「厭だ。厭だよう」 深夜の静寂を破って、寝室から娘の声がする。いつも三時を回る頃 に同じ寝言が聞こえる。キーボードを打つ手を休めて、冷め切った 珈琲に手を伸ばす。 娘の寝言が多くなったのは、幼稚園に行くようになってからだ。 あまりにはっきりとした寝言なので、その度に寝室に確認に行った ものだ。扉を細めに開くと、ベッドの中から妻が眠そうに微笑む。 娘と私を見比べるようにして優しく頷く。「寝言よ」と口だけ動か して見せた。 九月に入っても、午後のアスファルトは熱を失わない。今朝方ま でかかって仕上げた企画書を鞄に、早足で横断歩道を渡る。客先は この先の古いビルの七階。約束までは十五分もあるが、あそこのエ レベーターはかなり待たせてくれる。二基しかないのがいけないの か、それとも運行のアルゴリズムが悪いのか、階数表示のランプを 見上げながら五分以上も佇む破目になる。暑い陽射し。湿った風が ぞろりと首筋を舐めると、悪寒とともに冷たい汗が流れる。逃げる ように歩を進める。 案の定、エレベーターホールは人で一杯だ。午後一番の約束で訪 れた人達が、苛ついた表情で階数表示を見上げている。汗を拭きな がら腕時計を確かめる小太りの男。大きな封筒を抱えて、落着き無 く周りを見回す若い女。無言で眼を瞑っている役付きらしい小男。 彼らを尻目に階段へ。二階、三階、四階、五階。不快な汗が吹き 出す。大きく息をついて、また登る。六階、七階のフロアに右足を かけて体を引き上げた途端、正面の清涼飲料の自動販売機がごろり と横転した。と、思ったのだが天井も足元も回っていた。 多分うつ伏せになっているのだと思うが、自信がない。汗は止ま らない。すっ、と何処かに落ち込んでいくような浮遊感。このまま 心臓が止まる予感がする。幼い頃眠りにつく時に感じた、母から切 り離されるような孤独。誤解も後悔も不仲もそのままに社会から切 り離されて、自分だけの世界に帰っていく悲しさ。 「大丈夫? しっかりして」 背後から優しい女の声に励まされて、正気を取戻す。助かった。 「どうなすったの。寝言なんか言って」 机に突っ伏していた私に、妻が優しく微笑んで頷いて見せる。口 元にだらしなく付いた涎を拭いながら、頷き返す。静かな夜の寝室 から、娘の寝息が微かに聞こえるような気がする。「妻と二人、熱 い珈琲でも啜りながら、暫くそれを聞いていよう」と私は思った。
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