ウオーキング




     ジャージのポケットから携帯を取り、時刻を見た。12時32分になっていた。途中でトイレに入ったので5分程遅れた。アスフャルト歩道の端に
     3,4,5キロと矢印が並んで線引き表示されたウオーキングコースが芝生と雑木林をぬって通っている。5キロの同じ区間をもう五年近くも歩いて
     
     いるので、決まって、費やす時間が一時間弱の5分前後に、駐車場に辿りつく。違っても1、2分程度で体調の良しあしである。3キロを過ぎたあたりから 
     上半身の肌着はグッショり汗を含み、野球帽を被った頭からも噴出した汗が耳もとから流れ落ちる。仕事を終えてから、荷物を自宅に降ろし運動着に着替え、
     
     一時はジョッキングもしたが、息切れがした。走ることに負担を感じた。あきらかに体力が衰えている。無理して走ることはない。歩くだけで十分体力
     を維持できる。と言うことで、5年前より不定期に歩き2年前より土砂降りな雨の日以外は、毎日歩くようになった。多少の雨は傘を差して歩く。毎日、
     毎日ただ、歩く。歩くことだけを、日課として、続けている。歩くことが仕事である。継続の芽を摘み取らないよう、今では必死になって歩いている。

     歩くことで答えを探している向きもあるが、いまのところ、健康維持が第一。「そのために歩く」が答えだ。仕事を終え毎日5時後に歩いていたが、還暦
     をすぎてから、朝早く起きるようになり、朝に切り替えた。朝食を済ませ、8時に自宅のコザ十字路から、K高校の坂を下り、海に面したアワセ運動公園
     へ向け車を走らせる。いつも止める東口公園駐車場土手下には、ヒヤゴン湿地帯がある。マングローブ林が繁茂し、陸と海との潮の干満で、小さな多種類
 
     の生命がそこで育まれ、渡り鳥の飛来する貴重な箇所になっている。6月に入って、県高校のテニス試合が始まったのか車体に中部の高校名(ヨミタン、
     トミグスク、フテンマ、キュウヨウ、ミサト、チュウブコウギョウ、、、)の入った多くのバスや乗用車が駐車していた。公園入口駐車場には、満車の看板が
     立てられ、誘導員が入ってくる車に指示をだしている。その日はだいぶ離れた場所に駐車をした。昨年から急ピッチでテニスコートの土が入れ替えられた後、

     コート周辺が慌ただしく整備されはじめていた。歩き始めのコート左斜面には、分厚い鉄骨で組まれた梁にV字波の厚いトタン屋根が乗せられ、溶接され、新たな
     観覧席ができあがっていた。6つ並んだコートは金網で囲まれている。金網で囲まれたコートを見ると、どうしても先に米軍敷地内の境界の金網になってしまう。
     
     高校総体の硬式テニスの試合が始まっていた。溌剌とした若者のラケットで打ち合う球が、各コートから小気味いい音になって、白球が飛び舞っている。
     掛け声と拍手、強烈な光線をも和らげる声援が何処もかしこから飛んでいた。
      
     公園内のウオーキングコース歩道には雑木林が道沿いにつらなっていて、ときおり名札が付いた木々も見かける。
     モモタマナ、ソウシジュ、アコウ、ガジマル、リュウキュウマツ、オキナワキョウチクトウ、ナンキンハゼ、黒檀(クルチ)、サルスベリ、アカギ、クワノキ、
     福木、ホルトノキ、サンゴジュノキ、ホウオウボク、ヨウテイボク、デイゴ、、、

     歩き始めの補助競技場のテニスコートを過ぎると、サッカーコートが見える。公園内には、白い花のオキナワキョウチクトウが多い中で、土手の松林の間に紫
     のキョウチクトウが咲いていた。中学のころ校門を入った校舎前に築山を造園業者が造っていて、その場所に紫の花が咲く夾竹桃が植えられていた。
     
     急激に人口が増えた団塊の世代。学級数が満杯になり、急きょ学校を新設、プレハブ教室の仮教室で授業を受けながら生徒もいっしょになって、花壇作りから
     運動場整備など教師と共に学校作りを、生徒も手伝っていた。造園業者が運んできて、築山の背後に植えたキョウチクトウの木を、各々クラスの花壇と築山の水
     当番を、交代でクラス順におこなっていた。

     中間地点で時間を確認する地点がある。歩き始めてから、25分経過地点だ。ちょうど、公園内の中心部を、90度蛇行して通る地点。コース
     右側に錦鯉が遊泳、手漕ぎボートが乗れる池がある。左側は小高い丘になっていて、遠見台と、ユリ園がある。その丘の下方に、砂岩を削り取っただけの墓が山の           周りに多数並んでいる。実はこちらに、ムトーヤー(本家)の墓があり、堤防沿いに向かう途中の半円をまわったところに、門中の墓もある。だからといって、いつも気に

     留めてウオーキングをしているわけではなく、コイの跳ね上がるのをみたり、時々マガモの親子がコースを横断する。季節に咲くオクラレルカ、サガリバナ、極楽鳥花
     (ストレチャー)に気をとられたり、砂岩の丘にはユリ園があって、一面にユリが咲く。しかし、地形上からパッとしない。季節に咲く草花を感じ歩いていると、忘れて
     しまうことが多い。通り過ぎた後にハッと気づき、手を合わせたりする。8年前仕事を休んで2年間養母の介護をした。養母亡き後、アワセの運動公園をウオーキン

     グしながら四国巡礼を考えていた。ムトーヤー(本家)の墓がこの近くにあるとは解かっていたが、まさか公園内のウオーキングコースにあるとは思ってもみなかった。
     墓は公園内に取り込まれていたのだ。歩いているうちに発見した。しかも、一門の墓もコースにあるものだから、これもビックリであった。
     これは、何の縁もない四国巡礼より、ウオーキングでも毎日こちらを歩き続けたほうが、供養になると思った。ムトーヤーの墓は養父母の兄弟達が健在の頃は、

     金網の張り巡らされた米軍基地内にあって、高校の頃までシーミー(清明祭)や旧盆に、ガードマンから許可をもらい、親戚の子供達と一緒に基地内にはいって、
     墓周辺の草を刈り、墓掃除をした後、手を合わせ、浜下りもした。戦前、かってアワセの集落があった場所で、強制撤去後、鉄塔の立った通信施設に
     変わり、墓だけが残されていた。季節になると金網をくぐって、手を合わせていたが、各家で仏壇を持つようになり、ムトーヤーの墓掃除は途絶えた。
     返還後、跡地使用もなく長くほったらかされていたが、軍飛行場跡が県運動公園に、通信施設跡は一部を除き土地区画整理後、住宅地となり大きく変わった。
     
     資料によると、アワセ飛行場は1945年5月1日、米国海軍により着工。1520mの滑走路を持つ海軍専用の飛行場として7月に完成。同年9月に
     本格的な運用が始まる予定であったが、日本敗戦の為、一部を残し、放棄され、1977年3月に返還された。

     長年通り道であったオキナワを台風は避けて通るようになった。そんな警戒のうすれたなかで、瞬時に台風2号が通過し、強風で公園内の多くの雑木が倒された。
     3日間は、ウオーキングコースの全域で、歩けないほど木が倒れ園路を塞いだ。そんな中でも到木を飛越し、ウオーキングをした。台風が去り、公園管理を
     担っている農園業者が3日間をかけ、チエンソーで到木を伐り片付けていた。
     
     その後、ジョッキングをする歩道上で測量が始った。アスフアルト歩道の両端の部分と地割れのできた部分に白線が引かれ、園路の弾性舗装工事が始まった。
     カター機でアスファルトが切られ、地割れた部分が取り除かれた。その後、新しくアスファルトが埋め戻された。これで終わったなと思いきや引き続き
     新しくなったアスファルトの端もカッター機で、溝が掘られ、?と思ったが、ゴムジュウタンの打ち止めだと後できずいた。
     
     アスファルトの上に接着材の一斗缶と橙色の赤瓦を砕いたような粒の入った袋が順次に歩道端に並べられ置かれていった。新しいアスファルトの上に鮮やか
     なジュウタンを敷き詰めた歩道ができあがっていた。新しくできた歩道はすぐに歩くことができた。 芝生、葉緑とのコントラストが美しい。
    
     「不審者には気を付けて」との看板がある。彼のことなのか、公園内に島サバをはき、煤汚れボロボロの衣服を着た放浪者が一人定住している。ウオーキング者
     と同じ道を他人を気にすることもなく、ゆったりと一人異次元の世界を歩いている。決まったベンチで片腕に頭を乗せ寝転がっていたり、池に面したベンチに腰掛け、
     瞑想している。レクレーションコースに設置された拡大鏡に自分の伸び放題の髭図らを大面鏡に写し、歯をむきだしにしたり、髭をひっぱたりしている。
     ウオーキング者達は、皆気にすることもなく通りすぎる。 
       
     ウオーキングしながら聞くミニラジオから原発の収束がいつになるかとの国会答弁が流れている。地震後に起きた未曾有の津波の災害で、大きな爪痕が残った東北地方。
     かって喉かな町並みが広がっていた海沿いの集落は、道路だけが見え隠れ、車が何台も折り重なり、船が家屋の上に乗っかっている異様な風景。いたるところで瓦礫
     となったゴミが集積、散乱した光景に変わっている。何度もTVで放映される映像が、網膜に焼き付けられてしまった。3.11から3か月も経っているのに、
     ゴミの山はかたずけられる見通しがつかない。道路が破壊され食糧が運べない地域もまだある。即急にやるよう議員が訴えている。
     

     堤防付近のコースコンクリート下の堤防にモンパノキや、ハマユウ、海沿いの砂浜にはグンバイヒルガオのうす紫の花が延びたツルにつらなって
     多く咲いている。岸辺沿いのコーナーに、2個実を付け信号機のように立っていたアダンは台風2号の突風で飛ばされ、茎は傾いたままであった。
     堤防を越え干渉の海辺に突き出た運搬車道の桟橋が、何処までも続いている。二十何年もの長い月日をえて、敷設された埋め立て用のダンプ道である。

     土地返還前のアワセは、地図で見ると、海岸線にかけて親指ほどの突き出た小さな陸地に、米軍の飛行場、通信施設があり、スッポリ包みこむ形で金網が取り囲んでいた。
     中学生の頃、一部解除されていた飛行場跡地から網を超えて施設内に入った。海へは行かず、池になった場所でミミズを餌に魚を釣りをした。
     銃を持った米軍の監視人は、黙視していた。当時の面影はヒヤゴン湿地帯が僅かに残っている程度である。
     

    
     7歳のアキと返還された米軍跡地から、車を入れ海岸近くに車を止めた。金魚を丸いガラスの金魚鉢でかっていたが、自宅2階玄関前の、空いたコンクリートのスペースに
     池を作り、そこに金魚を移すことにした。ブロックで四方を囲い、セメンで固めている内に、上の囲いは石にしようと、娘と二人してアワセの海岸に石を取りに行った。
     5時をすぎているがまだ太陽の光線が強く体から大粒の汗がしたたりおちた。アキは形が良くて大きな石を落ちないよう腰を屈めながら息を切らし運んできた。
     
     10個ほど車に乗せた。多すぎるとまたもどさねばいけない。暗くならないうちに持ち帰って早く池を作ろうと急いだ。運んできた石を
     ブロックの上、四方に積み置きセメンでかためた。台所で「カタカタ夕」と食事の支度をしていたヨウが、4歳のフミと玄関口を出て見に来た。
     「これ、アキが作ったんだよ。これ、お父さん。」「アキと父さん、二人で作ったんだ。よかったねー。」と言うなり、手をはなし、しゃがみこんだフミをおいて、

     ヨウは台所に戻って行った。「お父さん、水入れて、早く金魚入れよう。」「ダメダメ、1週間ぐらい水入れてアク抜きしないと、金魚死んじゃうよ。」死んだら
     かわいそうと言いながら どうしたらいいか、アキは考えているようだった。出来上がった池に水道水を入れみたした。アキはあきらめたのか、ホースで水を入れ
     るてる間に、玄関横の靴箱の上においた、金魚鉢に入っている金魚に、話しかけていた。池に水を入れ居間にに行くと、切られたスイカが盆の上に乗っていた。
 

     
     堤防近辺では、大きな木もなくモクマオが数本倒れただけで、オオハマボウ、クァヂサー、の葉がおびただしく歩道に散乱していた。歩いているさなか、
     一瞬に東北地方の光景が脳裏に映った。
   、、
     飛沫を挙げた波が突然襲いかかってきて、逃げきることができず、波にさらわれていく自分を思い一瞬足がすくんだ。この一帯から
     津波を逃れて、高台に避難できるだろうかと思った。歩く速度が速まり、襲いかかる波を背に走り出してしまった。

     3.5`地点に鉄棒。足を掛けて腹筋のできるステンレス棒が着いた台、平行棒、うんてん が設置された広場がある。そこで、筋トレを10分程する。
     その後残り1.5キロを歩き終える。終着駅だ。。。太陽光を遮断した分厚いコンクリート梁屋根下の休憩棟のベンチにひっくりかえる。
     ガッシリとしたトラバーチンのベンチは背中にヒヤリと石の冷たさを伝え、火照った体の熱が吸い取られていく。海からの潮風
     を体に受け微動だにしないまま、しばらく、グッタリと数分であったか、十数分であったのか、眠りこけた。目を開けると
     


     猫がアスファルト歩道から盛り上がった芝生のロータリーの上で頭をこすりつけひっくり返っては遊んでいる。他にも2,3
     匹いて有らぬほうを見ているもの。まっすぐこちらを見ているもの、おもいおもいのなかに、それでも統制のとれた全体の動き
     
     をしている。猫や犬に餌をあげないでとの、立て看板があるが、朝、夕がたに、トレパンを着た30代の女性の輩が
     自転車のハンドルに釣り下げたポリ袋から躊躇なく市販の固形物の餌を与えている。定期的に与えているのか隠れて見えなかった

     猫も催されるようにぞろぞろ集まってきて餌を食べ始めた。女性は猫に触れるのでもなく、すぐに自転車にまたがり、次の場所
     に向かった。猫は程よく肥えていて、皆、毛並みがいい。起き上がり、しゃがみながら一匹の猫に手を差しのべ近ずいた。上目ずかいに見ながら、
     後ずさりして逃げ、遠くからじっと見返してきた。