イタリアで寝て帰るの記


10/12  旅行と思えるものではなく単に旅先のホテルで泊まって帰ってきたにすぎない。私にしては似合った旅の始まり。
旅行に出る一週間前に不注意にも被れ、火傷のように両腕が腫れ熱まで出た。その時点で、行くことをあきらめ、旅行社に
電話をしたのだが、「いま、中止にすると、30%しか旅費が戻りません」との旅行社の応答に、出発日まで5日間
その間に治ればの思いで、旅に出る間際まで行こうか行くまいか決めずにいた。出発4日前に被れが沈静化のきざし。
皮膚科病院で診察、旅行することを伝え、薬を処方してもらう。体調が悪くなれば、ホテルで泊まって帰れば、行かない
よりはマシと思い旅立った。ほぼその通りの旅で帰国することになった。実はイタリアには、以前からトスカーナの地に
築窯したい思いがあった。今回は車窓から見るのみであったが再度行こうと思っている。

10/4  団体ツアー、添乗員の旗に従って行くのも気楽でいいかも、これは体調の良い時で、あたりまえのことなのだが
海外で体調をくずした時どうなるか、身をもって体験。自分にしてみれば、今後のために良かったのかもしれない。被れは
なんとか処方してもらったくすりで、徐々に治まりそうな気配であった。しかし、飲み薬のせいか、機内食なのか、腹がキュウキュウ
し始めた。もともと胃腸は強くない。それでも2度、小便をする速さで用をたし事なきを得たが、腸の不愉快さはその後も治まって
くれない。飛行8時間もたつと、トイレに常に4,5人が待つ状態がベネチアに到着するまで続いた。機内に4つトイレがあるのだが、
3つは満杯で1箇所のみを使用して下さいとのアナウンス。到着するまで5回トイレに行った。はたしてトイレが満杯であったのか、
スチュワーデスの仕事の邪魔になったのか、疑問であったのだが。チャーター便はイタリアの航空会社、ブルー・パノラマ航空。

団体ツワー客は、80数名で観光コースが5コースにわかれ各コースに1人添乗員が付いた。沖縄からベニスへの直行便は初め
てのようだ。途中給油のため、ポーランドのワルシャワに一時緊急着陸したため、3時間遅れ、飛行時間17時間でベニスマルコ
ポーロ空港に到着した。到着後、コース別にバスに乗車、宿泊のホテルに向かった。画像はマルコポーロ空港のロビー
なのだが撮れていない。形跡の記録のため。2コースはホリディンホテルに夜中13時前頃に着く、皆グッタリのようだ。
翌日6時30分起床、10分間朝食後7時10分にベニス市内観光に出発とのこと。


  

  

10/5  昨夜は、時差ボケと寝過ごしてはとの思いで一睡もできず、腸の状態は不安定。団体ツアーである、決められた
スケジュールを皆と行動せねばいけない。体調が良ければ何のことはないが、悪ければ一転して足を引っ張ることになる。
下痢となればお手上げだ。やはり調子が悪い、他の旅行者に迷惑をかけたくないので、このままホテルで、体調をととのえて
帰国したいと伝える。添乗員が携帯電話で本部と忙しく連絡をとっている。彼はベルギー人でイタリアに2年、アメリカに5年
そして沖縄に住んで今年で10年になると言う。必死に携帯電話で本部かをらの指示を聞きながら話ている。同じホテルに
泊まった、他のコースのバスはすでに出発していた。自分と一緒のツアー客のバスだけがホテルの駐車場に停車していた。

予定の出発時間を30分、すぎていた。これ以上遅らせるのも悪いと思い、体調が少し良くなったので、大丈夫だからと、とり
あえずバスに乗った。行く先の観光地でホテルを予約して貰おうと思った。添乗員は移動中のバス内でも、ツアー客に予定
の観光コースの説明を終えると、携帯で話し続けていた。バスは観光コースの目的地に到着。躊躇したが、そのまま皆と一緒
に水上バスで、現地ガイドの女性も加わって、水の都ベニスを運河から一周して街並みを見た。イタリアではガイドは国家資格
をもった現地ガイドがツアー観光客に加わるようになっていて、違反すれば罰金とのことだ。体調を崩し、ツアーから離脱したいと
言った後に、旅行社が、家族に連絡したようで、乗船中に添乗員の携帯電話に娘から電話があった。家を出る前準備していた
ビザカードを、うっかり忘れ、200ユーロと日本円を少々しか持っていない。現地病院で診察することになり、旅行社にお金を
振り込むよう娘に依頼する。かって、海外にいた娘から、いろいろアドバイスがくる。この際、「はい、はい」と、素直に聞くし
かない。ひととおり話を終え、運河からベニス市街を無事、見学し船を降りた。ここから決まったコースを歩くことになる。

かのナポレオンが「世界で最も美しい広場」といわしめたサンマルコ広場へ向かう通りは、満員電車に乗るような、ギュウ詰
のごった返す観光客の中を掻き分け進む。聖マルコを祀ったサンマルコ寺院、裁判所だったドウカーレ宮殿、リアルト橋、
ベネチアングラス工房と、ガイドの掲げた旗を見失なわないよう順路を追って行く。ドウカーレ宮殿には建物の中に入った。

世界中からの観光客で蒸せかえっていた。壁面、天井一杯に宗教画の油絵が描かれ、こちらのイメージとはまるで違う、
華やかな空間である。宮殿内には牢屋があり、ここで判決を言い渡された罪人は、人目のつかない通路を渡り薄暗い
牢屋に。途中に橋があって、罪人はこの橋を渡ると二度と外に出られないと、橋の小窓から外を見て溜息をついたという。
溜息橋。ガイドの説明を聞きながら、逃げ場のない狭い通路を押されながら渡り、牢屋を見る。まさに今の俺の心境だ。

人ごみの中、早く予定コースを終わってくれないかと不安になる。やっと建物から外に出た。最後は6人づつ、ゴンドラに乗り
小さな水路を巡るところまできた。乗船をやめ、トイレに行くことにした。ガイドの案内で一箇所あるという、50セントの有料
トイレに案内してもらう。これだけの観光客やはり並んでいた。やっと順がきてトイレに入る。30秒も過ぎると、早くしてくれと
ドアを叩く、結局3度叩かれ、3分後に出た。予定コースを終えるとホッとする間も束の間、辿り着いたところが、難敵の
レストラン。心配で皆と食事をすることができず、他の席で皆が食べ終えるのを待つ。これで、朝、昼の食事をぬいた
ことになった。食事の合間、食事後皆競って私を横目に、レストランのトイレに行く。2日食べず、眠らなくとも体は
頑強なのだが、下痢はどうしようもない。団体ツワーでは、自分だけ勝手に身動きができない。

   

昼食を終えた後、移動バスへ乗り込む。日程2日目のスイスのサンモリッツへ。途中バスは病院前で一時停車、確認後
ベニス観光から加わった現地ガイドの女性と病院近くのホテルでバスから降りた。腸との戦いは終わった。団体ツアーと
ここで別れ、ホテルにチェックイン後、病院に行くことになった。フロントで女性ガイドが手続きをとっている。受付嬢がな
かなか首を縦に振らない様子。かなり時間が経ってから、ようやく納得したのか、チェックインすることができた。荷物を
持って部屋に置いた後、再びロビーへ降りていった。女性ガイドは保険会社と連絡を取っていた。20分後にY氏が来る
と言う。日本人でイタリアの保険代理店に12年在住しているベテランなので、大丈夫だと言う。Y氏到着後、3人で病院
へ、窓口から用紙を受け取り、私のパスポートを睨みながら覗いてみても、サッパリわからない、イタリア語の文字の詰ま
った用紙に二人で、記入ている。書き終わった後、用紙を窓口に提出。女性ガイドは、団体ツアーに戻るため、後を
Y氏に引き継ぎ、病院を後にした。病院の大きさ、雰囲気、待っている患者、沖縄の中部病院に似ている。気質までも、
近頃はやり言葉になった”なんくるないさ”のおもむき。イタリアの地にいる事さえ忘れ、Y氏と窓口から呼び出されるのを
ひたすら待つ。緊急を兼ねている病院なので緊急患者が、来る度に、後回しになる。5時間待っても、サイレンを鳴らした
救急車が、あとをたたない。何曜日なのか、今日は当直医が一人で患者を診察しているとのことだった。イタリアでも地方の
病院は医師不足のようだ。「まだ待ちそうだし、体調も良くなったので、診察をやめ、ホテルで休んだほうがいい」とY氏に
言う。「これだけ待ったのだから、もうすこし待って、診てもらったほうがいい」とY氏が言う。彼が言うには、医師の診断書
がないと、食事込みのホテル代とローマまでの列車のキップ代を保険会社で支払うことができないと言う。しかし、これ以
上は待つ気がおきず、自腹でいいからと、断ったのだが、あとで送られてきた請求書で唇を噛んだ。ホテル代、キップ
代は当然として、ガイド料も当然なのだが、こちらが、考える倍の高さだ。しかも現地ガイドと通訳ガイド2人分である。


  

ベネチアの閑静な郊外に位置する中型ホテルで、シングルは空いていないとのことで、予約された部屋は、なかなか落ち着いた
ツインの部屋であった。不慮なるも、やっと、ゆっくりと手足を延ばして、眠れそうな案配である。日中は25,6℃前後、しかし夜は
少々寒い、昼と夜の温度差が大きく、10月中旬は、夜の寒さを除けば沖縄とたいして変わらない気候である。3日間、静養をするには
申し分なかった。病院で長時間待ったうえ、昨日から眠っていず、食事も丸一日食べていない。吉田氏は、体調をきずかって、一気に
食べずに、軽く鳥の煮出しのスープと、おも粥のような食べ物がいいと、フロントで、部屋に持ってくるよう注文していた。彼は、ウェイター
が食事を持参し部屋に入るや、「なにかあったら、事務所に電話して下さい」と、名刺を置き部屋を出て行った。食事を食べ終わった後、
明日から、片言の単語だけの英語を駆使して三度の食事を注文して、食べるわずらしさを、感じずにはいられなかった。国外の知らない
地に取り残された焦燥感は、一時の安堵をすぐにも覆い尽くしてしまった。そんなおり、再び娘からの電話でホッとする。強がりを言って
話していても、内心は心細い。異国の地では、心配してくれるのは、身内だけだなと、しみじみ思い知らされる。ここにきて、ドッと疲れと
眠気が襲ってきた。


  

10/8  体調は良くなったが、食事はまったくダメであった。朝食はバイキング料理でいいのだが、昼食と夕食はメニューからの
注文。その献立表の画像がぼやけている。イタリア人にはともかく、観光客には分かりずらい。体調が良くないとはいえ2日続けて
スパゲテイーを食する。ジュウシーな肉料理とワインはおあずけのまま。12時半にロビーに迎えにガイドが行きますと吉田氏の
 事務所から電話を受け取る。まだ2時間あるのでホテルの周辺をカメラを持参して歩いてみた。生垣には沖縄でもよく見る夾竹桃が植え
られ、合間にゴンズイの花が咲いていた。川沿いの土手に降りて行くと、ヤブジラミの花も見ることができた。ロビーに戻ると女性ガイドと
男性が迎えに来て待っていた。どうも12時半とは、列車の発車時刻らしい。急いで部屋から荷物を取り男の運転する車に乗る。移動
バスでもそうだが、車の運転は一様にスピードを出す。駅に着くと車はそのまま走り去り、女性ガイドがローマ行きのユーロスター列車の
キップを買い、私に渡した。発車するまで見送るのでと言う。各駅に何回停車し、ローマの前の駅名と到着時間をガイドに聞く。

「4時間あまりでローマに着きます。ローマが終点なので心配ないです。」とのことだった。ローマに着いたらまたガイドが迎えてくれる
ようだ。列車が入ると車両を指して「窓ぎはの指定席なので、ではきをつけて」といい去った。車両に乗り込み座席番号を確認しながら
座席を探す。荷物だなに荷物を載せ席に着くや列車は発車した。キップを見る(EUR 44.93、Classe2)日本円で7200円位二等席。
次の駅から向かいの座席にリュックを背負った若い夫婦が席に着いた。僕の横にも老婆が座り、座席は埋まった。夫婦の男性がリュック
からノートパソコンを取り出しキーボードを打ち始めた。ゲームをしているのか、二人で楽しみながら画面を見ている。ふと見ると東芝の
マークのついたパソコンであった。私はデジカメを荷物から取り出し車窓の棚に置いた。私の横に座った老婆は、若い夫婦の話に
割って入ろうと、腰を浮かして話しかける。若い夫婦もそれに答えいつしか和やかな雰囲なっていた。話のあいまにお菓子が行き来し、
たまに微笑んだりした私にも、お菓子が回ってきた。車窓からは、穏やかな農家の風景が延々と続き流れていた。
山岳地帯にさしかかると、ブドウ畑も見られ、トスカーナはこのあたりなのかと思いを巡らす。4時間余りの列車の一人旅、
短い時間ではあったが至福の時を過ごした。

  

列車の終点ローマ駅に着くや、ホームでここでも現地ガイドと日本人ガイド2人が迎え、現地ガイドは挨拶のみで、すぐに去り。後は日本人ガイド
がタクシーを手配する。ツアー団体の最終宿泊ERGIFEホテルへ、2日後にツアー団体はスイスから当ホテルに着くことになっている。
ローマ駅からタクシーを乗り、市街に出る、どこを見渡しても、岩盤が立ったような、大理石の大きな家並みが、道路沿いに、肩を
並べている。タクシーから眺めるとまるで渓谷を船で走っている感じだ。

    

      

ベランダに洗濯干し場があったのでシャツを洗い干す。ついでにスリッパも。スリッパは機内で履くよう旅行社の進めでもってきたが、
ほとんど履かず、ホテル内で重宝になった。 このホテルで2日を過ごす。

 最終日はツアー団体客と一緒に帰国。