10/10  2人の助っ人を頼んで台風16号で被害のでた家屋の修繕やいたるところに散乱した木枝のあとかたずけを、
一週間かけてする。工房の赤瓦屋根のてっぺんと、北側の屋根の一部が軒先から剥がれおちたため、まず、軒先の柱を
使って足場を組む作業を先にする。てっぺんはロープ無しでもバランスをとって修繕できるが、足場を組んだ軒先の上の
せーいぱい手を延ばしても届かない部分は、屋根にのぼるしかない。歳とともに、勾配のきつい屋根で、すべりおちそうだ。
ロープを反対側の柱にかけていのちずなを引っ張る。そのロープを左手で持ち右手にセメンと漆喰の入ったバケツを持って、
漆喰のはげ落ちたつなぎの部分の瓦に塗りつける。助っ人は自分より2人とも年上なのでこちらが屋根の上に登らざるをえない。

16号台風は北風が強く吹き返した。風が吹く前に電力会社が電線の保護に延びた枝を今回は相当念入りに切り尽くしたので、
北側は草木が、きれいに無くなり風も強くあたった。窯の壁板に張り合わせた寄せ集めのトタンが、見た目に見苦しくなったので、
電柱を立てて防護網」で囲うことにした。そうこうしているうちに台風21号、22号がフィリッピン近辺で発生していると言う。



10/22  日曜日の昨日65歳の誕生日であった。その日に保険庁に提出する年金請求書類を記入する。 翌日社会保険庁に出向き受け付けをし、順番を待つ。窓口では間に衝立が設置された席が15席ほど用意 されていて、個別に職員が対応している。人は多いようであったが、一時間程で順番がきた。この15席 の設置は団塊の世代の臨時の処置なのか、急遽設置したプレハブ教室と一緒だなとフと思った。昨日年金の手続 きを終えホッとし、久しぶりに自宅を掃除、車も洗車機を通して、11時に窯場に向かった。窯場近くのイシ カワバイパスで走行中に突然エンジンが切れる。反射的に車を路肩に寄せ止める。チクショウとうとう来たか の思い。車は26万キロを走っている。車検は今年の誕生日に切れるので中古を買い換えようと思っていた。 しかし、一年の定期検査での整備を車検と勘違い、古い車は、一カ年車検になっているのかと。登録書を確か めると来年の期限。儲けた思いで安堵した。その翌日の出来事である。毎日5時後に運動公園で歩いている 時間が前倒しにやってきた。故障車のピカピカを表示(ハザードランプ)して、車をおりた。 いつも軽やかに車を飛ばすハイウェイをテクテクと歩く。窯に入る手前の修理工場の親方に事情を話す。 レッカー車で牽引を携帯から電話をしてくれた。早速車の元に引き返すとすでに車をワイヤーで引っ張って レッカー車に乗せている最中であった。持ち主を確認するや、工場に運ぶと言う。てっきり、電話をしてくれた 親方の工場とおもっていたが、レカー車の主の工場であった。以前薪を頻繁に運んでもらっていた製材所に 近いヤカの海岸沿いにあった。工場のトタン等の錆などから、老舗の修理工場のよう。車は満車だが、閑散としていた。 レッカー車で運んできた人が社長のようで、事務所に入るなりデスクに座ったので、台車をお願いし、車の修理工の元に 行った。オーバーヒートだと言う、計器は見ていなかった。水蒸気も吹く様子もなかったので、きずかなかった。 たまにラジエーターの水タンクはみるが常に一杯水で満たされていた。ラジエーターの上部の周辺のひび割れでエアコン のガスが多少漏れているのはしっていた。しかし水は漏れていず、冷房を使わなければ、後一年は大丈夫でしょうと、給油所 の店員が言っていたので、安心していたのだが。その日はラジエーターからエンジンへの冷却するホースから水が漏れ カラカラになっていたのだ。オーバーヒートの蒸気らしき兆候もなかったので、きずかず計器をも見ず、路肩に止めた後、 カギを回し続け、お手上げの状態で、車を降りた。 10/29  昨日はゴエク中の6回目の同期会であった。4年に一度オリンピック・イヤーで開催することになっていたが、 還暦を過ぎてから人生の先行きを焦ってきたのか、今年から2年に短縮された。卒業記念のアルバムを開いてみると、 8クラス。一クラス50人前後で400人。コザ中から分校して、新設校で我々は2期生である。会を重ねるごとに亡くなった方も 増え(会を終え11/20に送られてきた各クラスの集合写真とクラスの名簿、住所と電話番号を記入した用紙に故人名39人、 先生12人も記されていた。)集まりが年々少なくなり、今年は先生方が3人、同期が95人の出席であった。同期会の前夜、 K氏が缶ビールを持ってやってきた。ついでにとブンガク賞をとった小冊子も置いた。定価500円で同期会で販売も するらしい。幹事の引受人がいなくなるなかで彼を中心に会の準備をし、三味線と流舞のできる連中が集い話をすすめて きたようだ。舞台では三味線と流舞のかじゃで風の演目で幕開け、最後はカチャシー。ヤチムンをするようになってから いつのまにか、アウトローの生き方になってしまった。チュウガクの時は三年間いちおう、級長をした。なにかとクラス会 には携わってきた。同期会においては、何も参加しないよりはと、スナップ写真を撮ることを、その日監事を引き受けた K氏に申し出てしまった。撮ることに関しては、常に窯場に行く際、カメラを持参しているので、ほぼ三日とあけずに、 撮ったり削除したりを繰り返すだけのデジタルカメラを愛用しているので抵抗感はない。アナログと比べ、電池を交換する だけで、費用はほとんどかからない。フィンダーを覗き同期を撮る。若かりし頃を思いノスタルジイ?を感じる。同時代 を共有し、歩んできた連帯間があり、安心するが、多くが、退職をし、一線を退いた男子の顔は寂しげである。高度経済成長期 のまっただ中でウーマンリブなる言葉も生まれ、男女雇用機会均等法が施行された。女子も男子と同じように仕事をしてきた 連中が多い。また、その年に沖縄が本土復帰した。男子の無気力に陥った顔に比べ、ウチナーチュ特有なのかあの堂々とした こしのすわりもちろん体型もそうなっているのだが。男子に比べ女子の笑顔が爽やかだった。今年からいやおうなしに、 同期生は世間で言う高齢者となる。





琉球南蛮花器

11/7  「チャリテー名士寄贈書画工芸作品入札・即売会」への作品を出品する。
12月8日〜10日の3日間 大阪市北区 毎日新聞オーバルホール 桐箱も自作

11/10  蒸す
食事を作るにあたって、蒸すことを非常に重宝している。と言うより、なんでも素材を蒸せないかと先に考えて作っていると
言ったほうがよい。しかし、こだわってはいるがちゃんとした蒸し器をもっているわけではない。2人用の柄のついた鍋に落としぶたした
旧式の簡単なもので、作る量も手ごろであるが、先に鍋物や、カレー等を作った後、多種類の野菜等が残ってしまう。そんなときにすべてを取り出し
蒸すのである。窯場の囲炉裏で焼いた焼き芋冷えたら、これほどおいしくないものはない。
蒸すことで下からの蒸気で、復活、IPS細胞のように、初期化?するのだ。?




11/17  窯場の中央にホルトノキの大樹が鎮座している。80年〜100年の樹齢の木と思われる。台風の度に枝に被害を受けている。 工房や窯を造るために、当時こんもりと生い茂っていた森の木々をユンボで倒し、空間を切り開いた。その時に残したこのホルトノキ は天に延びた見事な三本枝の大樹と思えたが、何の弾みでか、ユンボの運転手が一本の枝を引っかけてしまったのだ。まことに残念で、 痛々しい結果に悔やんでいたが、作業者を責めてもどうすることもできない。さすがに、ユンボの運転台から無言で降り、ホルトノキ に手を合わせるや、いたたまれなくなったのか、呆然となった私に一礼し、足早に帰ってしまった。      タソガレのヒビ 11/18 神社や寺、ダムとなった池は昔のまま、そのままの姿で残っていた。住んでいた家の跡地には今風の家が建っていた。 50年も経つと言うのに、この周辺は、少し離れたダム近辺に団地ができたものの、田畑の隅に、以前と同じようにまばらに家が 点在しているだけで、雰囲気は以前と変わっていない。自宅のあった建物の隣に一軒だけ昔のまま、建物はかわっているが、いまだ に住み続けている、ガキヤさんがいた。生まれ地は山村を下りた近町から二駅離れたナルミで生まれたが、物心ついた頃から小学4年生まで をアラハタで過ごした。先に訪ねた養父や叔父さんから変わったことを伝え聞いていたので、行く機会は何度もあったが、変わった 跡地を見ようとは思わなかった。しかし、親の世代が皆亡くなった今、フツフツと見ておきたい気持ちが湧きおこってきた。ネット から4年生まで通った小学校の近くのホテルを検索し宿を決めた。そこから、タクシーを乗って、運転手にアラハタと地名を言って探した。 アラハタ、荒畑と書く。土壌が悪いのか、荒れた土地と地名されたこの地に、オキナワ集落が当時点在してあったのだ。来てみてたしか に変わってはいるが、どこもなにも変わっていないようにも思われた。そこには昔の風が吹いていた。「ガキヤさん、ガキヤさん、、、、」 と呼んでみた。番犬が勢いよく吠えたてた。しばらくして家の奥から、「何用ですか」と髭を生やした面長の男がでてきた。 「昔、隣に住んでいたトウハマです」と言うと「ああ、、」と言うなり直ぐ頷いてくれた。「ほんとに、懐かしいですね。」「それは懐かしい でしょうが」「ノボル君はげんきですか」と聞くと、彼は今トヨタで仕事をしている。月に一度帰ってくるだけだ。君の兄貴は良く出来たね。 などと話、「今日ナハから親戚の叔母さんが来るんですよ」と言った。過去と現実が一瞬重なって、固まったまま立ち往生していると 犬がまた勢い追いよく吠えたてた。犬の方に振り返り、振り向くやいいかなと言うように、招き入れる様子もない。巻き戻した思い がたち消え体は軸を失ってしまっていた。なんとか持ち直したが、あとの言葉もないままそこを後にした。 クツカケ小学校へ行ってみようと思った。カスヤ先生とコンドウ先生の顔が浮かんだ。通学をした道を歩いてみたかった。ゴミ山を越え 、 墓地を越え、寺、池、田畑を通って川沿いに下っていくと小学校が見えてくる。車道のはしの歩道をまっすぐ歩いていくと学校にたどり ついた。運動場の位置と教室の配置は木造からコンクリートの建物にかわっていたが、おなじであった。終業式や、文化祭、朝礼、体躯、 健康診断などすべての行事がおこなわれた木造作りの大きな体躯館もコンクリートの館にかわっていた。 一階段上にあった思い出の教室に行ってみようと、今日は日曜日なのか、閑散とした職員室らしき教室に行き、 「ここの生徒でした。教室を見学したいのですが?」と職員に、学校を一回りする許可を貰った後、変わったであろう建物を探し 行ってみた。そこには教室の壁に建築された年号が書かれた札が張られた一棟の木造教室が残されていた。 小高いどてになった松林と教室の間の芝生の中庭には昔のままに百葉箱が佇んでいた。 帰り際に、職員室でお礼を言いながら4年生の時の教室ですというと、老朽化で一年後に 新校舎に建て替えられると告げられた。