1/12  恩納村フェーレー岩を通りマエダの一里塚。琉球王府時代から明治にかけて、使用された主要道で、旅人の目安とされた。
フェーレーとは盗人や追いはぎのことで、400年前、宿道を歩く人々の荷物を岩の上から釣り上げて盗んだという、多幸山」の険しい山頂
と言うが、今は緩やかな登り小道となり、フェーレ岩、一里塚までは、舗装され、奥はガタガタの土道になり、行き止まりになっている。
その時代の古道からして、昔の喜名焼きの土ではないかとチネン村のK窯元は言う。N氏の交渉のもとトラック2台分を急遽窯に降りて行く道に
ブルーシートを敷き降ろした。うるま市のシルバー人材センターに電話をし、2人派遣してもらい、定位置の赤土置き場に一日がかりで積み上げる。
後は壺つくりと、薪の確保、合間に赤土の陶土つくりだ。陶土作りもシルバーセンターにお願いしようと思うのだが。陶土つくり、薪の整理にしても、
今後はすべてにおいて、応援人を入れてゆっくり、時間の制約なしに、楽しみながら仕事をしようとおもっている。



  


2/20  時の歯車を刻み、自然がたしかな音をたて移ろっていく。咲く順序はどおなっているのか、最初に咲いた花の花弁は皆落ち、分かれた枝のいよ
いよテッペンの膨らみから、帽子をとり顔を現した。見るからに神々しく、花弁に木綿のような質感がある。ネットで検索するといろいろ出てきて、感じたまま
に、関連性で白無垢の花嫁と検索するとなるほど、なるほど、やはり出てきた。そして、原始時代から形状を変えず、恐竜時代の地層化石から発掘
されることもある。とも、ヒカゲシダと一緒だ。面白いのがつぼみの先が必ず北を向くので、方向を支持する「コンパスフラワー」と呼ばれているとも。

 アワセのリハビリセンター施設でリハビリを受けながら過ごして4年になる。先週の木曜日に緊急の電話が入り、ちゅうぶの病院へ駆けつける。誤飲
による肺炎で入院。一年前にも同じように電話が入り、回復して一週間で退院してかめのさとに戻った。高齢者は急に熱発したり、カゼで発熱
や誤飲があると、救急車で総合病院のICU(集中治療室)に運ばれるよう、手配がされている。時間を作っては病院に行っている。


  

  3/4  もうやがて生まれるであろうと思いながら。次女に、電話をいれる。「ねいちゃん、まだか?」と聞く、「生まれたら、連絡するよ」とのこと。今日は
沖縄で言う三線の日、この2,3日また冷えこみ、日差しがでるが、雲に覆われたりで、寒い。三線、毎日は弾く練習をしなくなってしまったが、今日はラジオに
合わせて弾こうとラジオからのチンダメをするが、何時もと違う音色のチンダメで、出だし最初のかぎやで風は躓き、途中から合わせるが音程が変?





3/14  一昨日、日本東北でM9,0の地震が起き巨大津波で沿岸部の各県で未曾有の被害がでた。安否がわからない、行方不明者が1万人を
こえている。週末の土、日、TVに釘図けに見入る。申告を商工会議所で終え、PM4時前運動着に着替えワオーキングのため運動公園に向かっていた。
車内のラジオでは耳にしていたが、娘から携帯に電話が入った。ワオーキング場所は海岸通りになっている。今日はいかないほうがよいとのことで、引き換えし、
TVを見る。未曾有の大津波。このようにTVをみたのは、2002年の9/11以来である。地震、津波による自然災害だけでなく、東海村にある原発事故で
放射能の人体への影響から、安全のために、住民移動が強いられた。幸い沖縄では津波は一m弱の水嵩ですんだ。

国を守ると言う任務から自衛隊員は志をもって責任を追行している。このときばかりは、原子力の電力会社の保安協会の人々携わるあたりまえの仕事
とはいえ、我が身を危険に晒して、任務を続ける。消防職員にしても、放射能被爆の危険を覚悟で仕事をする姿勢は頭が下がる思いがする。


  


3/16  原発の事故は、住民にますます混迷を深める様相。津波による被災者の人々も大変だ。読谷からダンプカーで運び込んだ原土の赤土のスイヒ
もタンポポの花を見るのみで、やる気がおきず、パソコン上のライブから津波被害や原発事故の状況を見続けている。窯場からの帰りにアワセ漁港パヤオの
食堂で魚汁を食べに行く。漁港につながれた漁船にそれぞれ黒旗が風にぷかれ揺れていた。