長い間のほったらかし、更新なしである。薪の準備は全て終わったのだが、助っ人の交通事情(車を所有しない。自転車主義?)
で、体力的にも(70歳)キツクなったのか敬遠しがちになった。それに伴いこちらも電気窯を導入して気楽に窯焚きの心配もいらない
策にでるがやはり薪窯に比べ物足りない。結局はズルズルと窯焚きを先延ばしにするようになった。その間にソチオリンピック、
パラリンピックを時間差で連日眠たい眼で深夜のTVを見た。ソチの開催前、テロの予告の妨害メッセージがあり、心配されたが、
厳重な警戒態勢のもと、無事に閉幕した。世界情勢の不安と呼応するように世界各地で歴史的な異常気象がおきた。


Kおばさんの名前が新聞の告別式の欄に記されていた。Kおばさんの家は、自宅の裏通り、養母の甥に当たる家の、 筋道をはさんだ隣3軒目のセメント瓦家、その真向かいにオオシロのおばさんの家もあり住んでいた。僕が中学生の頃、 すぐとなりに長屋があった。四畳半、六畳、八畳、、に6区分されていて、その一室の長屋に子供たち3人とすんでいた。 長屋は独り者の老婆、その他に4人の中年のゲイシャさん達がすんでいた。ゲイシャさんたちは、中部で名のしれたシンバシと 言う政財界の宴会が催される大きな料亭で働いていた。天井の高い木造の二階建てで、寺のような建築物であった。客を 向かい入れるときには大相撲の初まる前日に叩かれる寄せ太鼓が、開けられた二階の窓から打たれた。当時、先代の朝潮関や、力道山が オキナワに来た際、ここで、宴会がおこなわれている。芸者、舞妓の中には同期の母親もいた。今では、通り沿いの家は 立て替えられ40年も過ぎている。僕の家はシンバシのあった、県道裏の中道、トタン屋根で、隣に長屋があった。今では路の他は すべて変わり、住人が裏道へ移ってから、顔を合わす機会が無くなっていた。その頃の家はコールタールの入ったカーペットの屋根から トタン屋根、セメント瓦、鉄筋コンクリートと移って行った。当時は1セントマチヤグァーが、商店街でもない通りの普通の民家から、 日差しをだし、至る所に店ができ、日用品が売られ、親戚や、隣近所からの買い物で成り立ていた。    画像は窯場内の目についた風景を写しているが、毎年同じ被写体でも違った新鮮感でシャッターを押せる。    午前中は自宅で、電卓で数字を打ち込み申告書なるものとにらめっこした。このまま昼も続けるのが億劫になり、車を出して 窯場に行った。しかし仕事をするつもりはなく、息抜きだ。弁当を道の駅で買い窯場で食べる。工房前の芝生の庭に落ちた 枯れ葉を竹ぼうきで掃き集めホルトノキそばの空き地に堆肥とする。ついでに芝生に混じった雑草と大きく成ったオオバコを 根っこから引き抜く。しばらくして、自宅に戻ってまた申告書作成に電卓を駆使する。生活の糧は10年前からヤチムンから 変わっている。贅沢をしなければなんとかやっていけるようになったのだが。それにともなって、還暦を岐路にスパートをかける気 でもいたが、その歳になってみると、以前の考えも変わってきた。そうこうするうちに、7年も過ぎてしまっているのだ。 3/14 穴窯を小さくしようと思っている。作品を主体に製作していきたい。古酒壷はそれに準ずるようにしたい。  3/20 薪窯を焚こうか、先に電気窯を焚こうか、迷うほどのことでもないが。結局は作品を創出する熱意が薄いことだ。  電気窯での焼成用のドビン、急須。小物雑器は長い間作っていない。 初心に返って、バランス感覚の急須を手が慣れるまで作ってみよう。 3/23 昨夜は11時過ぎの早い時間に眠り、6時に尿意を催し目が覚めた。