あけましておめでとうございます。




  

1/1 次女の家族が来て、直ぐ長女の家族、旦那もそろって自宅に新年の挨拶に来た。年々親戚の
挨拶回りが少なくなる中、孫たちが来ると賑やかだ。じいじ、目じりが下がる。忘れないよう
仏壇に焼香する間に小祝儀袋四つに急いで千円札を入れこみ手わたす。嬉しい。



シラタマカズラ

1/10 朝日を迎え見ることもなく、年は過ぎていた。毎年レジタルカメラで写した画像の中から、年賀状をプリンターで作成
していたが、うっかり寝過ごしたように新年になっていて、友人、親戚に出すことができなかった。3日になってあわてて
喪中はがきを受け取っていた知人を除いて何名かに、既製のはがきでだす。大晦日に部屋を片付け、清掃をし、仏壇には
果物を供えて花を生ける。ビニールに丸まって包まれたカレンダーを抜き取り、壁に掛け替えた時点で2016年が明けた。




1/17 外は小雨。昨夜、天気予報を聞いていたので、雨音を床で聞きながらウツラウツラ、寝坊する。雨が降ると窯場は休むことにしている。
北側の屋根の修理が終わり、煙突工事も終わった後、残してあった南側を点検すると、痛んでいる。こちらは一人で、足場を組み
気長にやっていくことにした。問題はこのところコロコロ変わる天気だ。晴れたり、降ったり一日おきに小刻みに変わり、週間天気予報を
みながら、作業に取り掛かかっている。直接雨にふれる屋根の漆喰、足場も組んだこともあり、作業は細切れでも、晴れ日には
窯場に行き目一杯作業をする。今日はしばらく書いていない日誌を綴ろうと台所の丸テーブルに置いたノートパソコンを
開き電源スイチを押す。パソコンは二段重ねにした厚紙ケース「こしひかり」の上に乗せてある。高さは床から87センチで、
立ちながらキイボードを打つには程よい高さだ。立ちながら打つのは腰掛けるより健康に良いと思ってのことだ。 




2/5 2,3日前の新聞の折り込みに聞いて楽しむ「日本の名作」のCDが挟まれていた。チラシを目にし買うことにした。
なぜか今ヤチムンより興味が動いている。


  


2/8 今年の旧正月は、仏壇に焼香に来た親戚の方々が少なかった。親の世代の頃は、お中元、お歳暮を持って親と
一緒に回ったり、親が歩けなくなっ時には代わって親戚周りをした。相手方からは心温かく迎えてくれた。先祖の繋がりを
大事にすることは解るのだが、時が経つにつれ、窮屈なほどに義務的に感じてイヤになることもあった。
しかし、親の世代から自分達の世代になり、付き合いが遠のくと、寂しさを否めない。




2/16 残された南側の修繕作業の足場を2日間かけ組み、漆喰補修は3日で終わった。足場に掛けたレール式
梯子の縄をはずし、地面に杭を打ち込み固定していた下部をはずし格納した。4日目に遣り残したところを見つけ、
あわてて足場を壊す前にと、折りたたみ式の脚立を伸ばして足場に掛け上の箇所だけを紐で縛り残った補修を終えた。
一息ついた後降りようと、梯子の先端に手を掛け少し浮いたなと感じたが、そのまま梯子に足をかけ降りようとした瞬間に
下部が浮き時計回りに回転して地面に叩き落とされた。咄嗟に梯子を掴んでいたが振り落とされた。
右手一本で体重を支え、右わき腹を痛めた。



レンブ

いつもの街が、、、

40,50年前、僕が小中学生の頃、嘉手納基地ゲート近くの八重島に米軍人相手の特飲店、風俗店が最初に出来きた。
朝鮮戦争、ベトナム戦争が勃発すると基地関係の街としてコザ歓楽街となり、軍人、軍属による、暴行事件、犯罪事件が頻発した。
風紀がみだれるや軍から、開業には「Aサインバー」の営業許可証が発行され、性病検査がおこなわれた。手入れがきびしくなと、
八重島からBC通りに歓楽街が移っていった。基地と直結したゲート通り、センター(BC)通りには洋品店、電気店、質屋、Aサインバー、
ダンスクラブ、ストリップ劇場などの基地軍人相手の店が軒を連ね、ペイデー(給料日)になると特飲街、風俗店はおおいに賑わった。
質屋は軍人が帰国の際に、不要になった物を質屋に売って整理した。また、コザジュウジロ周辺には、胡屋から白人兵との差別諍いで
移動してきた黒人兵が多く闊歩するようになり、軍人相手のAサインバー、裁縫店、民間人の十字路市場、映画館、パチンコ店、
料亭新橋、基地関係者と、民間人が混在した街となっていった。


ハルの住まいはテルヤ区域、黒人バー街の道ひとつ裏の民家にあった。十字路界隈にはAサインバーが軒を連ね多くの同級生の
親が飲食店、裁縫店、「Aサインバー」の経営者として生計をたてていた。そんな黒人街となった街の中を毎日通過して小学に行った。
夜はネオンが灯りホステスの客引きの騒がしい街も朝になると、静まりかえっていた。そんな朝の通学時、酔っ払った黒人兵を交番所の警察官が
通行人に見せないよう戸板で囲い、警棒で罵声を浴びせ、殴っているところに出会ったりした。小学4年にオキナワの小学校に転校し、
共通語励行の係りを仰せつかっていたが、マーブルや、カンけり、パッチーの遊び仲間に入れてもらうためには、方言を使えなければ遊べ
なかった。そこで最初に覚えたオキナワ方言がヤーバン(あんたの番)であった。この言葉は遊ぶ時に頻繁に使う言葉で、この時ばかりは
標準語励行を忘れ、覚えた「ヤーバン」を友達が出来、親しくなると何度も口から出るようになった。内地にいる頃は「授業中はおしゃべり
をしないこと」と通信簿に書かれているように他人に邪魔ばかりをしていた。オキナワにきて、標準語励行で風紀委員になり、
4ねんのO先生から5年はM先生になった。5年生になるとクラス会長に選ばれた。M先生は急遽高校の国語の先生をやめ小学校に
転任してきた先生で志の高い気品のある先生だった。毎週月曜日にホームルームの時間があって、会長が仕切ることになっていた。
初めてのことであり、ぐずぐずして声が小さくおずおずしていると、「男でしょ、しっかりしなさい。」と言うや、M先生に平手打ちをされた。
僕は少し涙したが、殴ったO先生は大粒の涙を流していた。身内からでなく他人からしかも女の先生から頬をぶたれたことに、
悪さをしては泣いて叩かれた亡き母と重なった。