チビ六の夏

チビ六の夏


江田 公三


 田舎のホテルの宴会場には、すでに百人ばかりの同窓生が集まっていた。僕は真っ先にチビ六の姿を探した。壁際のグラスを積み上げたテーブルの脇に、いつものように一人で、チビ六が立っている。あいかわらず痩せた小さな体躯のチビ六は、やはり寂しそうにしていた。
 「ひさしぶり。杉井」
 僕が声をかけると、チビ六は嬉しそうに、顔をくしゃくしゃにしてみせた。
 「ひさしぶり」
 杉井とは、中学校卒業以来だから、五年も会っていない。それでも、彼は昔のままのように思えた。卒業後、塗装屋で働きながら夜間高校に通っていたが、仕事も辞め今ではチンピラの様なことをしている、という噂を聞いたことがある。けれども目の前にいるのは、いつもクラスで苛められていた、ひ弱で無口な「チビ六」だった。
 「大学に入ったんだって。俺のような者には良く分からないけど、結構すごいことなんだろう」
 たしかに、僕は一浪してどうにか今の大学に入ることができた。すごいといえばすごいのかもしれない。
 僕が卒業したのは、北関東の田舎町の学校だ。町に中学校は一つしかない。卒業後は、ほとんどが地元の高校に進み、そのまま地元に就職するか家業を継ぐことになる。学業成績にこだわるような家庭もまれで、のんびりしたものだった。
 チビ六の家は、小さな電器屋をしている。ここは今でこそ大規模な工業地帯になっているが、昭和四十年代まで電気が来なかったような町だ。それまで彼の家が何をしていたのかは分からない。電気が来る前の街灯にはランプが使われていた、夕方になると、その一つ一つに灯を入れて歩くのだ。噂では、彼の父はその仕事をしていたということになっていた。疑わしいものだが、息子同様に小柄で控えめな姿を見ると、そんな気もしてくる。とにかくチビ六には家業があり、きっとそれを継ぐことになるのだろうと、僕は漠然と思っていた。
 「親父の店、潰れちゃってさ」
 チビ六は、ちょっと寂しそうに言った。
 「おかげで、俺も東京に出られたんだけど」
 東京で生活をしているのは、僕の他には学校に通っている数人と、チビ六くらいだ。彼には、それがちょっと誇らしいらしい。胸を反らして笑って見せた。
 昔、よく苛められていたチビ六を、助けてやった。数人に取り囲まれて、小突かれたり鞄を取上げられたりしていると、止めに入る。僕は体が大きい方だったし、柔道部の主将もしていた。それに何より、教師達のお気に入りだった。皆が僕にまで暴力を振るうことはなかった。そんなとき、チビ六は照れくさそうに、くい、と胸を反らすと。「ありがとよ」と言うのだった。
 結局、その日、僕はチビ六とだけ話をした。僕にもチビ六にも、話し掛けてくる者はなかった。そんなものだ、僕らの位置なんて。それはそれで、気楽に思えた。散会した後も、僕はチビ六と別の店で呑んだ。何を話すのでもないが、二人でいると落着くのだ。
 「なあ、小林。頼みたいことがあるんだけど。いいかな」
 見上げるようにして言うチビ六の顔を見て、五年前の記憶が蘇る。
 
 田舎のレコード店。僕はチビ六を連れて、カセットテープを万引きに来ていた。青い顔のチビ六は「やめろよ」と小声で繰り返したが、僕は、次々に商品を、チビ六の手提げ袋に詰め込んだ。
 僕らは、店を出るところで、髭の店主に呼び止められた。後は、思い出したくもないことばかり。
 「自分が一人でやったんです。小林は見て止めていたんだ」
 と意外なことを言って、チビ六は僕を庇いだてした。いつも苛めから守ってやっていたことへの礼のつもりだったのかもしれない。しかし、このことがそれ以来、チビ六へのこだわりになったのも事実だ。いつも弱い立場だったチビ六が、僕に対してだけは優越感を持って接しているように思われた。そのために、彼は僕を庇ったのではないか。そんな陰湿な企みを彼の中に見ていた。
 今、僕を見上げるチビ六の目には、執念深い爬虫類のようなものが感じられたのだ。
 「小林は、コンピュータなんかに詳しいんだろ。俺の仕事を手伝って欲しいんだよ。俺が頼むんだから、ちょっとやばいことだけど、おまえには迷惑かけないようにするから。な、助けてくれよ、昔みたいに」
 「昔みたいに」というところに妙なアクセントをつけて、僕の目を覗き込む。

 頼みというのは、こうだ。チビ六はある団体(まあ、暴力団だろう)で、新しいシノギを任されている。それが、コンピュータ関係のものらしい。今までは、変造テレフォンカードを作って卸したり、それを使って自分で設置したQ2番号に電話することで稼いでいたらしい。ところが、NTTも不審なQ2局には料金を支払わないようになってきた。もちろん、電話がかかっているのは事実なのだから、裁判をすれば勝てるかもしれない。しかし、暴力団というものは、できるだけ警察や裁判所とはうまくやっていきたいものなのだ。法の届かぬところに利益を見出すものが、法に訴えるというのも理屈に合わない。というわけで、今度は接続パスワードの売買を始めようというのだ。
 いまや、ネットワークへの接続パスワードは、誰でもが持っている。コンピュータなど全く分からないような人間までもが持っているのだから、その管理は杜撰になるだろう。これを盗み出して売れば、結構な値段になる。噂によれば、五、六万でならいくらでも売れるらしい。このパスワード破りをやってくれと言うのだ。確かにできないことではない。しかし、明らかな窃盗だった。チビ六は暗黒社会の一員として、この自分を利用しようとしているのだと思われた。しかし、断ったら……。僕は掌がびっしょりと濡れているのに気づいた。ぬらぬらと気持ちの悪いぬめりをした汗が、重く覆っている。
 「ごめん。いいんだ。小林は優等生だから、こんなこと頼んじゃいけなかったんだ。悪かった。忘れてくれ」
 チビ六は、快活にそう言うと、水割りのグラスを飲み干した。五年前には見せたことのない明るい笑顔を、僕に見せる。
 「いや、やるよ。やらせてくれよ。それなりに金にもなるんだろ」
 僕は、そう答えた。自分でも、なぜそう言ったのかは分からない。チビ六への対抗意識のようなものだったのか、あるいは恐れだったのか。僕は、ようやく慣れてきたバーボンを、一気に流し込んだ。

 駅までの道をチビ六と歩く。昔もこんな事があった。クラスの連中に壊されたチビ六の自転車を押しながら、暗い夏の道を並んで帰った。カラカラとスポークとフレームの当たる音が鳴る。二人は何も話さなかった。三年生の二人の学生服はつんつるてんだ。一緒だった三年間で、一体何が成長したのか、その頃は分からなかったのだが、確実に体だけは大きくなっていたのだ。
 今日の二人は、安物の背広を肩にかけ、じっとりとした梅雨明けの夜風を受けている。蛙のうるさい声を聞きながら、ゆっくりと歩く。田んぼの上には、向こうを透かし見ることのできない深い闇。擦り減った靴。襟の汚れたシャツ。膝の出たズボン。結局、五年間で何も変わらなかったのかもしれない。
 二人は、駅前で手を振って別れた。チビ六は、人懐っこい笑顔を見せて
 「じゃあ」
 とだけ言った。ひょいと右手を振ってみせる。僕はなぜか、背筋に悪寒が走った。それが何だったのか、やはり分からなかったが。

 翌日から、僕はパスワード破りを開始した。まず、プロバイダの契約者一覧をダウンロードする。個人情報を公開している人間は、案外に多い。その登録番号を片っ端から落としていく。あとは、プログラムの作成。自動的にパスワードの候補を生成する。といっても大した予測はできない。名前のアルファベット表記。生年月日との組み合わせ。住所や番地。郵便番号。電話番号。会社名。そうしたものを一人につき100種類くらい作り出す。
 二十三時を過ぎたら、これを片っ端から試してみるだけだ。この時間を過ぎれば、特定の相手との通話を定額で行なえるサービスがあるのだ。プロバイダのアクセスポイントに、繰り返し電話をする。通信プログラムを自動運転させてやると、次々に「パスワードが違います」という表示が出る。ほとんど無駄な作業に見えるが、まれにこちらの予想が当たる場合がある。
 翌朝、見てみると十ばかりのパスワードが見つかっていた。それでも十分だ。チビ六との約束では、一つにつき一万円になる。早速、チビ六にメールで送信する。慣れた手つきでメールを受信するチビ六の姿は想像できなかったが、人間必要なことはすぐに憶えるものだ。僕も、彼もいろいろあったのだ。
 二日後、約束通りの金額が、小為替で送られてきた。振り込みや書留は、いざというときのために使わないらしい。少額の小為替が何枚も入っている。
 僕はそれを数えながら、妙に得意な気分がしていた。単なる試行錯誤で見つけたパスワードだ。単純労働だった。でも僕は、いっぱしのクラッカーになったような気分だった。チビ六はやはり僕の助けが必要だったのだ、と思えた。僕は毎晩プログラムを走らせ、百を越えるパスワードを見つけ出した。

 チビ六は、新しい仕事も持ってくるようになった。市販ソフトウエアの不正コピーだ。これは至極簡単な作業だ。ちょっとした知識と、準備資金があればよい。市販されているソフトウエアを一セットだけ買ってきて、コピーしてやる。数万円から数十万円するものを、千円もかけずに複製してしまう。
 これをチビ六は他の組織に流し、そこはまた外国人組織に流す。最終的には外国人組織の末端の者が、街頭で手売りすることになる。この仕事は数がこなせるので、結構、儲かった。一枚二千円で、一日に百枚はこなせる。真夏日が続くようになった頃、僕は自分でも持て余すほどの金を手にしていた。
 
 机の上の電話が鳴る。チビ六ではない。彼は一度も電話をしてこない。メールと郵便ですべてのやり取りが行われる。
 「わたし、誰だかわかる? 望月佐知子よ」
 中学の同級だった彼女は、東京の女子大に来ている。昔は目立たない女の子だったのだが、先日の同窓会では思いもかけないほどに綺麗になっていた。東京に出てきたから綺麗になったのか、もともとそうした素質があったのかは良く分からない。
 「この間の同窓会では、何も話せなかったから。会える?」
 僕にとっては、願ってもないことだ。ここしばらくはパスワード探しや不正コピーに夢中でいたが、やはり女の子と話すのは魅力的だった。僕は、車のキーを掴むと、彼女の元に向かった。

 夜の高速を窓を開けて走る。ギラギラとした照明が、夏の硬い空気を突き抜ける。スピーカーから溢れる歌謡曲の、俗っぽい歌声が窓から後ろに飛んでいく。佐知子は、髪が風に弄られるままにして、前方の闇を見ている。時折、音楽に合わせて、低くハミングをする。彼女の気持ちは良く分からないが、僕は最高に楽しかった。自室で非合法な商売をしている時の、澱んだような快感とはまた別の、爽快感が僕を包む。ハンドルを切ると、彼女の匂いがちらと翳める。対向車のライトが、佐知子の美しい顔を照らす。トンネルに入ると、二人だけのオレンジ色の海に沈む。無言で、僕は車を走らせる。千葉の海に、冷たい太陽が昇る頃、僕と佐知子は初めてのキスをした。
 「どうして、僕に電話したの」
 「前から、気になっていたの。どうして、杉井君のことを庇ってくれるのか。私には、そんな勇気持てなかったから」
 「なんでかな。チビ六のことは放っておけないんだよ。わからないだろうけど」
 「いいえ、わかるわ」そう言うと、佐知子はもう一度目を瞑った。静かな長いキスだった。

 それからも僕は、自分なりに楽しみながら非合法な商売を続けた。金があるに越したことはなかったが、それ以上に面白くなってきていた。不正コピーをするソフトに、一部改造を加えることもした。といっても普通では分からない。ある特定の操作をすると、画面の一部にメッセージを表示するだけだ。「著作権を守ろう。不正コピーを許すな」そんなメッセージだ。この不正コピーを買う人間に対する、ちょっとした悪戯心だった。ある日、偶然にこのメッセージが表示される。そんなことを考えると、笑いがこみ上げてくる。それからも僕はいろいろなソフトをコピーし、パスワードを盗んだ。

 机の上の電話が鳴る。佐知子からだ。
 「もしもし、佐知子です。今からいいかしら」
 佐知子の部屋に向かう。別に恋人を気取るつもりはないけれど、妙に胸が高鳴る。部屋で静かにコピーを繰り返している反動なのか、運転が乱暴になる。タイヤが悲鳴を上げる。
 彼女を拾い上げると、高速道にのってあてもなく走る。複雑な形に交差するどこか現実離れした道を、ひたすら巡っていく。深夜の流れは軽快だ。昼の渋滞とは別の世界。高架の上から、明るい夜の東京を眺める。こんな時間でも窓に明りのある、いくつものビルディング。下品な電光を放つ看板が、次々に飛んでいく。サラ金。不動産屋。何を考えているのか、屋上にブルドーザーが乗っているビルもある。タワーが青白い照明灯に浮かび上がっている。夏が来ている。くるくると回りながら高度を稼ぐと、橋を渡る。黒い沈黙の果てまで橋は続く。

 大学の研究室も夏の間は、人が少ない。時々、様子を見に行っても、たいてい、空っぽだった。本来、情報工学なんていう学問は、研究室の机に向かって、みんなでやるようなものではない。長い休みになれば、誰もが実家に帰ってしまうのも当たり前だ。それに、研究よりも楽しいことや、研究よりも大事なことはいくらもある。誰もが、それを知っているのだ。そんな時は、自室に戻り、パスワード破りのプログラムを改良して過ごした。 パスワードの寿命はせいぜい、二ヶ月だ。そのパスワードで散々に商品を注文し、通信をしまくると、翌月には請求額の大きさに、当人が驚いて差し止めてしまう。だから、頻繁に新しいものが必要になる。もっとも、パスワードを売る側からすれば、そうでなくては困る。あまりに長期間に渡って使い、逮捕される人間もいる。売った側にまで、それが及ぶ事はまずないが、そんな時にはヒヤリとする。
 テレビが「ネットワーク犯罪の手口」という特集を流している。ネズミ講。マルチまがい商法。取込み詐欺。外国宝くじを装った贋広告。裏ビデオの販売。国際電話詐欺。贋の通信販売サイトによるクレジットカード番号の盗難。それから……。別にネットワークだからというわけでもない、古典的な犯罪が並ぶ。そんな画面を眺めながら、コピー作業を続ける。

 机の上の電話が鳴る。佐知子からだ。
 「もしもし、佐知子です。今からいいかしら」
 佐知子の元に急ぐ。僕は、一度も彼女をこの部屋に入れたことがない。非合法な商売の行われている部屋に入れるのは、憚られた。秘密を守るとか、そういったことではない。いつも白いブラウスを着た彼女には、あまりに不似合いな場所だと思えたからだ。だから、彼女の元に急ぐ。そして、一晩中車を走らせる。
 東名を一気に進む。どこからか、潮の香りが微かにしている。夏の空は暗さを増す。照明灯に遮られて星は見えないが、僕らの周りには、すべてを吸い込む闇がある。微妙な路面の起伏に体を揺すられて、妙に意識が高揚していく。音楽と彼女の低いハミングを乗せて、どこまでも行く。
 「このまま、京都まで行こうか」
 僕が思い切って尋ねると、彼女はハミングで答えた。京都が舞台の古い歌謡曲。悲しい女の心を歌う。僕は、アクセルをぐいと踏み込む。エンジンが静かに答える。僕は彼女に合わせてハミングをする。徐々に大きくなり、二人とも歌いはじめる。大声で歌う。音は、開いた窓から飛び去っていく。

 「新しい商売のアイディアはないか」
 チビ六からそんなメールが入ったのは、八月に入った頃だった。不正コピーやパスワードの販売も順調にいっているが、長くやれば警察に目をつけられる。末端からは何段階も経ているので、そう簡単には挙げられないだろうが、用心にこした事はない。この世界は、最後までやっている奴が損をするものらしい。 僕は、電話会社が始めた「ナンバーディスプレイ」を利用した商売を提案した。架空の会社名義で電話を用意する。そして、若い女性相手の懸賞広告を出す。そうすると、勝手に向こうから電話番号を知らせてくれるという仕組みだ。今では、電話番号から住所を割り出すデータベースが開発されている。それを組み合わせれば、若い女性の住所・電話番号の名簿が出来上がる。集めるデータは、多重債務者でも、裏ビデオの顧客でも、何でもかまわない。もっとも、こんなもので商売になるものかどうか、僕には分からなかった。
 数日後、チビ六から
 「ありがとう」
 という短い返事があった。役に立ったのかどうか、よくは分からない。当面は、今の商売があるので、その後に考えるというところだろうか。こんな相談のメールは、その後もときどきあった。僕は、組織の参謀役になったような気分で、無責任に思い付いた提案を答えた。その都度、チビ六は
 「ありがとう」
 という返事と、少しの謝礼を送ってきた。全く顔を合わせないが、僕とチビ六は、昔のような親友に戻れた気がして嬉しかった。互いを必要にする関係は、妙な幸福感に溢れていた。

 それからも、パスワード破りは続けられた。これは、ソフトの不正コピーを売るよりもずいぶん安全で、割りのいい商品らしかった。集まったパスワードの傾向を分析することで、より効率的なプログラムを作る。手当たり次第だった頃とは違って、今では、一晩に確実に20件は見つけることができる。ターミナルアダプタという接続装置を導入してからは、接続自体が速くなったこともあって、具合がいい。ぼんやりと、ディスプレイを眺めていると
 「パスワードが違います」
という文字が流れていく。無限の繰り返しのうちに、うとうととする。もちろん寝てもいいのだが、つい様子を見たくなる。
 「ピッ」
 と短い音がして、赤い文字が表示される。「ログインしました」
 自動的にパスワードが記録される。本当の持ち主の最終接続日付がずっと前なら、それは安全だ。当分気づかれる虞はない。見知らぬ人の財布から、僕のポケットに一万円札が瞬間移動する。
 
 今週も金曜の夜に電話が鳴る。佐知子からだ。
 「もしもし、佐知子です。今からいいかしら」
 こちらも、準備をして待っている。金曜にはコピーの作業もしないようにしている。車もワックスをかけておいた。いつも彼女は半袖のブラウスを着て待っている。車の助手席についてから、長い髪を後ろで束ねる。車は静かに走りはじめる。環状線のトラックの間を縫うように走る。パチンコ店と、中古車センタばかりが多い沿線は、夜は静かだ。道路の上だけが、激しく蠢いている。大型車の、ゴウ、という唸り。トレーラーが、信じられない様な積み方で、乗用車を運んでいる。最後の客を運び終えたらしいタクシーが、ものすごいスピードで駆けていく。僕は、彼女に目配せしてから、タクシーを追う。二人の体がシートに押し付けられる。東京を大きく一回りしてから、湾岸を走り、朝の霧が出た頃、僕は彼女を部屋に送り届けた。

 「寄っていく?」帰りかけた僕に、佐知子が聞いた。
 「じゃあ、コーヒーでも淹れてくれるかな」
 エアコンの効いた部屋には、安っぽいスチールパイプのベッドと、ガラステーブルと、小さな本棚があるばかりだった。テーブルの下のコンパクトディスクつきラジカセが、さっきまでハミングしていた歌を流している。本棚には『言語なき思考』『日本人の脳』『心の科学は可能か』といった本が並んでいる。佐知子は、心理学専攻らしい。今さらながら、僕は彼女の何も知らないことに気づいた。僕とチビ六にいろいろなことがあったように、佐知子にもいろいろなことがあったのだろう。この部屋に来たのも、僕が始めてではないかもしれない。そんな事を考える自分の貧しい心に、僕は戸惑いを感じていた。
 「心理学が好きなんだね」
 そう、台所に声をかけたが、返事はなかった。夜間がうるさく鳴っている。音が止んでしばらくすると、旨そうなコーヒーの香りとともに、佐知子が戻ってきた。
 「心理学なんて、怪しい学問なのよ」どうやら、聞こえていたらしい「その理論が正しいかどうかなんて、本当のところは誰にも分かりゃあしないのよ。みんなが理解できないような行動をとれば、異常と判断されるだけ。それって、単に多数決に負けただけのことなのにね」
 いつになく熱心に語る佐知子に、僕はまた自分の知らないものを見つけた。
 「このコーヒーが旨いかどうか、客観的に言うことなんてできないようにかい?」そう言って、カップに口をつける。懐かしいような香りが鼻腔に広がる。ほっ、と息が漏れる。「でも、このコーヒーは旨いや」
 佐知子は、そんな僕の言葉を聞いていなかったかのように、目を瞑り顔を寄せた。僕も応える。コーヒーの苦みと、唾液のぬるみが口に広がる。顔を捩るようにして吸い上げる。
 「むん」
 と、彼女の鼻から声が漏れる。遠慮がちに、双つの乳房に手を差し伸べると、佐知子は体を預けてくる。硬い床の上で、転がるようにして抱き合うと、互いに背中をまさぐる。ブラジャーのホックに手が当たる。ブラウスの裾から乱暴に手を差し入れて、捲り上げていく。
 「電気を消して。おねがい」
 僕は、のろのろと起き上がると、明りを消した。仄かに暖かい闇の中で、急に彼女の匂いが濃厚になったように思う。生々しい女に、挑んでいく。

 僕がなんとなく思っていたように、佐知子は初めてではなかった。でも、そんな事は当たり前のようにも思える。この五年間、いろいろあったのだ。それよりも、彼女が僕を受け入れてくれていることが大事だった。それを確かめるように、繰り返し僕は求めた。昼を回って、やがて日が傾くまで、その部屋で愛し続けた。
 「僕が、どんな奴でも、君は愛してくれるかい」
 くるむように抱きながら尋ねると、佐知子はしばらく考えていた。そして、静かに答えた。
 「いやよ。あなたは今のままの普通の人でいて欲しいの」
 きっぱりとそう言うと、僕の目を見上げた。一瞬、チビ六のあの日の視線を思い出す。
 「わかった。普通の人間でいる」
 僕にとって一番大事なものがなにか、その時にははっきりと分かったように思えた。
 「普通か……」
 そう呟くと、僕はもう一度彼女を求めた。今度は、いっそう優しくしてやれそうだった。

 部屋に戻ると、チビ六からのメールが来ていた。
 「仕事は終りだ」
 とだけ書かれている。折り返し、問い合わせのメールを発信する。しばらくの間を置いて、エラーメッセージが返る。すでにメールボックスは消去されていた。念のためにと聞いていた電話番号も、でたらめだった。いつも商品を郵送していた郵便局にも、きっと現れることはないだろう。
 以前言っていた通りに、この仕事は打ち切りになったのだろうか。最後までやっている奴が損をする。そういうことだろう。ちょうど、普通の生活に戻りたいと思っていたときだ。潮時なのかもしれない。明日からは普通の人間として、研究室に通い、佐知子を車に乗せて走る。何も変わらない生活に戻るのだろう。
 ふと、コピーに紛れ込ませた、あの改造プログラムのことが気になった。あれがばれて、チビ六はまずい立場になったのではないか。それで、僕を守るため、一切の連絡を絶ったのかもしれない。そんなことはない、と否定してみても、不安は消えなかった。なんの実害もないプログラムだが、必要の無い物だった。不安は、確信に近いものに膨らんでいく。
 守ってくれていたのは、いつもチビ六の方だったのだ。そんなことを思うと、いても立ってもいられなかった。そう思いながらも、僕はコンピュータに残されたパスワードデータとプログラムを消去した。二ヶ月あまりの間に作り上げた、大量のデータベースは、一秒もかからずに消えた。さらにごみ箱の中身を削除すると、
 「キュウ」
という音とともに、すべてが終った。恐怖心も何も、すべての感情が消えて、元の自分に戻っていく。もう、チビ六とは二度と会えないような気がする。

 ふと気づくと、留守番電話のメッセージランプが点いている。帰宅したときに見落としたらしい。僕は再生ボタンを押した。
 佐知子からだ。
 「もしもし、佐知子です。あなたが帰ったあとで急に思い立って、遠くに行くことにしました。小林君には、普通でいて欲しいと言ったのに、なぜこんなことをするのか、自分でも良く分かりません。私は、杉井君についていくことにします。杉井君は、ついて来るなと言うでしょう。でも自分の気持ちは、自分の物です。幸せかどうかは分かりませんが、私にふさわしい生き方だと思います。またいつか三人で会える日が来ると信じています。そのときは、許してくれますか」
 僕は、車のキーを取ろうとして止めた。もう佐知子は部屋にいないだろう。戻ることもない。「ピー」という電子音がして、彼女と僕の最後の関わりが切れた。何もかもが遠くに行ってしまった。チビ六、佐知子、あの日の僕。
 そのとき、もう一件のメッセージが再生された。チビ六だ。
 「じゃあ」
 人懐っこい笑顔が、電話の向こうに現れて、ひょいと右手を振って見せた。ひとりになった僕には、大人になるということがとてつもなく辛く思えた。