いつもの街が、、、、

戦前祖父は、アワセでフトンを作っていた。ハナウチと屋号で呼ばれ名が通っていた。子供は5男子1女子で家業を手伝っていた。
順調に繁盛していたフトンずくりであったが、先妻が病にたおれ、後妻がきて、長男が後を継いだころから家計は傾き始め次男、
養父(3男)はフィリッピン、ミンダナオに、出稼ぎにいくことになった。其の後も4男(実父)は内地に、5男の叔父は最後まで残って
長男のもとで家業を手伝っていたが、意見のちがいから、4男の後を追って、内地に働きに出た。養父は現地の人を使い麻の栽培の
目安がつくと、二年後に養母を呼び寄せ20年間共に働き生活を軌道に乗せた。しかし、終戦で無一文になってオキナワに引き
上げてきたと言う。内地に出た4男と5男は一時はよい仕事についていたそうだが、出身地を聞かれ差別されたと言う。4男は名古屋
をはなれたが、それでも、5男は辛抱して班長から工場長まで務め退職した。肩身の狭かった四男や大阪、横浜にいた
オキナワ人達は、都会を離れ地方の山中に互いに呼び寄せるようにいつしか、集落ができていた。土地はアラハタ(荒畑)と
地名がついた土地に、豚、ヤギ、一、二頭と僅かばかりの田畑を借り、主食の芋を植えての自給自足生活は困窮していた。
そんな生活も小学4年に母が亡くなり、母の遺骨を持って、大波に揺られ父の兄の呼び寄せで、兄弟親戚のいるオキナワ
の地にたどり着いた。船から港に降り、親戚の乗用車に乗り、道路を並走する金網の芝生に建てられた米軍施設の建物を
見ながら車は走っていった。豊かな別世界がそこにはあった。そんな高揚した気持ちをもちながら、疲れで瞼がくっ付きか
けていると、古びたコールタール、トタン屋根の木造家屋の並んだ場所に土埃と熱風を受けて、車は止まった。
家に入ると多くの親戚だと言う人々が内輪で仰ぎながら迎え入れてくれた。くったくのない笑顔と優しさ、
なんともいえない、なつかしさと、故郷の匂いを感じ、自然に涙が頬を伝って流れ落ちた。

 在りし日の実父(四男)と叔父さん(五男)、2010年 




11/13 フランス、パリ中心部の劇場、郊外の競技場少なくとも6カ所で13日夜、銃乱射、爆発の同時テロがおきた。画像は
窯場の隅に桶に釘鉄を捨てていたものを、陶土を作るためにホサカ氏がひっくり返した錆びた釘の塊と柿。


  

11/30 cop21各国首脳会議がテロ後のパリで厳戒態勢の中開催された。アメリカで9.11が起き、報復後も過激派による
テロ戦争は収まらず中東で続いている。シリアを拠点にゲリラ活動をする「イスラム国」?に先進各国は肩を組んで空爆に
踏み切った。犠牲者はそこに住む子供や住民を巻き込んでいる。地球温暖化による異常な気候変動は熱波や台風、
大洪水となって世界各地で被害を巻き起こしている。住民は住んでいた土地を捨て難民となって先進国に逃れ向かう。
治安が薄れいつしか、テロの活動地になっていく。専門家によるとpm2.5等で地球温暖化が進み毎年気温が、あがって
いたが、ここ数年横ばいに、なっていると言う。これは海水が熱を吸収していたためで、海水は膨張し、かってない
エルニーニョ現象を引き起こすと言う。アメリカの核実験で1946年にビキニ環礁からマーシャル諸島のキリ島へ移住
させられた先住民。今度はキリ島が、海水で水没する事体がおき環境難民となってアメリカに移住すると言う。


  

12/6 昨日までは晴れていたが今日は午後になってから雨が降り続いている。工房の屋根瓦の修理を終え、
小窯の煙突もつみ終えて後は土で周りを補強するのみだ。今のところ窯場は維持管理が当面の仕事になっている。
修繕する箇所は探さずとも次々に出てくる。小窯の煙突なのだが、天井がなく雨ざらしでトタンとカバーで簡単に
覆っていたため、一部崩れていた。窯場屋根から天井を延ばし、煙突も新しく作り変えた。




12/25 小窯の袋内部の修繕を予定していたが 昨日から今日にかけ霧状の小雨はやまず、ズル。スーパーでサツマイモを買い工房
の囲炉裏で焼き芋をし、昼食とした。残した二個の焼きイモは帰りがけにニッケンリースに勤めて退職した同期のK氏にもって行く。
彼はヒガシ恩納三叉路から仲泊に抜ける旧道沿いの窯場に行く出入り口で、今は個人で農機具や重機の修理などをしている。

窯場からイシカワバイパスに向かう道筋のアパートの屋上にソーラーパネルを設置している業者を見かけた。ここ一、二年内に
窯場周辺の空き地、養豚をしていた跡地、ヤギ小屋、当窯場近くの製麺工場においては、建物を壊し、廃業して敷地一杯に
ソーラーを設置しているのには驚いた。一年前太陽光発電エネルギーの買取打ち切りの紙面を見たように思うのだが?