黎明

黎明


 四月とはいえ、まだ空気は冷たい。二時。辺りの灯は全て消え、街は束の間の休息の中。飛田は襟を立て、駅前に積上げられた牛乳瓶に目を遣った。十年前に学徒動員で通ったこのH市も、今ではすっかり平和な佇いだ。

 終戦の翌年、飛田は県都S市で乳牛二頭から牛乳店を始めた。牛乳は高価だったが、まだ栄養状態の良くない国民のために、役に立つと信じた。自分で搾乳し、瓶詰めして配達をする。良い牛を見分ける目もできた。配達員も雇った。契約農家を増やして経営が安定した頃、M乳業がやってきたのだ。
 その日、市内の家庭に配られたのは、M乳業の瓶だった。一枚のチラシとともに。
 「乞度、M乳業はS市での配達を開始致します。御挨拶方々三箇月の間無料にて御奉仕させて頂きます」
 三ヶ月もの間、無料で配達されては、地元の販売店はやっていけない。何より、配達員は全て買収されているのだ。飛田を初めM市の牛乳店は全て廃業に追込まれた。きっぱり他の仕事を探すこともできた。しかし、牛乳の仕事から離れたくなかった飛田は、そのままM乳業の営業所で働き始めた。

 今、飛田はM乳業のH市侵攻作戦の責任者として、ここに立っている。東の空はまだ暗い。街路から、自転車が現れる。次から次へと何十人も。瞬く間に、駅前は自転車に乗った男達で埋まった。彼らに配る移籍金とチラシを懐から取出すと、ぐるりと見渡した。学生らしい若者、体格のいい年配者。
 「まず金を渡す。これを受取ったら、君たちはM乳業の従業員だ」男達のざわめきが一斉に止み、飛田の手の封筒を見つめる。「この街は全て、M乳業になる」飛田は、ここで言葉を止めた。牛乳瓶を手にとり、封を切る。一気に喉に流し込んだ。そして、最前列の男に別の瓶を渡した。「飲んでみろ」裏切りの儀式のように、男は辛そうに飲み干した。次の男も、そしてまた一人。
 「こんなものを配っていいのか。これが牛乳か」あの日の悲しみと、自分への怒りが、予定外の言葉を吐かせた。「今から自分たちの店へ帰るんだ」空は、紫色に染まりはじめていた。
 その日の朝、駅前には夥しい数の牛乳が、四月にしては強い日差しを受けていた。こんなことをしても、早晩H市も大手乳業会社に牛耳られるだろう。そのことは、分かっていた。それでも、数年遅れで、やっと自分が取戻せたような気がしていた。
 「さて、どこへ行くか」飛田は一人呟くと、笑みを浮かべて改札へと向かった。