何よりである。

登山口に一四時四〇分着。本日は勿論民宿「すぎのや」温泉付である。タオル一本ぶら下げ温泉へ、貸切である。単純温泉の軟らか温泉、宿泊者は山であった団体の、バス運転手と二人であった。

ここの料理は十品以上あり、ボリュームがありすぎるくらいで流石の大食漢の私でも食べきれない。ここの民宿だけではないそうだ。以前は林業だけであったが、今では観光だけでの生活らしい。マタギ料理ということで、山菜と蕎麦中心である。山菜もブドウの葉からコゴミ、○○と知らない山菜が多数である。マタギの保存食が出るが結構美味しいので酒の量が進む。明日の燧ケ岳に備えて、三回目の温泉を終えて就寝。

六月二四日(木)本日も快晴。

  民宿六時十分出発、檜枝岐村の民宿街と役場を通り、ミニ尾瀬公園まで来ると、山岳写真家、白籏史朗尾瀬写真美術館がある。一ヶ月前に来た時に見学した。尾瀬を中心とした素晴らしい写真があり魅入ってしまった。繊細、かつダイナミックな表現で山のスケールが目と心に響くようで未だに目に浮かぶようだ。一般車乗り入れ禁止により、六時半登山基地「御池」に車を駐車、村営バスで登山口沼山峠七時十分に到着、歩き出す。一、七八一mから尾瀬沼一、六六五mまで湿原の遊歩道を長閑な気候の下に歩いていると、若い女の子集団ばか尾瀬沼らしい風景が続くりが行き交う。若者に人気の尾瀬なのだ。尾瀬沼に近づくと尾瀬ヶ原と尾瀬沼を抱いて聳え立つ燧ケ岳が頂上を赤く染めて見えてくる。頂上は岩稜と岩の積み重なる岩山なのである。尾瀬沼に明治三六年に建てられたという長蔵小屋、そしてビジターセンターを見学し、対岸の沼尻平(一、六六五m、九時)から、ミノブチ岳(二、二〇六m、十時二五分)の急登だが最短コースを登る。一~二m位の大石がゴロゴロの連続である。

 頂上部分の俎嵓(マナイタグラ)(二、三四六m)と言う変わった名前の山から十五分で、最高点の柴安嵓(シバヤスグラ、二、三五六m、一〇時五五分)着。やはり尾瀬沼、尾瀬ヶ原の眺望は素晴らしい。会津駒が樹木と湿原の山であるならば、ここ燧ケ岳は岩の山である。同じ山域でこうも違うものかと感心する。ワタスゲ

 頂上で眺めを堪能し一一時四五分下山開始、二時間後の一三時四五分、標高差八五〇mの急登を下り御池に到着する。途中、雪渓の連続で滑りやすい。熊沢田代という湿原と二つの池塘の白いワタスゲの群落は印象に残る場所である。

 燧ケ岳の名前の由来は、俎嵓の北東斜面に出現する鍛冶鋏(カジバサミ)の形をした雪渓が燧(火打ち)に似ている事かららしい。残念ながら、六月は中途半端なシーズンで春のミズバショウにも初夏のニッコウキスゲにもお目にかかれなかったが、女性的な駒ケ岳と男性的な燧ケ岳の対照的な山と尾瀬を満喫した。それぞれ頂上から遠望した平ヶ岳と至仏山への山行を期待して満足の桧枝岐村であった。帰りは勿論、桧枝岐村の公共の湯、燧の湯の露天風呂で疲れを癒し、会津路のややこしい道路を、眠気覚ましのCD「国定忠治赤城の山」をボリューム一杯に広げ聞き入りながら家路についた。


55.巻機山

 百名山随一の稜線に池塘が点在、見とれる景色

 巻機山(まきはたやま)は、牛ヶ岳、巻機山本峰、前巻機、割引岳の四峰からなる上越国境の人気の山である。特に山スキーには特別な人気を得ている模様である。

 夏山の人気が高いのは前巻機山から木道に沿って歩く、本峰までの稜線の素晴らしさであろうと思う。鞍部にポツンと避難小屋が見えて、それから続くたおやかでふっくらした御機屋(おはたや)までの稜線は本場アルプスの長閑な景色を彷彿させるものがある。

美しい景色と赤い山小屋

更に、西斜面にはヌクビ沢の荒々しさが、東側斜面に点在する濃紺の針葉樹林は目を見張らせるし、歩いている両サイドからはニッコウキスゲ、コバイケイソウが歓迎してくれる。何よりハクサンコザクラの密集地では登山者の足を引きとめ、長逗留を勧めるような雰囲気で一杯だ。コザクラのピンクと雪渓の白が鮮やかに映えている。点在する池塘に投影する巻機山のシルエットがこれまた目を見張るものがある。この山はやはり優しく美しく言うならば女性的な山と言えよう。

 山名の由来は名前の通り、機織りに関係があると言う。絶世の美女が山中で機織をしていたとの織姫伝説が伝えられ、「機織りの神」として土地の人々に信仰されている山である。

登山口にあたる清水集落は、清水街道の宿場で山麓では昔から機織が盛んで、麓の織姫の願いを祈る為に修験者が登拝した山であるという。

 二〇〇四年六月三十日(水)~七月一日(木)、夕方十七時、車で出発。関越道の六日町インターから二九一号線の清水集落を抜けて、登山口の桜坂駐車場に二一時到着する。

既に先客もおり車内泊登山者は多い。何分ここは首都圏から遠く、コースタイムも八時間以上なので前泊必須の山である。

 今回は井戸尾根コースで前巻機山を経由して本峰に至るポピュラーなルートである。朝五時スタート、二〇人近い登山者がゾロゾロと続く。井戸の壁で米子沢を見下ろし、五合目でヌクビ沢の見晴がよくなる。七合目では森林限界でチシマザサの中にリンドウが顔を出しだす。急坂を登ると前巻機山(一八六一m)で、少し下る避難小屋の鞍部で雪渓の冷たい水とハクサンコザクラに歓迎される。

  ハクサンコザクラ

ここからがこの山の核心部である。木道を景色に見とれながらも高度を上げていくと、そこここに池塘が現れ山上の楽園となる。機織屋(一九六二m)から頂上の巻機山(一九六七m)までは花畑のハイキングコースである。牛ヶ岳(一九六一m)まで足を延ばし、晴天の散歩を楽しむ至福の時である。登り五時間であった。

途中、モウセンゴケの密集地がある。湿地に生える食虫植物で腺毛から粘液を出し虫を捕らえるという怖そうな植物である。マレーシアのキナバル山でも「ウツボカズラ」という「食虫花」があり、やはり花の中に入ってきた虫を食べると言う、黄色とピンクの綺麗な花であった。綺麗な花にはトゲがある、と言われるが、だから気をつけよう。

下り三時間半で登山口。駐車場の横に川があり、橋のコンクリートの上には青大将が三匹も昼寝をしていた、今日は暖かい良い日であった。

湯沢温泉の町営こまくさの湯、単純泉で汗を流し、機織娘に別れを告げ一路、自宅へ。


56.57.火打山妙高山

  三つの大きな湿原に、花が咲き乱れる天上の楽園

 妙高山は、妙高山、火打山、焼山の三山を総称する頸城(くびき)山塊の西端に位置する複式火山(二重・三重火山=浅間山、阿蘇山等)である。

 妙高山を取り囲むように並ぶ五つの山は何れも妙高山の外輪山で、その内懐には多数の高層湿原がある。山は急峻で大きな岩石からなり、雪渓も何時までも残り荒々しい男性的な山といえよう。妙高山 妙高山頂上

 一方、北に連なる火打山との間には三つの大きな高層湿原(黒沢池、高谷池、天狗ノ池)があり、数々の高山植物の花が咲き乱れている、まさに天上の楽園であり、山裾はなだらかで美しい気品のある女性的な山といえよう。

 長野、新潟間を走る上信越自動車道の、妙高高原インターあたりに差し掛かると、妙高山の特徴あるキノコみたいな、シュークリームの様な山塊が、火打山のおとなしそうな形とともに現れ印象的に見えていつも登山意欲を呼び起こされる。

 二〇〇四年七月三日()~四日()、相棒の板坂さんと二名で車で自宅を早朝四時出発。

火打山とハクサンコザクラ

このコースは二〇〇二年一一月の冬山、一一人で望んだが、時間切れで両山共にピークを踏めずに撤退した経験があり、夏の花のよい時期を選んでの再アタックとした。妙高高原インターから笹ヶ峰キャンプ場に車を止める。七時半出発、十二曲がりの急登を登り、富士見平から高谷池ヒュッテ、天狗の庭、雷鳥平、火打山(二四六二m)に十二時半到着。

火打に行く道すがらはとにかく花ずくし、木道の両方には白いワタスゲのじゅうたん、高谷池の辺りからはハクサンコザクラ、チングルマ、コバイケイソウ、オオヤマリンドウ、イワイチョウ、ウサギギク、クルマユリが無数に彩る。大小さまざまな池が集中する高谷池の湿原は天上の楽園か天国と思われる見事さである。池に移る火打山を写真に取るため、木道に何人かが寝そべっており、死人かと一瞬見紛う。

 火打山は花も多いがシラカバの木も多く、風のためか木まで斜めになびいて芸術的で女性に人気の山のようだ。この日の火打山では二百人程の登山者と会うが、若者、特に女性が圧倒的に多かったようである。

火打山  黒谷池ヒュツテ

 火打山から三時間で山小屋黒谷池ヒュッテに着く、十五時四〇分。八角形のドームの小屋で綺麗である。夕食はすき焼き風、朝飯はインド料理ナンとツナサラダ、コーヒー。山小屋で初めて洋風朝食で美味しかった。

 朝六時小屋出発、大倉乗越、外輪山の山腹を巻くように長助池分岐に来ると、急峻な壁に雪渓が張り付いており冷たい水が喉を潤してくれる。至福の時間である。山頂への大きな岩伝いに急登が続き、双耳峰の頂上(弐四五四m)、北峰に三角点、南峰に妙高大神にたどり着く、八時。

 眺望は雨飾山、北アルプス、南アルプス、特に白馬連山が雲上の彼方に白い頂を見せておりしばし見とれてしまう。元来た道をヒュッテまで、黒沢池を富士見平に抜けて笹ヶ峰登山口に一三時半無事到着する。杉野沢温泉、苗名の湯に入り、信州信濃の美味しい蕎麦に舌ずつみをうち、妙高高原を後にする。


58.南アルプス 塩見岳、間の岳、北岳縦走

雷鳥に無沙汰詫び、環境問題を問うが・・・

 富士山の山小屋で「環境に優しい」トイレが次々に完成している。山梨側と静岡側の計42の山小屋のうち、これまでに19ヵ所が回収された。「焼却式」と浄化循環式」のタイプがあり、水洗で異臭は全くしない。2006年には全てのトイレが環境派に変わる、と新聞に紹介されていた。

 今回、南アルプス中央部にある塩見岳に計画した。中継点の三伏峠小屋はやはりバイオトイレと食事の旨いので有名との情報を得ていた。

 2004年、7月8日()~11日()の4日間、気ままな1人の山旅である。

朝7時、新宿から高速バスで松川インターで降り、乗合タクシーで鳥倉林道終点12時到着。塩川コースもあるが、鳥倉コースのほうが主流と聞き、おば様方ツアーの後からトコトコ付いていく。途中、高山植物が出てくる。ゴゼンタチバナのオンパレードである。「小の花ね、葉が6枚になるとほぼ花を付け、4枚の花びらがつくのよね~」と栃木弁のユーモラス小母様の説明。更に続く、「同じようにカタクリも葉が二枚にならないと、花が咲かなく、しかも咲くまで7年かかるのよ~」

   塩見岳 

 16時、三伏峠小屋到着。160人収容の綺麗な小屋である。築後6年、オーナーは長野県下伊那郡の鹿塩温泉「湯元山塩館」で、何を隠そう「日本秘湯を守る会」の温泉の社長であった。

管理人の一見強面(コワモテ)のおっさんに恐る恐る聞いてみた。建物は6千万、バイオトイレは3千万。管理する役所はバイオトイレに速くせい、速くせい、とうるさいが、補助金なんてみみっちいもんだ~。個室もあるし、こんなに綺麗にサービスしても、最近の客はテレビはないのか、冷蔵庫は、エアコンは、風呂は・・・。ったく、登山のイロハを理解しているのかどうか・・・、でも、シャワーでも設備しなければならないご時世かな~。

 評判の夕食。鶏肉入りすき焼、鯖の焼き物、魚の揚げ物、蒟蒻の煮物、冷奴、サラダ、漬物、蕎麦にご飯。そこらの安ホテルなんぞ適わない。

今夜はおば様方ツアー8人と、よくヨン様に似ていると言われるシ~様(念のため私の意)の9人が、160人収容のVIP客であった、快適。

 今回のルートは塩見岳、間の岳、北岳の縦走コースで、山小屋3泊の展望山旅である。気になる事と云えば、小母様ツァーも同ルートである

 翌日晴天の中、塩見岳に4時間強で登頂。頂上直下は険しく、「!」マークも付いておりそれなりに、それなりであつた。さすがに南アルプスは深い。頂上からは、南アルプス荒川三山、北岳、間ノ岳、仙丈ケ岳、甲斐駒、北アルプス、槍も視野に入る。

尾根筋に熊の平小屋に向かう。明日は間の岳、北岳を超えて北岳肩の小屋泊まり、大樺沢下りとなる。一日目4時間、2日目はのんびり11時間、三日目9時間、最終日4時間,もう歩くのは飽きた!

市営熊ノ平小屋 間の岳  

 2日目の「市営熊の平小屋」もお奨めでした。評点、管理人の人柄A,建物C、料理A、環境設備AA、何故AAかと言うと、伏流水が豊富で直径7センチくらいのホースから、冷たく美味しい水が、ドッドッと溢れている.旨い、冷たい。パンツ一枚になり不純な我が体を洗う。南アルプスの神聖な水で清める事で、我が身は間違いなく死ぬまで生きるだろうと確信した。

その後、おば様方ツァーも谷合の簡易野天冷水風呂でヌードスライドショーを挙行したそうな、私には全く関心はなかった。

 料理Aレシピ、すき焼風煮込み、切干大根の煮物、冷奴、あさり沢山の味噌汁,確実に美味い。だがおば様ツァーの何人かは既に疲れでグロッキー、食べられない。

食べてくれと云う。困っている人の頼みを聞くのもボランティアだろう、表面は仕方なく、内心はほくそえみながら頷く和風
ヨン様。

熊の平小屋も昨夜と同じく二組9人で、小さな体を大の字にして寝る事が出来た。平日山行はたまらない。

 間ノ岳を経て、北岳に来ると、流石に高さ日本ナンバーツーの山、3,192Mである。高度感あり、岩稜あり、何より人も多い。途中北岳バットレスの四尾根を上から眺める。ザワーット震える。400㍍もあると言うではないか。

 北岳頂上で雨となる。雲海の北岳もなかなか風情がある。~水無月の 北岳かすむ そぞろ雨~(なんちゃって俳句

北岳肩の小屋は絶壁に建っている。70㌫の込み様だ。どの山小屋も夜は早い。6時から7時には大半が寝ている。そして深夜3時から4時にはごそごそと這いずり回る。

ライチョウ

 翌朝最終日、北岳を背に大樺沢を経由して広河原のコースをとる。途中今シーズン初めての雷鳥とのご対面である。日頃の無沙汰を丁寧にお詫びし、昨今の環境問題は如何かと問うて見たが、返答がない。ムムー、これは由々しき状況かと環境破壊の人間を代表して深刻に反省した。

 南アルプス林道はがけ崩れで通行不能の為、奈良田から早川町に長時間迂回して甲府に出る。どこか良き隠れ宿で、白濁硫黄の投宿浴泉を探したが、洗濯もせなあかんし・・・帰ろ。

 終始、コースが一緒であった「おば様方ツァーご一行」は60代の淑女?であった。聞いてみた。お父さんは来ないの?そう、来ないの。一緒だと喧嘩するし、だらしないし、歩けないし、家で寝ているの。だからお金は私が使ってあげてるの。(イヤハヤ)

 殆どの人が百名山を目指していた。中には300名山にもうじきよ、という人もいて、同行のガイドより山域に詳しかった。

 私も転勤で埼玉3年経過。数えると3年で深田百名山が40山になっていた。百名山巡りのよさを聞いたので、今年から集中してみた。今回で61山である。年内に80は越すかも・・・目的その一、足腰弱り動けなくなった時、深田久弥の百名山ビデオを毎日一山づつ見て、毎日美味い酒を飲み懐かしむ。百山だから百日は持つだろう。

その後は、寅さん、釣りバカ・・・、アァー老後は楽しみ。だから年金問題は重要なのです。


59.高妻山

  戸隠流忍法の忍者を尋ねて山岳信仰の山へ

 高妻山(たかつまやま)は戸隠(とがくし)連峰の北部にある連邦の最高峰である。別名「戸隠富士」と呼ばれる美しい三角錐の頂上を持つ山である。連峰の南には戸隠山(一九〇四m)が直ぐ側にあり、戸隠神社、戸隠村、戸隠高原、戸隠忍法資料館と戸隠の名前が随所に現れる。

 ここは戸隠忍法発祥の地なのである。平家の時代、木曽義仲の家来、仁科大介が戸隠忍法の創始者で、現在も三四代が技の保存をしていると言う。近くにはチビッコ忍者村などがあり村の雰囲気は忍者村そのものである。

高妻山はその戸隠高原が登山口になる。また高妻山は、平安時代から山岳密教の修験者たちが修業した山岳信仰の霊山として伝えられている。その名残として登山道には鎖や岩に刻まれた足場があり往時を忍ばれる。また登山道には通常一合目、二合目・・・となるが、ここは一不動、二釈迦、三文殊、四普賢、五地蔵岳、六弥ろく、七観音、八薬師、九勢至、十阿弥陀と道標があり信仰の山そのものである。途中にはかなり危険な岩のへつりや鎖場もあり、昔の修行も大変であったろうと想像される。

高妻山

二〇〇四年七月十五日()~十六日()、今回は「毎日が日曜日」先輩、ある山の会の古橋さんと前泊車内泊で計画する。東川口~蓮田~東松山~関越・上信越~信濃町インター~十八号~戸隠キャンプ場で一泊する。惣菜、アルコールをスーパーで購入、何時ものように宴会である。

朝六時スタート、戸隠牧場を一時間歩き牧柵ゲートを過ぎると、滑滝が現れ鎖場、一枚岩のスラブのトラバースがあり危険度百パーセントの難所となる。修験者達がつけたであろう岩の足場は水で滑りやすい。三十分の核心部を過ぎると一不動避難小屋が現れ、ここからは樹林帯の急登となる。サルの群れがいてこちらを威嚇してくる。

いくつかのピークを越えて五地蔵岳山頂に来ると展望が開けてくる。山で辛いのは登ってまた下るアップダウンだ、この山も八丁ダルミという良くない名前の鞍部まで下り、今度はササ原の急登をジグザグ、岩場を越えて高妻山(二三五三m)頂上だ。

避難小屋

この日は曇り、晴れ、曇り、雨と変化し眺望は良くないが、頂上から直下の地獄谷は高度差八〇〇m位で思わず身震いする険しい谷筋が見られる。

 大洞沢という川の源流と登山道は平行しており、終始水は心配なく、涼しい登山が出来る山である。山菜のミズが沢山取れて今夜の惣菜とする。登り四時間半、下り三時間半のコースタイムであった。

この一帯は良い山が多い。火打山、妙高山、雨飾山が至近距離にあり、かつ温泉も良い。早速その名も戸隠神告げ温泉「湯行館」に入り、忍者と逢えるのを楽しみとする。忍者には逢えなかったが、売店の女性が何となく忍者の末裔に見えてしばし見とれていた。このような「くの一忍者」に襲われたら満更でもないな~と二人は同じ考えのようだった。

高妻山は忍者の女性を妻に・・・と言うような由来なのか・・・と考えながら車に乗り一路首都圏へ。


60.61.悪沢岳赤石岳

  個性、スケールは百名山随一の赤石山系

 百名山の中で、南アルプスには甲斐駒ヶ岳、仙丈ケ岳、鳳凰山、北岳、間ノ岳、塩見岳、悪沢岳、赤石岳、聖岳、光岳と十山も集中している。何れも深山幽谷の大森林帯で山が深いため、登山に要する日数も長期化し、結局日数・体力の関係で、私は七回に分けて十山を完登したことになる。

 もはや観光地ともなっている、有名な登山基地を訪れるのも楽しみの一つである。剣岳、立山への室堂ターミナルや扇沢。槍ケ岳、穂高岳、常念岳への上高地。そして南アルプスの広河原、三伏峠、易老渡、椹島等は岳人の耳に心地よく聞こえると思われる。

 今回楽しみにしていた椹島からの登山を計画する事とした。そこは既に標高が一一二三mである。山小屋十一件、バスは全て管理・所有する東海フォレストを利用しなければならないゾーンである。

 私の元職が企業に融資のリース業であるため、関心のある企業は即調べる。調べてみた。

㈱東海フォレストの親会社は大手、㈱東海パルプで製紙業、南アルプスの山殆どが所有地である。東京JR山手線で囲まれる面積の五倍にあたると言う事である。大地主である。

 サワラジマの山小屋  千枚小屋 荒川岳 悪沢岳 赤石避難小屋 赤石岳 赤石小屋 赤石岳の遠景

椹島と書いて「さわらじま」というが、響きが非常によく聞こえる。この一帯がサワラの大木がたくさんあるために椹島と名が付いたのであろうか。サワラはヒノキ科の常緑大高木で三〇~四十mにもなる。収容人数二百人を要する椹島ロッジは元々は東海パルプの電源開発工事の飯場であったそうである。大きな風呂、タタミの部屋、旨い食事、売店、食堂と設備が大変良い所である。ただし山小屋を利用しないと専用のバスには乗せてもらえない不便はあるが、独占企業ゆえ仕方が無い。歩くと数時間も要する。

 二〇〇四年七月二五日(日)~二八日()、山小屋三泊の単独登山とした。東京駅八時二三分、JRで静岡に九時五三分到着、静岡鉄道バスに揺られて三時間半、一四時に畑薙第一ダムの中継地点に着く。ここでマイカー、一般車両は立ち入り禁止となり、ご存知東海フォレストの一日数便の小型マイクロバスに乗り、砂利道の悪路を椹島ロッジに十五時半到着となる。何と自宅を出てから移動に九時間の行程であった。

 ホテルのロビーのような広い受付で説明を受けて、タタミの二人部屋となる。十人も入れそうな風呂で長旅の疲れを取り、バスで顔見知りになった登山者と涼しい庭で先ずは乾杯! そしてやはり評判通りの旨い夕御飯でまたまた杯を重ね合う。

 翌二六日(月)、本日は雨。椹島ロッジ(一一二三m)を七時二〇分スタート、登山者は凡そ同時間に二〇人。樹林帯の中を蒸し暑さで汗をかきながらの最悪のコンディションである。滝見橋、つりはし、ハシゴを通過し、小石下、清水平、蕨段、見晴台まで来ると荒川三山や赤石岳が見えるはずが何にも見えない。黙々とひたすら汗をかき、千枚小屋(二六一〇m)に一四時五〇分到着。七時間半、千辛万苦の最悪の登りであった。救いは小屋が綺麗で新しい事。周囲には百花繚乱、ミヤマキンポウゲ、ハクサンフウロ、シナノキンバイ・・・。

 三日目、二七日()は快晴に恵まれ早朝四時発。ヘッドランプを点けて千枚岳そして丸山(三〇三二m)に五時着。握飯と朝日で南アルプスを満喫する。荒川三山は悪沢岳(東岳とも言う、三一四一m)、中岳(三〇八三m)、前岳(三〇六八m)の総称である。深田久弥は悪沢岳を尾根の屈託の無い伸び伸びした姿勢、大岩石の散乱した異様な眺め、広々とした高原、圏谷状の大斜面などいずれも個性が強く特徴のある風景がそこに展開していると表現している。まさしく一字一句その通りである。

 悪沢岳の由来は悪沢の源頭にあるため悪沢岳と呼ばれるらしいが、私は「悪」という極端な個性の強い字に何かがあるのでは?と想像し、何かしら怖いイメージで強く印象に残り、気になる山の一つである。     

赤石岳

南アルプスは正式には赤石山脈と呼び、フイリピンプレートと太平洋プレートの押上により隆起して出来たという。今でも僅かづつ移動しているという。

    

悪沢岳からの眺望は筆舌に尽くしがたい程の大パノラマで、富士山、北アルプス、南アルプスの北部が見事に広がり立ち去りがたい。

続いて中岳、前岳、そして赤石岳と歩くコースは南アルプス最大の核心部であり、天上散歩に匹敵するスケールをもつ山旅である。 

お花畑の中の斜面を下ると荒川小屋、そして大聖寺平、小赤石の肩、小赤石岳を詰めるとつい

に赤石岳に到達する。一三時四十分であった。とにかく大きく雄大、見事に稜線が走る。

ハイマツが谷底にまで伸びている。聖岳がすぐ其処に見えて早く来い、と誘惑しているよ

うでもある。

 深田久弥が赤石岳を次のように表現している。これほど寛容と威厳とを兼ね備えた頂上

はほかになく、あらゆる頂上の中で最も立派である、と。

頂上には三〇人位が感嘆の声をあげ長い道のりを終えて喜び合っている。満足して今夜の

宿は赤石小屋へ更に一時間半、十七時の到着。一三時間の行程であった。疲労困憊である。

                       最終日、二八日(水)は下山日。六時一〇分発、四時間で一〇時椹島に到着するが、この

四時間が非常に長い。日本の三大尾根とはよく言ったものである。

 ロッジの風呂に入り、冷たいビールとラーメンに舌鼓を打ち満足感にしたる。そしてま

た長い道のりをオンボロバスと電車に揺られて夜九時に久し振りに東京へ。


62・63 至仏山平ヶ岳

  尾瀬ヶ原にゆったりと横たわる至仏山、上越国境の最高峰平ヶ岳

 一ヶ月前に尾瀬界隈の会津駒ケ岳と燧ケ岳を登り印象薄れない内にと、山域の至仏山と平ヶ岳を計画した。夏山のベストシーズンである。

 二〇〇四年七月三十日(金)~三十一日(土)マイカーで東川口五時出発、関越道を北へ向かう。この関越道は何十回走ったことだろうか、谷川岳へ行くにも、新潟方面に行くにも、また込み合う首都高、中央道、東名道を避けて上信越道の長野、静岡に抜けるにも至極便利な路線なのである。本日も好天である。

 関越、沼田ICから片品村、戸倉へ八時着、尾瀬の自然を守る為マイカーはここまで、バス往復一八〇〇円に乗り登山基地・鳩待峠に九時四〇分着。さすがに登山者は多い。

尾瀬ヶ原の南西端にゆったりと横たわる至仏山は、北東に相対する燧ケ岳と共に、尾瀬の景観を描き出すシンボル的な存在である。鳩待峠一五九一mから至仏山頂上二二二八mは標高差六百m強で登る二時間は比較的楽なアプローチである。ブナやダケカンバの茂る尾根を緩やかに登ると、ほどなく樹林は針葉樹のオオシラビソに変わり、オヤマ沢田代に出る。

既に花の季節で、ハクサンコザクラ、シナノキンバイ、チングルマが歓迎してくれる。

   

                               鳩待峠待合所              蛇紋岩の至仏山頂        山頂からの尾瀬沼
 
 

やがてハイマツと蛇紋岩が目立つと尾瀬ヶ原の光景が目に入ってくる。こげ茶色の岩石、蛇紋岩はここ至仏山、北海道の夕張岳、アポイ岳、岩手の早池峰山に見られ、高山植物の宝庫として知られている。ハヤチネウスユキソウに対し、こちらはホソバヒナウスユキソウと呼ばれている。頂上の露岩は燧ケ岳の大きな露岩をこげ茶にしたような大岩石だらけである。眼下には池塘の点在する尾瀬ヶ原が広がり、その向こうに燧ケ岳が聳えて、会津駒や平ヶ岳もかすかに雲の間に見え隠れしている。

 同じコースを戻り鳩待峠一三時三十分、沼田IC一四時三十分、関越道を一路北へ。谷川岳の真下を通る長い関越トンネルを越えると、川端康成のそこは雪国、湯沢町である。

高速道路の両サイドは右を向いても左を見てもスキー場だ、まさにスキー銀座である。

 越後の国、小出ICから三五二号線の牧歌的な農村地帯を通り、一時間で銀山平の伝の助小屋に着く。地図では奥只見シルバーラインとあるが、私はこんなに怖くて気味悪く、心細い道路は始めてである。農村を過ぎると、直ぐトンネルの連続、カーブの連続、しかも細く、上からしずくが落ちるし、四〇分位が二時間ほどに感じるのだ。その上、トンネルの中で信号機まである、三叉路を右ですよ!と小屋の人に電話で念を押されていた信号機だ。赤信号で止まっている時は幽霊でも出そうな雰囲気の長い長~いトンネルであった。

このシルバーラインは田中角栄元総理大臣が選挙区新潟のこの地の為に作ったそうだ。人口さほどもないこの辺境の地にである。その前は獣道の様なつづら折の険しい道で、未だそこここに名残がある。周辺は奥只見湖や奥只見ダムがあり、釣りのメッカである。

その釣り客の為に設けたのが伝の助小屋である。

  

         温泉もある伝の助小屋                 名前の通り平らな平が岳頂上                 卵石の奇岩              平らな頂上いったいは木道

 ここに来る一ヶ月前、会津駒ヶ岳、燧ケ岳の帰り道、バスの中での乗客の話によれば、皇太子道路を利用すると、平ヶ岳は登り三時間半で行くそうだ!と聞き及んだ。殆どの地図は福島県檜枝岐村の六時間コースしか情報開示されていない。往復十時間でしかも近年、尾瀬一帯にはクマが出没するし、余り人気も無く、団体でなければ危険そうな山である。

躊躇していた矢先の情報である。早速困った時のインターネット頼み、ありました、

WWWdennosukecom/ 温泉付送迎有、往復五時間半、一泊二食一万千百五十円。

即、電話予約し、来ました、辺境の地へ。民宿が二~三件。釣客と登山者で儲けたのか、旅館風で内風呂も露天風呂もある。何より温泉である。五十人は泊れようか。五十がらみの親父が食事のレシピを語り出した。山菜の名前と取り方などなかなか聞かせる。非常に愛想は良いし、気持ちの良い山小屋である。関東の有力山岳ツアー会社、アルパインツアーサービスの案内でもこのコースを利用していることを後で知りえた。今やこのコースが主力であると言う。

 このコースは別名、皇太子道路と呼ばれているそうだ。皇太子が平ヶ岳山行を計画した時、以前からの十時間コースは長すぎるのと、途中山小屋も無いので突貫工事で作られたそうである。地元から七〇人の人間が借り出されたと言う。だから登山口から稜線までは、ほぼ急登、直線に登るきついコースである。面白いのは稜線に出ると、新しい立派な道標、案内板、木道がしっかりあり、「環境庁」「新潟県」がしっかり刻まれている。いかにもお役所仕事で皇室にアピールしている何物でもない、主力のコースでもなく、未だに地図にも無いのにである。インターネット書き込み記事には批判だらけである。

 利根川と只見川の分水嶺をなす平ヶ岳は、新潟上越国境の最高峰で、名の通り頂上は平らな高層湿原が広がる。頂上からは越後三山の越後駒ケ岳(二〇〇三m)、中ノ岳(二〇八五m)、八海山(一七七八m)が白い峰を抱いて雲の上に飛び出ている。

 分水嶺から関東平野に流れ、千葉県銚子で太平洋に流れ出る利根川は、別名坂東太郎と言う格好の良い名がついている。日本の三大河川の異名は坂東太郎(利根川)、筑紫次郎(筑後川)、四国三郎(吉野川)で坂東太郎は長男各で昔は「暴れ川」とも呼ばれ、氾濫の常習犯で関東地区を困らせていたそうである。その氾濫を解消するため河川を切り替え、千葉県に流出させその後、今は江戸川となっている。最近、歌唱力抜群の成世昌平が坂東太郎を歌っており味わい深い歌である。

 伝の助小屋を四時出発、登山口は奥只見湖から林道ゲージ(民宿経営数人の共有地で通常カギ必要)を中ノ岐川に沿い、中ノ岐林道を通り、登山口(一二三九m)に五時十分着。

昨夜満員の中の登山者二十人が一斉に登り出す。四〇分で、朝飯で作ってくれた握り飯を五葉松(一五二〇m)の大木のある景色抜群の所で若者三人と食べる。中高年組はかなり遅れているようだ。とにかく急登の連続できつい山だ。皇太子は体力があり、早足でお付の人やマスコミが大変と聞く。大杉(一六五五m)六時二五分、木道出会い(二〇五六m)七時半、源流のキャンプサイト(二〇三五m)七時五十分、平ヶ岳頂上(二一四一m)八時三十分であった。頂上は草原と池塘が多く、見渡す限り平原に近い。遠くから見て平なのが頷けよう。

 夏の湿原を彩るキンコウカに見とれ、玉子石の奇岩に驚き、二時間半で下山する。迎えのバスに乗り、山小屋の水車前の清水、PH六・五の美味しい水をありったけのペットポトルに汲んで怖い幽霊街道を緊張感一杯で帰路に着いた。皇太子有難う。道路を使いました。


64白山
    ハクサン○○と名がつく植物は三〇種以上、高山植物の宝庫

    

 海外遠征でモンブラン、キリマンジャロ、キナバル登山で同行した、古橋さんとは国内百名山でも四度の山行をしていただいた。

外国語には長けており、山の経験も豊富、料理も上手、酒も強い。また共に県連の海外委員もしており、委員長で登山ガイド兼海外登山ツアー会社のガイドもしていた宮崎さんを含めてよく旨い酒を飲み交わした。今回は白山、荒島岳、伊吹山三山を企画した。

結果的に白山のみで、前線が急遽台風になり他の二山は中止となったが、素晴らしい白山に酔いしれることが出来た。

 二〇〇四年八月三日(火)~五日(木)、車での移動とする。自宅の東川口八時発、蓮田に古橋さんを迎えに行き、関越道・北陸道をつなぎ、金沢西インターに十五時到着する。

更に石川県金沢市の落ち着いた、たたずまいの城下町を通り、加賀百万石の田園地帯を通過して白峰温泉、市ノ瀬の白山温泉を過ぎると登山基地別当出会に十七時三五分着となる。

途中のスーパーで酒、肴を買い込み車内宴会、車内泊とする。広い駐車場には同じ車内泊組が二〇台ほどいる。白山から流れる手取川の轟音が良い子守唄となり疲れも手伝い爆睡する。周辺には建物も無く明かりがないためか、見上げる夜空は宝石箱をひっくり返したような輝きであった。

 白山に来る前、予備知識を深める為ににわか学習をしておいた。北国、北海道出の私はこの地方の文化に乏しい。白山は石川県と岐阜県の県境にあるが、一帯の白山国立公園は、石川、福井、岐阜、富山の四県にまたがっている。日本アルプスは岐阜、富山圏内に多いので何度かは行く機会があったが、この際名所・観光地等を羅列して整理してみた。

★石川県(人口一一七万人)

日本三名園の兼六園、焼失した城を復元している金沢城、前田利家、加賀百万石、東尋坊、和倉温泉、輪島塗、能登

★福井県(人口 八二万人)

  荒島岳、九頭竜川、越前大野の朝市、越前かに、浅井朝倉の朝倉、越前和紙、佐々木小次郎の生地、鯖寿司

★岐阜県(人口二一〇万人)

  北アルプス(御嶽山、乗鞍岳、奥穂高岳)、木曽川、長良川、鵜飼、世界遺産の白川郷、下呂温泉、飛騨高山、関ヶ原、恵那山、野麦峠、郡上八幡

★富山県(人口一一一万人)

 北アルプス(白馬、鹿島槍、剣、立山)、世界遺産の五箇山、黒部川と黒部ダム、富山湾のホタルイカ、北前船、越中おわら風の盆

 この年、念願の二つの祭りと言うか、盆を見る機会があった。郡上八幡踊りと越中おわら風の盆である。二つ共に日本を代表する伝統ではなかろうか。強烈な印象として夏の思い出として残ったことは云うまでも無い。

郡上踊りは何と一ヶ月間も狭い街で、踊りも十種類もある。盆の三日間は徹夜踊りである。人口二万人以下の町に七・八月の二ヶ月間に五〇万人も押し寄せ、観光客も一緒に踊る。

一方、富山県八尾(やつお)町は人口二一千人、風の盆は三日間で三十万人も押し寄せる。こちらは静かに暗い想いを込めた踊りである。観光客はひたすら見るだけで、参加はしない。胡弓と三味線主体、踊り手も男衆、女衆に分かれて深い笠をかぶりスローで静かだ。小雨が降ったら踊らない。胡弓が一本百万円もするのと、高価な衣装の為らしい。こちらは自分達だけで楽しむのが本来で観光客を相手にしていない。むしろ迷惑に思っているらしい。だが町の関係者は観光客の使う金は財源としては魅力である。では何故、歓迎されない観光客が押し寄せるのか?

 二つの要因があるようだ。高橋治の小説「風の盆恋歌」が一九八七年に書かれ、佐久間良子が主演し、その後テレビドラマ化した。そして一九九一年、なかにし礼が高橋治の小説を読み感銘を受けて、八尾に出かけ出来上がったのが「風の盆恋歌」。三木たかし作曲、石川さゆりが歌う。この小説家と作詞家の二人が仕掛け人といえようか。 

   ♪ 蚊帳の中から 花を見る 咲いてはかない 酔芙蓉

      若い日の美しい 私を抱いてほしかった しのび逢う恋 風の盆

 歌の一説である。女の情念を歌えば右に出る歌手はいないと言われる、石川さゆりが切々と歌い上げる。哀愁を帯び、やるせないメロディーは、遠く故郷に残した若い頃の、淡い思い出を心素直に思い起こすような不思議な曲である。

 酔芙蓉という花は、朝は白い花が夕方には酔ったように赤くなり、その日の内に落ちてしまう艶やかで悲しい花だという。小説も歌も不倫を題材としている。胡弓も哀愁、踊りも切なく静か、唄う歌はもっと切ない。

 小説の中身は、自分がこの人と結婚して人並みに幸せであるが、若い頃出あったあの人ともしも結婚していたならば、どうであっただろうか、を実践した不倫であるそうだ。

世の男も女も一度はそういう危険な曲がり角に遭遇しているだろうし、半ば期待しているやもしれない。だから小説も歌も踊りも静かに人の心を打つのであろう。

今や二一千人の町にたった三日間で三十万人が集まる。人間の不倫の琴線に火が点いたのかも知れない。八尾の踊り手全員が不倫をしていて切なく踊っているのではなかろうか、と勘繰りたくなるような情緒たっぷりの街の雰囲気であつた。

 では何故、八尾の九月一日~三日のお盆祭りが「風の盆」と呼ばれるかと言うと、九月の台風時期に白山を越えて吹く風がフエ―ン現象を起こして過酷なために治めたい一念の祭りのようである。

 その白山は越前、越中を含む北陸四県に大なり小なり影響を与えてきたようだ。古くから人々の信仰を集め、富士山、立山、白山は日本三名山と評されている。この一帯は一億年余り前には湖底にあって、その後少しずつ盛り上がって何度も噴火活動を繰り返して火山として誕生し、今日に至っていると言う。

 白山の中の名称で、立山と同じ名称が多いのに気がつく。室堂、別山、御前、大汝等である。曰くがあるのだろう。

 白山は深田久弥の生誕地でもある。文学碑には次のように記されている。「山の茜を顧みて/一つの山を終りけり/何のとりこのわが心/早も急かるる次の山」皆、同じである。

 日本海を航行する北前船や漁師たちは、海原から白山を望み、航海の指標にしたという。また白装束に身を包んだ修業の人たちは全国から信仰の為に集団で登る。そして白山は高山植物の宝庫でもあり、命名者(山?)でもある。ハクサンコザクラ、ハクサンフウロの様にハクサンがつく植物は三十を越えるらしい。

 八月四日(水)別当出会(一二六〇m)を朝五時半発、今回は登りに砂防新道、下りに花が多い観光新道のポピュラーなコースを選んだ。室堂センター(二四四八m)に九時十分到着する。さすがに名山で、登山道は三人が並んで歩けるほどの広さ、殆どが石畳で歩幅も小さく子供も楽々歩ける。砂利・小石一つ無い。女性、子供、老人も多い。整備されているので修業僧は薄い地下足袋もいれば、はだしの人も数人見かける。花が見事に咲いているし、花園が頂上まで延々と続いている。眺めも素晴らしい。日本海も視野に入る。

   

 室堂センターは七百人を収容する小屋もあり、ビジターセンター、簡易郵便局、簡易診療所も併設されている。百名山の中でも環境整備でいうとトップクラスであろう。景色と花が加わるとナンバーワンといえようか。最高ピークの御前峰(二七〇二m)に九時五五分到着。三六〇度の絶景である。北アルプスからこちらを見る機会が多かったが、白山から御嶽山や穂高を見るのも角度が変わりよいものだ。下山に三時間十分を要し、白山温泉の「日本秘湯を守る会」の永井旅館で汗を流す。昔はここに一泊して白山に登ったと言う有名な旅館である。次の山、荒島岳の麓、勝原(かどはら)スキー場に車中泊、車中宴会をしたが、夜半から大雨に変わり、諦めて九頭竜ダム、名古屋経由で帰途についた。



65・66・67・68 薬師岳水晶岳鷲羽岳黒部五郎岳

秘湯 高天原温泉に酔いしれる

山は何と行っても北アルプス。その北アルプスの中でも最奥の薬師岳と黒部五郎岳、更に水晶岳の別称を持つ名峰黒岳、鷲の姿を彷彿させる鷲羽岳の四山を繫いで歩くコースが今回の長大な山旅である。

 今年の夏は特に暑く、下界に住んでいると寿命が縮まりそうなので、必然的に山行の計画が多くなっている。ちなみに7月は20日間山篭りしていた。

 吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」 ♪ハア、テレビも無エ、ラジオも無エ、ガスも無エ、自動車もそれほど走って無エ・・・俺らこんな村いやだ~♪ 長らく山にばかりいると、「田舎の兄ちゃんワールド」がしみじみ分り都会が恋しくなって下山して来る。まさに輪廻転生、否、流転転生と言うべきか。

 今回の山行の目的は、黒部川の源流と黒部五郎岳の巨大カールを尋ねること。さらに森の天然クーラ&森林浴シャワーを楽しみ、ひっそりとたたずむシラビソの木々とサルオガセが垂れる幽玄の世界を、さらにさらに2,100Mの高地にある秘湯中の秘湯、これぞ「高天原温泉」を訪ねる事である。

 2004年8月8日(日)、大宮駅から新幹線(贅沢とご先祖様からお盆ゆえ叱られるかも・・・)、越後湯沢から特急はくたかで富山駅に3時間で着く。「富山地方鉄道」のローカル線とオンボロバスで登山基地「折立」である。

電鉄と山駅 薬師岳登山口 太郎平小屋  薬師岳

 標高1,350Mの登山口から本日の山小屋である、太郎平小屋2,373Mまで標高差1,000M、最初からキツイ。太郎平小屋はオーナーが富山県で五十嶋商店という地酒販売をする法人と聞く。

他に薬師沢小屋、高天原小屋等五ヶ所の経営である。冷蔵庫もある、よって生ビールもある。大、千円也。

 翌日、薬師岳に登る。深田久弥は「この膨大な山は、行けども行けども、頂上はなおその先に会った」と、山の大きさを描いている。黒部川の源流の一つ、奥の廊下近くに2日目の薬師沢小屋が谷合にある。

売店では水温5度Cの水がドクドクと溢れていて、ビールが凍る寸前のようである。ビールも美味いが、水がより美味い。ザア~、ザア~っと流れのきつい川が今夜の子守唄となる。酒の酔いも手伝い至福の時間へと落ちていく。

 3日目、もっとも楽しみな景勝ポイントと温泉の日である。標高差500Mの垂直に近い壁を登りきると、そこは標高2,500Mで、その名も「雲の平」という。アラスカ庭園、アルプス庭園、ギリシャ庭園、スイス庭園と続き、岩、ハイマツ、チングルマ、イチゲ、キスゲ、池塘等で見事である。まさしくトロピカル、ハーレム、パラダイスの楽園である。木道を歩く先行者が見とれて立ち止まり進まない。

薬師沢小屋 アラスカ庭園 高天原  高天原温泉の野天風呂

「高天原温泉」(たかまがはらおんせん)、何と響きのよい言葉ではなかろうか・・・。混浴風呂に天女様が一緒に入ってくれそうな文字、響きである。三日目の小屋、高天原山荘から徒歩、行きは20分、帰りは三十分(登りなのだ)。 標高2,100m。みくりが池温泉2,430m、本沢温泉2,150mに次ぐ高所温泉NO3。

白濁、硫黄の野天風呂、傍らには黒部の源流がザザザ~ッと流れ落ちてゆく。谷合の傾斜のきつい斜面にはシラビソが張り付いている。素晴らしいロケーションである。缶ビール、タオル片手に男も女もえびす顔でニッコ、ニコ。平和。。。

 山荘の管理人が二日に一度、温度調整で管理してくれていると言う。勿論入浴は無料である。どこかの温泉みたいに、六一〇ハップなんぞは使っているわけは無い。山荘もまた良い。築40年以上という、鉄骨の入った小屋は雪の重さでしのって傾いている。それが良いと、地元のテレビ局が来て放映するという。壁の絵も、忠実に大げさに傾いて画いてある。

 今回の山行中、20代、30代の若者が非常に多かった。やはり北アルプスそのものが一際ロマンを感じさせるのかもしれない。大学の同好会やワンゲルと何組もすれ違う。あどけない少女のような子が多い。皆、明るくハキハキと大きな声で応答してくる。

 4日目は水晶岳,鷲羽岳と登り、黒部五郎小舎に泊る、11時間の長い行程である。

2,977mの水晶岳は岩だらけのアルパイン的登りで緊張感を多少感じる。雲の平から眺めると逆光で山全体が黒く見えることから黒岳というのが本名らしい。

頂上からは快晴の時は百名山が35座くらい見える模様である。この日は17座が視野に入った

昼弁当が実に美味い。槍のような尖ったキンピラゴボウ、剣のような三角すいのニンジンのシッポ、御岳のような台形の大根の煮付け・・・。思わず、すぐそこに見える槍や剣、御岳にも箸が伸びそうになる。

 水晶岳で水晶のかけらが落ちているのを少々戴く。聞く所によると昔はかなり産出したそうな。そこで、これからの山行費用捻出の為、所属する山岳会の心優しいお姉さま方に、一個百万円相当の水晶を、特別一万円で先着順で受け付けさせていただきます。貴婦人になりますぞ~。

 水晶岳から水晶小屋を通過し、左に野口五郎岳を眺めながらワリモ岳を経て、鷲羽岳を目指す。馬の背のきつい登りを喘ぎながら、ふと顔をあげると左前方に槍ヶ岳が凛としてたたずんでいる。立ち止まっては雄大さに見とれる。水晶岳から三俣山荘には転げ落ちるような急峻な下山道があり、神経を使う。三俣山荘の水場で、ホースから溢れんばかりの冷たい水で疲れを癒す。

  水晶小屋  黒部五郎岳

 疲れを癒し、疲れた体をだましだまし、今夜の小屋黒部五郎小舎を目指す。歩き出して既に8時間、後2時間強である。雪渓と小川が幾つも現れ高度の高さが窺い知れる。   

今夜の山小屋のオーナーは、双六小屋、鏡平小屋、わさび平小屋と4件経営で山岳写真家の小池潜さん、業界で有名。綺麗で食事の美味しいので評判である。盆前であったが、ここだけが布団二枚に三人、他の山小屋は悠々一枚の布団であった。快適。。。

5日目最終日はいよいよ黒部五郎岳、名前の五郎の由来がゴロゴロした岩がたくさんあることからと言う通り、岩だらけの大カールである。カールの雪渓から流れる水は一層美味しい。頂上から見える白山が又一段と格好良く近くに見える。頂上から太郎平に通じる登山路は西銀座ダイヤモンドと呼ばれるごとく、素晴らしい展望と壮大な眺めであった。

今回、山行中終始同ルートをご一緒いただいた石川県のK氏。私と姓名が類似している事とお酒を楽しく飲む名人でもあり、山行歴が長く白山に100回以上登ったという大先輩に親しくしていただいた。

歩行中の話題の中で、石川県の歴史の講義を拝聴する。京都と並んで伝統産業が盛んで、金沢や山中の漆器、九谷焼、加賀友禅、水引・・・。金沢城と加賀百万石、前田家のその後、日本三名園の兼六園、そして山中温泉、和倉温泉・・・。話は上手で尽きないのでした。私にとっていつもながら、山は雑学研修の場でもある。この方は65才と言われるが、健脚で同行するのがやっとであった。元気で知性溢れ、趣味も幅広く温かい人柄であった。

是非同様に年を重ねたいものだと自覚した山行でありました。


69・磐梯山

「♪ 会津バンダイ山は宝~のや~ま~よ~♪」に宝探しに行く

・会津と長州の時代の考証・・・四〇〇年の恩讐を越えて今なお

 二〇〇三年十月 五八才で早期退職し、以降山三昧の生活を楽しんでいた。翌年八月は百名山に限っては一〇山、十六日間も山に入っていたことになる。家には洗濯をする為に帰ることと、友人と酒を飲み談笑するのが目的であった。

 ある日の居酒屋で、何時ものように元勤務先の板坂、田川さんと旨い酒を飲んでいる時の話題の中で、田川さんから意外な話が出た。夫婦で運動の為に登山用具を一式用意し、先日奥多摩のハイキングに早速行ってきた、と言うではないか。登山には興味の無い人と思っていたので、それを聞いて嬉しくなり、早速、「百名山楽勝に登れる磐梯山・八方台コース」を提案し、四人で行く事となった。

 二〇〇四年八月二一日()~二二日(日)の晴天を選び、車で東川口を朝六時出発。東北道、郡山JCTから磐越自動車道の磐梯河東インターで一般道へ、磐梯山ゴールドラインを走り一〇時に猫魔八方台(標高一二〇〇m位)の登山口に到着する。

 百名山を訪れるのは、田川さんは二度目である。一度目は万座温泉に行く時の草津白根山、ハイキングコースでありついで登山をしている。そして三度目は天城山であった。

 二人の装備は完璧でしかもピカピカである。私と板坂さんの使い古したヨレヨレとは比べようも無い。羨望の眼差しを背に受けて、夫妻は足取り軽く樹林帯の登山道を歩き出す。凡そ三十分、今は廃墟となった中ノ湯温泉(一二九〇m)までは勾配は無くルンルンである。温泉跡の周辺はガスがあちこちから噴出し、「危険!有毒ガスに注意」の看板もある。

下山時に温泉跡の池のような温泉に足湯したが、結構良い温泉であったようだ。

 温泉跡から休憩小屋の弘法清水小屋(一六八〇m)までの一時間がこの山の核心部である。視界のきかないひたすら登りであり、苦難を背負って歩く人生のようでもある。しかし、二件の小屋の近くには高山植物のミヤマシャジン、ミヤマキンバイ等が咲き乱れて、登山者に微笑みかけてくれる。小屋の売店では飲物、カップラーメン、御土産を販売している。さすがに人気の山である。小屋の前の窪地からは、冷たい清水が湧き出ており喉を潤してくれる。元気を出して更に三十分、頂上を目指す。今日は天気もよく、登山者も多い。田川さん夫妻も元気溌剌、旨い空気とそろそろ見えてくる三六〇度の景色に期待して足取りは軽いようだ。これで山キチがまたまた二人増えそうだと、私は内心ほくそ笑む。

会津市内から磐梯山を見る  磐梯山から猪苗代湖  会津鶴ヶ城

 磐梯山頂上(一八一九m)に十二時半たどり着く。見事な景色で大勢の登山者が感嘆の声を上げている。遠く東には智恵子が云うほんとの空の安達太良山、吾妻山、北には飯豊連峰、朝日連峰が鮮やかだ。目元には、北に火山で出来た桧原湖、秋元湖、南にはでっかい猪苗代湖が広がっている。西にはこれから宿泊・観光する会津若松が待ち受けている。

三十分間、頂上で飽きない眺望を楽しみ、旨い握飯を食べて童心にかえる。惜しみながらも二時間後に八方台に下山し、温泉地のホテルへと心躍らせる。

今回の温泉は、会津若松の奥座敷東山温泉「ホテル滝の舞」にした。食事も美味しかったがやはり米どころ、会津のコシヒカリが特に旨い。

会津地方民謡、「会津バンダイ山は~宝~のや~ま~よ~♪」で、金銀財宝が至る所に埋まっている宝の山と思っていたが、宝はどこにも見当たらなかった。既に持ち去られたか。後日調べると、それはこの地の豊かな水と土、温泉、酒、農作物そして優しさに満ちた人々が宝そのものと言うらしい。

会津の「津」というのは、水の豊かな土地をさし、豊かな水は肥沃の大地を生み、夏、高温の盆地性の気候は米作りに最適だという。コシヒカリの産地として新潟魚沼群とは県境の山を挟んだ反対側で、気候風土も似ており産する米の美味しさは引けを取らないといわれているという。

山の由来は、磐梯山の磐は「いわ」、梯は「はしご」であるから、「天に届く磐の梯子」を意味しているそうだ。会津といい、磐梯山といい何と目出度い地方の文化であろうか。

翌日、八月二二日は観光。白虎隊の飯盛山、武家屋敷、鶴ヶ城、会津市内を回り、歴史勉強をする。「会津」を見る時、対比して「長州萩」も合わせて時代の考証をしたいので、二〇〇六年一月、萩、山口、下関等を見学してきた。この時は安藤さんがやはり早期退職をして、退職記念旅行ということで、安藤夫妻、田川奥さんの四人での旅行であった。

 現在の会津若松市萩市を見る時、「因果応報」と言う言葉を思い出す。辞書によると、前世あるいは過去の行為が因となり、その報いとして現在に善悪の結果がもたらされる事とある。取敢えず、歴史の復習で両市を比較してみた。

 

★人口と面積

  会津若松市・・・人口 十三万人。 面積 三八三㌔㎡

  萩   市・・・人口  五万人。 面積 一三八㌔㎡ 

   圧倒的に会津が広く、土地も肥沃、人口も二.五倍である。萩は山陰地方の山の中で隔離されているような田舎だが、僅かに海に面している地方都市である。

★戦国大名(城主)

  会津・・・葦名一三八四年~伊達一三八九年~蒲生一五九三年~上杉一五九八年~

再蒲生一六〇一年~加藤一六二七年~保科(徳川直系)一六四三年~松平(徳川直系)一八六二年~明治改元一八六八年

  萩 ・・・陶晴賢(すえはるかた)、大内義長、尼子義久を謀略家の毛利元就(一四九七年~一五七一年)が滅ぼし、明治まで毛利一族が続く。途中、毛利輝元(一五五三年~一六二五年)は五大老の要職により関ヶ原の西軍総大将となるが、徳川に敗れ一二〇万石から三七万石に減封される。明治維新時は毛利敬親(一八一七年~一八七一年)で明治となる。

★ゆかりの人物

  会津・・・山鹿素行、河井継之助、近藤勇、土方歳三、松平容保、野口英世、遠藤敬止(城保存の為、私財を投じ松平家に寄贈した七七銀行頭取)

  萩 ・・・吉田松陰、伊藤博文、木戸孝允(桂小五郎)、久坂玄端、高杉晋作、山県有朋

★歴代総理大臣

  会津・・・なし(福島県含む)

  萩 ・・・伊藤博文、山県有朋、桂太郎、田中義一(以上、萩)寺内正毅、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三(山口県出身含む) 八名。

★名産

  会津・・・宝の山(水・土・温泉・酒・農作物・人情)

  萩 ・・・萩焼き、夏みかん、水産物、稀有の人材

 

 秀吉の時代は徳川、毛利共に五大老で平等の地位。秀吉亡き後は東軍大将の徳川に対し、

西軍の大将に毛利輝元が名目上とは言え担ぎあげられて敗れ、一二〇万石から三七万石の

奈落の底に落とされる。当然城主は勿論、家来も辛酸を舐めること明治までの二六〇年、

外様大名の悲哀を味わうのである。この間「徳川憎し」の感情が醸成される。毎年、正月

に家来が殿様に謁見する時、倒幕はいつにと問うと、時期尚早と殿様が応える慣わしであ

ったと言う。そして開国の時代、長州征伐でまたもや幕府から圧迫を受ける。一方徳川の

時代、直系の保科、松平の城主をいただいた会津は、「宝の山」の土地にあり、わが世の春

を謳歌したであろう。ここで因果応報、薩長連合のもと一八六七年大政奉還、翌年戊辰戦

争で会津と長州萩は主客転倒する。じっと堪え忍んできた長州には反抗心が宿り、人材が

育つ。吉田松陰という稀有の逸材のもとに総理大臣が続々と輩出される。今度は謳歌して

いた会津は辛酸を舐めることに成る。有能な家臣、人材は反骨から生まれる見本であろう。

 では、城はどうなったか。長州萩城は明治七年の廃城令により破却され、石垣と堀の一

部が残っているに過ぎない。勝った長州なのにである。一方、会津の鶴ヶ城は市民が払い

下げを受けて松平家から市に渡り、立派な城が保存されている。だが、皮肉にも戊辰戦争

の時、薩長に攻められた時の城下町の火事を、城が焼けたと勘違いし飯盛山で自決した白

虎隊の悲劇を思い出す時、会津と長州の確執がなお深まるのであろう。

 萩市を訪れて意外であったのは、理解してはいたが、山を越えて片田舎に有る辺ぴな町

で、面積も狭く、市町村で云うならば村のような規模であったことである。松下村塾を見

ても、小さな小屋のようであり、全てに小さい。しかし大志はどこにでも育つし、外見で

は判断できない事は実証されたのである。

 飯盛山の白虎隊の墓前、ボランティアの初老男性の流暢な説明に聞き入る。涙が誘われ

るようなとつとつとした語りには否が応でも会津の悲劇が伝わる。町の中にある城はその

様なことが有ったとは知ってか知らずか、悠然と聳えている。またもっと上から見下ろす

会津磐梯山は歴史を大昔の太古より眺めているのであろう。「宝の山」としてこれからも。

萩城址

今でも長州と会津人の結婚はかなり難しいという。果たしてこれからの萩と会津若松は歴

史に何を残すであろうか。環境と人材の重要性を痛感した二つの町であった。

 それにしても登山の時、田川さんの奥さんのタフさ元気さ、そして萩、下関旅行での田

川、安藤両奥さんの元気さと好奇心と大胆さには目を見張る。町中に夏みかんがたわわで

ある。一個下さい、と言いつつ三個も戴く。戦国時代の奥方も武将に負けず劣らず優秀で

あったろうと想像した。たくましい女性がいるならば、世の中はいつまでも平和である


70.71・武尊山苗場山

  日本武尊(やまとたけるのみこと)に会い、苗場の高層湿原を散歩する

 日本三大岩場で知られ、天下の名峰と呼称される谷川岳の下を関越自動車道は群馬県側から新潟県側に南北に走る。その谷川岳を挟んで直ぐ東に武尊山(ほたかやま)、そして西には苗場山が控える。今回は至近距離にあるこの二山を計画した。

 谷川岳を中心として半径五〇㎞以内に百名山は十六山が集中している、まさに百名山銀座といえよう。地理的に北東から西南に越後山脈の大動脈が走り、栃木、群馬、新潟、長野の県境に十六山は位置している。北から越後駒ケ岳、会津駒ケ岳、平ケ岳、燧ケ岳、至仏山、武尊山、男体山、日光白根山、皇海山、赤城山、巻機山、谷川岳、苗場山、草津白根山、四阿山、浅間山である。

 二〇〇四年八月二五日()~二六日(木)、平日の単独山行で東川口五時半出発。水上インター七時半通過、水上温泉を通り利根川に沿って藤原湖を行く。北に向かうと湯の小屋温泉の葉留日野山荘方面だ。山荘オーナーで、労山の登山時報に毎回掲載される高橋さんの山荘だよりは毎月楽しく読んでいる。元教員で、そして労山役員を長く勤めたこの人の文章は温かく山の四季を適確に伝えてくれる。だが何よりここの温泉が素晴らしい。単純温泉の体に優しい、透き通った湯は温泉通を唸らせるだろう。また本も多かった。

近くにはウッドランドリゾート玉原と命名され、大規模なリゾート開発が行われている玉原高原(たんばら)がある。ブナの木の多さと、秋の紅葉が素晴らしい所で、山岳会の公開ハイクで行った名所である。

 通常、どこの山も登山口に行くには悪路で標識も少なく、特に単独登山では迷いやすい。武尊山には登山口が七ヵ所ほどあり、山腹には多くの谷と尾根が生じ、武尊九十九谷などと呼ばれることから川も多い。

 武尊山の由来は、日本武尊の東征の故事にちなむという。記紀(日本書紀、古事記)上の伝説上の英雄である。景行天皇の皇子で気性が激しいため天皇に敬遠され、九州の熊襲、東国の蝦夷の討伐に遣わされたといわれ、風土記なども含めてさまざまな伝説が残っているという。よって関東の神社の境内には日本武尊の銅像が多く見られる。

武尊神社  

 今回の登山口は北西麓の武尊神社からのコースとしたが、迷って三十分もさ迷う事になった。やっと宝台樹キャンプ場を見つけ趣のある神社に八時半到着する。車を最終地点(一一五〇m)に駐車して歩き出す。剣ケ峰山分岐を過ぎて美しいブナの原生林の中、高度を上げていくと、手小屋沢避難小屋に着く。やがて急峻な岩場が現れ、太いロープと鎖が二ヵ所出てくる。この頃の私は各地の山で鎖、鉄ハシゴ、ロープは慣れてきて楽しむゆとりも出てきたので、云うならば待ってました、と充実感に浸っていた。頂上(二一五八m)には二時間三十分後の十一時に到着する。生憎ガスで眺望はない。登山者も平日のせいか、一〇人位しかいない。下山は剣ケ峰を回り、終始ガスの中を二時間一〇分後に駐車場に着く。残念ながら日本武尊に関するものは見つけることは出来なかった。風情のある地元の店に寄り、名産蕎麦を食べて、次の目的地、苗場山に向かう。

 水上インターから谷川岳の下を通り、越後湯沢インターまで五〇分、ここは温泉銀座、スキー銀座でもある。右も左もスキー場で、東京方面からスキーヤーが押し寄せる。

 川端康成の雪国の舞台になった、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」の土樽駅、そして小説を書き上げた所が越後湯沢温泉。その湯沢インターで一般道に入る。

 湯沢という地名は私の知識では全国に三ヵ所ある。一ヵ所目が当地、新潟県湯沢町。新潟の一番南にあり、越後湯沢と言うほうが名は通っている。何と十八ヵ所のスキー場と湯沢温泉で有名である。人口八、八〇〇人の町に観光客は年間七〇〇万人が訪れるというリゾート地である。この小さな谷合の町を新幹線や車で走り抜ける時、視野に入るのが山とリフト、そして高層のホテル、リゾートマンションであり、それは山の中腹まで林立して続いている。その密集した華やかな光景はヨーロッパアルプスを彷彿とさせる。

二つ目は秋田県湯沢市。小野小町ゆかりの地で人口五万八千人、泥湯温泉、大湯温泉、小安峡温泉等々があり温泉の宝庫である。

三ッ目は北海道北湯沢温泉。北海道にある温泉ゆえ、前者どちらかの流れと思っていた。北海道には北広島市、新十津川、伊達市(仙台、伊達藩より移住)のように集団移住して元の地名をつけるところが目立つていたからである。だが違っていた。長流川の渓流に温泉が多いため、いつしか「湯沢」となりこの辺りに昔、鉱石を運ぶ鉄道があり、その駅名を湯沢に決めようとしたが、奥羽本線に同名駅があったので「北」をつけたという。

どうも三ヵ所ともに、「湯」すなわち温泉が多い所から、「湯沢」となったようである。

 その越後湯沢の風情たっぷりの、温泉街に泊りたい誘惑を振り払い、ホテル、リゾートマンションが建つ丘陵地帯をエンジン全開にして走る。苗場山林道を幾つものリフトと平行して走り、標高を上げて四〇分後の十六時半に和田小屋(一三七二m)に到着する。

和田小屋   

 今夜泊る和田小屋、そしてこの一帯のスキー場、リフトは西武のプリンスホテルが経営している。大変な規模といえよう。八月はシーズンオフで、小屋は登山者相手の経営であるらしく閑散としている。本日は私一人の貸し切だと管理人か支配人のような人は言う。山小屋というより、保養所のような落ち着いた建物である。障子もふすまもある。一階、二階どの部屋を使っても良いですよと言うので、二階の角、見晴らしの良い所を選ぶ。夕日が素晴らしく今日登った武尊山方面が真紅に輝いている。風呂に入ると二〇人は入れそうな大きな湯舟でこれまた貸し切である。たった一人のために湯を沸かしてくれたのだろう。さすが西武と感心する。

六五〇〇円、一泊二食だが夕食はちょいとしたホテル並の料理である。一人では淋しいでしょうから、一緒に如何ですかと支配人と食堂担当者が言う。二人も同じ料理である。客がいる時は同じ料理だという。自分達の焼酎ボトルを出してきて遠慮せずに飲めと愛想がよい。三人の宴会は延々四時間に及び話題が尽きない。西武のスキー場経営の事、スキー場利用の客、湯沢温泉、山の話、果ては子供の話と興味ある話題がたくさん出てくる。

 

冬は貴方も暇なら、ここに勤めなさいとまで云われ、その節はよろしく、とお願いして床につく。西武の社員になるのも満更でもないなと思いながら眠りについた。

翌日は快晴、登山日和である。六時半、祓川コースのスキー場ゲレンデを通り抜け、ブナやダケカンバの茂る樹林帯を、標高差三〇〇m高度を上げると、下ノ芝という眺めの良い地点に出る。この辺から針葉樹のオオシラビソ、やがてササの覆う中ノ芝、次に神楽ケ峰に立つ。一旦下りになる頃から、前方に競り上がるような苗場山が出てくる。鞍部には雷清水という水場があり、二~三度位の冷たい水が流れ出ている。北海道のエキノコックス病の不安も無く心行くまで飲めるのは幸せである。山頂からは昨日上で宿泊した登山者が続々下山して来る。高山植物がそこここに出てきて目を楽しませてくれ、高度を上げていくと頂上の高層湿原がパッと開けてくる。しばし天上の楽園に見とれて立ちつくす。池塘の青さ、黄金色の芝、緑の草原、黒いオオシラビソ、真っ青な群青の空、そして湿原の中を白い木道が遥か彼方まで続いている。

苗場山の由来は湿原の池塘に生える植物、ミヤマホタルイが、水田に稲を植えたように見えることからこの名が付いたという。頂上(二一四五m)には二つの山小屋があり、その裏に頂上の標柱がひっそりと立っていた。三時間後の九時半であった。

下山は二時間半で和田小屋に着き、越後湯沢近くの三国街道沿い、「街道の湯」で汗を流し、ラーメンで一人淋しく打ち上げとした。苗場山は変化もあり、景色の良い山であった。


72・早池峰

  遠野伝説の里とエーデルワイスの山へ

 ハヤチネ、何と響きの良い名前であろうか、漢字で書くとこれまた美しい。深田百名山の中でこの早池峰と雨飾山の名を私は一番好きで、何かほのぼのロマン漂い夢と言うか、何かを連想させる山である。

中でも早池峰の里には遠野物語の伝承、そして早池峰山には、登山者を魅了してやまないハヤチネウスユキソウがあり岳人を引き寄せるのだろう。

早池峰登山の前に予備知識を高める為に、柳田国男の「遠野物語」を求め読んでみた。岩手県遠野郷に伝わる説話・民間信仰・年中行事などについての佐々木喜善の話を書き綴ったもので、いわゆる民間伝承の記録書である。

最近は少なくなったが、私の子供時代(昭和二十~三十年代)には何処の田舎でも古老がいて、悪ガキどもを集めてはその土地に伝わる興味ある話をしてくれたものだ。多分にその様に感じ懐かしさを噛締めて読んだ。最近はその古老が少ないのか見当たらない。

七年前糖尿病教育入院で一ヵ月入院したことがある。年の頃八十位のお爺さんが同室であった。物静かで言動もそつが無く見識高く、何となくかもし出す雰囲気が気になる老人であった。四人部屋で互いに朝の挨拶はするぐらいであった。一人は銀行の支店長、一人は見るからに町のお兄さん(通常人とは違う概念の人)的で何の得にも無らない我々に、勇んでみたり、業界の自慢話を聞かせる。お爺さんだけが「ほう、ほ~う」と聞いている。

お爺さんは優しいのである。聞いていても感動はしていない風である。ただ付き合っているだけだ。それを見ていて思い出した。ご存知「男はつらいよ」の名場面、妹「さくら」の亭主、「博」の父が大学教授で寅さんと絡むがかみ合わない、そのチグハグさが絶妙に面白い、その光景とそっくりで見ていても可笑しくて噴出してしまう。看護婦がそれを見たくて入れ替わりに用もないのに見回りに来る。知ってか知らずか二人は真剣である。

ある看護婦が私にしきりに聞いてくる。お爺さんに夕べはどんな面白い話を聞いたの?

じゃあ昨日は?ふ~ん、ではその前は・・・? 聞いていないというと、がっかりした顔をしている。その看護婦さんは古老の話は絶対に面白いので、楽しみなんだと言う。

約一ヶ月、千夜一夜物語は楽しかった。また山好き、沢好きの事務長の話も貴重であった。

二箇所の鎖場 ハヤチネウスユキソウ 南部唐打草 

 エーデルワイスは本場アルプスの花だが、日本番「エーデルワイス」がここ、早池峰に咲くハヤチネウスユキソウであることは余りにも有名である。花期は七月、キク科、その姿が薄く雪に覆われたように見えることからその名があるという。早池峰ではこのエーデルワイスも含めて高山植物群落が国の特別天然記念物に指定されている。

指定されているのはここと、北海道アポイ岳高山植物群落と白馬連山高山植物帯の、植物では三ヵ所のみである。そうなる要因を調べてみた。それは名物の蛇紋岩からくるらしい。

蛇紋岩は植物の成長を妨げるマグネシウムを多く含んでおり、他の植物が成長しにくいこの岩場に暮らす事で、高山植物は独自の進化を遂げてきたと言う。日本の山ではそれなりにウスユキソウ的名前が付いた花にはお目にかかるが和製本家である事に間違いはない。

このウスユキソウと遠野伝説を学習して、いよいよ夢とロマンの早池峰山を計画。

二〇〇四年八月二八日(土) 天候の良いこの日に急遽、単独日帰り登山となる。昨年の岩手山と同じく、新幹線、レンタカーの豪華登山である。

 費用は新幹線二六、五〇〇円、レンタカー七、三五〇円、その他含めて計三九、五〇〇円也。大宮6:26~盛岡8:36。レンタカーで盛岡を流れる北上川に沿って南下する。北上川を見ると何時も青春時代を想い出し、少々センチになり鼻歌が出る・・・

  ♪ 匂い優しい 白百合の 濡れているよな あの瞳

     想い出すのは 想い出すのは 北上河原の 月の夜

        昭和三十年代 和田弘とマヒナスターズが歌う「北上夜曲」である。

  早池峰境内 早池峰頂上の小屋

 盛岡~大迫町~岳~河原坊登山口まで二時間。田園地帯を過ぎると、いよいよ遠野物語の舞台となる山村である。静かながらも歴史を感じる家がポツン、ポツンと佇んでいる。黒いこんもりとした木々の間から小さな「社」や、古く柱がゆがんだ「鳥居」があちこちに見え出した。思わず車を止めて眺める。こういう所で神楽が行われていたのだろう。何となく懐かしく胸躍る光景である。物語の世界に触れるような不思議な土地である。何度か停車しては眺め、そして走り、やがて登山口に着く。

 早池峰は独立峰とは違い、北上山地の中にあり頂上は顔を少し覗かせているだけである。登山口の岳川を渡渉しながら直線的に真直ぐ登る感じだ。センスを逆に広げた扇のようで

その真ん中を登るようだ。終始頂上一帯が見え早池峰がパノラマのようである。

アオモリトドマツやコメツガの林を過ぎると最後の水場、頭垢離(こうべごおり)に至る。いよいよ核心部、岩稜帯の急登でハイマツ、チングルマ、イチゲ、ハヤチネウスユキソウの群落が出てくる。ウスユキソウは時期が過ぎているが、名残の花の気品を伴った白さが印象的である。歩き出して2時間15分頂上(一九一七m)につく。早池峰神社奥宮と山頂避難小屋があり、そこここで登山者が弁当を広げている。この神社の石畳で神楽が行われるらしい、かなりの広さである。

 一瞬の晴間をぬって、岩手山、鳥海山、駒ケ岳、和賀岳が垣間見え、満足して下山する。

避難小屋にはトイレがあるが、地元山岳会のメンバーが汚物を担いで下に下ろす、ボランテア―が有名である。下山中、ピンクの花が綺麗なナンブトラノオと思ったが下山後、自然保護センターで見ると「南部唐打草」となっていた。

 下山は鉄ハシゴ二ヵ所の小田越登山口に一時間四〇分で着く。名前の通り素晴らしい明るい山であった。登りの終始、山容が臨め、頂上方面が見えるのも素晴らしい。

下山後、岳の集落の峰南荘で美味しい地元のソバを食べ風呂に入り、しばし余韻に浸る。

 盛岡駅に戻り、駅に掲示されている刊行物やパンフレットを眺めて地元、盛岡を学ぶ。

遠く南部藩と津軽藩の確執、今でもその尾を引いている事。面白いのは津軽弁が鹿児島弁と同様になまりがひどく理解できないのは、南部藩に攻められるのを防ぐ為、間諜が入り込んでも言葉を分らなくする為の策であったと言うくだり。鹿児島も江戸徳川幕府の隠密対策で言葉をなまりの激しい方言にした事から、満更誇張とはいえないかも、と頷く。

 一番美味しそうな弁当と、缶ビールを求め新幹線に乗る。夜の車内は皆同じである。サラリーマンも多く、缶ビールでひと時を楽しんでいるのだろう。

早池峰の名の通り、良い山行であった。


73・飯豊山(福島・山形・新潟県境)

  「百名山」屈指のロングルートを三泊四日で縦走

 百名山の中で三泊を要しないとその山塊を縦走出来ない山はこの山以外、他に無いだろう。南アルプスにしろ、単体の山ならば二泊で可能と思われる。

 連峰最高峰こそ大日岳(二、一二八m)に譲るが、飯豊山本山は二、一〇五mと三千mに程遠い高度ながら、山の深さ、大きさをつくづく思い知らされる山であった。しかも、計画の段階から、ロングランで寝具、食料、水はもとより雨にあたる確立も多いとの情報が多かった。

 東北の山で奥深く大きい山となれば、飯豊連峰と朝日連峰ではなかろうか。とにかく、登る前から体調管理とモチベーションをあげながらの緊張感は他の山より勝っていた事は事実である。

特に飯豊は豪雪の山であり、降り積もった雪はなだれとなって沢を埋め、豊かな水は深い谷を削る。華やかなお花畑を伴って主稜は長く連なり、山腹には多数のブナ林が育つのが特徴である。飯豊連峰は福島、山形、新潟の三県にまたがる広大、長大な山群である。山名の由来は飯を豊かに盛ったような山容からと言う説もあるそうで、いかにもどっしりと重量感のある山である。

 地元では飯豊山のことを、飯豊本山と呼ぶそうである。かっての登山道は全てこの飯豊山を目指していたそうであり、神社の所領権をめぐり、米沢藩と会津藩、新潟県と福島県で争いがあったと言う。昭文社の周辺図を見ると、飯豊山を挟んで三国岳から御西岳まで細長く福島県の領地が山形・新潟両県に入り込んでいる。何とも不自然な境界線である。

 ※注釈 米沢藩歴代藩主=伊達政宗~蒲生氏郷~上杉景勝

     会津藩歴代藩主=伊達政宗~蒲生氏郷~上杉景勝~加藤嘉明~保科正之~松平 

 天気予報を調べ、二〇〇四年九月二日(木)~五日(日)、三泊四日の東北山行となる。今回も新幹線利用、大宮八:〇二分発、山形新幹線/つばさ一〇三号米沢駅乗換え小国駅一一:四六分着。

途中、米沢駅で名物、米沢牛弁当を購入、既に飯豊山に登る山仲間が数人出来、この弁当は間違いなく旨い、と聞き及び、我先にと買い走る。名物に旨いものなし、と言うが、これは文句無く美味しかった。

  温泉のある飯豊山荘 サギサウ

今夜は飯豊山荘(旅館)宿泊の為、小国のスーパーで山中二泊の食料(夕食親子丼、カレーのレトルト、朝はラーメン、昼パン)を仕入れる。バスで小国~飯豊山荘に凡そ一時間で移動する。 今回の山行も温泉口から登り、温泉口に下山という、温泉好きにはたまらない計画、山域である。考えるとゾクゾク・ワクワクの待ち遠しさである。

標高四一〇mの森の中にある小奇麗な飯豊山荘、一軒宿である。バスで乗り合わせたアルプスエンタープライズのツアー十人と親しくなる。聞くとコースは同ルートである。

九月の平日と言う事で、山荘は我々だけで空いている。早速温泉に向かう。五・六人入れる湯壷で源泉かけ流しの湯、窓からは飯豊連峰からの溢れんばかりの玉川の水流がゴーゴーと聞こえ、目に入ってくる。無色透明、ごく薄くにごって見える、誠に体に染み渡る様な名湯である。                                  

たっぷり一時間の温泉の次は缶ビール片手に山荘前を散歩する。おば様方が何やら騒いで感嘆の声を出している。サギソウ(鷺草)であった。始めてみる花である。真っ白い花で鳥の形をしている、鷺の鳥に似ているからサギソウと教えてくれるが、肝心の鷺という鳥を私は見た事が無い。この花から想像するしかないようだ。帰宅してから調べた。湿地に生え、地中に球根を作る多年草、白鷲の飛んでいるところに似ているのでこの名が付いたとあった。山荘の前にはサービスで足湯も設営されている。

 またこの辺は大きなブナの木が沢山ある。ガイドが説明しており、聞こえてくる。ブナは落葉高木、温帯の山地に分布、高さ三十mになります。樹脂は灰色,葉は小さく、卵形で縁が波形です。落葉広葉樹の代表で母なる木と呼ばれています。ブナの木は材木にも燃料にも適しませんが、重要な役割を帯びています。それはブナ林は美しいだけでなく、大量の炭酸ガスを吸収し、また沢山の水を吸収しダムの役目も果たし、海の豊かな資源にも影響を与え、かつ多量の実をつけ動物の重要な餌となっています。若いツアーのガイドは仕事柄とは言え物知り、説明上手である。ただで聞かしてもらうには申し訳ない!

ブナの木
 飯豊山荘から梅花皮避難小屋   立派な梅花皮避難小屋 

北海道生まれ・育ちの私はブナが身近に無かったが、関東に転勤、山行する様になってからは、常にブナ、シラビソを見る機会が多くなり、親しみを感じていた。ブナの北限は北海道南方の黒松内に少々、南限は鹿児島である。台風、強風の後に山へ入ると、よくブナの大木が倒れている。木の中が白くなっており、手に取ると非常に柔らかく優しい。両手でこすると粉々になる位、優しく柔らかい。母なる木と改めて納得出来るのである。

 ニュージランド・ミルフォードのトレッキングに参加した時もガイドがしきりに説明していた。シダが生い茂り、苔に覆われたブナの木がどれほど温暖化の地球に貢献しているかと言う事を。当地にはブナの種類は五種類もあるという。(ギンブナ、アカブナ、ハートビーチブナ、ブラックブナ、ヤマブナ)貴重な自然なのである。

南アメリカ・ブラジルのアマゾンに行った時もガイドに聞いた。このアマゾンの大自然が地球の温暖化防止にどれほど貢献しているかと言う事を。一方、アメリカ他、先進国がブラジルに温暖化のためにアマゾンの大自然を維持してほしいと要望していると言う。ブラジルは言ったそうだ、ならば維持費を払えと、頷ける言葉である。

九月三日(金)五時、山荘出発、雲ひとつ無い快晴。

 今回は急坂の続く梶川尾根コースを選択。登りだして二時間、標高差六〇〇mで標高一、〇二一mの湯沢峰までしっかり汗を搾り取られる。展望が開けてきた。次の展望台、滝見場では石転び沢(イシコロビサワ)の雪渓と梅花皮滝(カイラギタキ)の豪快な景色が広がる。石転び沢は万年雪、白馬の大雪渓とまではいかないが、上級者向きのコースである。

やはり昭文社の地図には七・八月に六通りの登降時の注意地図が掲載されており、飯豊山最難所で事故の多い所である。飯豊連峰には変わった名前が多い。梅花皮をカイラギとはなかなか読めないだろう。沢筋を歩くと大きな石がゴロゴロしており、この様子を刀の柄や鞘を包む梅花皮という鮫の皮に例えたという説が由来である。

 一、三八〇m地点の五郎清水、九時着。暑さと疲労を癒してくれる雪解けの非常に冷たい水が歓迎してくれた。ここから二時間、尾根分岐の扇ノ地紙一、八八九mまではお花畑が続き、眺めもよく高山らしいおもむきとなる。

 尾根に出ると南に向かうが、北方面には朳差岳(エブリサシタケ)と言うこれまた変わった名の山がある。やがて門内小屋のある門内岳を越えると、すっきりと聳え立つ姿が気持よい北股岳二、〇二五mがある。今夜の山小屋、梅花皮小屋一、八〇〇mには石転び沢からの合流点から程なく到着する。一四時であった。最高地点標高差一、六〇〇m、歩行時間九時間、明日からは尾根上の歩きになるので、ホッと一息である。

昼下がりの午後、陽だまりで一本八百円の缶ビールを飲みながら、既に飯豊本山が見える景色をつまみに至福の時間を過ごす。梅花皮小屋は新しく素晴らしく綺麗で気持ちの良い小屋である。近くの雪解け水場から水を汲み、親子丼とウィスキー水割り、つまみでささやかな夕食を済ます。ツアー一行を含め、十数人が二階を埋めた。

九月四日(土)本日も快晴。

 五時出発、連峰の中間点にあるどっしりとした山、烏帽子岳二、〇一八mからは特に眺めは良い。遥か飯豊本山から長丁場で上級者向きの大嵓尾根(オオクラオネ)が東に連なっている。やがて飯豊本山から西の大日岳(飯豊山の最高峰)への尾根上の分岐、御西小屋一、九八〇mに九時十分に着く。西にある大日岳まで往復三時間で行き帰り、十二時半、昼食とする。

 いよいよ飯豊本山へ、遠望する広々とした稜線は牧歌的であり、見下ろすような主稜の眺めは抜群である。右手、東側に大きな雪渓を二ヵ所眺めていくと、草原のなだらかな尾根を登りきると飯豊本山二、一〇五m、一四時四〇分であった。山頂からは大日岳はもとより、飯豊連峰を形成する峰峰の連なりが見渡せる。ついに東北の念願の山、奥深き手強き飯豊山ピークを踏んだ満足感に酔いしれた。

飯豊本山 風説で消えかかっている飯豊本山の標識  

残念なのは、表示が頼りない。かなり古い棒杭に飯豊山と書いてあるのだろうが、読み取れない。名山なのであるからそれなりの表示がほしいと登山者の声が聞こえる。

 直ぐ下の飯豊山神社を過ぎると本山小屋二、一〇二m、十五時十分に着く。本日は土曜日で大混雑だが、次の小屋までは二時間かかる。既に今日は十時間歩き、元気が無いのでここに決定する。本山小屋はヒゲの管理人、クマさんが有名らしい。常に酒を飲んでいるので有名?本日もやはり赤い顔をしていた。ビール三五〇mlが千円と高い、それでも隣組の登山者達と乾杯する。カレーをツマミに。

九月五日(日)本日も晴天に恵まれる、五時出発。

 切合小屋(キリアワセコヤ)一、七四〇m七時、水がドクドクと流れて五右衛門風呂らしき桶に流れ込んでいる。ここで体を拭き、命の洗濯をする。次に種蒔山一、七九一mを通過し、三国岳一、六四四mには、新築なった三国小屋がある。二階の宿泊場所は共同の火気使用場所や衣服干場、ザック置場等が効率よく仕切られており、理想の使いよさの工夫が随所に見られる。次は下山時の剣が峰、岩場の連続尾根、先行の女性一段が何組かおり、スピードが急に落ちる。本日朝、下から登って来る登山者が言っていたことを思い出す。登山口の川入から本山小屋までは、ピークが七・八ヵ所あり、そのたびにアップダウンで辛く飽きてしまう、と。そのアップダウンを何度も繰り返し、ブナの生い茂る川入キャンプ場五六〇mに一三時四〇分着。山都町のいいでの湯に入り喜多方からJRで大宮へ。


74・・赤城山

 「赤城の山も今宵限りか~」博徒、国定忠治の隠れ家を訪ねる

 赤城山は円錐型の二重式火山、山の基底部の直径が三十㎞にも及ぶという。また裾野の面積は、富士山に次いで日本で二番目に広く、群馬県を代表する山の一つである。

群馬県の東端に位置する赤城山の、更に東は栃木県。わたらせ渓谷鉄道が渡良瀬川に沿って、北の日光華厳の滝方面、足尾銅山から続いている。その華厳の滝や中禅寺湖のゾーンに、徳川家康を祀る日光東照宮があり、東照宮は男体山に抱かれている。ユニークなのは山名の由来である。

昔、男体山にはそれはそれは巨大な大蛇が住み着いていたと言う。一方渡良瀬川を挟んで、赤城山にはこれまた巨大な大ムカデが住んでおり、両者は領地をめぐってある日、戦いを中禅寺湖の近くの戦場ヶ原で起こしたそうである。しかし赤城山の大ムカデは武運及ばず戦いで傷を負って逃げ帰る。重傷を負った大ムカデの血潮は赤城山を真っ赤に染めてしまい、以来、赤木(赤城)山と呼ぶようになったと言う。

赤城山を語る時に必ず登場するのが、ムカデと違い実在したのが国定忠治である。関所破りをして追っ手に追われて多数の子分と共に赤城山にこもり、隠れていたと伝わる「忠治の岩屋」が現存している。

ムカデといい、国定忠治と云いどちらも群馬県にしては自慢の出来る話ではない。しかしこの土地から輩出した総理大臣は三人もいる。福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三。

群馬県の風土もまた面白い。ギャンブル産業の盛んな群馬県において、「ご利益がある」と天下の大博徒、国定忠治の墓石を削り取って持ち帰る人が多いと云う。地下に眠る忠治は果たして迷惑顔か苦笑いか、それとも自慢しているか? さァ、丁か、半か~。

また群馬県には三Kなるものがある。「空っ風」「雷」「カカア天下」これも迷惑な話であろう。群馬県に限らず、本州は雷が多い。夏山の午後一時~三時は毎日のように雷が発生し、登山者を不安がらせる。私の出身の北海道は殆ど雷が発生しない、狭い日本でさえ地域性がこれほど違うのである。このような群馬県は庶民的で親しみのある土地柄である。

赤城山には合計四回訪れたが、最初の二回はガスがかかり視界ゼロのため、何れも登山口で中止した。今回は所属する山岳会の、公開ハイキングの実行幹事ゆえ、下見登山であった。ハイクは年間四回、一般参加者三十人を募りバスにて日帰り登山を企画し、組織登山の楽しさ、技術指導、交流を図る目的で長く続いている。昼時には汁物を提供し、酒を持ち上げて楽しい一日を送る。費用はバス代を含め、一人四〇〇〇円前後である。

二〇〇四年九月十二日(日)、幹事助っ人を板坂さん、平山さんにお願いして、車で大宮から赤城インターへ、更に赤城道路を登山口の駒ケ岳登山口(一三五七m)まで二時間半で到着する。幸い雲ひとつ無い好天気、富士山も見えるし近辺の山も皆見える。二度の鉄製の階段を上り、高感度も充分ある。凡そ一時間半で駒ケ岳(一六八五m)、既に眺望は素晴らしい。大ダルミの鞍部に六五m下り、また高度を二百m登り、最高地点の赤城山(黒檜山一八二八m)に一時間を要する。頂上には赤城神社の祠もあり、信仰の山であることを知らされる。今回の下見登山は、ルート選び、危険箇所のチェック、昼食の鍋料理仕込みの広場選定、雨天の場合の対策等であった。

頂上から一時間、黒檜山登山口へはかなりの急坂である。幼稚園から小学生も参加するので、怪我でもしたらと心配するが、もう一人の幹事、後藤女史がベテラン揃いの山岳会プロがホローするのだから大丈夫よ、との意見でルートを反対にして急坂を登り口にして決定する。後日、子供は身軽で軽くこなしたが、大人のほうが一部音を上げていたようだ。

    あかぎ山の看板

雨対策で、登山中止の場合を想定して、大沼の赤城神社近辺の土産物屋と食堂ゾーンを見て回り、適当なあずまやを探す。つい、声を掛けられお茶をご馳走になる。「もとき亭」と言う大きな食堂兼土産物屋さんである。とにかくスタッフの応対が気持ちよく、茶を飲め、饅頭を食べよと愛想が良い。おまけに漬物まで出てくる。ここまでされると買わなければならないのが普通だが、この店にはそういう押し付けが何故か無い。

その内に女将さんが現れ、丁重な挨拶をしてくれる。またお話がうまい。そう、山岳会のハイキングですか、天気が良いといいわねエ~、もし雨ならば二階の部屋を使って下さい、汁物を作るのならば構わないですよオ~、何もお買いいただかなくて結構ですのよ~私も山は好きなんですよ~、そして海外旅行も絵も趣味なんです~。見て下さい、と二階へ案内される。

ズラリと並ぶ素晴らしい絵画、我々は口をあんぐりと開けたまま感心しきり、すっかり女将さんのフアンになり、山談義に話が移り小一時間、年末の山岳会海外遠征ニュージランドトレッキングにも参加約束を得て、気持ちよく店を出る。その後、海外遠征は店の都合で参加出来なかったが、公開ハイクの帰り、皆でお邪魔し、たいそうなお世話になった事は云うまでも無い。参加者の評判はすこぶる良かった。絵画入り年賀状は毎年戴く。


75.76・・大台ケ原山大峰山

  世界遺産熊野古道の「大峰道」を歩き、大峰山へ

熊野古道

                   
平成十六年(二〇〇四)七月七日

                        熊野古道は世界遺産に登録された。

                        日本で十二番目、翌十七年には知床

                        が十三番目となる。

                        今回は最難関の大峰道に位置する二

                        山を計画する。熊野古道とは熊野三

                        山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、

                        熊野那智大社)に詣でるための道で

                        あり、主なルートは伊勢路、大峰道、

                        紀伊路、小辺路、中辺路、大辺路

                        の六つである。

                         大峰道の南は「本宮」近くの大森

                        山から「吉野」の吉野山まで十三山、

                        一〇〇㎞休憩なしで五一時間を要す。

      近鉄奈良駅                

 本州西日本の京都、大阪以南では百名山は大台ケ原山、大峰山、鳥取の大山の三つしかない。高速道路で走ると結構高い山も見られるし、地図を広げても一〇〇〇m以上の山は多数ある。大阪には六甲山(九三一m)があり、虎キチの阪神フアンならば百名山に選んでくれたならば、勝つ度に終了後の深夜でも六甲山に登るだろう。深田久弥は多分、関西が嫌いなのだろうと疑いたくなる。

 二〇〇四年九月十三日()~十六日()、埼玉浦和駅二二時三十分発、高速バスで近鉄奈良駅翌朝六時五〇分着。バス二泊、民宿一泊の単独山行の計画をした。高速バスは縦三列リクライニング、スリッパ、膝掛け付、冷水、トイレも付いて快適である。

 奈良駅から、レンタカーを借りる近鉄大宮駅に移動し、八時二〇分スタートする。吉野川に沿って遡上し、途中明日香、高松塚の古墳地帯を通過する。歴史ある大和の田園地帯は風情満点、田んぼには真っ赤な彼岸花の曼珠沙華(まんじゅしゃげ)が咲き乱れている。

紀伊山地は道が狭く、カーブがとにかく多いので四〇㎞以上はスピードを出せない。大台ケ原ドライブウエイを走る頃は、対向車を交わすのに神経が疲れる。出発して三時間後の十一時二〇分にようやく登山口の大台ケ原ビジターセンター(一五七〇m)に到着する。さすがに山道に入っての二時間は疲れて放心状態であった。

大台ケ原山頂上   鹿に食べられた樹木

一周四時間のコース、最高地点は日出ヶ岳(一六九五m)で標高差は一二五mしかない、殆ど高低差がないハイキングコースと言えよう。しかし歩きだして、この山のよさが判明してきた。森の樹木が素晴らしい。ブナ、トウヒ、シラベが密集しており、アマゾンのジャングルのようである。厚く苔に覆われた林床を手で触れるとふわふわとしている。

宮之浦岳がある屋久島は一ヵ月に三五日雨が降ると言われる。だから年に四二〇日雨が降っている計算となる。一方、大台ケ原山は一年に四〇〇日雨が降るそうだ。その多雨が美しい渓谷と林を育み、見事な森林と苔を作るのであろう。

大台ケ原や宮之浦岳でも雨に遇わなかったら、よほど精進のよい人だと言われるが、私は二度とも晴天であった。自慢できる品行方正な生活はしていないが、単に神仏から相手にされていないだけのことであろうか。

山というより、林の、落ち葉が積もったソフトな地面を歩いている様な、ホンワカムードの山である。いけ面のお兄ちゃんとハイヒールのカワイコちゃんのカップルと何組もすれ違う。ここは日比谷公園とちゃうど~。

小高い所は立派な木製の階段が頂上まで続く。頂上からは明日登る大峰山が西に、東には熊野灘の太平洋が青い海原となって見えてくる。樹木が鹿に食べられ被害が多いようで、殆どの樹木は網で覆われている。関係者によって一帯の森林を守ろうと言う気概が感じられる大台ヶ原山であった。

一四時、大台ケ原山ビジターセンターから元来た道へ、またまた、くねくねと車を走らせる。自分で運転して、車に酔いそうな、しまいに頭痛がしてくる。東熊野街道を川上村まで戻り、そこから教えられたとおりに、高原洞川林道に入る。近道で走りやすいですよ、と今夜の洞川(どろかわ)温泉民宿の女将さんが丁寧に教えてくれた。しかし!しかしである。

走る内に道を間違えたのではと思われるほど、二車線が一車線に、更に対向車と交差出来ないほどの道幅となる。結局対向車は一台も無かったが・・・二時間半、山賊や追いはぎが出てきそうな獣道をひたすら走り、温泉街に出た時は竜宮城ではなかろうかと嬉しくなった。百年近く営業しており、女将も嫁にきて三十年という由緒ある民宿であった。観光協会に事前に、金に糸目はつけないので良い宿をとお願いし、紹介してくれたのが八〇〇〇円の本日の民宿、少し高かったかなと思ったが・・・。客は合計二名であった。昔の宿場町のようで、民宿、豆腐屋、土産屋が十数軒並んで風情満点の温泉である。 

 早速温泉に入る。単純温泉の優しい湯である。もう一人の先客がいた。挨拶をして、世間話をしていくうちに、感心してくる。七〇代前半のインテリのようで、物腰柔らかく、見識がある。どうも大学教授を終えたような口ぶりである。決しておごらず、自慢せず、退屈をさせない話し上手である。長年営業一筋できた自分としてはこのような人に遇うと、何故かホッとし、聞き上手に専念したくなる。

   
 

  

 食事は二名だけで雰囲気ある和室であった。当然ビールを注文した。だが相手は飲まないらしい。しかも良く見るとお膳の料理の内容が違う。魚も肉も無い。こちらは豪勢なのに・・・。相手が察して説明してくれる。今回は昔からの仲間と大峰山を中心として信仰のために熊野古道歩きに来たのです。既に二ヶ月精進料理で暮らし、酒も絶っているのです。後三日で成就し解禁になるのですよ。その時はよき仲間と飲み明かすのを楽しみにしていますと言う。どうぞ、遠慮せずに構わないで下さいと言う。服装も白装束、白足袋という。本格的な修験者であった。

四国八十八ヵ所巡りは私も三番まで興味本位で回ったので話は合った。しかし西国三十三ヵ所は大阪・京都・奈良中心に京都の清水寺、長谷寺、興福寺と説明されると、こちら不知である。更に坂東三十三所は関東中心、東京浅草寺も一つと言う。そして秩父三四所を合わせて百観音と言うんですよ、と。ムム~ウ。

大先生は更に講義を続けてくれる。全国には西国三十三観音霊場を模して作られたものが一〇〇以上あると言われています。三十三所巡礼がかなわない人々の為に、近場で巡礼をするために設けられているようです。観音信仰は観世音菩薩が三十三の姿に変化することから、三十三観音、三十三ヵ所となるようです。

女将もその頃から話に加わってきて、民宿は昔から修験者の方が多く、今は熊野古道を観光する人も多くなってきていると言う。二人の貴重な話をたくさん聞いて眠りについた。

翌日も好天であった。洞川温泉を八時出発、南の天川川合まで行き、川迫川渓谷を遡上する。二階建て位の大岩と渓流の流れるこの渓谷は目を見張る。日本にもこのような奇岩絶景があるのかと、恐れながら車を走らせる。昨日の運転で馴れて来たせいか余裕がある。

九時に登山口の行者還(ぎょうじゃがえり)トンネル西口(一〇九四m)に九時に着く。木橋を渡り、階段を上がり、樹林の急坂を登ると、大峰奥駈道出合。主稜線を右に、ブナの木の林を高度を上げて行くと、聖宝宿跡があり理源大師の青銅座像が出てきて信仰の山と再認識する。

 山肌をジグザグに高度を上げると、山小屋と山賊の砦のような建物がある弥山(みせん)小屋に着く。弥山神社奥社が奥に行くと建っている。更に急坂を一旦下り、岩の稜線を登りきると最高ピークの八経ヶ岳(一九一五m)に十一時二〇分到着。修験者が置いた信仰の置物が多数あり、その多さと、古さに歴史を感じる。二山を終えて熊野古道に少し触れた感じがした。ここは一番の難所らしいが、登山家でもない人々がよくも登るものと驚嘆しながら、信仰の尊さと熱心さに感心した次第である。

 日本七霊山は富士山、白山、立山、石鎚山、大山、大峰山、そして大峰山の南に釈迦ヶ岳があり、釈迦ヶ岳を除いて全て登ったが、修験者の熱意が伝わるようである。悩みを持ち、何とか願いを成就したいという真剣さは計り知れない。その様な事に遭遇しない自分が幸せなのかどうか、いまだ分別できない自分がここにいる。



77・皇海山

  滝沢馬琴の長編伝奇小説「南総里見八犬伝」の山猫を見に行く

 皇海山(すかいさん)の前山、庚申山には奇岩・怪石の林立する特異な景観がある。滝沢馬琴はこの景観を、一〇六冊の大長編小説の中で、犬飼現八による山猫退治の舞台としたのである。安房の国、城主里見家に仕える八つの徳の玉を持つ八犬士の物語である。当時の漫画本を少年達は殆どが愛読したであろう。江戸時代の小説である。

 皇海山は通常では読めない難しい変わった名前の山である。皇を「す」と読む所から、宛字となり今日に至っているらしい。変わった山故かどうか、この山周辺には話題が多い。足尾銅山、渡良瀬川、わたらせ渓谷鉄道、庚申講(こうしんこう)等である。

 皇海山に登るには群馬県側と栃木県側の二コースがあるが、栃木側の場合は足尾町を通る事になる。足尾町と言うと今は無き足尾銅山が余りにも有名であろう。江戸時代の一六一〇年に発見され、幕府の直轄で日本一の銅の生産を誇っていて、明治に入り財閥、古河鉱業が経営を引き継ぐ。大正時代は栃木県では宇都宮に次いで人口が多かったと言う。

昭和四八年の閉山だがその間、足尾鉱毒事件で公害を起こし、死者一〇〇〇人を越し住民を苦しめて日本の公害の原点とも言われている。明治の政治家で足尾銅山鉱毒事件の運動家、田中正造はつとに有名である。

この一帯を流れるのが渡良瀬川(わたらせがわ)。響きの良い、ロマンさえも感じさせる川の名である。源流は皇海山から発しており、利根川に注いでいる。この川を一躍有名にしたのが、鉱毒事件で利根川にまで鉱毒が流れて、「死の川」と話題になってからである。国鉄が銅を運ぶために施設した線路は今、わたらせ渓谷鉄道として第三セクターで観光客を運んでいるし、死の川も魚が住めるまで回復しているようだ。

 庚申講(こうしんこう)、戦後生まれの現代人には馴染みの無い言葉である。平安時代に中国から伝わった民俗信仰である。身体の中にいる悪い虫が、神様に自分の悪行を告げ口しに行かないよう、一晩中起きて見張っているという集団の行事で、江戸時代に盛んに行われたが現在は殆ど無いようだ。しかし、講(講義=集会)は銀行やサラ金が発達する前までは街でよく耳にした記憶がある。経済上の互助や親睦を目的としたものであり、皆がお金を出し合い、必要な人がそれを借りるシステムである。

その庚申講が、前山のこの庚申山を中心として栄え、その奥の院(寺社の本堂、本殿より奥にあって、開山祖師の霊像や神霊などを祭った所)が皇海山であったという。

 二〇〇四年九月十九日(日)~二一日(月)、高橋温泉部長から連休を利用した山行の電話が入る。百名山も残り二四山となっていたので、すかさず皇海山では如何?と言う。

山小屋一泊、温泉一泊の計画で温泉部長夫妻との三名にて車で八時、春日部を出発。東北自動車道宇都宮インターから日光宇都宮道へ進路を変えて、日光の手前から一二二号線を足尾町まで行き、登山口の銀山平(八二七m)に十二時半到着する。二日目の下山日に泊る、国民宿舎かじか荘の前庭に駐車する。

 銀山平を十五時歩き出す。今夜の山小屋、庚申山荘(一五〇三m)まではコースタイム二時間半である。一の鳥居を過ぎると、あるある! 伝説に出てくる鏡岩、夫婦蛙岩、仁王門などの巨石群、そして旧猿田彦神社の跡地が出てくる。やがて庚申山の絶壁を背にした庚申山荘に一四時五〇分到着する。ずい分のんびり歩き、暮れ行く秋を楽しんできた。

 木造二階建ての定員五〇名、素泊まり、布団有、二〇〇〇円の小屋で築五〇年位か?

本日は計十名で静かな山小屋であった。食当は私が名乗りを上げて、チーズ・フォンディユ風丼を二人に押し付け、無理やり食べさせる。二人の反応は無かったのでまずかったのであろう。それともカタカナの料理は食べ慣れていないか! しょうがないので残りを千葉県から来たと言う、単独のおばさんに押し付けた。三十畳位の広い部屋で三人は酔っ払い、ゆったりと就寝した。

翌日、二日酔い気味なので、ギザギザ、ハラハラの庚申山コースを敬遠し、安直な六林班峠コースを鋸山(一九九八m)まで三時間半、九時半につく。そして一五〇m鞍部まで下り、群馬県側からのコースと出会い、頂上(二一四四m)に十時五〇分到着。

一部紅葉に染まり、鋸山の険しい山あいが素晴らしい眺めである。帰りは同じ登山道を引き返す、つまらない帰り道である。六林班の八ヵ所もの沢をひたすら歩き通しで、六時間もの時間を下山に要し、温泉に着いたのは十七時、十一時間の歩行であった。

温泉部長の温泉講釈、ウンチクを聞き、アルコールは際限なく、疲れた身体に染み渡る。庚申講や足尾銅山鉱毒事件のあらまし、説明を聞く。さすがに社会科の教師で詳しいし、また組合の幹部で鉱毒事件の支援もしてきたと言う温泉部長の話は参考になる。
足尾町は大正五年には最大で人口三八、五〇〇人。現在は三、二〇〇人、ケタが違うほど減少した。町を帰りがけに見た病院は、何と五階建ての大きな建物で小さな町に不釣り合いである。最盛期に立てられた病院なのであろう。帰宅してからインターネットで検索してみた。二一二床もあり、総合病院であった。町の人々は昔、鉱毒で苦しんだが、大きな病院が残り今は幸せであろう。病院のホームページに現在の足尾町の特徴が記されていた。「足尾町は足尾銅山の鉱毒で苦しみましたが、現在は美しい景色、住んだ空気と水、緑多い豊かな自然環境、軽井沢とよく似た気候にも恵まれ、温泉も豊富に湧出する事から、保養地として絶好なロケーションへと変わりました。」時代の変遷を感じて帰宅した。



78・鳥海山

  日本海からいっきに二、二三六mまでそそり立つ百名山へ

 東北の山で人気の百名山は、早池峰と鳥海山であろう。何故かと言うと、早池峰はその名前とウスユキソウにロマンが漂い、鳥海山は海から眺める秀麗な山容と頂きの白い残雪にこれまたロマンを感じる為であろう。

 秋田県と山形県の県境にある鳥海山の見事な山容は、秋田側では秋田富士、山形側で出羽富士と呼称される。またこの地は日本海からの偏西風により降雨量が多く、百名山の中で屋久島の宮ノ浦岳、奈良の大台ケ原と並んで最多雨量地帯の百名山と思われる。そして夏でも万年雪を抱えるこの山は雪も多く、春の雪解けには庄内平野に豊富な水を提供して、美味しい米作りに寄与しているのである。

 鳥海山の由来は三つの説があるらしい。一つはアイヌ語から、二つ目は神社の舞楽からの説、そして大昔の領主の鳥海(とりうみ)弥三郎からと様々である。

 広大な裾野を日本海や庄内平野に伸ばすこの山には、高山植物の固有種でチョウカイフスマ、チョウカイアザミ、チョウカイチングルマが人気を得て、年間二五万人の登山者が訪れると言う。

 二〇〇四年十月七日()~十日()、車中一泊、テント一泊、民宿一泊の計画で予期せぬ鳥海山となった。当初の予定は馬場島から日本三大尾根の早月尾根を登り剣岳へ、そして長次郎谷を真砂沢に下る計画であったが、生憎日本列島は東北・北海道を除いて雨、台風が西から押し寄せてきていた。しかし土・日は東北にも台風が及ぶと言うので、その前に鳥海山を登ろうと皆で一致し挙行した。家に居られない症候群のメンバー仲間は今回五人、徳重会長、温泉部長夫妻、マドンナ河原塚さんである。仕事を終えた深夜二三時四五分、大宮から車で交代運転し秋田県酒田市の鳥海高原家族旅行村の北、滝ノ小屋下の登山口に早朝六時半到着。何時もながら車での長時間移動登山は疲れが残る。しかし好きな山行には皆文句は言わない。一汗かくと疲れが取れるのだろう。中高年の底力はあなどれないと改めて感心する。

登山口(一〇〇〇m)を六時五〇分スタート、滝ノ小屋、河原宿小屋までは秋の紅葉・黄葉で素晴らしい。鳥海山の裾野は今が旬とばかりに色ついている。今日は快晴だが今夕からの台風でこれが見納めとなろう。

○○雪渓、○○雪路、○○沢、○○川と、昭文社地図には鳥海山に五〇本以上の青線(川)が裾野に広がっている。想像を絶する豪雪と豪雨なのであろう。雪渓が九月というのに大小多数残っていて、紅葉と、白い雪の輝き、青い紺碧の空のコントラストは山上の楽園と言えよう。「湯ノ台道」と言うこのコースは紅葉の樹林帯、中間の雪渓地帯、頂上地帯の火山岩に大別される。

 高度を頂上地点まで登ると、伏拝岳から御鉢巡りの様に東に御室まで来ると、赤い屋根の御室小屋など数件の小屋が眼下に見える。古くから信仰の山として修験者が多数泊る山小屋なのだ。大物忌(おおものいみ)神社御本社という赤い鳥居も見えている。

 頂上は新山(二二三六m)と言い、大きな岩がゴロゴロ積み上がった火山岩でまるで巨大な溶岩ドームをよじ登る如き楽しさである。凡そ四時間後の十一時十分着であった。

裾野の色とりどりは、赤・青・黄・各種のペンキを頂上からばら撒いたような美しさで、日本海の青と、白いさざ波も言葉では言い尽くせない。「見ろ!これが鳥海山だ!」と吠えたくなりそうだ。下山も巨岩に登ったり、奇岩に驚いたりで退屈のしない山で、三時間後の十五時に下山する。第三セクターの豪華な鳥海山荘というホテルで、汚い身体を綺麗にして、近くの鳥海高原家族旅行村のテント場に今夜はテント泊。広いテン場に利用者は我々のみ、誰もいない。紅葉シーズンたけなわなれど、台風の上陸を察知してか敬遠したのだ。静かは良いが張り合いがないともいえる。やはり雨がポツポツ、夜半は風もついてきた。

いくら降ろうが、風がふこうがテント泊常習のつわもの達は子守唄にして朝まで爆睡。

 翌日は台風が南から押し寄せるので、逆に南へ観光の針路をとり逃げる事にした。山形・鳥海山に来たならば、先ずは酒田市である。鳥海山と同じ位、酒田に来るのを楽しみにしていた。

かって日本一の大地主であった酒田・本間家を見るためである。「本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に」という唄が流行ったというほどの、日本一の大地主で江戸時代の豪商である。今は末裔が広大な不動産を維持し、豪邸は美術館として運営されている。当時酒田市の半分の田を所有し、小作人三〇〇〇人、酒田市の税金の半分を納めていたそうだ。「西の堺、東の酒田」と云われた北前船の時代である。三代目、本間光丘は苦しい藩士や農民の借金を肩代わりし、低利で融資して救済し、取立ての厳しい殿様に年貢を納めるよりは、本間さまの小作人になったほうが幸せと言わしめたという。

また、本間家は南部、津軽諸藩にまで献金し財政を助けており、中でも、有名な米沢藩の上杉鷹山に藩政改革のアドバイスまでしている事は当地では有名である。

本間家の屋敷を見て驚いた。酒田大火の折に、広大な屋敷の土塀と多数の大きな松ノ木のおかげで近隣は焼けずに済んだと言う。屋敷には殿様を迎える専用の玄関まであり、部屋は数知れない。使用人のためには寒さを防ぐ為、温かい中二階に住まわせ、当主たちは北側の寒い小部屋に住んでいたという質素な部屋を見て、人物の偉大さを確認した。

今回は温泉部長と、副部長の私が参加しているので、会長が気を使ってくれる。最上川流れる酒田から、日本海に沿って南下、佐渡島の雨に煙る島影を右に見て、「湯野浜温泉」、「温海温泉」、「瀬波温泉」とハシゴする。そして瀬波温泉の温泉つき安い民宿に泊る。しかし酒の持ち込みはいけません、地酒を買って下さいという。変な民宿、そう云われるとズルして持参した酒を飲みたくなるのが人情、これがまたスリルがあり旨かった。

翌日は村上市見学、江戸時代村上藩の城下町である。皇太子妃、雅子様先祖の小和田家のゆかりの地である。丁度秋祭りの真っ最中であり、郷土神輿がはなやかである。市役所前には雅子様を称える幟が印象的であった。

村上市には城下町のせいか寺も多い。一〇m間隔で寺が林立している。もう一つ感心したのが「鮭」である。鮭の保存と販売で有名であるらしい。北海道出身の私が驚いた。販売店兼加工所に入り、天井を見上げると鮭を無数に干してある。ここの感心するのは鮭を全て使い、捨てる所はないと言う。頭も皮も骨もである。瓶詰め他にしたその美味しい味は忘れられない。北海道は鮭にしろ、昆布にしろタラコにしても加工が下手である。

一度、北海道の関係者に見て頂きたいと感心しながら後にした。

 最後の温泉地、五頭温泉郷で〆て、   台風一過の青空の下、楽しい鳥海山と温泉を終えた。

 



79/80・月山蔵王山

  出羽三山の主峰月山と、樹氷と温泉の蔵王に行く

 信仰の山として名高い出羽三山(月山、羽黒山、湯殿山)は一四〇〇年前、崇峻天皇の皇子、蜂子皇子(はちこのみこ)が三本足の霊鳥に導かれて羽黒山を、続いて月山、湯殿山を開祖したといわれている。また月山の名前の由来は月読命(つくよみのみこと=姉、天照大御神、弟、須佐之男命と共に三貴子とされている)を祀ることかららしい。

 「奥の細道」の行脚で出羽三山に登拝した松尾芭蕉は「雲の峰 幾つ崩れて 月の山」と詠んだことは余りにも有名である。また湯殿山に登拝の折は「語られぬ 湯殿にぬらす 袂哉」と詠んでいる。湯殿山では行者の法式として、山中の微細は他人に話す事を禁じられていると云う事から、それを俳句にしたのである。

  月山

 別の山行で、湯殿山の麓にある、湯殿山神社が経営する湯殿山参篭所という、旅館というか修験者用の宿泊所に泊ったことがある。一般人も泊めてくれて、温泉付なのでなお嬉しいが、さすがに驚いた事がある。風呂の中にも小さな鳥居があり神様?を祀っているではないか!スッポンポンで神様に相対してよいものなのか、少し不安になりながら神妙にソソクサと出てきた記憶がある。女性もヌード姿をいくら神様とは言え、じろじろ見られているとなると落ち着かないでしょうと要らぬ心配をしたが・・・、ゲスの勘繰りでしょうか。その夜の夕食前、神主さんと呼ぶのでしょうか、偉そうな方のお話があると言うので、好奇心で聞きに行く。月山は死、すなわち過去を指し、羽黒山は現世、現在を、そして湯殿山は再生、未来にたとえています、と説明を受ける。三山の開祖の話、歴史の移り変わり、山岳修験者で白装束の人々の事など、興味ある話を聞く事が出来た。

 常々思っていたが不思議な事がある。信仰はいつも山が対象である。海、川、丘、湖は何故対象にならないのであろうか? 山は修業、荒行の為とは理解できるが、河原で座禅をくんでいるのも絵になると思うが、一度調べてみましよう。

 二〇〇四年一〇月十六日(土)~十七日(日)、自宅の東川口を車で五時出発。今回は相棒の板坂さんと二名で東北自動車道、山形自動車道と繫いで、月山インターから志津温泉の北、姥沢登山口に九時半到着する。この登山口はもう一つの蔵王山に行くにも高速道路を挟んで反対側の南にあることから便利と言えた。

 歩くと一時間必要なコースにはペアリフトなるものがある。一四分で安直に月山リフト上駅に立てるという。この時私は生まれて初めてシニア―料金なるものを窓口の可愛い、可愛い女の子に優しく、優しく教えられた。みすぼらしい哀れな老人と、天使のような可愛く、綺麗で、美しい女の子の会話である。「シニア、如何ですか?」「・・・」「百円、安いのですよ!」「・・・下さい。」 六〇才を過ぎるとシニア―などと、誰が決めたんだ!

何となく世の中から隔離されたような気持ちになるから不思議である。格言「子供しかるな、来た道だもの。年寄り叱るな、行く道だもの!」 リタイアしたら坊さんになると言う板坂さんの口癖が妙にしみじみ聞こえる。

 月山の登山道は、リフト上駅(一五〇〇m)から途中の姥ヶ岳(一六七〇m)まで、木道と石畳で見事に整備され、頂上からの水滴を集めて細い小川となり、小川に沿って高度を上げていく。これから登る山道や頂上方面も扇を広げたように大パノラマである。

秋も深まり、二時間後の十二時に頂上(一九八四m)についた時は、猛烈な雪に見舞われ、一〇㎝程積もっていた。頂上直下はザレ場、巨石の連続で汗をかき、寒さをとばしてくれた。頂上は信仰の山らしく参篭所、神社、鳥居、山小屋が所狭しと建ち並んでいる。

一時間半でリフト駅に戻り、次ぎの山、蔵王山に向かう。観光協会から紹介された格安一万円の、「蔵王松金屋アネックス」という古いような新しいようなホテルに向かう。

月山には寒い時期、眺望の悪い時であったので、翌年七月の山形・朝日岳の帰りに行く事が出来て、この時は天気も良く、花の山・月山にふさわしいたくさんの花も見られた。

ニッコウキスゲの群生地、黒百合、チングルマ、コバイケイソウが見事に咲いており、また残雪の雪渓でスキーを楽しむ若人が印象的であった。ここ月山は国内では唯一、夏スキーが八月まで可能な山として有名で、学生の合宿が多く、麓の温泉には旅館が多い。

 頂上からは日本海、その日本海からスックと立ち上がったような鳥海山、朝日連峰、蔵王、飯豊連峰、吾妻山の山並みが見える。東北は良い山と秘湯・名湯の温泉に囲まれた素晴らしい地域である。

高速で戻り、山形蔵王インターから下りて温泉街に向かう。白濁・硫黄、強酸性硫黄泉は蔵王の名湯である。ここのホテルは単純温泉の源泉と二つがあり五回もそれぞれ入り堪能した。気の合う友と山の話、昔話に時間を忘れて語り合い、時間がゆっくり過ぎていく。

翌日、蔵王エコーラインで刈田岳山頂駐車場(一七四〇m)までは車で一〇分、観光客で大混雑である。頂上の熊野岳(一八四一m)までは四〇分で着いてしまう。観光客もおじいさんも、おばあさんも、お姉ちゃんも簡単に登ってきている。ザックを担いで重装備をしていると、気恥ずかしくなりそうだ。蔵王は日本海と太平洋に水の一滴が流れる分水嶺である。気象の変化が激しい山域でもあり、風の強い所で早々に引き上げる。

蔵王の名前の由来は金剛蔵王大権現を祀っているところからという。ここも信仰の山なのである。一般的に蔵王は温泉で有名、数知れないほどホテルが建ち並ぶ。またスキーのメッカでもあり、樹氷の美しさは他に類は無いと言われている。また頂上直下の御釜は直径三六〇m、深さ四〇mでエメラルドグリーンの神秘的な輝きである。

八年前の一九九八年に二度、東北の「日本秘湯を守る会」の温泉を中心に、会社の仲間達四名で回った事がある。苫小牧からフエリーで深夜発ち、八戸に早朝に着いて、レンタカーで回るという強行スケジュールであった。二度で十八件の温泉に入り、温泉教授松田忠徳の気分を味わった。その時の蔵王温泉・大露天風呂は圧倒的で野趣満天であった。

蔵王の温泉街の一番高い所にあり、その名も「一度川」という珍しい名前の川で、源流部の狭い渓流に沿って湧き出す温泉をそのまま使い、何と一度に二〇〇人が入れる大露天風呂であった。熱くなると川の溜まりの水で冷ましてから、また湯に入るという楽しい温泉であった。温泉好きの懲りない面々は安藤、岡嶋、林さん。今頃はどこの温泉に入っているやら・・・。

 帰りは山形市内を社会勉強。町の端から端まで車をとばして観光し、歴史・風土を学び、帰途についた。

 蔵王のお釜 蔵王山神社  
  


81天城山

  伊豆の踊り子、あなたと越えたい天城越え

 天城山は伊豆半島のほぼ中央にあり、万二郎岳、万三郎岳他の総称である。天城山の名前の由来は、「高く聳える天の城」から、または「甘木の山」から命名されたという。万二郎と万三郎はマタギの名前らしいが、判明していないようだ。

 二〇〇四年十一月二七日()~二八()、温暖の伊豆は遅くまで秋山として親しまれていることから温泉一泊の山行計画をした。温泉部長夫妻、会津磐梯山に次いで、百名山二山目の、田川さん夫妻がメンバーである。東川口を七時スタート、首都高、東名道、小田原厚木道路、伊豆スカイラインを繫いで、登山口の天城高原ゴルフ場(一〇四〇m)に十一時半到着する。

 本来は天城峠まで七時間の縦走コースが人気のコースだが、メンバーの体力に合わせ、最高ピークの万三郎岳(一四〇六m)往復とした。涸沢周りも考慮したが、昨年の台風で決壊して通れないので、つまらないピストンである。

 樹林の多い山域で鬱蒼とした原生林の中を歩く。ブナ、ヒメシャラ、アセビが多いが、特にシャクナゲの樹のトンネルを潜って進む登山であった。途中、富士山や伊豆の山々の眺望が青空の下に美しい。二時間二〇分後の一四時一〇分に眺望のない頂上につく。

 一時間五〇分で下山し、本日の宿泊所、タキカワ伊豆ビューレックに向かう。温泉部長の娘さんの勤務先研修所である。伊豆高原の別荘地にある豪華な建物に格安、豪華料理でお世話になる。にわかブルジョアになった気分がする。昨年も伊豆観光で泊めていただき、丁度研修中の、東京銀座のカリスマ美容師を見ることが出来た。ここで出された伊豆の美味しい旬の魚の味は未だに忘れられない。

高原に建つ建物のテラスからは、遠く伊豆七島が見ることが出来、反対側には伊豆の大室山など山々が連なって美しい。学生時代にギターを弾きながら唄った名曲を思い出す。

 ♪ 伊豆の山々 月淡く  明かりにむせぶ 湯の煙

     あ~アァ 初恋の 君をたずねて 今宵また ギターつま弾く 旅の空

               古賀政男作曲、歌手 近江俊郎 「湯の町エレジー」

 翌日は伊豆城ヶ島を巡り、美味しい魚を食べられる、沼津港の食堂に遠回りして帰途につく。

 昨年の伊豆観光も内容豊富で記憶に新しい。沼津港の「魚河岸丸天」の豪華食事、蛭ヶ小島、韮山反射炉、修善寺を周り、湯ヶ島温泉国民宿舎「木太刀荘」に泊る。ここの庭先に咲くムラサキシキブは小粒の紫の玉をつけ、愛らしく綺麗であった。北海道には見られない可憐な花で何より名前がよろしい。二日目は下田観光、天城峠、浄連の滝、ワサビ田、天城七滝巡り、伊豆高原の研修所泊、伊東市、小田原を周遊した。

浄連の滝 わさび田 天城峠のトンネル

 メンバーが安藤夫妻、田川夫妻、高橋夫妻、板坂さん、合計八人の豪華な旅であった。

いやしくも山岳会所属により、大室山(五八〇m)を登ろうとしたが、登山リフトがありお世話になってしまう。すり鉢をひっくり返した様な見事な三角錐の山であった。

 山岳会の演歌師、板坂さんが唄い出す。情緒たっぷりに聞かせた。

 「♪ 隠しきれない 移り香が いつしかあなたに 浸みついた 誰かに盗られる

     くらいなら あなたを殺していいですか 寝乱れて 隠れ宿 九十九折り

    浄連の滝 舞い上がり 揺れ堕ちる 肩のむこうに あなた・・・

山が燃える 何があっても もういいの くらくら燃える               

 火をくぐりあなたと越えたい天城越え ♪」

 作詞 吉岡治、作曲 弦哲也、唄 石川さゆり 曲 「天城越え」

あざやかなムラサキシキブ

 女の情念を歌わせると右に出るもの無しといわれる歌手。一方の板坂さん、壊れたレコードのように止まらなく、ただウルサイだけの迷惑歌手。それでも唄の言葉、浄連の滝、九十九折りは、ここの雰囲気に充分である。しかし、寝乱れてとか殺していいですか、揺れ堕ちる、くらくら燃える、などと女性から云われると腰が引けちゃいますよね~。

やはり女性は吉永小百合扮する「伊豆の踊子」のような純情可憐が良いか、「天城越え」を歌う石川さゆりの女の情念が良いか。

果たして、どちらが良いか悩むところですね。

その様な心配ご無用かな!

 伊豆、天城山の登山の間中、どちらの女性も

残念ながらお見受けしなかった。

中高年ばかりであったから・・・。


82・両神山      

  日本を作った両の神様に面会

埼玉に長く住んでいてもなかなか行けなかった山の一つである。秩父方面に行く度に、鋸の歯のように岩峰を連ねた特徴ある山容が気になっていた。特に名前がユニークである。両の神の山とある。由来は?これもまた気になっていた。

日本人は宗教心が乏しい、と外国人はよく言うそうである。世界の三大宗教である仏教、キリスト教、イスラム教はその信者と教えが世界中に浸透しており、いまや国家をも左右する状況にあるが、日本はそうではない。

困った時の神だのみ・・・。手を合わせ(仏教)、かしわ手を打ち(神教)、更に顔の前で十字を切り(キリスト教)ながら、なおもワラをもつかむ気持ちで願い事をする。私の周りにはそのような人が多い。何と欲深き罪多き人々であろうか。

 日本の国を作った神はイザナ神、イザナ神であると伝記にある。この両神は天の神様たちの命を受けて国作りを始めたそうです。天の浮橋に立って、まだ混沌としていた地球の表面に棒を入れてかき回すとそのしずくが落ちて日本の一部になり、そこで二人は結婚しました。この時まずイザナ神がイザナ神に「そなたの体はどうなっているか?」と聞くと「私の体には成り成りて成り合わぬ所があります」と言います。そしてイザナギは「私の体には成り成りて成り余る所がある。私の成り余る所をそなたの成り合わぬ所にさし塞いで国を生みましょう」と言い、日本の国土が出来上がったという目出度いお話です。に言う巧妙で意味深な言い回しがふるっていますね。

 このイザナ神、イザナ神の両神を祀る両神神社があることから、両神山と命名されたのでしょう。

 年の瀬も押し迫る平成16年12月11日(土)、関東平野は絶好の山日和。気温二十度、快晴、無風。11月から山行計画を数人と何度も立てながらも都合でのびのびになり本日は単独の日帰り山行となった。東川口から両神村の日向大谷口登山口まで車で2時間。

 登山口には古い民宿、両神山荘ともう一軒が寄り添うように風情よく建ち、窓には沢山の布団を干してある。冬とは思えないのどかな光景である。

  両神清滝小屋

途中の登山道には、古い石像や石碑が点在し、人々の両神山への厚い信仰がうかがえる。

薄川上流の沢を渡り返しながら進むと約二時間でログハウス風の清滝小屋である。12月からは無人だが、避難小屋として一泊三千円の寝具付で開放している。立派な山小屋だ。流石に関東の有名百名山の一つで、本日の登山者も次々と息を弾ませて登って来る。

 春にはニリンソウやバイケイソウ、そして淡いピンク色のアカヤシオが咲き乱れるそうである。幾度かの鎖場を過ぎて、ヒノキ、ツガの茂る広い尾根を登りつめると赤い立派な鳥居と両神神社が現れる。標高1,621mである。信者は標高差1,000mをひたすら信仰のために登りつめるのだ。多分、神様も願いを聞いてくれるのだろう。私も願いをこめて祈った、「成り成りて成り足りぬ所があります。どうか宜しく宝くじ・・・」と。

高さ10mほどの急峻な岩場の鎖場を慎重に攀じ登ると両神山の頂上に立った。展望は雄大で荒船山、妙義山、八ヶ岳、浅間山、遠く北アルプスも視野にある。富士山もしっかり存在していた。

両神神社  早くも寒桜

 下山する杉林でちょいと期待した。小学校時代の映画館、時代劇で見たご存知、中里介山の大菩薩峠の主人公「机竜之介」がその辺から出没するやも・・・。なぜならば、この両神村には「秩父の剣法」で有名な逸見家の甲源一刀流の道場があるからである。机竜之介は甲源一刀流の使い手なのであります。

期待した市川雷蔵も出て来ない。夢多き少年の心は砕け、とぼとぼと家路についたのであります。

 今年はよく山行を重ねました。今年の目標は百名山完登であったが、秋の前線と台風で16山が残り合計84山で終わった。それでも今年一年で44山、納得の一年でした。北は大雪山「何度も登っているが・・・」に始まり、八甲田、岩木山、早池峰~南は白山、大山、剣山、石鎚山。    

印象深いのは、やはり北アルプスの縦走、ロマンと躍動感がある。また南アルプスの深き大きな山は重量感がある。単山で素晴らしいのは飯豊山、ここをおいて他に比類がない。

 来年の予定山行、残り16山、お暇で物好きな方は御付き合い下さい。

朝日岳・吾妻山・浅間山・雨飾山・鹿島槍岳・剣岳・立山・常念岳・聖岳・光岳・荒島岳・伊吹山そして北海道は利尻岳・羅臼岳・阿寒岳・幌尻岳

この一年間お世話になりました。良いお年をお迎え下さい。

迎える年も宜しくお願い致します。


83吾妻山

  吾妻連山と吾妻十湯の秘湯の旅

 東北地方には、連峰とか連山という名山が多い。中でも飯豊連峰、朝日連峰、吾妻連山は代表的で、最も人気の高い百名山であろう。

 吾妻連山は、山形県と福島県の県境にある主峰で、最高ピークの西吾妻山(二〇三五m)を含む「西吾妻」、福島県に位置する一切経山(一九四九m)、東吾妻山(一九七五m)、吾妻小富士(一七〇五m)を含む「東吾妻」、そして東大巓(ひがしだいてん・一九二七m)、継森(一九一〇m)、中吾妻山(一九三〇m)を含む「中吾妻」の三つに分けられる。

天元台スキー場  吾妻小富士

 吾妻山の名前の由来は、ロマンチックな伝説から命名されている。日本書紀による「イザナギの尊」がこの山に立ち、「イザナミの尊」をしのんで「我が妻よ」と懐かしんだことからと言われている。

 二〇〇五年五月三日()~六日()の、ゴールデンウイークを利用し、吾妻連山と吾妻十湯の温泉三昧の山行となった。企画したのは勿論、温泉部長。同調したのが、妙子さん、板坂さんそして私。

 東川口を板坂さんと八時半、年金号の車で出発。温泉部長夫妻を春日部に向かえ、連休渋滞の東北道を岩槻インターから入り、福島西インターで下り、吾妻山登山口のある白布温泉に七時間後の十六時に到着する。何時もの倍近い時間を要したことになる。

 白布温泉は吾妻山登山と温泉観光客のためにホテル、民宿が集中している。今回は一泊二食の民宿白布屋に泊まる。七〇才前後というオジサン一人で経営しているという。

毎年フルマラソンをしているオジサンは、カモシカのような細い足にタイツをはいて、カモシカのように家の中を飛び回っている。見事な身のこなしである。民宿は手作りで山小屋風、趣がある。また手作りのステンドグラスやランプ、陶器、囲炉裏、テーブルが味わいを出している。

風呂はなく、近くの大型ホテル、中屋別館不動閣の入浴券をくれる。最上川の源流からの百㌫温泉、泉質カルシウム硫酸塩泉六〇度で、七〇〇年も絶えた事がないという白濁硫黄の名湯である。露天風呂から渓流沿いに珍しい白い鹿が見え、秘湯感があおられる。

夕食が素晴らしかった。米沢牛のロース焼肉で、牛肉は米沢が一番美味しいと再認識した。飯豊連峰の山行の時も米沢の、駅弁で牛弁当を勧められ食べたが、何度食べても日本一と思う。

五月はこの辺りは完全な雪山である。天元台スキー場の駐車場から三基のリフトで北望台(一八二〇m)に立ち、オオシラビソの樹林帯をツボ足で緩やかに登る。天候も良くさわやかな雪原である。人形石、大凹(おおくぼ)、梵天岩を繫ぐこの雪山は開放感のある雄大な展望が楽しめる。やがて最高峰の西吾妻山(二〇三五m)に着くが、大菩薩山と同じ樹林帯の中で展望は望めない。下山は三基のリフトに沿って、グリセードで楽しみながら天元台高原に往復三時間で戻り、車で秘湯の温泉めぐりとなる。

新高湯温泉の吾妻屋旅館「日本秘湯を守る会」は山の絶壁に近い場所に建っている。

泉質含石膏硫化水素泉五六度、標高一一二六mにある。清流の音を聞きながら露天風呂に浸かる。だがゆっくりはして居れない、次がある。

上杉謙信  上杉鷹山

 米沢市内見学の社会勉強。上杉家歴代の廟所、上杉神社、上杉記念館で歴史の勉強をする。アメリカの元大統領ケネデイから、日本で一番尊敬する政治家は上杉鷹山、といわせしめた「成せばなる、成さねばならぬ、何事も」で米沢藩の財政危機を建て直した逸話等々。

 今夜の宿は吾妻十湯、または米沢十湯と言われる中の一つ、小野川温泉うめや旅館。米沢の奥座敷にある。含硫黄ナトリウム・カルシウム塩化物温泉七〇度でPH6.7の名湯。温泉街にある無料の「小野の湯」の露天風呂にまで入りに行く温泉好きのグループである。

宿の亭主は、しきりに温泉の良さを書いた紙で説明をして、温泉部長に自慢している。

 三日目は最大の楽しみ、姥湯温泉・枡形屋に行く。残念ながら板坂さんは六日から会社の為、峠駅でお別れとなる。

姥湯は標高一三〇〇mにあり、南画の世界を思わせる奇岩怪石がそそりたつ絶壁の渓谷に建つ一軒宿である。ここに行くには車の運転は特に気を張っていかねばならない。スイッチバックなる運転をせよとガイドブックにある。急勾配の急カーブゆえ、一度にはハンドルを切れず、バックして切りなおす方法である。「日本の秘湯を守る会」のスタンプ帳の表紙に出ている露天風呂が、ここの温泉。

姥湯 姥湯 

泉質単純酸性硫黄泉五二度。野趣満点、対面の山から岩が落ちてきそうな露天風呂である。連休で人気の秘湯ゆえ、老若男女大混雑である。皆嬉々として喜んでニコニコ顔である。秘湯の会の温泉にずいぶん行ったが、ここの姥湯がナンバーワンであり、右に出る温泉はないと思われる。

 今夜の泊りは、姥湯温泉のスイッチバックする手前下、その名も滑川と言う渓流沿いに建つ滑川温泉の福島屋。古風な湯治場で泉質硫酸塩泉四五度。露天風呂は歩いて十分ほどの山あいの絶景地点にある。

 最終日は五色温泉の宗川温泉、泉質岩塩化土類重曹泉四七度。標高九〇〇m、日本最初の国設スキー場が設けられた場所と言う。

 奥羽本線の峠駅は駅マニアには是非行きたい駅らしい。一日二回しか電車が来ない、標高の高い駅で六二四mあり、電車はスイッチバックでこの駅を通過していく。ジグザグに登り進むのだ。豪雪のため、線路やポイントを守る為、駅構内全体を屋根で覆っている珍しい駅である。

 磐梯吾妻スカイラインで、標高一六〇〇m地点まで車で行く。天候が良く東吾妻山、吾妻小富士、一切経山の山々が見事に見える。スニーカーで吾妻小富士(一七〇七m)を登りお鉢を一周し吾妻連山を心行くまで見渡す。一切経山という名はその昔、空海が山中に一切経(釈迦の教説)を埋めたことに由来すると言う。

 最後の温泉は福島県高湯温泉の玉子湯。立派なホテルで小さな風呂棟がたくさんある素晴らしい温泉であった。

 吾妻十湯は、今回六湯(小野川、白布、五色、姥湯、滑川、新高湯温泉)に入ることが出来た。残すは大平、笠松、栗子、湯ノ沢温泉である。いつか機会があるだろう。

よき山と、素晴らしい秘湯・名湯を六ヵ所も入ることが出来て、満足この上なし。温泉部長の温泉に対する熱意と、何がそこまでさせるのかを、少し垣間見た気がした山行であった。


84・甲斐駒ヶ岳

  南アルプス北端にピラミダルに聳える、全国駒ケ岳の最高峰

 駒ケ岳の駒とは馬を現している。山の形が馬に似ている、残雪が馬のようである等から全国に二〇以上の駒ケ岳がある。その最高峰が甲斐駒である。天竜川に沿って伊那辺りの中央自動車道を走ると、西には、駒ケ岳の名で二番目に高い木曽駒ヶ岳(二九五六m)、そして東に甲斐駒ヶ岳(二九六七m)がそれぞれ青い空の下、一段と映えて美しい。

 また甲府市を過ぎる頃の中央道でも、東に八ヶ岳、西に甲斐駒ヶ岳が見えてくる。登山者に限らず、観光客の殆どの目がこの雄大な雄姿に見惚れ、ため息をつく一瞬である。甲斐駒の頂は、よくピラミダルと表現されるが、りりしく、スックと胸を張って立つ男性的なたたずまいと言えよう。その陰には、たおやかで女性的な仙丈ケ岳が寄り添うように従っているように見える。私はこの辺を走るのが何時も楽しみで眺めている。

 甲斐駒には、二〇〇一年七月に、仙丈ケ岳と甲斐駒の縦走計画で臨んだが、時間切れで途中、仙水峠で引き返しており、今回再度の山行とした。

 二〇〇五年六月十三日()~十四日(火)山小屋一泊の計画とした。一週間前、念願の八ヶ岳、日本一高所にある野天風呂本沢温泉(二一五〇m)で楽しんで、満を持しての今回である。

 前回の甲斐駒は甲府駅~広河原~北沢峠のコースであったが、変化を求めて伊那市長谷村~戸台口~北沢峠とした。前回は山梨側、今回は長野側である。

 東京・新宿駅新南口のJRバス乗り場、八時二〇分発、戸台口の仙流荘に十二時三六分到着。乗客は平日のせいか五人、それも伊那市まで皆下車し、最後は私一人である。ちなみに帰りは4時間、私一人であった。運転手に頼んだ。都度都度の下車駅の案内は気の毒ゆえしないで下さい、と。それを聞いて運転手もホッとしていた。4時間も二人で売れない漫才をしているようなもので、やりきれないのである。

 仙流荘(一〇〇〇m)から北沢峠(二〇三五m)までは、南アルプス林道を約一時間、長谷村営バスに乗る。まだシーズン・オフで、本日は試運転だが割り引いて一〇〇〇円で乗せると言う。仙流荘、併設の風呂、バス、北沢峠の今夜泊る山小屋・長衛荘全てが村営である。長谷村といい、山梨側の芦安村といい、南アルプスで村の財政が賄われている。云うなれば長谷村株式会社である、村長でなく社長なのだ。

 十三時半、長衛荘に着く。標高差一〇〇〇mを、バスは新型車なのでスイスイと登ってきた。試運転で貸し切である。運転手も気楽に景色の良い所で停めて、説明をしてくれる。

北沢峠と長衛荘

山小屋も今夜は貸し切である。翌日の甲斐駒も終始自分一人で貸し切であった。高速バス、村営バス、山小屋、甲斐駒全てが貸し切、こんな贅沢な山行は初めての経験であった。おまけに高遠の風呂までが貸し切、私は淋しい・・・。

山小屋の夕食がこれまた品数豊富、美味しい。鮭・キンピラ・いかのピリカラ焼き・長芋・サラダ・

ハム・漬物他、その辺の旅館より美味しい。六五〇〇円なら安い。酒二合を晩酌に飲むと、夕方六時には寝てしまい、朝四時までぐっすり。

夜明けの四時二〇分スタート、仙水小屋五時、ここの水は冷たい、二度前後である。樹林帯を、高度を上げて、大きな岩石がゴロゴロする地点に来ると仙水峠(二二六四m)だ。

ここからはハクサンシャクナゲの茂る急登で、標高差五〇〇mをジグザグに一時間、最もきつい場所である。駒津峰(二七五〇m)に来ると、カールを抱いた仙丈ケ岳が鮮やかに見えてくる。疲れも飛ぶ眺望である。一旦尾根伝いに下り、巨石の六万石を過ぎると麻利支天分岐がある。巻き道を進み、花崗岩の白い大岩と、ザレ場に気をつけながら最後の登りに汗を出す。非常に花崗岩は滑りやすい。ここで遭難・事故を起こす人が多いという。

祠のある甲斐駒ヶ岳(二九六七m)の頂上に三時間半後の八時に立っていた。丁度晴間が広がり、北アルプス、南アルプスの山並みがくっきりと見える。八ヶ岳も美しく、特徴あるギザギザの連邦が映えている。直ぐ近くには摩利支天(仏教の守護神の一つ)が、いかにも神々しく雲の合間に見え隠れしている。

頂上から北を見下ろすと、三大尾根(剣岳の早月尾根、烏帽子岳のブナ立尾根、甲斐駒の黒戸尾根)の黒戸尾根が見えている。この尾根は標高差二二〇〇m、水平距離七〇〇〇mと言われている。頂上付近は一面真っ白な砂礫である。植物が生えないのが頷ける。これなら遠くから眺めると雪を抱いた様に見えるはずであろう。

素晴らしい眺望に別れを告げて、八時十五分下山開始。登りの間も、頂上でも誰にも会わない。熊が出ると怖いので思いつくまま、知っている限りの演歌を歌いながら下山する。あまりの下手さに自分でも呆れながら、北沢峠に十一時到着した。バスは十三時発なので、二時間を、ビールと行動食で昼食、昼寝とした。素晴らしい快晴の温かさで気持ちが和む。

長谷村伊那市の中間に高遠町があり、歴史上有名な高遠城跡があった。その麓の高遠湖のはずれには「高遠さくらホテル」があり、温泉もあるので一汗流す。伊那市の町中に幟が立っており、「高遠の名君、保科正之をNHK大河ドラマに」と書かれていた。

保科正之は三代将軍・徳川家光の弟で後の会津藩主である。二代秀忠のご落胤であったが、家光に重用されていたとある。高速バスが三時間後なので、生ビールを飲みながら、「高遠歴史の散歩道」という観光協会発行の説明文を読みあさる。

高遠さくらホテル遠景

以下は歴代城主である。

高遠城は諏訪氏の一族・高遠氏の居城から始まる~その後、武田信玄に滅ぼされ、信玄配下の秋山信友~信玄の子息・武田勝頼~勝頼の弟・仁科盛信~織田信長配下・毛利秀頼~木曽義昌~徳川家康配下・京極氏~保科氏~鳥居氏~内藤氏~明治維新

 この地は戦国時代の要の地であったのであろう。城は凄まじい戦いと、猫の目の如く変わる城主を迎えて眺めてきたのである。

 ホテルの前、高遠湖の小高い丘に高遠城址公園があり、コヒガンザクラと言う有名な桜が一五〇〇本あまりある。首都圏をはじめ近隣から、毎年四〇万人の観光客が押し寄せると言う。赤い素晴らしい花をつけると言う。高遠城攻防戦で散った者たちの血を吸っているので、これほど綺麗な桜になったと、地元では語られているそうである。

栄枯盛衰、会者定離を感じた静寂な高遠を後に、高速バスにまた一人乗り、喧騒の大都会・新宿目指して帰途につく。



85・雨飾山

  字を読んでも、見ても美しい雨飾山、ここの雨だけは許される

 北海道を除く、日本列島の六月は梅雨真っ最中である。よって山岳会の年に一度の総会は、六月最終週の日曜日と決まっている。ともすると五月から続く梅雨でうんざりである。「毎日が日曜日」を実践している私は、天気図で東西南北の何処か、晴間を選んで山へ行くので不便は無いが、他の勤勉サラリーマンは辛かろう。

 三カ月前の三月十八日~二一日に、雪山で小谷温泉(おたりおんせん)口から、頂上直下の雪稜の高さ三〇mを、技術不足で断念して頂上を目指せなかったので、今回再度の計画とした。断念グループの仲間、温泉部長を誘っての山行である。ただし今回は温泉がメインの新潟方面、雨飾温泉口からの計画で、一泊して翌日の総会が始まる前の、十三時まで帰る予定とした。

 私は百名山の名前で、山の内容はともかくとして、早池峰、鳥海山、雨飾山が好きである。字も良いが響きがよいのである。雨飾山の雨と言う字は、登山者は嫌う字である。それが逆に気になる字で、気になる山と、三段論法になるのである。

 由来を調べた。山頂に祭壇を祭り、雨乞い祈願をしたことからと言う。余りにも平凡なので気落ちしてしまう。私は、この辺の登山愛好者が余りにも雨が降るので、開き直って雨飾山と命名したのではなかろうかと想像していた。

 山頂には西峰に雨飾山姫神が、最高点の東峰に雨飾山大神が祭られている。

 二〇〇五年六月二五日()~二六日()、住まいの東川口を夜も暗い三時半、車で春日部の君(温泉部長)を迎えに行く。関越道、上信越道、北陸道をつなぎ、日本海に沿って糸魚川インターで高速を下りる。名湯・姫川温泉を過ぎると左にハンドルを切り、田園地帯を三〇分で登山口、雨飾温泉(九〇〇m)に八時半到着する。対面の絶壁には駒ヶ岳(一四九八m)の山稜が続いている。

 この日、下界は三四度あり連日の暑さが続いていた。九時十分スタートし、頂上(一九六三m)には十二時五〇分着で、三時間四〇分の所要時間であった。樹林帯の急登の連続であり、冬の小谷温泉側と同じ厳しさであった。ブナとダケカンバの樹林帯は特に蒸し暑く、風も通さない。だが、ヒメシャジン、ハクサンフウロ、ハクサンチドリ、ツツジが見事に開花して目を楽しませてくれた。ほぼ中間点の「中の池」に来ると長い雪渓が残り、三〇〇mほどの急登は涼しさが加わる。アルミのハシゴ、ロープが出てくると緊張感も伴う。やがて笹平分岐に来ると急坂は終り、頂上がガスの途切れの中、顔を出し雨飾山荘ていた。   頂上までの花道が、一本道で印象的である。さすがに人気の山で、小谷温泉方面からの登山者が多いようだ。

 冬山で臨んだ岩稜を上から覗いたが、垂直に近くアプローチさえ見えない。思わず身震いして、立ちすくむ。徳重会長一人が最終ピークまで登り、セッピのヤセ尾根を歩いたのである。バランスを崩し、滑ると五〇〇m下の谷底に落ちていただろう。

 二時間五〇分後の十六時に下山する。早速、露天風呂から体験する。暑いせいか、青大将が風呂の片隅で昼寝をしており驚かす。重曹泉の柔らかい湯である。その名も秘湯「都忘れの湯」と看板に書いてある。「日本秘湯を守る会」の温泉である。

 続いて内風呂に入る。源泉掛け流しの本物の温泉である。飲んでも旨いし、風呂の雰囲気が抜群である。たっぷりと味わい疲れを取って、生ビールを片手に広い庭のベンチに座る。夕焼けに染まる向かいの急峻な駒ケ岳と、その下に流れる雪解け水の速い川の音にしばし見とれて聞きほれる。一時間の間に足を十ヵ所近く蚊にさされ後で気付く。

 山小屋の食堂は清潔で、料理の内容も充実しており美味しい。メニューは忘れたが、美味しいのだけは鮮明に覚えている。部屋に戻り、また風呂に入り、冷やした缶チューハイで二次会をし、いつ寝たか記憶にない。楽しい雨飾山であった。




86・常念岳

   ロマン溢れる安曇野から三角錐の山、常念岳へ

 常念岳への登頂コースは、縦走路の大天井岳からと、南の蝶ヶ岳からの二つのコース、そして安曇野の三股、一の沢の四コースとなる。安曇野(あずみの)と言う字と響きが大変良い。もともとはこの辺の呼称であったが、平成十七年に近隣の穂高町豊科町など、四町村が合併して安曇野市となっている。命名の根拠はいかにも安曇野という言葉がロマン溢れしかもゴロが良く、周辺住民、観光客から支持されてきたためであろう。

 同じように言葉が一人歩きし、似たような新しい市が、南アルプス市であろう。山梨県にあって南アルプスを抱いた町村が、その財政を北岳・仙丈ケ岳・鳳凰山・間ノ岳・甲斐駒等の南アルプス登山による所の、バス、山小屋、レストラン、温泉事業に依存していた事から、住民が納得する訴求力のある名称となっている。今や、自治体とて営利を生み出す私企業的存在となっている。

人口十万足らずの安曇野のこの地は、北アルプスの麓で、田園地帯と相まって素晴らしい環境下にある。のどかな田園地帯、山麓一帯での天然の湯めぐり、自然散策、美術館めぐり、神社・仏閣や文化財めぐり、賽川でのカヌーやラフティング、ロマンを運ぶ梓川や高瀬川、農家での収穫体験、陶芸、信州信濃の蕎麦打ち体験、有名なワサビ田、ニジマス、地酒、地ビール、ワインの特産品、挙げれば切りがない。

北アルプスに向かう時は山梨県・塩尻駅から大糸線の新潟・糸井駅までトコトコ走る電車と平行して車を走らせる。北から白馬岳、五竜岳、鹿島槍ケ岳、剣岳、立山、槍ケ岳、穂高岳、そして常念岳に行くには殆どがこのラインを走る。登山道路と言えよう。

常念岳は北アルプス連峰がそびえたつ中部山岳国立公園の山岳地帯であり、燕岳(つばくろだけ)、大天井岳(おてんしょうだけ)、常念岳などの海抜三〇〇〇m級の象徴的な山々が連なる一角にある。また常念岳のピラミッド型のその形は、安曇野からは一目瞭然で直ぐ見つけられる、非常に印象的な形状である。

山名の由来は、七五八年頃平安時代の武人で、文の菅原道真、武の坂上田村麻呂と言われて、文武のシンボル的存在の坂上田村麻呂が、この地に遠征した際に、重臣である常念坊がこの山へ逃げ込んだとされる事からつけられたと言う。なお、初夏になると、山体に常念坊の雪形が浮かび上がるさまも、いにしえを感じさせる。

常念岳頂上

二〇〇五年七月八日(金)~一〇日()、過去三回計画して雨で中止になった。今回も怪しい予報であったが挙行した。車で、勤務が終わる温泉部長夫妻を二〇時半に迎えに行く。関越道、上信越道を通り、豊科インターで高速を下りる。〇時半、豊科のタクシー会社南安タクシー常念小屋の屋根と槍ガ岳~大キレットの二階会議室を借り、一気のみして仮眠する。

翌日、同タクシーで五時出発、一の沢登山口(一二六〇m)に五時四〇分到着し、六時スタートする。カエデやミズナラの広葉樹が茂る沢筋の登山道を緩やかに登り出す。高低差一六〇〇m、距離往復十四㎞だが、常に緩やかな登りの連続で、厳しい山なれど比較的容易に登れる山である。

王滝ベンチ、胸突八丁の急坂は厳しいが、常念小屋(二四五〇m)まで四時間、一〇時に着く。終始曇りでガスであったが、小屋の広場に着くや否や、待っていてくれたかのように一瞬晴間が出る。槍ケ岳と穂高岳の特徴ある山並みが、見事に視野に入る。直ぐ北には大天井岳も鮮やかである。

広い運動場のような大地に、ヘリコプターが旋回し、荷物を下ろしていく。鮮やかな旋回と轟音に登山者は目で追う。大地には赤いコマクサの群落があり、まさに天井の楽園と言えよう。小屋前の多数のベンチには、昨日小屋に泊まった人や、テント泊、本日登って来た人が多数休憩している。標高差、時間的に厳しい山ゆえ、中高年は少なく感じる。その分若人で賑わっている。

今回は、常念から蝶ヶ岳への展望が良いとのことで縦走計画をしていたが、今にも降り出しそうな天気なので、往路を引き返すことにして、小屋でタクシー会社に迎えを依頼する。小屋から、常念岳へはゆったりとした頂上である。岩礫につけられたペンキ印を追いながら一時間高度を上げて頂上(二八五七m)に着くが、ガスで殆ど視界が利かない。

帰りは凡そ四時間、内二時間は雨の中でただ黙々と歩く蒸し暑い下山であった。タクシーに乗り、「豊科ホリデーユー・四季の郷」で温泉に入り、仮眠後、二一時発。春日部に深夜一時半到着する。終始、雨の高速道路、四回目の計画でやっと登れた充実感に浸り、満足の山行であった。八六山目であった。

一週間後はいよいよ立山、剣岳の計画で心が躍る。そして東北、朝日岳連邦と続く。一ヵ月後には光岳・聖岳、そして伊吹山・荒島岳と、北に南に日本列島山の旅は続く。


87

  日本第一級の山岳展望と、高所温泉に酔いしれる

夜、自宅でくつろぐ時、テレビ・音楽・読書の何れかであるが、取分け楽しいのが山関係の本や地図を広げている時である。特に昭文社の「山と高原地図」を眺めて、酒を飲んでいる時はツマミも不用、時間が経つのも忘れてしまう。

「NO/三六・剣・立山」の冊子は愛読書とも言えよう。周辺図の地名を見ているだけでも、心が和んでくる。例えば川にしても、穂高から流れ出る梓川が犀川となり、そして千曲川と名を変えて、最後は信濃川として日本海へ、長い旅を終えるのである。何れの名前も歌や小説に何度も登場して、夢とロマンを感じさせてくれる。

立山連峰

北アルプスを抱える山岳都市、松本市穂高町・信濃大町・白馬村小谷村、山岳基地の扇沢等も、想い出多い地名で忘れられない所である。

立山・剣岳山行は何度も何度も計画をした。公共の電車・バスの時間をインターネットで調べ、山小屋を調べて、メンバーを集い、または自家用車での計画、その度に計画書を書き・・・、だが全て天候に邪魔された。

二〇〇五年七月十七日(日)~十八日(月)、「海の日」で大混雑が予想されるが、梅雨明けの久し振りの登山日和で、満を持しての立山である。相棒の板坂さんも張り切っての参加であるが、ついでに剣岳も如何? と言うが返事がない、腰を引いている。

埼玉・東川口を朝七時、車で出発する。何時もの関越道で更埴Jctへ、上信越道の豊科インターから大町街道に出て、登山客と観光客で賑わう扇沢に十一時半到着する。扇沢の手前一㎞の樹林帯で、小熊が道路を横切るのを見る。先行車がビックリして急ブレーキ、こちらもビックリ、熊もビックリで仲良くお別れとなる。

 扇沢の駐車場は広い。何百台もありそうで、数える気も起こらない。黒部ダムへの観光ルートでもあり、登山基地として剣岳・立山・鹿島槍ケ岳・五竜岳・爺ヶ岳・針ノ木岳にも便利な場所である。

 立山への前線基地・室堂ターミナルに行くにはコースは何本かあるが、乗り物で行くには富山方面の弥陀ヶ原からと、扇沢の立山黒部アルペンルートからに乗る事になる。乗り物・往復代金八五〇〇円である。最初はトロリーバス十六分、ケーブルカー五分、ロープウエイ七分、またトロリーバス一〇分、合計三八分。歩行と待ち時間を入れると一時間前後、この日は海の日の混雑で何と三時間半であった。

扇沢の標高は一四三三m、室堂は二四五〇m、約一〇〇〇mを乗り物で一挙に天国の近くまで行く事になる。最初の乗り物、扇沢からトロリーバスで黒部ダムに着くと、そこは既に別世界である。晴天の青い空と湖面の青さが競う様に美しい。ダムの壁の上が遊歩道で、長さ五〇〇mを次の乗り物駅まで歩く。ダムの出水口からは轟音の白いしぶきがダイナミックに噴き出ている。

黒部ダムは、大自然との共生に向けた、新しい人間の営みであると言う。戦後、経済復興で深刻な電力不足は、大きな社会問題となっていた。関西電力は日本一大きく深い黒部峡谷に挑んだのだ。人を拒絶する厳しい自然条件がダム建設を拒んできたが、昭和三一年、世紀の大事業として通称「くろよん」建設に社運をかけたと言う。

延べ一〇〇〇万人、七年の歳月、一七一人の尊い犠牲者、そして有名な「破水帯」を題材にした石原裕次郎の「黒部の太陽」は記憶に新しい。

黒部ダムが日本一の規模ならば、世界一のダムは?となる。この年一月、南米三カ国に行く機会があり、ブラジルの「イタイプーの発電所」を見学した。ブラジルとパラグアイの共同事業で両国の国境にある。長さ一四〇〇m、高さ一九六m、貯水量二〇一〇億㎥、出力一二六〇万kw。黒部ダムは長さ四九二m、高さ一八六m、貯水量二億㎥、出力三三万kw、とにかくケタが違う。

しかし、直に世界一が中国の三峡ダムに取って代わられる
という。現在揚子江に建設中、長さ二三〇九m、高さ一八五m、貯水量は何と日本にある全ダムの合計の二倍にあたる三九三三億㎥、出力一八二〇万kwで、想像もつかない。

中国の人口が十二億、十三億とも言われている。一人っ子政策で、最初の子が女の子の場合、出生届をしないらしい。罰せられるからだ。だから一億も二億も多いらしい。

アバウトな国が、この先経済力を満した時、世界で一番の大国になるだろう。二度の中国旅行で強烈に感じた。

室堂ターミナルは北海道の大雪山・旭岳(二二九〇m)より高い二四五〇mにある。ホテルも立ち並び、道路も石畳で環境整備に余念がない。女性がハイヒールで歩いている。高山植物が歩道の片隅に咲いており、目を転じると、これから登る立山連峰が見事に美しい。若い女性の歓声が一際明るさを演出している。地上の楽園とみくりが池温泉も思われる華やかさである。

ターミナルから一〇分も歩くと、有名なミクリガ池があり、水面に立山の美しい山並みが映し出されている。その北の、雲の切れ目からは、奥大日岳、そしてあの剣岳の頂上がかすかに顔を出している。ミクリガ池のすぐ近くには「みくりが池温泉」があり、温泉通にはたまらない魅力のある名湯である。日本で最高所(二四三〇m)に立地し、白濁硫黄、酸性硫化水素泉の源泉掛け流しの湯である。下山後にしっかり体に染み込ませて来た。

こちら黒部ダムから前方の立山へケーブルカーが行く 立山頂上から前方に剣岳 立山最高峰の雄山と神社

本日はロッジ立山連峰に泊る。みくりが池温泉が満員であったゆえである。この一帯、温泉はみくりが池温泉だけなので、楽しみは半減する。

翌日も素晴らしい快晴である。梅雨明け宣言で関東はいよいよ夏本番である。早朝五時にロッジを出て、数件ある山小屋から一斉に出てくる登山者と合流しながら、残雪の踏み跡に従い、剣岳方面に向かう。小川は雪解け水が増して白い濁流となっている。チングルマ・コバイケイソウ・コイワカガミ・ハクサンイチゲの咲き誇る間を、砂礫に沿って高度を上げて一時間半で剣御前小舎(二七六〇m)に着き、握飯の朝飯とする。高所から見る室堂ターミナル方面の眺めは抜群である。紺碧の空、白いホテルの壁、青い池、地獄谷の噴煙、緑の樹林帯、そしてこれから向かう立山連峰の山並みが言葉に尽くせない美しさである。反対側に視線を移すと、剣岳がスックと空に突き刺さるが如きに佇んでいる。一人二人と緊張した面持ちの登山者がその方面に向かう。

本日のルートは別山(二八八〇m)~真砂岳(二八六一m)~富士の折立(二九九九m)~最高所の大汝山(三〇一五m)~雄山(三〇〇三m)~一の越を経て室堂に下る計画である。ぐるりと時計回りに一周し、終始室堂を眺めながら、剣岳も視野に入れながらのルンルン歩きである。多少のアップダウンはあるが、危険箇所は殆どない。

立山は富士山、白山とともに日本三名山、または日本三霊山とも呼ばれてきた名峰である。何れも頂上に神社があり、白装束の信者や霊験者が多く、長い信仰の歴史を感じる。

立山という独立した山はなく、最高峰の大汝山、雄山、富士ノ折立を含めて立山と言う。

それに別山、浄土山を含めて立山三山と呼称している。

 北陸道を車で走ると、落ち着いた風情を感じる。農村も瓦屋根が続き、優雅な田園地帯が一層歴史を感じさせてくれる。お城も多く、城下町の名残もあり、日本の古里的感覚を受けて懐かしささえ覚えるのである。越前(現在の福井)、越中(富山)、越後(新潟)は特に名山が多い。古くから越中の子供達は、立山に登って初めて大人の証を会得できると言われてきたそうである。立山は富士山と同様に、地域住民のシンボル的心の支えになっているのであろう。

 神社は雄山の一段高い所にある。鳥居があり、そこから先は有料だが、そこに行くと、神主がみことのりを述べてお祓いをしてくれる。一段下には雄山神社社務所と峰本社なるものがある。大きい建物で立派である。

 雪渓の残る一の越の急斜面を下り、室堂に十一時戻り、みくりが池温泉で疲れを取り、旨いビールを飲んでアルペンルートを扇沢に下る。最高に充実した立山山行であった。




88・89・90・羅臼岳斜里岳雄阿寒岳

   北海道・道東、百名山のはしご登山と温泉ツアー

埼玉の所属する山岳会で、北海道百名山登山ツアーを行うのは、今回で三度目である。既に定例になりつつある。関東に長く住むと、遠い北海道とか九州に何時かは行きたいと願望を募らせるようだ。私が北海道から転勤して埼玉に居住したせいか、仲間の願望が現実になったようである。

最初の北海道ツアーは二〇〇三年、札幌・小樽・富良野の観光とトムラウシ山、大雪山・赤岳登山の十三名であった。二度目は二〇〇四年、大雪山旭岳・北海岳・黒岳・北鎮岳・中岳と縦走登山、そして十勝岳の七名。今回が八名参加で何れも休みの取り易い、海の日前後である。一人一〇万円の札束山行である。

二〇〇五年七月二一日(木)~二五日()、五日間で温泉ホテル三泊、民宿一泊の豪華山行が始まった。リーダーは毎年「行きたい!」と言うだけ。その度に企画・計画・ナビゲーターはワ・タ・シ。温泉部長夫妻は当然毎年参加でその度に陶酔しているようだ。

羽田発一三時二〇分、女満別空港十五時着。レンタカーのトヨタ・ノアで知床に向かう。

途中、北海道の大自然の中を走る一本道が、幾つもの丘をまっしぐらに続くのを見て、是非運転したいと言い、連日交代でスピードに酔うことになる。

オシンコシンの滝  ホテル地の涯

 オシンコシンの滝に感嘆し、暮れ行く知床慕情を満喫する夕方十八時、岩尾別温泉のホテルに到着した。一軒宿のその名も「ホテル地の涯」(ちのはて)である。昔は「日本秘湯を守る会」であったが、今は違う、どうしたんでしょう、謎である。

チェックインを済ませ、温泉好きの全員は、ホテル前の野趣あふれる露天岩風呂「三段の湯」に向かう。当然混浴である。女性四人はどうするかな?と期待していたが、他の女性客が奥に女性専用がありましたよ、と余計な事をおっしゃられた。

広葉樹の下で程好い湯加減、下方には川のせせらぎがザザ~ッ、ザザ~ッと聞こえる、つい先程はホテルの近くでエゾシカも多数見られた。ここは成る程、地の果て(涯)だ。


野天風呂に入ると、今度は大急ぎで内風呂だ。男女別の内風呂に五分、次は外の丸太風呂、そして露天風呂が三つもある。立って入る位の深さで大きな岩風呂である。混浴だがさすがに女性陣は恐れを成したか入ってはこない。

乾杯のビールは何より美味しい。気の合う仲間で話も弾み、寸暇を惜しんで食べ、飲み、お喋りを繰り返す。何時寝たか記憶にない。

 二日目、二二日は曇り後、羅臼岳頂上で晴れとなる。五時四〇分、ホテル裏の木下小屋(二〇〇m)から、樹林帯で展望のない急登が始まる。オホーツク展望台の上からオホーツク海が見えてくる。弥三吉水というポイントに来ると冷たそうな水が流れている。ガイドに連れられた中高年が旨そうに、がぶがぶ飲んでいる。ガイドが付いているのに・・・エキノコックスが気にならないのだろうかと、誰かが横でつぶやいた。すると別の誰かがつぶやき返した。エキノコックスは二〇年も三〇年も後からでなければ発生しないのでしょう!その頃、あの人たちは痴呆症か、既にあの世に行っているでしょう。成る程、それを承知で飲ましているのか、すると名ガイドなのか、と感心した。私も温泉部長に冷たい水をどうぞ!と勧めたが、俺は百歳まで生きたいので止しておくと、のたまわれた。う~む、ヤルノ、お主。

 極楽平、仙人坂、銀冷水、羽衣峠と夢のある名前のポイントを過ぎると、雪渓の涼しい急坂で、岩のそこここに、エゾコザクラの紅紫色が鮮やかに目を楽しませてくれる。目を転じると、エゾノツガザクラが花を下向きに咲かせてこれまた愛らしい。雪上を登り切ると、羅臼平でハイマツが密集している。ここの広場で一本! すると、いままでガスで見えなかった頂上がサーッと晴れて、羅臼岳頂上が見えたではないか。あちらこちらで歓声が湧く。大勢の登山者が喜びを分かち合う。ここから頂上は五〇分、火山礫の大岩がゴロゴロする急登を登ると羅臼岳頂上(一六六一m)に一〇時一〇分到着。標高差一四六一mの難易度中級の山である。羅臼とはアイヌ語で鹿・熊の臓腑や骨を葬る場所とある。鹿は見たが、熊はまだ見えていない。期待はするが、さりとて遭遇はしたくない。

 頂上から、硫黄岳、知床岬方面、果ては北方領土がガスの晴間の一瞬に見え隠れする。

羅臼岳  知床・ウトロ湾

名残惜しいが、花の綺麗な登山道を下山し、十四時四〇分、地の崖に着き、次の斜里・民宿富士に向かう。


 斜里の民宿「富士」の料金は安く、五、七七五円であった。本来は清里温泉「緑清荘」願望であったが、人気の温泉故に相当前から満室で予約不能であった。本州方面のツアー会社が年間スケジュールで早期手配しているようなのだ。年に一度の、私のもぐりツアーでは力が無く競争力は無いわけだ。だが、温泉だけは皆でしっかり入ってきた。

 民宿の食事、ソイの煮魚は美味しかった。これぞ北海道の旬の味と、皆の評判はすこぶる良かった。

 三日目、二三日(土)は朝からぐずついた天気で小雨であった。七時、民宿発、登山口の清岳荘を七時五十分スタート。雨具を着ての山行は意気が揚がらないが、小降りでさほど気にならなかった。斜里岳特有の沢歩きの為であろう。登山靴で水にぬれるほどの深さではない。川の大きな石伝いで、昔、子供が遊んだ「ケンケンパー」の要領で皆が喜びながら歩いている。沢靴の要らない沢歩き、これが斜里岳の特徴で、楽しい山である。

斜里岳頂上を望む

 白糸の滝、羽衣の滝、竜神の滝と、八ッの滝が出てきて、楽しませてくれる。沢登りの経験の無い人も、夢中で楽しんでいるようだ。ロープも鎖もあるが、意に介さないようだ。今日は登山者が多い。昨日の羅臼岳のツアーメンバーも沢山いる。やがて水が細くなってくると、源頭部で新道コースと合流する上二股である。深い笹とガレ場を登り切ると、馬の背でイッポ~ン。雨も上がり晴間も出てきた。眺めが非常に良い。佐藤さんが買ってきたリンゴ一個、皆の視線が集まる、気のやさしい人だ、八等分しておすそ分けしてくれる、これがまた美味しかった。

 頂上までのハイマツの、急登の稜線を登ると斜里岳頂上(一五四七m)で十一時五十分到着。残念ながら晴れてはいるが、ガスで眺望は無く遠くは見えない。頂上で一時間も堪能してから下山する。新道コースを歩くが、数年前よりは登山道が掘られて段差がきつく、非常に歩きにくい。登りのコースと比べると雲泥の差でつまらない下山コースである。

 斜里岳はアイヌ語で葦の生えた湿原の意で、オホーツク富士、斜里富士とも言われているそうである。

                

 清岳荘に十五時五十分到着し、次の雄阿寒岳の登山口、阿寒湖・ニュー阿寒ホテルに十八時着。豪華ホテルである。会社仲間の安藤さんの紹介で、JRツアー企画会社に依頼してのホテルはさすがに特別料金、九四五〇円、通常の半額料金と思われる。温泉街最大級ホテル、九階建て、屋上大露天風呂から星と阿寒湖を眺めるとのキャッチフレーズである。

 夕食は大きなレストランでバイキング料理。食べる、食べる!飲む、飲む!この時とばかり、お代わりに忙しく席が暖まる間もない。食事も美味しく、風呂もよくこんなに幸せでよいのだろうか、と皆の笑顔。しかしほぼ満員のホテルだが、風呂もレストラン、エレベーター内も東南アジアの観光客で一杯だ。「ニーハオ」「シエ シエ」「アンニヨン ハシ ムニャムニャ・・・」「僌傟*§Ǖжф☃☂☠!!!スミダ!」「マンナカダ!」と、とにかく騒々しいし、やかましい。日本のつつましく、静かな情緒は失われつつある。

 四日目、二四日(日)は晴れ、後、曇り後、雨。八時三〇分に滝口から登り出す。阿寒湖畔からすっくと立ち上がる山容の美しさは素晴らしい山で、端正な円錐形を阿寒湖に映している。水門を通り、太郎湖、次郎湖を過ぎると、深い針葉樹林の急登が待ち受けている。トドマツ、エゾマツの大木が見事に続く。五合目から森林限界で展望も開けて、優雅な阿寒湖が見え出してくる。

 急坂を登り切ると、平坦な火口跡がある山頂部にたどり着く。雄阿寒岳の山頂はハイマツやコケモモに覆われたピーク(一三七一m)であった。十二時十五分到着する。

ガスの切れ目から、時々阿寒湖、ペンケトウ、パンケトウが垣間見られて絵の様に美しい。

はしご登山の三山目となると、仲間の行動食はスーパーで購入してきた果物が多くなり、地物のトマト、キュウリ、リンゴを旨そうに食べている。他のツアー登山者は今日も同じコースで既に顔見知りで互いにたたえ合う。


十五時半、下山口の滝口につく頃は雨が降り出す。昨日買っておいたスイカが、火照った体と喉元を潤してくれる。さて次は川湯温泉に向かう。一直線の、殆ど車に出会わない国道を、私、いや私が運転したいと、八十キロ~一〇〇キロで快適にスピードを上げる。十七時、ホテルは地元最高級の老舗旅館、五階建て川湯温泉・御園ホテル。

ここの温泉が素晴らしい。温泉部長が事前調査で、どうしても行きたい温泉と願望していた極めつけの湯である。PH一.九八。酸性硫黄泉、泉温五五度Cである。PHの低い代表は東北の玉川温泉一.二 だがそれに続く低さで、名湯である。番頭さんの言葉を借りると、湯の泉質がきつく、湯舟がコンクリートでも一ヵ月でセメント・砂利が分解されてしまうので、特殊なものを利用していると言う。

夕食後のホテルのサービスが良かった。ロビーで当ホテルの料理長が、三味線で民謡を奏でてくれると言うアトラクションである。どちらが本職か疑わしい程の美声と演奏である。「道南口説」(どうなんくどき)という北海道・道南地方の民謡である。

 ♪ オイヤサ~エ オイヤ

    私や この地の荒浜育ち 声の悪いのは親譲りだよ

 節の悪いのは師匠無い故に 一つ歌いましょう はばかりながら

     

 五日目、二五日()は晴れ、観光。硫黄山を手始めに、何れ世話になるやも知れない網走刑務所、そして博物館網走監獄、氷博物館を回る。昼食を学生時代の友人、北見在住の中野さんに聞いて網走郊外の原生牧場でジンギスカン昼食とする。中野さんからは今が旬のシマエビを土産に貰う。青春時代、竹馬の友の一人である。

 長く楽しかった道東の山を終えて、女満別空港十五時五十分、機上の人となる。来年は利尻山と早くも決定し、充実の北海道の夏はひとまず終える。


91・浅間山

  豊満な浅間の山容に見とれる

 関東から長野方面に車で向かう時、関越道から上信越道を通過する。私はこのラインが何より楽しみである。眺めの素晴らしい山と、歴史に触れることが出来るからである。
群馬に入ると先ず赤城山、そして名前も山も妙な妙義山、やがて正面に豊満な浅間山が白煙をたなびかせてどっしりと現れる。高速道路は登りに入り、標高一〇〇〇mを超えると避暑地で有名な軽井沢だ。その先には小諸がある。千曲川沿いに、武田信玄が築いた小諸城跡があり、島崎藤村の「千曲川旅情のうた」が思い出される。

   小諸なる 古城のほとり

                        雲白く  遊子悲しむ 

誠に旅情をそそる、信濃路へのラインである。

 二〇〇五年七月二八日()、快晴の関東は山日和、マイカー、単独登山で早朝四時出発。

小諸インターを六時通過し、チエリーパークラインの樹林帯をクネクネと車坂峠(一九七九m)に七時到着する。高峰高原ホテルというリゾートホテルの近くの駐車場に停める。

浅間山   ニッコウキスゲの群落 

 浅間山は噴火が続いており、頂上(二五六八m)、前掛山(二五二四m)にも近づけない。よって第一外輪山の黒斑山(クロフヤマ・二四〇四m)が許容されるピークである。峠からザレた道とシラビソ樹林帯の中、高度を上げる。トーミの頭から黒斑山、蛇骨岳、そして鋸山には九時四〇分着。浅間山は三重式活火山である。第一、第二外輪山が見事に形作られているのが理解できる。浅間山の頂上が至近に見えてくると、白い噴煙が何時爆発するかもしれないような圧迫感と恐怖感が伝わる。

 浅間山の麓には、夏の清掃登山、冬の雪山訓練で何度か来ているが、今回単独ののんびり登山がようやく実現した。帰りは賽の河原、Jバンド、そしてきつい草すべりを一時間三〇分急登で、湯の平口に出て、十二時三十分に車坂峠に戻る。周遊コースは岩峰、草原、火山帯と変化に富んでおり退屈はしない。

 峠の草原にはニッコウキスゲが満開で楽しませてくれた。岩場に住むニホンカモシカに遭遇して、一瞬熊か! とあせってしまった。八ヶ岳や雲取山でも見かけたが、非常に熊と似ており、登山者を慌てさせる動物である。ホテルの「こまくさの湯」は平日の為か貸切で、展望もよく、武田信玄に負けない殿様気分を味わった一日であった。



92・朝日岳     

 百名山唯一、原始性をとどめる名山

 東北の山で、飯豊連峰と朝日連峰はいずれも手強く、山中泊を余儀なくされる奥深い名山である。東北地方のどの山からも、二つの連峰が白い頂を抱いて悠然とそびえており、岳人の心に迫るのである。

 二〇〇五年七月三十一日(日)~八月三日()温泉部長夫妻、犬丸さんと四名の参加となった。春日部を一〇時に出て、寒河江ICで一般道に入る。幅員のない未舗装林道を三五㎞、十六時にやっと今夜の宿、「朝日鉱泉ナチュラリストの家」に到着する。

遠方に大朝日岳が 朝日鉱泉ナチュラリストの家 大朝日岳とクルマユリ

カタカナ交じりのこの宿は一軒宿で、登山者の多くが利用する有名宿である。鉱泉だが風呂があり、秘湯そのものである。

周囲はブナ林に囲まれ宿のテラスから
大朝日岳の三角錐で、ピラミッドの形がはっきりとうかがうことが出来る。温泉も良し、食事も良し、宿も

山小屋とは思えない、旅館風の落ち着いた風情の宿ですっかりフアンになってしまいそうな山小屋である

八月一日、快晴の中を五時出発。吊り橋を渡り、鳥原山、小朝日岳から大朝日岳に登り、下山道は中ツル尾根とした。朝日鉱泉は標高五五〇m、大朝日岳は一八七〇m、標高差一三〇〇mで往復十八㎞のロングランである。鳥原山までは深い樹林帯の急登の連続で、しかも猛烈な暑さで水分を異常なほど欲する。幸い水場に恵まれ高度をドンドン上げていく。

渡渉し、鳥原神社のある鳥原山を過ぎると、十一時三〇分に小朝日岳(一六四七m)に到着する。そこは多くの登山者で賑わっている。休憩後、一旦一五〇m程下がり、古寺鉱泉分岐を過ぎると、日本一美味しいと言われる「銀玉水」、ここで喉を潤す。水温二・五度と言われ、タオルを洗っているだけで手がしびれてくる。さすがに今まで色々な山や、有名湧水を飲んだが比較にならないほどの美味しさであった。

 更に二〇〇mの急登を登り出すと、ピラミッドの大朝日岳が雄大な山容を見せてくれる。十三時に本日の宿、大朝日小屋に到着し安堵する。建替えられた新しい小屋で気持ちの良い山小屋である。周囲はコバイケイソウ、ニッコウキスゲの群落である。一旦五十m程下がり、今度は「金玉水」から、雪解けのこれも美味しい水を今夜の食事水に持ち上げる。小屋は既に満員状態で、思い思いの夕餉の支度である。

大朝日岳山頂 大朝日小屋

 翌日六時半、十五分で頂上につく。しかしガスで展望は利かず、大沢峰の展望を期待したが、ガスははれず、中ツル尾根をひたすら下山とした。朝日鉱泉に五時間後の十一時半到着する。

 今回は、温泉部長が例の如く温泉開発の目的もあり、手始めに山形・五百川(いもがわ)温泉で汗を流し、出羽三山の湯殿山参篭所に宿泊する。やはり温泉付でその名も「神湯」である。参拝する信者の多くが宿泊する設備だが、一般にも開放している。にわか信者になり、夜のお参りと説教法話にも耳を傾ける。

 驚いたのは、風呂の中にも神棚があり、何となく落ち着かない。           

八月三日は月山を登る。二度目だが、他の三人が未登の為付き合う事にする。花一杯の山

で山一面がニッコウキスゲ、チングルマ、ハクサンチドリで彩っている。

 帰りは「月山志津温泉まいずるや」で汗を流し、充実の朝日連峰を終えて一路東北道へ


93・94 南アルプスの壮大なパノラマ

  光岳(てかりだけ)& 聖岳(ひじりだけ)縦走

二〇〇五年八月五日~八日(山中、山小屋三泊)で、深田百名山の南アルプス最南端の二山を計画した。このコースは昨年も計画し、山仲間でハイジの古橋、渡辺さんと三名で、便ヶ島から聖岳、光岳、易老渡の予定であったが、聖平小屋テントの夜から大雨で撤退した苦い経験がある。今回はそのリベンジである。

これまで南アルプスは北端の甲斐駒ヶ岳を皮切りに、仙丈岳、鳳凰三山、北岳、間ノ岳、塩見岳、悪沢岳、赤石岳と踏破してきた。デッカク、ダイナミックで奥深い南アルプスに魅了されての深田百名山、南アルプス最後の二山である。

聖岳(三、〇一三m)は頂上に壮大なパノラマが広がる南アルプス南部主稜の雄峰、一方、光岳(二、五九一m)はハイマツ群生地最南端の山であり、百名山踏破最後に選ぶ岳人が多いと聞き及ぶ。

山小屋が開く七月半ばから閉鎖の八月末までの、梅雨明け、連日天気図を眺めての計画である。山岳会の仲間は既に登った人、ロングランで行けない人、都合の付かない人ばかりで今回は単独登山となる。

八月五日(金)新宿西口JR高速バス十二時発、平日のためか十人前後、往復代金八千円、長野県飯田IC十六時十五分着。オリックス・レンタカー四日間で二、五二〇〇円で登山口である南信濃の易老渡(イロウト)の先、便ヶ島(タヨリガシマ)まで直行、十八時三十分着。途中、飯田市で今夜の弁当と缶ビール、行動食を購入する為にコンビニに寄った時、猛烈な大雨に見舞われ、停電でレジも止まり店員が電卓で計算する始末で、この先どうなるやらと、ワイパーを最強にしながら恐る恐る走り出す。天気図はこの一帯は晴れであったのに・・・やはり南アルプスを背負う信濃路の気候は計り知れない。

一時間で雨上がり、「三遠南信自動車道」の田舎路を進み矢筈トンネルを越えて行くと、やがて長野県下伊那郡上村の「下栗の里」に差し掛かる。どこの山に行くにも登山口へのアプローチは長いし、悪路で狭いしこの道でよいのかどうか不安になる。昨年も往復しているのにさえである。段々高度が上がり高度計は一、〇七〇mを指している。曲がりくねった道は車一台がやっと通れる、対向車が来るとバックで五十mもカーブをバックするはめとなる。緊張の連続である。

一帯は三十度位の斜度で畑を耕すのに、高地から低地に向き鍬を上に掘り起こすと言う、下に掘ると土が下に流れ落ちるのだそうだ。周囲はタバコ畑、野菜畑が続き、急斜面に家がへばりついている感じである。この地には昔から独特の民俗芸能が受け継がれており、日本最後の三大秘境と言われ、日本のチベット、日本のチロル地方とも言われている。眺めは申し分なく、一〇〇〇m下の天竜川支流がすぐ下に見える。高所恐怖症の人は絶対に住めないし、車から眺めることさえ出来ないだろう。

便りが島登山口駐車場

今夜は、便ヶ島で南信濃町が管理しているキャンプ広場に車内泊と予定していた。トイレも水洗、炊事場も綺麗である。近くに町が経営している聖光小屋という立派な山小屋が

あり、前日聞いていたが満員であった。念のためと思い管理人に問うてみた。素泊まり、プレハブならば四、〇〇〇円で良い、貸切だ、風呂も入っても良いと言われ隣の物置風プレハブに案内された。快適であった。

八月六日(土)便ヶ島が下山口の為、車を山小屋駐車場に置いて登山口の易老渡へ四時五十分出発、易老渡には車が三十台程駐車しており、皆ストレッチ最中だ。

中高年ばかりだ。南アルプスは北アルプスと違い若者には何故か人気がない。アプローチは長いし、山小屋に三泊もしたり、テントにしても食料は多く担がねばならないし、雨は多いしで大変なわけだ。五時〇五分、易老渡・易老沢支流の急流な川にかかる橋を渡り、モタモタしている中高年グループより先に歩き出す。すぐ急登だ、ジグザグを切り十分もしないうちに大汗、先に歩く数人をゴボウ抜きしてトップに出る。

易老岳までコースタイム五時間半、光小屋までは八時間二十分と昭文社地図にある。県営光小屋の宿泊条件は十五時まで到着、三名以下、五十才以上、それ以外は素泊まりか、テントである。

登山口の易老渡は標高八八〇m、途中分岐の易老岳は二、三五四m、標高差一、五〇〇m程でかなりきついコースで、登りに使う人は余りいない。ミズナラ、桧の自然林大木が多く、従い風がなく、汗は出るに任せる状態で三リットルの水は見る間に底をつく。

八時五十分、易老岳頂上、シラビソの樹林に囲まれ展望は無い。北に向かうと茶臼岳、上河内岳、聖岳と続く。明日のコースだ。本日は南に三吉平、静高平、光岳と歩を進める。

易老岳からはアップダウンが続き、楽な歩きに変わる。立ち枯れの樹林帯、涸れた沢すじやうっそうとした林、「亀甲状土」という幾何学模様で島のような、ボコボコ盛り上がり地帯が続く。センジケ原と名が付いている。この辺は木道が敷かれ、花とりどりの高山植物が多い、とりわけ青いトリカブトが無数に咲き狂っている。その片隅の岩場に涸れかかっている水場があり、数人がたむろしている。木片に命の水と書かれていた。五度位の冷たさで、まさしく命をつないでくれる水であった。

水場から十分、静岡県、県営光小屋に着く。一一時十五分、何と六時間十分で着いてしまった。コースタイムより二時間も短縮である、山小屋の管理人が驚いていた。

  

この山小屋は美味しい日本茶を出してくれるので評判が良い。六、五〇〇円を払い、荷物を置きすぐ十五分の頂上に向かう。ここも樹林帯の中で眺望は無い。更に五分で光石(テカリイシ)を見に行く、白く光った岩稜である。下界から見るとこの白い岩がピカッ、テカッと光って見えるので光岳(テカリダケ)と名が付いたと言う。

小屋に戻り、時間が余るので十五分下がった、谷合の水場へ行き、ドクドクと伏水流の湧き出る所で洗濯と水シャワーをした。シアヤセ! この水は大井川に流れ出るのである。

小屋はほぼ満員、しかし布団一枚に一人でゆっくりであり、ほっとする。三年前の北岳小屋では一枚に三人で殆ど寝られなかったが。本日の夕食は野菜の天ぷら、美味しいのでアルコールもはかどる。八時には全員就寝、山小屋は早寝早起きである。夜中トイレの時、眺めた空は満点の星であった、明日の快晴を信じて、イビキ合戦部屋に戻り寝る。全員中高年である。よって男も女もイビキ?寝息かな~。

八月七日(日)富士山のふもとから上がるご来光を眺めて五時出発、快晴である。

易老岳六時三十分、茶臼岳九時、上河内岳十時十五分、聖平小屋一一時四〇分、聖岳一三時五十分、休憩し、聖平小屋に十五時三十分で本日の歩行時間は十時間三十分。流石にくたびれた。

今回の山行中で本日が最高に、南アルプス的大パノラマが広がり豪快な眺めが続くコースで、立ち止まっては眺めまた歩くの連続である。三六〇度の仁田岳、名前が良い希望峰、草原、亀甲状土、シラビソ林、奇岩、お花畑、そして上河内岳からドカーンと近寄りがたい雰囲気を漂わせる聖岳が真正面に控える。振り向くとこんもりとした山容を見せる牧歌的な雰囲気を持つ光岳が快晴の空に映えている。

前聖岳 聖岳  

静岡県営、聖平小屋に七、〇〇〇円也で予約し、不要物を置き聖岳へ。小屋の隣組の人々はよく疲れもせず行くもんだと呆れ顔、本人も実は呆れているが、昨年の雨で撤退のケースもあり、何より聖岳が私を呼んでいる?

草地に高山植物が咲き競う聖平、そして花畑の薊畑(アザミハタ)を通過し樹林を越すと小聖岳。ここからが疲れた体にはきつい砂ザレ、岩稜の連続でジグザグを繰り返す。富士山のザレ場と同じだ。何度ジグザグをきっても頂上が見えない。下山する人ばかりで、上には誰もいませんよと、親切に言ってくれる、しかも空模様が怪しいので早く下山された方が・・・余計なお世話ですよ!

パッと視界が広がった。ついに聖岳頂上だ。風格と威厳のある聖岳である。頂上は公園のように広く開放感に溢れている。北を見ると直ぐそばに赤石岳、荒川岳、塩見岳と豪快に佇んでいる。東には速い雲の切れ目に、時々富士山がドッカ~ンと垣間見える。周囲には誰もいない、大きな富士山をまさに独り占めである、贅沢この上ない。三十分もアッチコッチとウロウロ、ルンルン気持ちで散歩?下山するには勿体無いのである。

 夕食は唐揚げ、予約が本日早かったので十七時、一番最初の組。この日は混んで四番組まであり、収容人数百人は越えているそうだ。山で肉が出るのは滅多に無い、世の中にこんなに旨い物があるだろうかと、皆で褒めるがお変わりはご飯と味噌汁だけ。

聖平小屋

 寝る場所はこの山小屋は通路を挟んで両側に一列、映画の軍隊みたいに横一列で寝る。男も女も無い、プライバシー、個人情報なんてあるわけも無い。ただあるのはオーケストラ演奏のみである、無料である、演奏参加は自由である、楽器は個人任せ、メロデイーが合っていようがテンポがずれようがお構い無しだ。本日の出し物は「交響曲第五番、変ロ長調組曲、夢遊病者の戯言」 イビキ、寝言、歌、徘徊、壁タタキ、オナラ、何でもあり。

八月八日(月)聖岳の山容はどっしりと周囲の山々より一際大きく、人を寄せ付けない程の貫禄が漂う。山名の由来は聖沢の曲がり方が、人の肘の曲がりに似ているからと言う説もあるそうな。南アルプスは技術より体力勝負と言われる様に厳しい。山小屋から次の山小屋まで長く、のんびり歩けないのである。テントも良いが、水と食料を背負っての三日、四日は大変である。

 最終日の本日は、呑気に五時スタート、荷物も軽く水もペットポトル一本、ハイキング?

苔むす林と、シラビソの森を三時間、便ヶ島に着く。途中西沢渡(サワンド)の元、営林署造材小屋の廃墟を通り、幽霊が出ないか心配しながら下山する。西沢渡では川の渡渉に籠渡しがありブランコ体験も出来る。

 標高高いチロル地方で眺めを満喫し、南信濃町の「かぐらの湯」で久し振りの温泉に入る。小さな町なのに大変立派な多目的温泉である。内湯が四っ、露天も三っ、誰もいない。貸切である。食堂も立派、メニューも豊富、ここでも私一人。外の別棟では「かぐら」をするための立派な建物がある。本州には歴史があり、古い町や村には伝統の神楽が伝わりよき風習として楽しみとなっている。一度機会があれば拝見したいものである。

 十二時五十分、飯田発高速バスに乗り新宿まで一眠りのはずが、余りにも素晴らしい南アルプスの余韻が残り、興奮さめやらずで帰途についた。総額費用六万七千円。

明後日八月十日からは温泉師匠グループと、伊吹山、荒島岳を登り郡上八幡の徹夜盆踊り、下呂温泉で占める四日間。

八月二九日から剣岳、鹿島槍。九月三日から富山、越中八尾「おわら風の盆」を元会社仲間と観光、よく体が続いたものだと自分ながら感心した次第である。      


95・96・伊吹山荒島岳

  高山植物の楽園・伊吹山と霊峰・荒島岳

 西日本最後の百名山がこの二山となった。一年前の八月、白山登山の後に臨んだが、荒島岳の登山口まで来るや否や、台風襲来で中止となり撤退してしまった。

 二〇〇五年八月一〇日()~十三日()、両山と郡上八幡祭りに合わせて、ついでに下呂温泉に立ち寄る山・温泉・祭り・観光の欲張り山行計画である。メンバーは当然、温泉部長夫妻と今回のゲストは三浦会報部長である。

 首都高、東名をつないで関ヶ原ICで一般道へ。関ヶ原の戦いがあった古戦場を通過する。既に伊吹山が見え隠れしており、南から北に回りこむ状態で伊吹山ドライブウエイを利用して山頂直下の駐車場まで東京から六時間を要した。伊吹山は埼玉の武甲山のように、山の半分が削られており、自然保護上かなり問題を提起した山である。

山頂まで凡そ三〇分だが、登山道の両側一面が高山植物で一杯、まさに楽園である。山全体がシモツケソウのピンクやトリカブトの青で染まっており、桃源郷の世界である。

 伊吹神社 伊吹山山頂 

桃源郷を代表するのは、ここと山梨県の桃の花が開花時期の二ヵ所が日本一と思われる。

この山は一二〇〇種余りの植物が自生、貴重な薬草も含まれているという。

山名の由来は、ドカ雪の降る場所としても知られ、山から吹き降ろす風から息吹く山といわれ、伊吹山となったそうである。

イブキトラノオの様に、イブキの名を冠した植物は二〇種類以上あると言う。すぐ北にある白山も白山の名を冠した植物が三〇種類ほどあり、この一帯は高山植物の宝庫なのであろう。琵琶湖も眺め、山頂に建つ日本武尊の像に御参りして一路北陸道へ。

滋賀県から福井県へ、歴史を感じさせる瓦屋根と石造りの土蔵が連なる農村地帯、赤松や杉の木立ちの林と、町や村が他県とは違う風情がある。福井を通過して本日の宿泊地、越前大野に到着する。北陸の小京都と言われるように、町並みが江戸時代にタイムスリップしたかのような雰囲気である。信長に滅ぼされた浅井義景最後の地の越前大野城下町で、名所・旧跡が多い。「御清水」という環境庁名水百選の水、「七間朝市」の情緒あふれる朝市、多数の寺、見ていて飽きない。

七間朝市  郡上八幡城

 本日は風情があり歴史もありそうな民宿「美登里旅館」に泊る。百年以上も前の床柱、中庭に歴史が刻まれている。

 二日目、越前大野から荒島岳の登山口・勝原(かどはら)まで車で三〇分。曇り空で視界は良くない。昨年は白山登山の後に、この駐車場で車中泊したが、夜半から台風に襲われ撤退した場所である。スキー場(三五〇m)の歩きにくい石ゴロの斜面から登り出す。

尾根伝いの展望の利かない樹林帯、ブナ林、

木の根を足場にする急登、シャクナゲ帯、ヤセ尾根、鎖設置の急登、そしてかま首を

上げて睨むマムシの巣地点を過ぎると頂上(一五二三m)だ。大野盆地にピラミッド

型に裾野をひいた荒島岳は大野富士とも呼称され、古くから信仰の対象で、頂上

には荒島大権現奥の院の堂がある。生憎ガスで展望は利かない。

 深田久弥の母親がこの地、荒島岳の麓、越前大野の生まれである。久弥が幼少の

頃からこの大野盆地の水田地帯に立ち、どっしりと品格ある美しい山容に見とれ

ていたと文献に記されている。いくら眺めても飽きる事のない明峰である。

 

福井県と岐阜県の境界の山間は秘境そのもの、九頭竜ダムがありジグザグと勾配のきつい道路を進むと「九頭龍温泉・平成の湯」が場違いでなかろうかの山間の地にあり、体を清めて行く。やがて本日の宿泊地、郡上八幡の奥座敷「高畑温泉」の湯に浸かり、郡上祭りを深夜まで見る。一ヵ月も祭りの盆踊りが続き、最後は三日間徹夜踊りで締めという。

踊りの種類が一〇種類もある。代表的な「かわさき」 ♪ 郡上のナ~ 八幡 出て行く時は~♪ 何とも哀愁を帯びたメロデイに皆が酔う。一方、「春駒」 ハルコマ、ハルコマ、ドッコイ・ハイ とテンポがすこぶる良い。観光客も皆、地元の人々に溶け込んで踊る。

見ているほうが恥ずかしいくらいで、我々四人も輪の中に自然と入る。

さすがに日本三大民謡踊り(山形・花笠踊り、徳島・阿波踊り)で華やかである。

 最終日は、下呂温泉に入り風情のある下呂市観光で締める。下呂温泉は江戸時代、林羅山が日本三名泉(有馬温泉・草津温泉)と命名した名湯で、硫化水素泉である。市の温泉博物館には日本中の温泉の粉末が展示されており、感心しながら見物をする。

 四日間、素晴らしい山と、歴史ある越前の名所・旧跡・城下町、温泉、観光、そして価値ある祭りに触れて記憶に残る山行となった。


97・98 剣岳鹿島槍岳

  天下の名峰と後立山の盟主

剣岳と剣山荘 カニのタテバイ カニのタテバイ

 イタリアのベビーノ・ガリアルデイが切なく、切なく、哀愁を込めて歌うバック・ミュージック「ガラスの部屋」

「♪ タタタタタ~ン」・・・・・

「ヒロシです。ツルギは怖かったとです。」     

「ヒロシです。カニのタテバイ、ヨコバイはもっと怖かったとです。」

ヒロシです。100名山終わったので、札幌へ帰るとです。皆さんに大変お世話になったとです。」

 2005年8月29日(月)、朝五時、毎日が日曜日の私はマイカー「年金号」(老健施設で殆ど痴呆症の母親が、溺愛?の息子に言う。

「金をやる、金をやる・・・。」あまりにも言うので、ここは親孝行の為と車買う。口の悪い仲間がつけたのが年金号!。)で信濃の扇沢へ九時。

 扇沢~アルペンルート~室堂は7月、板坂さんと立山連山縦走でのんびり歩き、温泉もチエック済みである。

 室堂ターミナルから雷鳥平、別山乗越へ2時間、標高2,760m。立山連峰、室堂、奥大日岳、そして目指す剣岳と360度。       

今夜の宿は剣山荘、十三時着。

中高年99・99999%。

日本の国には若者が居ないのか?それとも中高年が遊び過ぎなのか、一晩寝ずに考えた。

夕方四時、「お風呂にお入り下さ~い。」と館内放送。まさかと、半信半疑で一番風呂目指しておばちゃん方と走る。剣、立山の豊富な雪渓の水が2,475mの剣岳頂上高所でも恵みを与えてくれる。感謝、感激。

 8月30日、朝五時、快晴。

一服剣、そして剣岳をコピーしたような前剣の急峻な岸壁が立ちはだかる。カニのタテバイ、ヨコバイ的登り下り、トラバース、ハシゴ、鎖が連続。ウキウキ、ドキドキ、ハラハラ。こりゃ~たまらない。はまりそ~う。

二時間半で山頂。まさに絶景。

タテバイは五分、ヨコバイは一分でした。藤坂の訓練から比べるとスイ~スイ。だが久し振りの岩稜登山、流石名峰。

剣岳山頂には奈良朝時代の遺留品が発見されていると聞く。鎖、ハシゴ、登山靴も無い時代にどのようにして険しい剣岳を登ったのか?不思議である。今夜も寝ずに考えなくては・・・・。

 室堂のみくりが池温泉が今夜の旅籠。ご存知「日本秘湯を守る会」、日本で一番高所の出湯(標高2,430m)。白濁、硫黄のたまらない湯。日本三大霊場の一つ、立山の地獄谷が風呂の窓の眼下に見え、そこが源泉である。夕、夜、深夜、早朝と6回も満喫。

夕食九品、朝は豪華バイキングで8,340円。さあ~高いか、安いか~。

八月三十一日(水)、室堂の朝は雨だつた。室堂ターミナルの駅界隈は観光客で溢れている。特に若い姉ちゃんがとりわけ目立つ。日焼けしてたくましい山男の私を見て羨望の視線を送ってくる。かなり意識せざるを得ない、緊張し過ぎてつまずいて判明、視線は後の若者に、であった。愕然。

剣岳から立山連山を見る スリル満天のカニのヨコバイ 随所にハシゴと鎖

九時半、扇沢から柏原新道、種池山荘、爺ヶ岳、冷池山荘に行き、泊るのが本日のコース。雨も上がり晴れ間も出る絶好の登山日和である。中腹で中学生の男女30名と会う。屈託が無く明るい、毎年登っているという。話をしていると、こちらまで明るくなる。この子達が居る限り日本の将来は明るいし、私の年金も大丈夫だろうと確信した。

爺ケ岳から 鹿島槍ヶ岳と中腹に冷池山荘 爺ケ岳から種池山荘(赤い屋根)と白馬連山

冷池山荘に十三時に到着し、時間が有ったので山荘の本棚から、不破哲三が書いた「山と自伝」(山と渓谷社)を読む。

忙しい合間でも山に惹かれて、強い体を育んだ。後年心臓の大病をしたが、長年山歩きをした強靭な心臓のお陰で命が救われたと医者に言われたそう。

 九月一日、快晴。氷河の作用による典型的な非対称山稜を東側に見て頂上に立つ。まさしく後立山連峰、針の木岳から白馬岳まで一望である。下山時、晩夏に咲くトウヤクリンドウが印象的であった。

 今年は富山県に赴く機会が多かった。今回も山を下りて翌日九月三日に越中富山の八尾に相棒と行く。「おわら風の盆」。胡弓と三味線で非常に物静かで哀愁のある踊りである。人口二万の街に三十万人が押し寄せる。石川さゆりの「風の盆恋歌」の舞台でもある。二階の特設場で橋田壽賀子、泉ピン子も踊りに見とれている。

 八月は郡上八幡踊りを見て、一緒に踊った。ここは一ヶ月踊りが続き、最後の三日間は徹夜踊りである。しかも踊りが一〇種類もある。「春駒、春駒・・・」とテンポの良い楽しい踊りもある。

どちらの町の踊りも五穀豊穣を願っての、味のある地方文化そのものである。まさに芸術、芸術の秋を体験した。

♪タタタタタ~ン「ヒロシです!シテイボーイになろうと東京さ来たとです。」

「ヒロシです!アルプスに登りたくて転勤希望したとです。」「ヒロシです!山、全部登ったので帰るとです。」

「ヒロシです!恋の街札幌に帰って老いらくの恋をするとです。」

 約5年にわたり、当地の山岳会にお世話になりました。素晴らしい仲間と山行が出来ました事、幸せでした。

今後、出身の札幌の山岳会に復帰します。

5LDKにわびしき1人住まいです。どうぞ案内、食事、宿泊大歓迎します。お世話になり、有難う御座いました。


99・利尻山 

  日本最北の海に浮かぶ山

  

 利尻島は飛行機、船で近づくと、まるで山が海に浮かんでいるように見える。アイヌ語でリ=高い、シリ=島、と言われるのが納得出来る。意外と利尻山の頂上でカモメと遭遇出来るかも知れない、と期待さえ出来る。海に至近距離の百名山はさほど無い。青森の岩木山、秋田の鳥海山、鹿児島の開聞岳、同じく鹿児島・屋久島の宮之浦岳位だろうか。頂上から三百六十度海を眺められる山はここだけであろう。

 二〇〇六年七月二二日(土)~二六日(水)、札幌・丘珠空港から稚内空港へ。羽田空港から稚内空港へは高橋温泉部長夫妻、佐藤さん。今回は四人の仲間である。三人は小学校、中学校、高校のそれぞれ教師で、既に休暇に入り時間はたっぷりある、ゆとり登山仲間と言えよう。

 稚内フェリー港から利尻・鴛泊(おしどまり)港までは一時間四〇分、生憎の曇り空で山裾しか見えない。札幌の山岳会ご指定と言われる宿を、紹介してもらう。民宿・和風ペンション「みさき」は港の直ぐ前である。ここに三連泊したが、八五〇〇円、綺麗・料理が多い・美味い・ウニがたくさん・登山口まで送迎、至れり尽せりであった。

 二日目、鴛泊はガスで今日も視界悪し。宿の主人に車で送ってもらい、沓形(くつがた)コース登山口に向かう。こちらは快晴で頂上やローソク岩、特徴ある尖った針峰群も鮮やかに見えている。五時十分出発、頂上着十時二〇分。最初は樹林帯、そして見返台、六合目五葉の坂、七合目避難小屋、八合目夜明しの坂に来るとヤセ尾根、岩、ガレのトラバースでアルパイン的登山となり変化がある。昭文社地図には危険マークが二つ付いていた。

  

 標高を上げるに従い、振り向くと海岸線の展望が益々良くなり、上部を仰ぎ見ると鋭い頂上が迫ってくるように、足元を見ると高山植物が次から次へと高さに応じて輝いている。

ここは「海の上の北方植物園」と言われるほど花が多い。本州では二〇〇〇mで咲く花が、海抜ゼロメートルでも、北緯四五度の高緯度のせいで咲くという。

 九合目の分岐に来ると、富士山より粗い、ガレの連続で足元がおぼつかない。地元の浜頓別中学の生徒が先生に引率され、スニーカーで喘ぎながら登っている。行く行くは未来のクライマーになるであろうか?それとも辛くて山から遠ざかるであろうか?

  

 頂上(一七二一m)から見る日本海は抜群であった。足元には色とりどりの高山植物、直ぐ下は岩峰群、緑の主稜線、港に浮かぶ船、紺碧の海、海と同じ様な青空、まさに山上の楽園である。しばし陶酔した後、鴛泊コースを下山する。八合目には「酪農の父」と言われた北海道庁の佐上信一長官にちなんだ長官山がある。登山口の十分手前にほんのり甘いと言われる「甘露泉」がある。環境庁の日本名水百選にも選ばれ、水温五.五度、PH値七.八、利尻山に降った雨水や雪解け水が、一〇〇年の時を経て湧き出た誠に美味しい水であった。下山に四時間、合計九時間強、標高差一五〇〇mの難易度上級の山で、変化も多く大満足の利尻山であった。登山口と宿の中間に「利尻富士温泉保養施設」があり、ここの露天風呂から見る利尻山がこれまた格別で、日本最北の温泉と言う郷愁に酔いしれた。

 利尻と言えば、ウニ、ホッケ、昆布の水産物が有名である。そこで昆布を調べてみた。日本の昆布生産量は十二万トン、内、養殖物は三五㌫、天然物六五㌫。天然物の内、生産高の九五㌫を北海道が占める。北海道は昆布王国である。次に高級品の順位を調べた。

一位~函館・南茅部の真昆布は最上質で肉厚、二位~濃厚な味の羅臼昆布、三位~懐石料理・京料理に使われる利尻昆布、四位~だしに多く使われる日高昆布、五位~一般向け、沖縄で豚肉と相性の良い浜中昆布、以下となるそうである。

 三日目はレンタカーで観光。良く目に付くのが新しい家である。「なめこ御殿」と言う。近年、中国で中華料理になめこが人気で、飛ぶように売れ、値も上がり、取れる一ヵ月の間に一千万も稼ぐ漁師もおり漁村は潤っているようだ。

 「漁師とゴメ子の愛情物語」。利尻の港で見られるほのぼの物語である。その前に懐かしいナツメロを一曲。なかにし礼作詞、浜圭介作曲、歌手北原ミレイの「石狩挽歌」

  ♪ 海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると 赤い筒袖(つっぽ)の やん衆がさわぐ

    雪に埋もれた     番屋の隅で    わたしゃ夜通し   飯を炊く

    あれからニシンは   どこへ行ったやら 破れた網は    問い刺し網か

    今じゃ浜辺で     オンボロロ    オンボロボロロ~ ♪      

名曲である。最初の出だし、海猫(うみねこ)の事をヤン衆はゴメという。今回の物語の主役はそのゴメである。ゴメは全長三〇㌢位、カモメ科、くちばしが赤く足が白い、鳴き声が猫の鳴き声に似ている事から海猫。一方、カモメは四五㌢位で大きい、くちばし、足が白い。体が大きいカモメに、ゴメは太刀打ち出来ないので、頭を使いすばしこい。

 民宿「みさき」に三連泊したが、中高年故に朝の目覚めは早い。早朝四時には民宿の前の漁港を皆が散歩する。連日の日課である。小さな漁船をたくさん係留しており、昨夜仕掛けてきた網を上げて朝に帰ってくる。ポンポンポンとリズミカルなエンジンの音と共に、年老いた漁師が大漁のホッケやらソイ、メバル、カレイ、タコ、ウニで船は一杯である。

港の加工場から、腰の曲がった漁師の奥さんが手伝いに来る。程なくパートのオバちゃん方もリヤカーで魚を取りに来る。網にかかった魚ごと加工場に運ぶのである。

たそがれた中高年四人組は、立ったり座ったりしながら物珍しそうに見ている。その内に慣れてきて漁師に「その魚、何て云うの?」「ソイだ!」人の良さそうな漁師は、浜言葉でぶっきらぼうに応える。更に応酬が続く。その内、網にイカが三匹かかっていた。まだ季節的に早く、イカは取れないそうで貴重なのだ。大事に船の片隅に置いてある。民宿でもイカはまだ早くて食卓には出せないよと聞いていた。たそがれ組は心の中で期待していた。漁師が「持ってケ~」と言うかも・・・。その時、先程から船の周りを飛んでいたゴメ子が、サ~ッとイカを二匹、ものの見事に飲み込み、残る一匹をくわえるや否や逃げ出した。

パートのオバちゃんに聞くと、あのイカは漁師が酒の肴に残していたのだよ、との事。

恨めしそうな漁師の顔、だが決して怒らないし、追い払おうともしない。すまなそうなゴメ子がマストの上で見ている。たそがれ組も肩を落とす。漁師は可哀想と思ったか、我々の前に、網にかかっていたウニをポイと投げてきた。三人は殻から取って食べるウニは初めてと言いながら、感激にむせている。翌日もその次もゴメ子と漁師の攻めあいは続く。そしてたそがれ組も片隅で眺める。ゴメ子とたそがれ組は漁師を挟んでライバルとなっている。ゴメ子の視線から、我々は日増しに厳しい光を感じた事は言うまでもない。

 民宿の隣にある加工場を見学する。パートのオバちゃん方が網からホッケをはずしている。とその時、「ギャ~オ!」と入口でゴメ子が鳴いている。「魚をくれ!」と言うシグナルなのだと言う。オバちゃんは「ソレッ!」とたて続けに小さいのや傷ついたホッケを投げ与えた。体長三〇数㌢のゴメ子が二〇㌢位のホッケやカレイを五匹も食べて行くと言う。

 何故、漁師達はカモメや海猫に優しいのか? 調べてみた。漁師は漁をする時、カモメや海猫の群れを探すと言う。そこには小魚を追って来た大型の魚が小魚を食べようとする。すると小魚は逃げ場を失い海面に浮上する。それをカモメたちが待ち受けて食べる。更にそれを見て漁師は大型の魚を取ると言う。漁師はまさしくカモメを頼りに漁をしている。

また海上に低気圧が発生すると、いち早くカモメは察知して港に帰って来るらしい。天気予報もする。漁港に落ちている魚を拾って食べる掃除屋さんでもあると言う。何より、カモメの声がしない漁港は淋しいし活気がないとも言う。だから漁師はカモメ類を大事にしておこぼれを与えるのだ。云わば共存共栄の間柄なのだそうだ。愛情はこうして育まれる。

 四日目は礼文に渡る。民宿「みさき」から紹介された民宿「知床」、ここの食事も美味い。海の幸ばかりである。ホッケの刺身を初めて食べた、油がのり珍味であつたし、ホッケのチャンチャン焼きも初めてである。レブンアツモリソウに目を見張り洋上の植物園に感激して利尻山の贅沢な山行を終えた。 

 九十九山を終えて、残るは一〇〇山目、日高・幌尻山のみとなる。八月にヒマラヤ六〇〇〇m峰を済ませて九月の計画である。



100・幌尻岳

山の神カムイが遊ぶ庭

百の頂に百の喜びあり、『深田久弥の日本百名山』 100番目の山!

☆ 山のコラム

 幌尻岳は日高山脈の最高峰(二〇五二m)で、北海道の中央部から襟裳岬まで南北一二〇㎞以上に連なる日高山脈唯一の二〇〇〇m峰である。山頂を踏むには、糠平川沿いに登る振内コースと新冠川からの二コース、そしてビバイロ岳・ヌカビラ岳から北戸蔦別岳(キタトッタベツダケ)、戸蔦別岳を経由する縦走路がある。中でも糠平川コースは幌尻岳への最短コースであり、山小屋・幌尻山荘あり、渡渉の連続で変化も多く、最も人気のコースということで、このコースを選択した。

 山の神カムイが遊ぶ庭、と称されてきた日高幌尻岳。アイヌ伝説で「天上の海伝説」が伝わるという。それは海の生き物が住み、神の山の頂上に海がある。そこにアザラシ、トドが住み着き川に昆布が流れてくるのでわかるという伝説である。太古の昔、プレートとプレートが衝突して海底がせり上がり出来たと言う日高の山、山、山。

 プレートの衝突で出来た山は他にもある。南の島フイリピンプレートが移動して日本列島に衝突して丹沢山系が出来、その後に伊豆半島が出来ている。

 更にエベレストを抱くヒマラヤのインド亜大陸ははもともとアフリカと一緒だったが、分断されユーラシア大陸にぶつかり、現在の八〇〇〇m級のヒマラヤ山脈を形作ったと言う話は有名である。まさに幌尻もエベレストも海の底であったという信じられない話である。氷河時代、せり上がった山を氷河が削り取って、山頂に三ッのカールが出来たのが北カール、東カール、七つ沼カールである。この神秘なカールが、一層幌尻岳の魅力を倍加しているのである。

 また日高の山は深く、大きいと言われる。幌尻岳の山名の由来もアイヌ語でポロ=大きい、シリ=山である。

      

 林道歩きで2時間 沢装備で2時間

 私の百山目と言う事で、平日山行可能な山岳会の五人が一緒してくれた。二〇〇六年八月三十一日(木)~九月二日(土)、ヒマラヤの約1ヶ月間の遠征から帰り、翌日出発の強行スケジュールでもあった。

通常の振内車道が土砂崩れのため、貫気別回りの迂回を余儀なくされ、駐車場に二一時到着、一夜の夢を結ぶ事とした。翌日五時三〇分出発、ダム取水口まで林道歩き1時間四〇分、十八㎏の荷重は体に応える。次に幌尻山荘までの二時間は渡渉の連続である。沢靴に履き替えての膝までの沢歩きは快適である。沢歩きは日本にしかない文化である。ヒマラヤの汚さとホコリとは雲泥の差であり、しみじみ日本の山の良さを感じる。

☆幌尻山荘
   七ツ沼と戸蔦別岳
 よくもこんな奥地に建てたものと感心する山小屋。先人の努力に感謝する。小屋前の冷たい水で喉を潤し、登山靴に履き替え、山荘横の針葉樹林に覆われた急登のジグを切っての辛い登りがいよいよ続く。頂上までは概ね四時間、途中「命の水」地点に期待していた。万国共通で命の水とは、不老長寿の秘薬、いわゆる酒。と期待していたが、やはり水は水であった。しかし酒より旨かった。

いよいよダケカンバ越しに 戸蔦別岳が見えてきた。続いてハイマツと岩のミックス尾根が現れると、待望の北カールが堂々と下方に横たわる。
まさに北カールを従えた幌尻岳と三角錐の戸蔦別岳がド~ンと競争するがごと
く眼前にある。ドラマチックである。ド~ンと現れた幌尻岳、そしてデ~ンと控える幌尻岳、北カールを囲み、馬蹄形の稜線を頂上に向かう。既に至福の時間に突入している。

は頂上の女神に祝福を受けるために山に登るのだ。

 幌尻岳の山頂に立つことが、多くの登山者の憧れであると同様に、美しい沼をちりばめた七つ沼カールの底に立つことも、登山者のこよない憧れと云われる。まさしく山上の楽園である。幌尻岳が演奏するオーケストラが聞こえてくるようだ。属人をはらった幌尻の高貴な山容のみがいつまでもそこにあり、疲れを癒してくれる。

作家・立松和平が、栃木なまりでとつとつと語る「これが日高の山です。これがカールなのです・・・」としみじみテレビ画面で訴える場面をふと思い出す。立松がこよなく愛する知床の海と、日高の山、素晴らしい大自然である。お願いだから、日高を世界遺産にしないでほしい、手をつけず、このままで良いと願わざるを得ない。

この日、七つ沼カールに抱かれて寝る。もちろん満天の星空が見守ってくれた。あとはロケーションで不足なのは、たった一つ、ク・マ。頼む!近くではなく、はるか彼方を歩いてくれと願う。

     幌尻岳と北カール  

平成11年~二山、12年~五山、13年~十二山、14年~十八山、15年~三山、16年~四四山、17年~十四山、18年~二山、合計100山。

各地でお付き合いただいた方々に、お礼を申し上げます。有難うございました。  完