はや年は明け一月の末。台風被害の出た瓦屋根の修繕は新しい年を迎える前に終わることができた。大晦日前日に毛筆で記し工房前に
貼っていた「謹賀新年」もやめてから2年になる。せめて新鮮な気持ちにと庭下に下りていき椿の小枝を折って南蛮花入れに挿しこむ。


   


ゆくゆくは,生立ちなどを書き残したいと思っている内に古希がすぎた。歳のことを考えると書く時間が限られてくる。
このまま何をする事もなく日々を過ごしてしまう気がする。なんとか習慣ずけられないかと思うがもともと好きでなければだめなのでしょう。
それでも健康長寿で過ごせればよいかと思えるが?数日前に文房具コーナーでCampusの帳面を二冊買った。一冊は雑記長になっているが、
後一冊はちゃんとした自分史やエッセイを書くつもりで買ったように思うが、、、。窯場に行く回数は週2回になっている。デジタルカメラとポメラ、
帳面、万年筆の入った鞄を常に持参している。万年筆はパーカー、モンブラン、ペリカンでもなくプラチナなのだが、インクがスムーズに流れて従来に比べ
ほったらかした後に使っても固まることが無い。前準備は整っているのだが、、それよりも先立って、やることが続いている。窯場終わるや今度は自宅。
海洋博当時に建て、養父母から引き継いで住んでいる住宅が、アッチコッチに老朽化で修繕を要している。なので拠点は窯場から自宅に移っている。
リフォーム業者も頻繁にやってくる。歩道前の鉄骨柵の上段に留めたボルトの腐食で外れかけているのとブロック塀に立てかけた根元の部分が
腐食で完全に乗っているだけになっている。こちらも、見積もりを終え順番を待っている。先日水道管の老朽化で道路のアスファルトを突き破り噴水する
映像が流れていた。年間2万5千件の破裂がおきていると言う。水道管の対応年数は40年。少なからず我が家にいろいろあっても不思議ではない。



いつもの街が時を刻を刻む


時間は十分にあるはずなのに何事も前に進まず日暮れが早くきて一日が終わる。あたりまえであると考えていた一日十五日の仏壇、火の神への
ウチャトウができずにいた。弁当を食する日が、数週間つづいていた。むしょうにそばが食べたくなる。時間が空いた日、そば屋には行かずスーパー
でゆでられた麺とネギ、三枚肉、生姜、それに小菊と茶菓子をいっしょに買い豚肉を蒸し鰹節と味噌であわせ汁を作りそばを仏壇に供えた後、食する。
いつもはそうなのだが。其の日はただ食べたさに、急いでそば麺とスライスされた焼き豚、ビニールに入っただし汁を買って帰り、ネギを切り生姜を摺りそば
を作った。ふと思い、、あわてて、盆にそばと箸を載せ仏壇へ供え、線香を点ける。仏壇に向き合うと一瞬背筋がのび、これから後のことをいろいろと
考える。親の歳にならないとわからない。自分も親となり良くも悪くも歩んできて古希がすぎた。その間に離婚もあり子供たちには経済的、精神的な
負担を負わせた思いもある。時は過ぎ、子供たちもそれぞれ家庭を持ち孫が4人となり小生も爺となった。子供たちの幼き頃に自分を重ねる。過ぎ
去る現実の時間の速さに、過去の時間との刷り合せができずにいる。欠落した過去を埋め直し、成就しようとする事は無意味なことなのか。


Googleからライブ感覚で地図と航空写真を併用したストリートビューのできるアプリが出てきた。住所を打ち込み地図を拡大して何箇所かのポイント
表示されたパノラマ写真をクイックする。航空写真に切り替えて、ストリートビューの道路上に降り立ち、車を運転する感覚で道路上をクイックして
行きたい方向に移動する。走らせながら磁石アプリ?を操作し左右の景色を見ながら進む。慣れるまでに何度も方向展開やら見失った景色を追い
求めて何度も繰り返した。街道の家並みや、学校、田畑、川、ビジュル等の基点になる位置を頭におき距離感を測って車を運転した。これまで、
主に自宅周辺を行たりきたり、仮免程度に街並みを見て走行できるようになると、ルーツを探す旅にでようと思いたった。一気に幼い頃を過ごした内地
の豊明町アラハタに飛んだ。タイムマシンに乗った気分である。かって住んでいたアラハタの地からクツカケ小学校に、何度も何度も登校を試みる
ことで実写のストリートビューの景色に馴染んでいった。実は3年前、2005年の夏に故郷?に行った。其の年にGoogleのストリートビューが世に出て
いるのだが、まったくきずいていなかった。それを使っていたら、自宅跡地を楽に探せたか知れない。これまで4,5回本土に行ったが、生地に行くことは
避けていた。子供心に抱いた奇妙な思い込みがあって、幼き頃、遊んだ山や川、湖をシャボン玉の中に描いていた。それが原風景になっていた。
脳裏から簡単に、消したくない気持ちがあった。(母を亡くして追われるようにオキナワ集落からわずかな荷物と遺骨箱と形見の裁縫箱を持ち
父と兄、12歳の私と5歳の妹で村を離れ、知らない小さな島オキナワに愛知から、汽車、電車をのりついで九州に下り鹿児島の港から
大波に揺られ船酔いでゲッソリやせ細り那覇の港に上陸した。)そんな思いを大人になっても長年持ち続けていた。ある日、弾けたようにキーボード
をクイックすると、簡単に飛んでいた。今では過去と現在が混在して整理がつかない。

仏壇に手を合わせ、AM9:40家を出る。JAL11:50発-名古屋。今やほとんどがシャターの閉まったコザ十字路市場前のバス停でバスを待つ。
かって多くの人々でごった返していた市場は、今、ほとんどの店舗が閉まり人の姿が見えない。久しぶりにバス停から1人の客とバスに乗る。
バスタ-ミナル(終点)まで乗り、タクシ-で空港に行けば十分時間的に余裕がある。いまだに、重い鉄の塊が空を飛ぶことが不思議でならない。
離陸するまで気が気でない。しかし、鉄の塊は時間どうり飛んだ。2時間弱で中部国際空港に着く。数年も前から生まれ育った地の地図を、
ネットで幾度となく縮図を拡大しては、記憶と見比べ、確かめては、脳裏に納めていたので、塗り換わった地図も覚えてしまった。空港から
名鉄で神宮前まで、そこで乗り換え豊明で下車、ビジネスホテルへ。一連に覚えてすみやかに行動しないと、知らない土地(?)では
無駄な時間をつくってしまう。


着くなり3枚に準じに拡大した地図を広げ5時までに戻れるよう無理をしない程度に昔住んでいた跡地をつきとめるだけでよいと思っていた。
其のあと2日間かけてどう動くか考えよう。とりあえず、宿からタクシーをお願いしてアラハタと告げると運転手は迷わず、行き先に向かって
車を進めた。昔そこにオキナワ集落があったことを運転手に告げようとしたがためらい、 「畑のそばに昔、集落があったのですが
今もありますか」ときいた。「あったかな、、」と、はっきりしない返事が返ってきた。しかし60年も前の地名が残っていた、その場所にいける
ことに気持ちは高ぶっていた。目的地に着き、そこで降りた。辺りは何の変哲もない寂しげな場所であった。まばらに家屋が点在していた。
昔のイメージを追って辺りを見回し行ったりきたりしたが、ラチがあかない。直接居住者に聞いてみることにした。1、2件と尋ね3件目を訪ね、
たときであった。我喜屋と記入された表札が目に飛び込んできた。当時オキナワ集落のあった我喜屋さんの姓である。まだ居たのだ。

声を振り絞って「ごめんください、ごめん、、」と言うと、ロープを一杯に張った犬が歯をむき出し猛然と吠え、向かってきた。臆しながらも
それでも待っていると、坂道の下から白髪の男性が現れた。同級生の名前を咄嗟に言う。驚いたことに、ここですとすぐさま返事が返ってきた。
彼は豊田市に住んでいて私は兄だと言った。60年前から住み続けているのは、ここ一軒だけで、オキナワの人はこの集落にはもういないとの
ことであった。するとこの下に実家があったことになる。(きみたちの実家跡地は、下に建っている長島氏宅だ。母が病死後にオキナワに帰っ
たけ)と言った。あんたの父は気難しい人だった。兄は勉強がよくできたよな。妹もいたけ。)しばらく話した後、うちの母がオキナワから帰ってきて
いると言う。お邪魔してよいのかと思っていると、ロープにつながれた犬が突然また吠え始めた。なだめに下に降りていき、泣き止んでも
戻る気配がない。それでも待っていると、戻ってはきたが、都合が悪いのか見送る形で頭を下げたので立ち去った。

昨日は我喜屋さん宅から、4年間通った小学校に行った後タクシーを呼んで宿に帰った。話ができないまま去ったこ
とに後悔しながら同期生の兄との出来事を思い出していた。学校を終えると、いつもきまって3人で一緒に家に帰った。
其のうちの一人が、掃除当番で居残ったので、2人は先に帰ることになった。彼の家には、広い敷地に植えられた
柿畑があった。時々、学校の行き返りに柵から色づきはみ出た柿を見つけては棒で突いて落とし食べたりした。其の日
授業を終えて学校から家に帰る途中であった。3つ上の我喜屋の兄が袋を持って柿畑の前に立っていた。柵の隙間が
破れて開いている所から侵入して用意した袋に柿を盗ろうと持っていたのだと言う。彼と一緒でないことを見て
急いで家から袋を持ってきたという。同期生我喜屋の兄は、しょうやカンケリ、ビーダマを若輩の仲間内で遊んでいる
と、「うまくなる、やり方を伝授してやる。」といっては、先輩顔してうるさく、わりこんできた。教わるめんも多かっ
たが夢中になって遊でる最中に割り込んでくるのでイヤだった。悪いことだと思いながらも断われず、後を追って入った。
それぞれ一個づつとり袋に入れたとたん「コラ、、、」と言う声に驚くや犬が吠えた。袋をほっぽり出して一目散に
逃げ帰った。翌日校長室に担任の教師と2人が呼ばれ、散々怒られた。「もう二度としません。」と反省の言葉と、
男子便所掃除を、担任の先生監視の元させられた。校舎と体躯館をつないだ渡り廊下横の当時としては大広間の
男子便所であった。家に帰ると学校から伝え聞いていた親は、さらに厳しく怒こり、親がいいと言うまで正座をさ
せられた。アノ集落の連中かと思われることを親達は気にしていた。相手の同期生とはきまずくなったが、いつ
しか仲直り、もとにもどって遊んだ。我喜屋の兄とは事件以来あちらから、近ずかなくなった。

残像の旅。  残像の旅。

残像(第一種木造校舎 昭和33年、、、、



運転手に促されアラハタの地に降りた瞬間、シャボン玉が弾けた。記憶の欠片もない景色が広がっていた。
白昼夢なのか、50年の月日の長さを物語っていた。昔のままの、風景がある訳はない。そんなことは解りきっていた。
幼き頃遊んだ風景が記憶から消えさった。それは母と過ごした僅かな日々の記憶でもあった。

養父母が亡くなるまで実母についてはほとんど思い出すのでもなかった。己が古希を過ぎ、空虚な流れのまま虚無
な日々を悶々とおくっていた。そんなある日、出生から辿ってみようと思いたった。私は鳴海で生まれた。幼き最初の
記憶には、道路に掛かった電車の通る高架橋がうかぶ。そこは鳴海ではなく、生まれた後に移ったのか、そこで5歳頃
まで生活した。アラハタから連れられて、よく目にした名鉄電車の前後駅から三駅はなれていた。鳴海には行かなかった
が、沖縄に帰った後にGoogleのストリートビューで名鉄電車に乗って鳴海に行ってみた。そこでの風景がどこを探して
も思い出と重ならない。それでも、何回もアラハタと鳴海の移動ルートを探した。たしか中京競馬場を車窓から見ながら
通り抜け、鳴海にいった記憶があった。道路に掛かった高架橋。通りすぎる名鉄電車。その道路近くで、毎日あそんでいた。
真向かいの坂上に貸家があって、そこに住んでいた。その場所が目に焼付いている。風景やそこであった物語も伝え聞い
ている。そこには、国道上に電車の通る高架橋があって、中京競馬場駅があった。ストリートビューでたどって行くうちに
懐かしい情景が記憶を呼び起こしたのだ。さらに兄の口からよく聞いていた「桶狭間の戦跡後」が近くにあった。

豊作祭りなのか恵比寿様や、着物を着け各人面を被った多くの着物姿の男女が街並みを踊りながら行進してきた。
兄に肩ぐまされ道沿いに集まった観客と見物していた。他にも動物の面を被っていたのかは知らない。其の中から鬼の面を
被り襲いかかろうとする鬼が怖くて大号泣し、兄の背中に必死になってしがみついた。仮装行列でねりあるいて
いた祭りが「桶狭間の戦い」の祭りに、関係しているのかは知らない。

道路の上の高架橋を、電車が通過する毎に「カーン、カーン、カーン」と警笛音が静けさを突き破って鳴り「ゴー、ゴー」と
電車が重音を響かせて通りすぎ、あたり一面しずかになり、遠からカエルの鳴き声が聞こえた。母と坂道を登って高架橋に行き
土手の枕木近くに生えたつくしを取りに行ったことがあった。積み木木箱の4輪車を電車に見立てて乗り、自宅前の坂道から、
加速して道路に滑り落ち、あわや車に轢かれる事故を引き起こす出来事があった。室内では、はいはいしながら椅子に登ったり
して、遊んでいるうちにミシンの台と家の窓枠が同じ高さであったため室内の椅子からミシン台に登りそのまま窓枠を超えて頭から
外の尖った石に額をうちつけ出血。仰天した父は、止血にはニコチンと、あろうことかタバコを詰めたと言う救急車で搬送するや、
医者にこっ酷く怒られたと言う。その傷跡は今も額に残っている。

学校から帰ると、ハルはきまって、子猫のミーコを呼んだ。サツマイモ畑手前えんどう豆の影から、声の主めがけて
一目散に飛んできた。だじゃれた後、ハルは我喜屋と2人して雑木林の山にリャカーを押して駆け出した。風呂の
焚きつけに良い枯れ落ちた松葉を竹の熊手でかき集め、カマス袋に入れリヤカーの後方に置た。前には、ヤギの
乳草や敷き草を刈って入れた。楽しみは、キノコを取ることであった。今日はアノ場所の松のしげみを探そう。
目をつけた場所には必ずキノコが大なり小なり潜んでいた。小さいキノコは2,3日後に採るようにしよう。

リヤカーが一杯になるとそれぞれの家に交互に降ろした。たきつけようの松葉や枯れた倒木は風呂場に運んだ。納屋の前の
庭で母が、息を切らして木片を台座に載せ斧を振り下ろし割っていた。首には細長い布切れを何時も巻いていて、決まって
せきをした。喉にたんが絡むと、吐き出した痰をちり紙に受け、庭のはしに行き地面を火箸で突いて穴をあけ、痰を受けた
紙を埋めた。母が薪を割っている時は機嫌が悪かった。母にとって、きつい作業であったにちがいない。その頃には結核に
かかっていたでしょう。月日がたつうちに弱弱しくなっていった。薪割りを代わろうと告げても手を忙しく振ってうけつけなかった。

ハルは納屋に入ると、雨水を貯めたドラム缶の蓋を取りバケツで水を汲んで五右衛門風呂の鉄甕を満たした。焚口に行き、
松葉の上に薪を載せ火をつけた。薪に炎が移ると干草にお尻を下ろしひざ小僧を抱いた。干草はヤギが居なくなってから、
半分に減っていた。ハルのひざ小僧に涙が落ちた。その日はどうしても干草の置かれた納屋に居たかった。納屋から離れの小屋
で子豚2頭とヤギ1頭を育てていた。学校が終わって、毎日リヤカーを押して干草を刈にいっていた時間があいた。毎日世話をした
ヤギは一週間前、父が納屋でヤギの頭に大ハンマーを打ち下ろし瀕死にした後、ロープで後ろ足を梁に吊るして首を切って血を抜き、
皮を剥ぎ解体して肉をとった。内臓のモツの半分は家族分に残して、昨日も芋と食べた。モツがある間は毎日暖めて芋とモツである。
父がヤギを大ハンマーで殺す時、母はいたたまれず、居間の神棚に行き手を合わせた。解体した肉は自転車の荷台に括りつ
けた竹かごに載せ街に売りに行った。行きはハルもいっしょに、自転車のハンドルと父との間に挟まって乗り、帰りは空になった竹籠
に載って、籠に染み付いた匂いが衣服につかないよう両手で荷籠の先端をつかみ、家に着くまで腰を浮かせて帰った。
ヤギのトミーがいなくなってから続くヤギのモツと芋の食卓に、時には腹を壊し下痢をした。学校を早退して寝ている
と母は経をあげながら腹をさすってくれた。不思議にピタリと腹の具合は良くなった。多くは母が風呂を焚いた。風呂焚き
を終え、食事後に風呂を入った後、母は、決まって裸電球の垂れ下がった下で裁縫箱を引き寄せ繕いをした。繕いする
母はやさしかった。父が内地に来て職を失った際母の裁縫で助かった旨を父から聞いたことがあった。鳴海に居た頃から
母は月一度はハルを連れてお寺にお経を聞きに連れて行った。毎日の困窮した生活の中でその日がくると弱弱しく貧弱に
見えた母が着飾った衣服姿がきれいで、得意になって手をつなぎ、寺に読経を聞きに行った。


実母はオキナワのあわせで双子として生まれた。下に弟が居て、3姉妹弟であった。双子の妹は18歳の時にソフトボールの
試合中、胸にボールを受け亡くなったと聞いた。兄妹僕と3人生んだ母も私が小学4年生の時に結核を患い43歳で亡
くなった。母が亡くなった時、鳴海の片田舎で50、60頭の養豚をしている甥の叔父さんが駆けつけ祭壇の前で
大粒の涙を流し「なぜ、死んじゃったんだよう」と駄々子のように側にあった線香を投げつけ泣きじゃくった。小学3年の
夏休みに2,3回家族で養豚場の豚を見にいった。ここには甥の「ヒゲ爺」と呼んでいた親父がいた。半田の製鉄所に
勤めていた父の弟の叔父さんとヒゲ爺の長男の甥と母は同級生であった。オキナワから父の従兄夫婦が大きなボストン
バックにチョコレート、洋服、セーター缶詰め等お土産を詰めて線香を上げに来た。母が亡くなった翌年、生活を見かねて
従兄の声かけでオキナワに帰ることになったのだ。その頃はまだオキナワは、本土復帰していなかった。パスポートを取って
帰ることになった。決まってから時折荷物整理をする父の顔を何度も見た。険しい表情が幾分和らいで見えた。父母の
言っていた故郷のオキナワに帰るのだ。母が亡くなったおりに従兄夫婦がお土産を詰めて持ってきたボストンバックに
父は荷物を詰めた。一年前に買った自転車は現金を工面するために売られたのか無かった。


妹は大きな黒目を見開いたまま白いお気に入りの毛玉の人形を抱き、一番好きな桃色のワンピースをつけていた。
いつもは左手で鼻水をぬぐい袖をテカテカにしていたが今日は鼻水を流したまま真ん丸い目で瞬きもせず固まって、
ハルを睨みつけていた。ミーコ(子猫)はいしょに行こうとする度に父に小石をぶつけられ外の掘立小屋厠の屋根にかけ
登って(ギャーギャー)しわがれた声で鳴いた。土手に沿って背丈ほどに伸びたコスモスの花が風に煽られ揺れていた。
父は従兄の置いていった大きな皮のボストンバックを持ち、兄は手提げ鞄と遺骨が入った桐箱を風呂敷に包んで
持っていた。ハルは母の裁縫箱を両手で持ちランドセルを背負った。

船酔いで体調が悪くなったハルは、しゃがんでバケツを抱きかかえ吐いていた。アラハタを離れてから何処をどう進ん
できたのかわからない。一面に芝生が生えた公園に来ていた。、靄がかかり、小雨が降っている。夕暮れ時なのか、明暗
を分けた外灯の傘の下に佇んでいた。妹がトイレにでもいったのか、ハル一人が荷物を見守って3人を待っていた。ここが
公園なのか電車の駅なのかわからない。あるいはオキナワにたどり着いていて、米軍の基地内を金網越しに
目にしている芝生なのか頭の中は悶々として、ここにたどり着くまでを覚えていない。


オキナワの地に下船すると、多くの親戚が迎えに来ていた。真っ先に迎えてくれた叔父さん夫婦、故母の弟の叔父夫婦
、母の生みの親の祖母達であった。「元気だったネー、ヨウガリチ、クァチーアクトヘークヤーカイ」何を言っているのか
解らない。妹は肩を抱かれ、頭をなでられ、顔を引きつらせ今にも泣きそうになっていた。父と兄は言葉がわかるのか笑顔
でうなずいたり、話したりした。促されるまま車にのった。車内に入ると生暖かい空気がまとわりついてきた。車からバスに乗り
継いだ。車窓からの景色が変わった。道路沿いに金網が走り、芝生が広がって現われた。その中に摘んでおいたように、
コンクリートの家屋がポツリ、ポツリとある景色をバスに揺られ、眺めていた。薄暗くなった街に明かりがつきはじめ、白人、黒人、
フィリピン人、多国籍の人々がネオンの輝いた街路を歩いている。コザと言う町にたどり着いた。翌日朝を迎えると昨日の
賑やかに見えた街は静まり返っていた。闊歩していた人々は舞台が終わったようにいない。住宅はコールタール屋根の木造
立てで、ハルは直ぐにも従兄夫婦の家にひきとられた。何度も父兄妹のいる家に逃げては父に追い返された。そうこうして
いる内に、通学の行き帰りに家族とあうことで我慢するようになった。家屋は米軍からの払い下げの木材で建てた家だと話し
ていた。従兄叔父さん夫婦の家も屋根はコールタールの塗られた屋根であったが中学に進学する頃には
トタン屋根に改築された。

コザの町に住むようになってから日々の生活に追われた。寂しさで、手紙や、年賀の挨拶は必ず、続けて出した。しかし、
オキナワでの根強い親戚との暮らしをしていくうちにアラハタの同期生とは、音信不通の状態になった。オキナワの地に来て、
養子となったハルは、思考回路、生活のすべてが変わった。ハルなりにオキナワの習慣に馴染もうとしたが、困ったことがあった。
消灯して床に就くことだった。内地では常に母が裸電球の下で裁縫をしていて、暗闇の中で寝たことがなかった。消灯する度に
パニックを起こし、呼吸困難におちいった。長い間その習慣になれずにいた。

4年生で地元のアゲダ小学校に編入した。復帰前のオキナワでは、標準語励行が学校で進められていた。方言ををつかった
生徒に方言札をかける決まりがあって、適任者と言うことで風紀委員になっていた。一番に方言札を、ガキ大将にかけてしまい、
殴られたりした。方言札は2番手、3番手と方言を使った順にリレーで掛けていった。学校の側に川が流れていた。大雨が降っ
たりすると川面が増水して氾濫、大きな魚やうなぎが畑にうちあげられたりした。そんな川で授業が終わると泳いだり魚を取って
遊んだ。方言札を掛けられた者は、家に方言札を持ちかえるのを拒んで、他者にかけようと遊びながらも聞き耳を立てた。


方言札を翌日の朝の登校時に持参すると記録されてしまうので、どうしても遊びながら相手を見つけては首にかけたい。
掛けられた者は掛け返すのに必死で日が落ちるまで遊んでしまう。家では玄関前に養父がチンブクの竹を持って待って
いて、門限を過ぎるとお尻をひ引っ叩かれた。川は何度かの台風に泥で濁って遊泳禁止になった。変わって遊びは
缶けり、ビーダマにかわった。遊びは変わっても方言札を首に掛ける習慣は続いた。5年生になっても風紀委員はその
ままつとめ、皆から級長におされた。5年生になると高校から小学校へ移動して来た先生がいた。その人が担任の先生
となった。エレガントな女の先生で細やかで芯のある先生だった。5年生になり始めてのHRで級長のハルが司会進行
するのだが,慣れずに皆の前で黙ったままモジモジしていると平手打ちが飛んできた。右の頬を張られて「男でっしょ、
ちゃんと司会しなさい。」と、頬を張り手された。その後先生は泣いていた。HRで女の先生から平手打ちされたことに
ショックを受けた。歯を食いしばってHRの時間の進行を終えた。技術家庭の科目があった。各クラス別に男女1名
選抜で、なみ縫いで一分間に何センチ縫えるかの競技が有った。女子はスンナリ決まったものの、男子がなかなか
決まらず、先生の指名で、出ることになった。一瞬裁縫がうまかった母が脳裏を過ぎった。小学から中学高校と
葛藤しながらも進むうちに、養父母の子供としていつしか、あたりまえのように生活をしていた。もはや身も精神も
完全にウチナーチュになって、あの頃の時間は、プツリと切れたままになった。オキナワに内地の学校から小学4年
途中に、編入してきて勉強がそれでも遅れていないと通信簿に担任の先生が書いているがこれはあくまで、本土との
格差であったと思う。内地では学業の成績はびりを競っていたのだから、しかし、こちらに着てから、「石豆のモヤシ」
から「イシマーミ」とあだ名されウチナーチュとは明らかに違って、デイキヤーとの先入観で見られていた。
そのころの本土との学力差は顕著であった。


帰沖してから3年後に父は親戚の紹介で再婚、愛知県の進学校に受かっていた兄は従兄が援助するからとの話があったが、
長男として早く手に職をと、進学を断念していた。再婚した母の実家前の、ベニア工場で働き始めた。父もオキナワの泡瀬から
一中(現首里高校)に合格していたが家業のフトンずくりがいきずまり、進学させてもらえなかった経緯があった。その後、母と
結婚し本土に渡ったとのことである。初めは、大阪で会社勤めをしていたがやめて鳴海に移り、生活場所となったアラハタに移った。
(山中のオキナワ人が10軒程で集落をつくって生活をしていた。)


(二日目)勅使池へ行ってみようと思った。自宅跡地から見えた松林の山並みは、新興住宅街に変わっていた。果たして勅使池は
存在しているのか沖縄で見たGoogieのストリートビューでは大きく描かれていた。実際現地にきて歩いてみると地形を捉えきれず
、右往左往した。僅かでも似通た記憶の景色を求め、カンを頼りに歩いた。足が棒になった頃、行く手に湖の雄姿が見えた。勅使池は
昔のまま存在していた。堤防末端の高台には東やができていた。そこに腰掛、湖から吹きあける風をうけた。当時から危険な場所
として、遊泳禁止の看板が立ていたが、現在も立っていた。ダムが大雨で増水して満杯になると、イリを抜いて下段の調整池に流し
ていた。学生が泳いで渡ろうとして、イリに巻き込まれて亡くなった事件が起こった。そのダムを岸から岸まで兄と友人が2人でいきさつは
知らないが、泳ぐことになった、兄は勉学だけでなくマラソン、水泳にたけていた。僕らちびっ子3,4人で岸辺の歩道になったコンクリート
の堤防上をぞうりを手に持って「兄ちゃん、兄ちゃん、ガンバレ、ガンバレ」と叫びながら前になり後になって駆けていった。


勅使池から引き返し実家のあった屋敷後へ再びきた。かって、一帯には芋畑が広がり、各畑の端に、縦穴が掘られ、雨よけの
尖がり帽子を被せた芋倉が集落の中にポツン、ポツンと妙に目立ってあった。現在は、我喜屋家一軒が在るのみで思い出の
風景は何一つない。オキナワ人の集落内に大きな屋敷があった、8世帯の地主であった中山さんは内地のかたであった
他のオキナワ人の集落の家屋とは違いおおきな屋敷には広いテニスコートほどの庭があった。その広場で学校が終わると
集落の子供たちが集まり遊びの広場になっていた。兄と3歳上の友人でもあった山中さんと遊んだと言っても、兄の年代の先輩
たちが遊びは仕切っていて、後ろからついて回るだけであったが、そうしながらしょうや、缶けりビーダマの勝つコツを盗み覚
えていった。そして暗くなり先輩たちが家に帰るわずかな時間にわれらが真似をして、興じるのであった。その山中さんが
いつの間にか大阪に引っ越して空き家になった。家主がいなくなった後も集まって遊ぶ場所は変わらず続いていた。屋敷内の
地下に掘られた芋倉を発見した。そこでも遊ぶようになったが、とぐろをまくマムシを芋倉に見てから入らなくなった。


(三日目) 

通学の途中、小高い山のあたりに、不法投棄で、ゴミ山となった集積地があった。夏になると太陽の光線で周りの空気
が暖められ風に舞って捨てられた化粧品や香水などが太陽の熱で蒸発するようであった。其の匂いを嗅いで登校した。
そのゴミ山はみあたらなかった。そこを通り抜け日中でも外部から急にトンネルの中に入ったかのように、温度差が違う
雑木林に囲まれた坂道を下って行くと石碑の並んだ墓地が現れた。やはり墓地はあった。斜めの方角に神社か寺が
確かにあったことを覚えている。そこを通り抜けると一面に田畑のパノラマが広がり遠くに小学校が見渡せた。アスファルト
道になった田んぼ沿いの道を1時間ほど歩いた。小石交じりの土道を歩いてみたかった。目的地の
クツカケ小学校に到着した。急いで見ることに躊躇していた。校門は夏休みで閉まっていた。
掲示板に貼られた「用事のある方への電話番号」を控えて宿に引き返した。




(四日目)、、翌日、アラハタから4年生まで通ったクツカケ小学校に。郵便はがきから、かっての住所を打ち込み、
googleのストリートビューで何度も歩いた小学校への道のり。先日は現地を歩いてきた。学校周辺は、見慣れた田畑の
景色が広がっていた。昨日控えた番号に電話を入れた。職員室のあった校舎の辺りから管理人が出てきて、用件を聞
き、身分証明書を求めた。運転免許証を見せ50年前に在学していたこと。オキナワから来たこと。見学したいことを伝えた。
管理人は学校関係者に電話した後、門側の小さな柵をあけ招きいれてくれた。一時間以内で見学したら連絡してください
とのお達しをいただいた。門を入って左手に運動場、右手には体育舘が見えた。校舎は木造からコンクリートに変わっていた。、
職員室や一部高台にあった教室が昔の位置に建っていた。その校舎から大きかった体育館の2階に渡り廊下で当時と同じ
ように連なって建っていた。体育舘はコンクリートの建物に変わっていたが、校舎は木造作りの校舎であった。体育館前で全学年生
と先生の写真を撮影した写真が残っている。その校舎は紛れも無くオキナワに行く前に学んだ4年生の時の校舎であった。
校舎の壁に昭和33年に建てられたと表記され、二年後に老朽化のため立て替えると記されていた。
教室と教室との中庭には西日を受けたi百葉箱が、建っていた。