お好み奉行 |
江田 公三 |
真理子が役所を辞めようと思ったのは、これで三度目だ。霞ヶ関の中央官庁とはいえ、ノンキャリアの身は辛い。女性に残業はないし、さほど忙しくもないが、やり甲斐のある仕事もない。何年経っても同じだ。キャリアの男性とは全く違った道を歩んでいると思う。向かいの机に座っている新人も、翌年には主任になり、五年もすれば係長だ。 辞めてしまう前に、一度は食べておきたい物がある。霜井課長代理の作るお好み焼き。霜井は課内では「お好み奉行」として知られている。知られているのだが、飲み会でお好みを食べに行ったことは無い。何より霜井は下戸で、飲み会はおろか旅行にも来ようとしない。団体行動をことごとく嫌う。中央合同庁舎五号館の自分の机の前に座っている姿はただの三十男だが、元々は民間で華々しく活躍していたらしい。ソフトウエア・エンジニアとしての経歴を買われて、二十五の時にキャリア扱いで入省した変わり者だと聞いたことがある。キャリア扱いということで今では課長代理にまでなってはいるが、到底出世しそうもない。このまま「お好み奉行」として終るのだろう。以前、市ヶ谷本村町にある統計情報部の技官が「僕が学生の頃、霜井代理って業界では結構有名人だったんだよ」と真理子に教えてくれたが、どう有名だったのかは聞き漏らした。 というわけで、真理子は霜井に頼んでお好み焼きを食べに来た。霜井と待ち合わせた新橋駅の、烏森口を出てすぐの路地を入っていく。綺麗な街では無い。雑然として、不衛生な印象。こんな時間でも鴉がいる。土曜の昼の二時過ぎとあって、人の姿は疎らだ。しばらく歩くと、紺の暖簾に白抜きで「かせん」の文字。花仙なのだろうか。間口は狭いが小綺麗な店だ。やけに愛想の良いおばちゃんに、さらに愛想の良い笑顔の霜井が声をかけると、小上がりに通された。何も言わないのに、さっさと飲み物を運んでくる。霜井の前には壜ビール。真理子の前にはラムネ。霜井はまず真理子のグラスにラムネを注いでくれる。自分のグラスには手酌でビール。 「代理。お酒、大丈夫なんですか」 霜井は黙って笑って見せる。グラスを持ち上げて、まずは乾杯。久しぶりのサイダーは仄かに甘くて、喉の渇きを潤す。おばちゃんは、やはり注文も聞かず材料を運んでくる。それに大きな鏝が一本、中くらいのが一本。真理子の前にも、小振りの鏝が一本。 「加藤さん。まず僕が一枚焼いて見せますから、憶えてくださいよ」 厳かにそう言って、霜井は火を点けた。いつもながら「加藤さん」などと言われるとこそばゆい。女子職員は「加藤君」「真理ちゃん」などと呼ばれるのが普通だ。なのに霜井だけは誰に対しても「さん」だ。女子職員もノンキャリアもキャリアも。課長にまで「上木さん」などと言う。きっと次官や大臣に会ってもそうなのだろう。 「しっかりと熱が行き渡ったら油を曳く。たっぷりとね」 手際よく油曳きを操る。 「生地にはザク切りのキャベツだけ入れる。肉やら海老やらを混ぜ込んではいけない。あとで丁寧にのせていきます」 たしかに、具材は別皿に盛られている。牛肉の薄切り、殻を丁寧に剥いた小海老、生きた青柳、刻み葱、生卵、中華麺などなど。何人前あるのだろう。霜井は生地を鉄板に置くと、器用に丸くする。 「広げすぎてはいけません。薄いお好み焼きは本当にまずい」 そう言いながら、揚げ玉を落とし、牛肉を広げてのせていく。その上に粉状の鰹節、青々した刻み葱を散らす。役所の机でのんびりと書類をチェックしている姿からは想像できない程の笑顔で鉄板を見ている。真理子とは一周りも離れたオジサンなのに、公園の砂場でダムを造っている子供のようだ。 「代理。楽しいですか」 「とってもね。ふふふ」 薄気味悪い笑いで答える。 「ほら、こことここに穴が空いてきたでしょう。火が通ってくると蒸気が抜ける穴が出来るんです。これが万遍無く出るまで待つ。じっくりと待つ。何があっても待つ。これがポイントです」 霜井は瞬きもせず、鉄板の上を見つめている。いつにない緊張感。微かに生地から湯気が上がっている。ふっと霜井の頬が緩んだように見えた。その刹那、二本の鏝が鉄板と生地の間に滑り込み、裂帛の気合で返す。ジュという短い音。満面の笑み。 「鏝の角でつんつんとつついて穴を空けるんですよ。こうすると熱の通りがよくなるような気がするでしょう。単なるおまじないだけどね」 あちこちをリズミカルに突いて、穴を空けていく。その効果はたしかに怪しい。しかし、霜井は真面目な顔で鏝を振るう。カッカッと歯切れの良い音が正確に響く。これは効果が無くともやってみたい。音が止んでから、ひとつ、ふたつ、みっつの間があった。 「さあ裏返すよ」 霜井が再び裏返すと、見事な焼き色がついている。サクサクと格子状に軽い切れ目を入れていく。たっぷりとソースを塗ってやると、つやつやと光って見える。青海苔をしっかりと振る。海苔特有の香りがぷんと鼻腔を擽る。 「青海苔はいいのを使わないとね。さあ、召し上がれ」 そう言いながら霜井は、鏝を使って一切れ自分が食べて見せる。箸以外でお好み焼きを食べるのは初めての真理子も、見よう見まねで口に運ぶ。ソースと青海苔の香り。熱いお好み焼きを口に入れると、はふはふと呑込む。ふっくらとして、小麦の風味が口に広がる。肉汁が染み出してくる。胃袋の辺りが、ほこほこと暖かい。 「美味しい。本当だったんですね、お好み奉行」 「お好み奉行か。まあ、課長代理よりは良いかな」 「ずっと良いですよ。お奉行様」 あつあつのお好み焼きと鉄板からの熱で、答える真理子の顔から汗が吹き出す。 「焼き方の上手い下手じゃ無いんですよ、お好み焼きは。人のためにお好み焼きを作るのが好きなんですよね。それも美味そうに食べる人に。こうして加藤さんを見ているだけで、こっちの方があったかくなれるからね」「下手に作って、不味そうに食べている連中は見てられないんだよね。だから普段は食べに行かないんだなあ。成敗したくなっちゃうから」 話しているわりには、どんどん自分も食べている。器用に鏝を使って口に放り込む。真理子も負けずに食べる。うん。やはり美味い。 「加藤さんも、役所で成敗したい奴いるでしょ。上木さんとか、土肥さんとか」 尊大な上木課長の顔が浮かぶ。成敗してやる。土肥、土肥、誰だっけ。あっ。やっぱり次官にも「さん」なんだ。ふふふ。成敗。成敗。 「ええ、まあ」 「でもね、そうも行かないんだよね。まあとりあえずは喜んで食べてもらえる人に、一所懸命おいしいお好み焼きを焼かせてもらうしか。それで社会が変わるとは言えないけれど、僕は幸せだから」 霜井は自分で焼いたお好み焼きをさっさと平らげると、唇を舐めた。つられて真理子も舐める。甘いソースの味がする。 「さあ、今度は加藤さんが焼いてね。僕、焼いてもらうのも好きなんだな」 そう無邪気に笑う霜井を、鉄板の熱気越しに見ながら、真理子は自分もお好み焼きを焼いてみようと思った。霜井なら美味しそうに食べてくれるに違いない。そう思った。 |