9/15 ようやくホームページが更新できる状態に復旧する。作業をしていたWindows7のノートパソコンがデスクトップに続いてぶっ壊れ
またしても、あわてふためいてグットウィルに行き中古パソコンを物色するが目当てのものはない((ソフトのバージョンが古くWindows95,XP、
window7、Vistaまでとしか対応していないため)そんなおり、新聞紙上にWindow7の中古安売りの広告が掲載されていた。早速注文
このホームページはやちむんに関する発信であったが今では単なるブツブツ日誌になっている。それにしても20年前のソフトしかも12年前
に会社は無くなり生産停止それでもプログラミングされたとうりに今も動き続けているののが不思議でこちらもビルダー、プログに乗り換えず
つたない文章の文字を打ち込んでいる。

住宅と軒続きのもう一方の建物それに窯場の赤瓦屋根のかわらを載せたサンの2本が腐食で陥没。窯場の方は、
自分で足場を組み修繕していたが、直っている腰痛がでそうで、両方とも業者に修繕をお願いすることにした。


彼岸入り ヒヌカン

9/21 テクテクを終え帰りがけいつもの夕食の買出しにサンエーへ、セットパックされた果物が入り口に並んでいる。彼岸入りかと
気づき供え物と切り花を購入滞りがちだった仏壇に供える。仏壇とヒヌカンには同時に線香をしている。今日は敬老の日。 関係ないと
思いつついつも見ていたカレンダー、まぎれもなく前期高齢者なのだが。改めて暦を見ると大型五連休、シルバーウィーク?だと言う。
住宅と軒続きの建物の修繕が終わった。後は窯場の赤瓦屋根。管理維持に時間を奪われ、旅心も吹っ飛んでいる。



9/25 月日がたてば建物は老朽化する。人間ももちろん一緒だ。台風21号が北西に進路を変え通過する。東北地方の津波被害、
原発の廃棄作業は3,40年は続くと言う。その後も異常気象、集中豪雨で甚大な被害が各地に起きた。後始末も終わらうちに次々に
難題がやってくる。国家予算は人災ににならないよう継続的有効に使ってほしい。台風の進路は先島にカーブして本島からはずれたようだ。
これまで修繕は仲間内でやってきたが台風通過後にいしかわの建築やマルゼンを通してヨナバルの専門瓦職人に工事をお願いすることにした。





9/29 テクテクを終え「ほっともっと」でタニタ弁当を買う、最近は自炊が遠ざかった。週1,2でアワセ漁港からタマンを三枚におろして貰い
飯を炊いて、サシミ、魚汁を定期的に作り食べていたが気がつくとおざなりになっている。かぶらないように買ってはいるが本音は作る時間と
かたずけがめんどうなだけだ。料理じたい嫌いなわけではない。シャワー後、弁当を食べていると、ダイヤル式の固定電話がけたたましく鳴った。

プッシュ式に変えずに黒電話のままなので当人も驚く始末。この時間に携帯でなく固定にかかってくるのは親戚かとの思いで電話を取る。
亡き母方の先輩Tさんからであった。「10月1日は養父の25年忌でしょう。どおするか?」とのことであった。十三年忌を終えてからはまったく考えて
いなかったので、親戚の方からの話に恐縮してしまった。そのことで会食しながら話をしようと言っていただいたが、自宅でうかがうことにした。
親戚の法事に関して手帳に書きとめ気を配っている方で幼い時期に両親を亡くし、わが養父母を親代わりに思っていて存命中はいろいろ相談に
のって、支えてくれた。恩をおかんじているとのことであった。養母も来年十三年忌なので、父の25年忌とあわせて、来年の養母の命日に
一緒にやってはどうかと提案いただいた。お坊さんにお経を読んでもらい親戚には連絡せず内輪にしよういうことにした。


いつもの街が時を刻む。

コザジュウジロ近くの現在の家に住んで半世紀が過ぎている。4年生の頃に内地から帰沖し、そのころ見た街並みの風景は年月とともに
変わった。以前あった湿地や池、畑、野山で、ソミナーの籠や、竹とんぼ、缶けり、ビーダマ、パッチーで遊んだ記憶は確かにあるが、
背景は薄れている。こちらに来て4年生の2学期に編入したが、オキナワ人?と比べるとクラスの中では色白で背は前から3番目で
低くオキナワの親戚からは石豆(イシマーミ)といわれた。両親はまったくのウチナー人であるにもかかわらず、異国の先住民が住んで
いる島へ来たと当時は思っていた。その私が平均身長より背が急激に中学から高校にかけて伸びたのは、牛乳を毎日飲むようにた
からなのかもしれない。養父は配電会社で各家庭を回って集金係りをしていたが、早期退職後自宅の一方通行路に面した自宅の
2.5坪を改造してマチヤグァー(雑貨店)をひらいた。ビンに詰められた牛乳も毎朝ケースで運ばれて、販売していた。、、、、


10/8 イシカワのケンチクヤから見積書をいただいたが案の定リフォームとはいえ、瓦屋根はヨナバルの専門職人に委託されこちらの
はじき出した金額とは大分違っていた。こちらの出せる予算で再度お願いし、難しいのであれば、足場だけを組んで貰えないかと
伝えた。これも難しいのではないか。ダメであれば腰痛も治まったので仲間内で日当をだしてワイワイ楽しみながら大工作業
をしたほうがいいと思っている。再度見積書待ち。


10/16 工事あっての足場組みなのでできないことになった。もっともなことである。歳の近い仲間内3人で鉄パイプを組みクランクで
固定してその上に足場板を載せバンセンで縛る。これまで台風が去った後、何度もやってきたことなので、手はずは早い。




10/23 2015年度「チャリテイー名士寄贈書画工芸作品入札・即売」出展依頼通知が来たので出品する。
会場 大阪市北区の毎日新聞オパールホール 12月12日(土)〜14日(月)の3日間


いつもの街が、、、、、

小学生の頃の養父母の住宅はコールタールカバー屋根の木造建物であった。コールタール屋根は養父が基地内から貰い
受けて建てたとの話しを聞いていた。当時、軍作業で働き、安く提供してもらった資材で家を建てた人々が多々いたと言う。
茅葺の家もところどころに残っていた。トタン屋根も最初は中古のトタン屋根で張り替えられた。釘穴が開いているので
雨漏りしないようペンキを塗って埋めて使用していた。トタン屋根の民家は復帰を境に海洋博にかけて、建築ブーム
でのきなみ鉄筋コンクリートに変わっていった。トタン屋根で生活した頃の印象が一番強く残っている。住宅と長屋との
間に塀があり共同の井戸があった。水は涸れたことがなく毎日頻繁にロープに吊ったバケツて水をくみ上げていた。
小学から社会人になるまで毎日水をくみ上げるのがいつのまにか役目になっていた。炊事、洗濯、掃除、風呂、飲み
水。水道は普及していたが、水不足で断水があるため各家庭には雨水を貯めるコンクリートのタンクが、何本も設置
されて多くの住民は雨水を生活用水にしていた。井戸水が使えることは貴重であった。

小学校に入った最初の頃、周りの浅黒い肌のオキナワ人が時々解らない言葉を使うので怒っているのかと怖かった。
標準語励行と言う教育方針が出てきて、本土から来た私が適任者だと言うことで、風紀委員となり方言札
を持って方言を話した生徒の首に方言札を掛ける役を仰せつかった。方言札をかけようとすると鋭い目で
睨みつけられた。最初に友達ができた時、嬉しくて学校のすぐ側の川で一緒にターイウ(フナ)をとったり
して道草をして帰路が遅くなると井戸のロープを外し、仁王立ちした養父が待っていて、道草の
理由が通らないとロープでおもいきり引っぱたかれた。


  

11/8 先週の文化の日に次女から電話を貰ったが、携帯を車の中に入れたまま赤瓦屋根の補修と漆喰工事を3人で足場を上り下り
連携で作業していてきずかずにいた。代わって翌週の日曜日、長女は仕事がいそがしいようで次女が3男子と長女の1女子を
連れて土遊びで窯場にやって来た。。4孫が一同に遊んでいる、賑やかで楽しい一日となった。
11日には風来坊、かって報道カメラマンのホサカが東京からやちむん塾をねぐらに一週間の予定で来るようだが、、、、。