6/12  5本植えたコーヒーの苗木は、毎年細々と、やっとこさ、50センチ程にしか成長していなかった。土壌が合わないのかと思っていた。
その後2度の台風で、一本だけが残り、あとは皆枯れてしまった。ところが、残った一本が一昨年から息を吹き返した如く急激に成長し、
花が咲き実を付けた。昨年の実の収穫は68個。まだ焙煎しないで抹茶碗に炭といしょに入れ置いてある。今年、一度4月に花が咲
いたが、あきらかに花数が少なかった。これはまばらにしか実が付かないなと案じていた。しかし、花のつぼみに似た粒がまだ多く
残っている。新葉になる粒もあって、後は葉になってしまうのかと思っていた。ところが、2,3日見ていないうちに、白い花の蕾に化け
ていた。翌日窯場に行ってみると、ほのかに香水の匂いを漂よわせ、各々の枝に雪が積もった趣で、ぎっしりと白い花が咲いていた。
本来、順調に成長していればあたりまえのこととして見てしまうが、5,6年も経て、最初の花が咲き実が付けば、思い入れが違ってくる。
時たまバッタが花をかじっているのを見つけると、指を丸めおもいきりハジキとばす。今でもグングン成長していて、高さが2メートル
を超えた。自家焙煎したコーヒーを、アメリカ開拓民当時のスタンダードなコーヒーポットで入れようと思う。沖縄ではアメリカ世ーの
金網の向こうの暮らしに憧れていた。今ではレトロとなった、ジュラルミン製のコーヒーポットである。

  

 
6/20  石川バイパスが開通して5年、自宅と窯場との行き帰りが、すごく楽になった。物事は能率的に進めて行くことが最もだが、
薪窯たるものはなんだ、窯とて、効率的に焼き上がるよう改良してきた、縄文土器が焼かれた時代から原始的な穴窯で生活陶器が
焼かれるようになり、その窯が登り窯に変わり、灯油窯、ガス窯、電気窯とより楽に、効率的に簡単に焼けるように窯は変遷してきた。
しかし、美の原点は古にあるのか、古の美を追い求める。安土桃山時代に焼かれ、生まれた志野、黄瀬戸の抹茶碗が最も良いとされ
昔からの登り窯、穴窯で焚く。味わいのある陶器がその当時の薪窯で生まれるのである。体力のあるうちは、いくらでもはねかえせるが、
ここで葛藤するのみである。晴れ日が顔を出す。梅雨時が終わったわけではなく、台風も来る時期である。窯場の土間のる工房は先
日の雨で地面下からの湿気が残っている。真夏の雨後の湿気は、天然クーラーとなって、気持ちよいものだが梅雨時の湿気はじっとりと
体にまとわりつき、うっとおしい。窯焚きは7月に入ってから焚くことになった。
 

  


7/1  慰霊の日が終わった。沖縄においては、公式行事の最も大切な日である。慰霊の日から梅雨明けと例年から言われて
いるように、晴れ日が続き、日射しが強くなってきた。6/30(土曜日)7月中旬、窯焚き予定の古酒壺の小物を急いで作り天干
しをする。午後より一袋を貸し窯として、窯焚きをすることになったK氏と、窯焚き前にひび割れ等の窯の修繕と内塗りの、前兼久土
を採取するためにヤマアッチャー(山歩き)をする。以前採取した耐火度の強い前兼久土の場所を探せず、新たに、思しき場所を、
鍬で掘り起こすが、あきらめ結局は製土工場より、陶土と変わらない前兼久土の原土を買って、窯場に帰ることとなった。
来週から窯を整え、窯詰めをする。しばし、体力不足おきなわチルダイ。


遅くとも8時前には、目覚めるが、昨日のヤマアチャーでぐっすりと眠ったのか、節々の痛みも心地よい。時計を見ると9時を指し
ていた。急いで洗面を終え、コーヒーを入れTVをつける。陶芸家、国吉清尚が放映されていた。今日の新日曜美術館の番組
である。確かに鬼才の陶芸家である。カレとは面識はない。名前は私が焼き物をする頃、陶暦ではすでに20年先達であった。
亡くなる、3日前に窯場の留守番電話に「後ほど、そちらの窯場にお邪魔したいので、よろしく。国吉清尚です。」と
残されていた。面識も無い陶芸家からの電話は意外であった。しかし、亡くなる2年前より、両窯を窯焚きで、
手伝いに行き来していた見習い陶工がいたためであろう。4,5箇所の窯元に電話が有ったと、後で知った。
それほど、思いつめた作家が沖縄にいたのかと、驚いた。