秋丸

(一次予選得点:21.6)

 この話、主人公の自意識過剰のお話なんでしょうか。それとも全部現実として書いているのかな。後者としてはあまりに説明が足りないように思われます。前者だとしてもやや説明不足でしょう。たしかに妹がいない状態での二人が妙に気まずいという状況はよく分かるのですが、そこからの展開が飛躍していますし、また最後のまとめ方も安易なように思われます。「あるあるある」という共感だけは持てるのですが、今一つ作り物の感じが拭えません。こういう男もたしかにいるのですが、それを現実感を持って読者に感じ取らせる事が出来ていないように思われます。

 <「蝉」について再度考察>

 別にこの作品を嫌ってなんかいませんって。一次予選通過作品には、他の作品より厳しいだけです。良い点は私が挙げずとも誰かが書いてくれると思っていました。特に「あるあるある」という共感の意見は必ずあるだろうと思っていました。思うに、この作品の味わいの主たる物はこの「あるある」であってフランス文学者や心理学者がデジャヴュなどと洒落た表現をする感覚だと思います。こうした「感覚の再現」の力を見ていると、作者は優れた観察者であろうと思われます。
 さて、作品の意図に私がちょっと気になった「自意識過剰の主人公」という含みがあるということですので、そこを踏まえて再検討してみましょう。前回の「説明不足」という評価は含みがないという予想が70%くらいあってのものでした。
 まずこれが「自意識過剰の物語」として読めるかという点です。曖昧ではありますが「そうも読める」とは言えるでしょう。読者に対して、主人公の人柄を伝える描写があればとも思います。たとえば「主人公が妹や妹の彼氏をどう見ているのか」が書かれていれば、主人公の心情が読取りやすく、物語の見通しが良くなるように思います。あるいは「私には彼氏と呼べるようの人はいないけれど、別に欲しいとも思わない」といった表現で心情を表すのでも良いと思います。
 この話はすべてがお約束の中で進んでいて「まさか最後にキスしそうになってそこに妹が帰ってくるなんていうオチじゃないよね」と真ん中ぐらいで思っていたものですから、読み終わって考え込んでしまいました。定型にはめるということは気持ちの良いことでもあります。それを堂々と使えることは、それはそれで現代的な感覚なのかもしれないと思いました。初めに述べた「あるあるある」という感慨は「現実にあるある」という部分と最後の「マンガやドラマであるある」という両方の点について感じられるのです。現実の体験と、TVなどによる体験の境界があまりない時代においては、これも共感の一つの形と言えるかもしれません。
 ここからは文体についての確認です。「蝉の音」という表現は日本語の伝統的な表現からするとかなり違和感のあるものですが、何らかの意図をもって使っているのですか。たびたび「私」「彼」という人称代名詞(「彼」は恋人という意味かも知れないけど)が使われているのですが、これも同様の意図でしょうか。どちらも妙に翻訳調に感じられました。