4月に入った。とうとうロッキーは現れなかった。後で買って与えていた、ネコ専用の餌を処分する。
晴陶雨読。晴れ日には、薪小屋に積み重ねた琉球松を、窯場空き地に急いで並べ乾す。
半年前、北部の森林組合から運び込んだ琉球松。攻め焚きで一気に窯内の温度を上げるためには、
燃えにくい松の皮を剥いで乾燥させておかねばいけない。このところ乾く間でも、時間があけば、かまわづ読書時間となる。
松は切り倒して半年か1年目の松脂の含んだ松が良い。最終日の仕上げの攻め焚きには3tは薪棚に積んでおかないといけない。
焚き付けてからのあぶりの時間を3日から5日間に延ばした。その時間帯に、ラワン、モクマオ、杉、アピトン、イタジイ、製材所の廃材
の切れ端し、なんであれ低温度(300℃〜600℃)であぶり続ける薪量3t。窯内袋の温度を上げるための、両サイドから投げ入れる
補助薪(経済連からのバンキ)2t。それと攻め焚き後の窯変(景色)の細い薪半トン。窯焚きを終え、次の窯焚きの薪の準備に、
一ヶ月はかかってしまう、これとても、快晴の日が続いてできることで。雨が降れば、その分日数が延びることになる。スイヒをしての陶土つくり
薪窯の仕事は、壺成形の時間に比べ、多くは陶土つくり、薪の準備に費やされる。その過程の中で、モチーフやフォルムを考える。
ほとんどが身近に接する動植物からヒントを得るのが多い。

  



焼き物の仕事について24年になる。歳も来年には還暦。何をなりわいに生活をしてきたのかと問われれば、焼き物と答えるしかない。
しかし、素直には答えたくない、後ろめたいような気持ちが交錯している。なぜだろう。養母は亡くなるまで、焼き物の仕事に
関しては認めていなかった。年配のしかも明治時代に生をした、養母にしてみれば、ンチャクナーサー(土踏み)=重労働で
ムヌクーヤー(飯の食えない輩)がする仕事だとの昔の印象があって、今や芸術などと言えば、「ウリシ、ムヌクァーリーラ、シムンテー」
(それで、ご飯が食べられるのであれば、いいヨー?)と蔑視ていた。その母の命日が、5月15日に3年忌を向かえる。
「ヌーンチ、アッタルシクチヤミテ、ナンジシクチ、わざわざカメーテ、スガヤーヤー」(なんで、今、勤めている仕事をやめて、難儀仕事、わざわざ
探して、するのかなー)このことは親世代からは、皆同じ意見のようであった。養母が元気な頃、ヘルパーに介護を受ける直前まで
「イッターカイ、ナンジェーシミラン」(あんた達には、難儀はさせない)と言いつつ、食事後、テーブルから離れ杖をついて、
もう一方の手は、食器棚のガラス戸を開けつつ伝ってベットに行き、しばらくベットに腰掛、息を整えてからベットに横になっていた。
そんな気丈な母も気力が落ち、亡くなる数ヶ月前から「ヤーカイ ナンジシミチ シマンヤー」(あんたに 難儀かけさせて すまないなー)
と涙声で言うので、「オカー ヌーンアラン アタイメードー」(母さんこれぐらいあたりまえだよ)と言いつつ、涙で鼻がつまってしまった。
思い出してしまった。

  



5/5 5月の連休に旅をしたかったのだが、計画もないまま、過ごしてしまった。それならばと、図書館より借りた本四冊も、一冊を
読んだだけで、返すしまつ。5月5日快晴 世界遺産 斎場御嶽に行くことにした。


  


  


6/6 展示室改修工事
一週間前より展示室の床を全ておこし、落ち込んで傾いた床下がどうなっているか、土台を見ることにした。工房を建てる前山林の木を
ユンボで倒し、琉球石灰岩の地面を整地した際、2,3の空洞があったので、トラックで運搬した土を念いりに入れ、地固めした。
その土が落ち込んで穴が出来ているのではないかと思っていたが、そうではなかった。床板を載せる土台の角材がシロアリに
食われ、スカスカになっていたのだ。落ち込んでいない箇所も角材の外形は保っているものの、中は食われ取り替えねばいけない状態。
よりによって梅雨時に修繕することになってしまった。他にも直すべき所があり、当分は大工仕事が続きそうである。


  



床を起こす前に、展示室にある壺類をすべて別の場所に運ぶ。これが思いの外、棚の下奥にも量があって、1日がかり。
丸中商会より角材10本、ツーバイフォー(2×4)4本、桟4本、床板一坪を運んでもらう。助っ人を頼もうかと思ったが
自分なりに工夫して大工をすることが好きなので一人ですることにした。雨は梅雨の真っただ中、止みそうにない。床板を全て起こした
際、床下四方に水溜りとヒメハブ一匹を発見、ここからの湿気でシロアリが発生したのは当然、床下の通気ブロックの下の部分、
土台基礎のコンクリーブロック壁の境周辺より溜まった雨水が床下に浸入しており、四方をセメンモルタルで塞ぐことにした。


  
大工仕事のあいまに、前庭で餌を
探すキノボリトカゲを写す。


ほぼ2年程養母の介護で窯場を閉めていた。開ける際に陶工見習を募集し、5,6人看板を見て来たのだが
若い3人は薪窯でも、施釉をする、上焼きがしたいようで、それに焼き〆のたいへんさを聞くにおよび、躊躇したようだ。
あとの3人はまったくの職探しの人達で、こちらから、焼き物の道へ誘う気持ちはなかった。
そんなおり、四市町村が合併し、うるま市と成ったシルバー人材センターの職員が、
薪窯での作陶に興味をもっている人達も多いので軽作業があれば依頼してほしいと
パンフレットと申し込み依頼書を置いて行った。

薪集めと、窯焚きに労をとっていただければと、毎回の窯焚きにはお願いすることにしている。