あの冬に見つけたものあの冬は、東京にも雪が降り続いた。来る日も来る日も、淡々 と雪は降り続けた。僕が、チェスを憶えたのは、そんな天気の せいだったのかもしれない。 喫茶店の一番奥の、柱の脇にあるお気に入りの席で、僕は「解 剖学演習」のテキストに目を落としていた。お代り自由のコー ヒーを、ゆっくりと三杯飲みおわった頃、ふと視線に気が付い た。ショートカットの目の大きな女の娘が、僕の方を見つめて いたのだ。子どもの頃から、人の顔を見詰める癖がある僕だが、 女の娘から見つめられる立場になったのは初めてだったので、 一瞬の間、二人は見詰め合っていた。 「あなた、チェスをしたことある?」 唐突な質問で僕と彼女の会話は始まった。もちろん−−−たぶ んもちろんでいいのだと思う、世間では−−−僕はチェスなど したこともなかったし、それで困ったことなど一度もなかった。 「いや、一度もない」 それから僕は、さらに二杯のコーヒーをお代りして、彼女の話 を聞くことになった。いわく、「あなたの顔は、チェスに向い ている」「医学は、体内の病気を、上からか、下からか、ある いは尿からか、汗からか排泄させる学問だが、チェスは、盤上 の相手の駒と自分の駒を順に盤外に排泄し、自分の影響力を相 手のキングに到達させるゲームだ」「チェスの強さと頭の良さ は関係無い」。ありとあらゆる失礼な言葉で、僕をチェスに引 きずり込んだ。 正直なところ、彼女の言葉に納得したわけではないけれど、語 り続けるその唇と、ひたむきな瞳は説得力を持っていた。彼女 の素晴らしい笑顔のためには、彼女の側にいられるのならば、 どんな口実でも良かったのだ。 それからの一週間、僕はチェスの本を読み漁った。次の一週間、 彼女とずっと対戦していた。あれほど熱心にチェスを薦めた彼 女だがそんなに強いようには思われなかった。 そして、いまの僕はいくつかの物を失い、いくつかの物を得た。 医師免許はついに取ることができなかった。その冬のすぎた頃 には、友達との付き合いもなくなっていた。彼女と対戦するこ となど、全くなくなった。 得たものは、数々のトーナメントでの優勝の栄誉と、対戦の苦 しみと、孤独な思索だ。そして、チェスはルールくらいしか知 らない妻が一人。 「話し掛けたくても口実がなくって」 その冬の話になると、妻はそう言っていつも素晴らしい笑顔を 見せるのだ。 |