12/5 窯場に着く。雨が降っている。2、3日晴れたかと思えば雨、そんな一週間が続くとの天気予報である。作りながら考える達で あったが、このところ、悪い癖がでて、晴陶雨読とこじつけ、怠けている。窓外を眺めると、靄もうっすらと立ちこめて今日は長雨 が続きそうな気配になってきた。弁当は来ながら買ったので、本屋にいきながらついでに、年末ジャンボでも買ってみようかと思い たった。一時5年間、ジャンボを30枚年末に買い続けていたが、千円単位が当たった?だけで、買う気が失せていた。その前に仕事ら しきことをせねばと、足で踏みつけ荒揉みをした赤土をビニール袋から取り出し、菊揉みをする。陶土は揉むには手首に負荷がかかる ほど堅かった。陶土を瓦に載せ天日干しの際タイミングを間違えた結果だ。ロクロに載せ何度もゲンコツで載せた土をロクロの テーブル板上で殴り叩きながら広げ延ばしていく、そして土殺しをしながら底の部分を作り挽く、大物は底の部分から作り、日をおいて 乾かしながら3、4回輪積みして作っていく。



大物を作り続けていると小物の日用雑器を作ることが面倒になってくる。手作業が大物つくりに慣れてしまって、細かい作業
細工物のシーサーもそうであるが、手間のかかるものが、おっくうに感じるのだ。

    
タソガレのヒビ(ツブヤキ、カキトメ)

ナルミ私が生まれた場所だ。物心着いて生活をした場所はアラハタで自転車なのか、自動車に乗ってか、中間地点に競馬場があった。

距離感と位置は脳裏に記憶している。五歳までナルミにいたのかもしれない。靄のなかに浮かび描かれる のは道路のうえに電車の高架橋があり高速電車が「カラン、カラン」と警笛を鳴らし通過していく光景だ。 その通過する電車の音を聞きながら道ばたで遊んでいた。時には電車の通る高架橋のレール側の枕木近くに生えた つくしを摘んだりして親に叱られた。小学生になってから移った山中のアラハタではキノコ、ドジョウ、ザリガネ、 コイ、ドジョウ、ザリガネはカエルのもも肉でコイは芋で夕方に仕掛けて早朝に竿をあげに行く。等いろいろ あったし、学校から帰ると自給自足の生活のためヤギ、ブタの敷き草、食草を刈りにリャカーを引っ張る兄の後 を押して手伝っていた。アラハタでは目一杯遊びがあったが、ナルミではそうではなかった。まだ幼くて動く範囲 が無かったこともある。わりあい町のなかか自宅のコンクリートの坂を下りると大きな道路があってその道路の斜め 上に電車の高架橋があった。一度マーブル遊びを一人でしていて坂道を転げ落ちていくマーブルを追って道路に 飛び出し、危うく大惨事になるところ、通りがかったよそのおばちゃんに抱きかかえられ難を逃れた事があった。 それを見た周りの人は大騒ぎをしたが、当人は自覚の無いまま、キョトンとしていたと言う。しかし額の中ほどの 無効傷は痛みは記憶にないが、落ちる瞬間の怖さが少々のこっている感じがある。親から聞いた話で母が使っていた ミシン台の高さと窓の高さがちょうど同じで腰掛けから登って窓の外の尖った石に額を打ち付け額から出血。僕を見て 父は驚いて血を止めようとたばこを積めた。血は止まり病院に運んだが、毒であるタバコをつめた父はこっぴどく医者 から怒られたと言う





今年は細工物シーサー等を作っていこうと思う。シーサーを作り始めると手が慣れてくるので何点か多く作ることになる。10年ぶりにシーサーを
作るのかもしれない。ということは、10年間古酒壺を作っていたことになる。おかげで限られた古酒マニア、泡盛の収集家が窯場にくるだけに
なったが、こちらも割り切ってそのほうが良いと思っていた。焼き〆の魅力の窯変の大作が古酒大甕で表現することができるため、大甕を作れる
うちはそうしようと思っていた。窯変(景色)は薪窯でないとできない。そういう意味で薪窯で焼き締めにこだわっている。昔形式の非効率な穴窯で
焼成することは、時間と人手を要しそして体力をようする。窯焚きは一週間、10日間も焚き続けなければいけない。体力のある若いうちは
当たり前のことで、かえって体を駆使して窯を焚きを得る疲れは心地よい快感であった。還暦を過ぎてから、窯焚きに負担を感じる。若いスタッフ
の助っ人が必要だ。


    


タソガレのヒビ(ツブヤキカキトメ)

土をいじって創作をする一方これまでの生い立ちもカキトメたい気持ちもあって、ヤチムンの本来のホームページではない独り呟きの
ページになってしまいそうだ。もちろんヤチムンはマイペースでゆっくり創作していくつもりだ。土をいじり、作品を作る行為は作り出すことに
夢中になって手を動かすことはすきなのだが、手作業をすることのDNAは先祖から受け継いできているように感ずる。祖父母はアワセで
布団作りをしていた。稼業を引き継ぎ長男のもとで兄弟一緒にやっていたが、うまくいかずに皆稼業を離れて出稼ぎにでて、それぞれの
道を模索しながら生活の糧を得ようと必死になって働いたようだ。