2/6  2ヶ月間、窯場に着くや、毎日2時間程度、仕事始めに原土と水を攪拌して、陶土作り(スイヒ)をする。
ブロック囲いの沈殿槽が泥土で満杯になった後しばらく寝かし、水ぬきの泥土槽に移した後、瓦に載せ天日干し
をし、3トン程の陶土を作る。原土は山原の大湿帯(オオシッタイ)から運搬してきた原土で初回分は使い切り、
7年前、10tトラック3台分を窯場に降ろした2回目分で、まだ1/3程が残っている。やきものを始めた頃は、
粘土質の良い土を求めて中部、北部一帯を土質調査並にくまなく回った。昔は良質の陶土が出る場所に
窯場が作られた。沖縄では壺屋がそうであった。その後都市化が進み、原土を取っていた地域は道路や建物に
覆われ、薪を焚くことが公害となり、現在の壺屋はガス窯に変っていった。昔ながらの薪窯をやりたい陶工が
土地を求めて中北部の人家の無い山中に移り住んだ。特に読谷村に多く集まっている。沖縄本島中央に
位置するココるうるま市(石川市)も陶土が豊富に有り築窯したのだが、20数年も経っていれば
以前の土地に行っても、区画整理されていたり、土地ブローカーに渡っていて簡単に原土を
購入することが難しい。


    


2/11  AM8:00に起きる。今日は日曜日、玄関差し入れ口に突っ込まれた新聞を取り,洗面を終える。
定番のサンドイッチを作り、コーヒーとで朝食を済ます。炬燵とTVのスイチを入れ、赤外線炬燵に足を突っ込む。
サンデーモーニングを見ながら、新聞を読む。9時になると、教育TVに切り替え、「新日曜美術館」を見る。
1976年「日曜美術館」として始まり、1500回を超える長寿番組で、2006年で30年を迎えたようだ。
たぶんそのうち20年間は見続けたと思う。朝見過ごした時には、夕方にも再放送が有るので、努めて見る
ようにしていた。2杯目のコーヒーを飲みながら休日の気休めのひと時である。芸術家、作品の紹介、毎回
ゆかりのゲストを迎え、話を交えてのトーク番組は自分にとっては、楽しみな番組である。その後、食器を
洗うか、洗濯した後、12時前後に家を出る。途中で弁当を買い窯場へ。甚五郎に餌をやることと、仕事着
の洗濯をするためだ。洗濯を終え薪置き場に設置した綱に洗濯物を干せばこれで終わり、窯場を後にする。
未練そうに甚五郎が上目づかいに見るが、首根っこを掴んで、工房内より餌といしょに、外の窯横の定位置に
猫を降ろし餌を置く。それから決まって、書店4,5店を立ち読みめぐりとなる。(サライ、一個人、男の隠れ家、
うるま、カラカラ、沖縄スタイル、、藝術新潮、陶磁郎、文学雑誌、建築雑誌、料理、ガーデニング等、、)
各書店を移動しながら立ち読みをする。それと大工道具と金物のホームセンターこちらも外せない。
日曜日の一コマの歯車は心地よく回転するが、仕事は昨年来、古酒甕作りのみが続いている。
2/13  神村酒造所「守禮」43度H一斗6升甕詰受け取る。


   


2/18  新日曜美術館「岸田劉生が挑んだ”存在の神秘」”を見る。食パンがきれ、サンドイッチが作れず
朝食は昨日の夕食のカレーに、残ったトマトとレタスを加え、煮込んで食べ窯に。窯場に車を止めるや甚五郎が
窯下から駆け上がって来るのだが、現れない。一瞬、又かと思ったが、窯下に行くと、怯えて、蹲っていた。
近ずくと伏せ目がちによろけながら立ち上がり、後ろ足の片方を引きずり逃げて行く。逃げなくてもいいのにと
思いながら、後を追い捕まえると、ダラリと垂れ下がった足が大きく膨れていた。骨折をしているかも知れず、
早速、電話帳で近くの動物病院を調べる。広告の出ているN動物病院に電話を入れる。これまで、フクロウ
を保護し、動物病院に連絡をして引き取って貰ったことはあるが、動物病院に行くのは初めてである。
午後の診察時間2時に合わせ寝いっている猫を座布団ごと車のシートに載せ、N動物病院へ。
地図で確認した病院は、基地のフェンスと道路を挟んだ向かい側にあった。ブルドックを連れた
子供ずれの外人が駐車場で待っていた。駐車場に車を止めそのまま時間が経つのを待った。看護士
が2時にガラス戸を開けた。ブルドックを連れた客が子供と室内に入った。甚五郎は四肢を延ばして
シートに寝入っている。ドッグの診察が終わるのをガラス戸越しに確かめる。受付をするため静かに車から
降り、ドアを開け、中にいった。先客はすでに精算を終わっていた。「デストロイヤーさん」に似たブルドック
が帰りぎわ不意に近寄ってきて、俺の太股に体当たりをした。慣れたことなのか客の男は綱を引こうとしない。
こちらは肝を冷やし複雑な気持ちになるが、何事も無かったごとく立ち去った。それにしても、あいつは役者だ。
気を取り直し、看護士から渡された受付用紙に飼主とCats名と書かれた欄に「甚五郎」と記入する。
看護士から、逃がさないように車の中で、この籠に猫を入れて診察室に行って下さいと籠を渡される。
診察室から「甚五郎」さんと呼ばれ、りっぱな診察台に籠を下ろし、怯える甚五郎をひっぱり出した。
「抑えていて下さい」の獣医の言われるまま、爪で引っ掻かれながらも、抑え続ける。
腫れて瘡蓋になった、瘡を獣医はピンセットで剥がし、ウミを出し注射を手早く打つ。体温計を尻に
突っ込み40度あるということで、診察は終わった。薬はその場で獣医から、「口に注射してください」と
針の無い注射器と液体の入った容器の袋を渡し、「悪くなったら、又来てください」と、言った。
帰り際5枚の写真入から選んであった診察券を受け取る。「甚五郎」と記されていた。
2/21  神村酒造所「守禮原酒」51度I一斗甕詰受け取る。


    

2/24  今年還暦(1947生まれ)団塊の世代である。終戦直後平和に成った世に、ベビーブームで生まれ出で
急激に人口が増えた世代。今日の少子化の逆で、小、中、高と進学する過程でクラスが18クラスと以前の倍になり
プレハブの仮設校舎で授業を受けたり、新設校が各地域で次々とでき、慌しいなかで学生生活を過ごしてきた。
その分競争も激しかった。そんななか、他人と違う選択肢で乗り越えよう、俺は他人と違う道を行こうという考えが
進学する度にあった。社会人になってからも考えは変わらなかった。安保があり、基地あるゆえに身近に感じた
ベトナム戦争、そして復帰、その前に、目前でコザ騒動事件があった。世の中の移ろいの中、沖縄は日本経済に
組み込まれ、高度成長の波に押し流され本土化の叫びの号令とともに、「アメリカ世ーからヤマト世ー」通貨も
ドルから円に、道路交通の変更があり、後にバブルをみるまで、社会の渦の中で同世代は歩んできた。そんな
なかで、職種は違っても連帯感は持ち続けてきたと思える。そして、60年が経過した。「定年後の団塊の世代、
第二の人生」とマスコミTV、雑誌等で頻繁に聞いたり見たりする。自由業の身としては、関係なくこれからが本
格的に仕事ができる職種なのだが、一方、一息つき、足並みを揃えて、皆と共にスタートラインに
立ちたい気にもなる。


    


3/5  古酒壺の大物の繋ぎ2本の製作だけで、今日一日の仕事が終わることになった。仕事の最中、大事なことを何か
忘れているようで、思い出そう、思い出そうとしている内に、とうとうもやもやのまま?家に着く。夕食は三枚肉ともろもろの野菜
(白菜、人参ジャガイモ、タマネギ、大ねぎ、トマト)を蒸した後、残り汁も一緒に鍋に移し味噌を入れ、とろ火で水炊にする。
週一の夕食の定番である。豚肉と多種類の野菜を蒸すため、ゆうに二日分ができあがる。食べた翌日飽きた日には
カレールーを入れ、カレーとしてご飯に載せ食べる。これまで沸騰したお湯に三枚肉を入れ煮ていたが、蒸すと意外に
早くジューシーな料理ができる。今日は仏壇に供えようとしている時に電話が鳴た。「チュウ、ジュールクニチーヤシガ、
ウサギタンナー」(今日、16日だけど、仏壇にご馳走を供えましたか)シーミー(清明祭)の時期になると、やはり、
「ワッター、アサテイー、ウサギーシガ、ウサギタンナー」(私達は明後日墓で供えるが、そちらは終わりましたか)と電話
がかかってくる。昨年3年忌を無事終え法事から遠のいた後の電話であった。毎年旧1月16日は亡くなった人の
正月で、墓掃除をしご馳走を供えることになっている。その日を、忘れていたのだ。そんな日に限って、新聞を見ていず、
日捲りのカレンダーも、折り曲げてあったがここ4、5日千切っていなかった。「ドウクルチュクヤーマ、ナマ、ウサギー
ビタン。皆、元気ですか」(自分で作って、今供えました。)「そーねー、オーカー、クトシ3年忌アタランナー」
(そーねー、お母さんは、今年3年忌に当たっていないか)「クジュ、ウチナサビタセイ」「アンヤタンナー」
これまでなにかと養母死後、法事を手伝って頂いた親戚の老夫婦も90歳を過ぎていた。
仏壇に夕食を供える。墓掃除は明日行くことにしよう。


    


3/16  自宅から窯場までの通勤の車内で、聞き流し英会話のカセットを聞き流していたが、差し迫った
必要性がなければまさに聞き流すだけ、馬耳東風。「山之口獏をうたう」のCDと般若心経に変わった。
山之口獏と般若心経は、幼い頃の思い出の中で一緒なのだ。内地で生まれ落ち、山中の部落から
四件の寺を通って、小学校へ通学した。その中に一件、住職のいない空き寺があって、学校が終わると
ランドセルを家に置き、急いで空き寺に集まり、「缶けり」をした。しょうや、ビー玉は、親からの小使いが貰えず
高学年生が。低学年の僕らは、もっぱら、「缶けり」であった。ときたま、住職のいる寺で缶をけり、庭掃除の
小僧にほうきで追い回された。お経は学校の行き帰り、セミの合唱のように、聞いていた。いつしか坊主の真似
をして、お経を唸って帰ったりもした。二十歳を過ぎてから知った詩人の山之口獏は、内地での私達の生活
そのものであった。私が生まれた当時、良い会社に父は勤めていたようだが、出身地のオキナワという地を
会社にはずーと伏せて勤めていたが、黙っていることに耐え切れず、山中のオキナワ人同志の集落で、自給
自足の生活を選んだようだ。病気がちな母には、不慣れな畑仕事はきつかったかもしれない。裁縫が上手で、
母の内職で一時生活を凌いだとも聞いた。母が亡くなる2,3年前から体は痩せ細り、それでも、家事や
風呂焚きを終え、僕ら子供が寝る頃に、針箱を側に置いて裸電球の下で穴の開いた服を直したりするの
が常だった。養父母も亡くなり、盆、シーミー(清明祭)の季節になると、若くして亡くなった実母を
ときおり偲ぶ今日この頃である。


     


3/18  ここ4,5日は外食が続いている。なるべく偏らないように外でもメニューを変え食べるようにしている。
料理をして食することは、嫌いではないが、スーパーで食材を買い揃えると、外食費の倍になる。
今日は残った冷や飯を炒めて、オムライスにして食べようかと思ったが、とりやめ。カレー一番館で
カレーを食べることにした。貝イカカレーを注文する。最近は頻繁に後ろを振り返ったり、健康に気を使うよ
うになったが?50代になった時、同期の輩が定年を迎えた年から、俺はスパークして行くんだと決めていたが、
いざ還暦になり、周りを見るようになり、人生の帳尻を合わそうとしている自分がいる。



      

3/25 土砂降りの雨上がりの翌日。快晴となった窯場近辺を散策する。昨日の大雨で空中のゴミが一掃され、
空は澄み渡って青い。木々の呼吸の気配。屋内では、泡盛を寝かせた古酒甕が大汗を掻いていた。
泡盛が入った甕も呼吸をしているのだ。(土間の湿気の多い室内床に置いてある為、昨日の雨で冷えた泡盛が
外気との温度差で甕の外側に水滴となって現れるのである)