妻の家出

                              

  沿線の軒下に、親子の物だろう水着が三着ぶら下がっている。新 

 幹線の高架からはとても見付けることはできないだろう。古川で乗 

 り換えた陸羽東線は、唸るようなディーゼルの音をさせて、ゆっく 

 りと進む。高校時代に眺めていた懐かしい風景。青々と生命力に溢 

 れた稲が一面に広がる。後ろの方の席では、母校のであろう高校生 

 たちが、隣の女子高の生徒の噂をしている。陽気な笑い。 

  きらきらと無音で流れる江合川を渡ると、もうすぐに青い屋根の 

 家が見えてくる。私が生まれ育った家だ。妻の佳代子と娘の佳苗の 

 姿が庭に見えないかと、腰をあげ、つま先立ってみたが、誰も住ん 

 でいないかのように見えた。父は海外の工場に単身赴任している。 

 母も元気な間は働くと言って、かつて勤めていた役場で事務のアル 

 バイトをしている。 

  

  懐かしい無人駅で降りると、夏の風が川面を渡ってくる。四時を 

 回っても、陽射しの粒が弾けながら纏わりつく。切符を集める車掌 

 の腕時計が、ギラリと熱を滾らせている。車体の下から湧いてくる 

 ディーゼルの熱。たった一人ホームに降り立った私は、列車が去っ 

 ていくのを見送ってから、線路を渡った。もうすぐそこだ。 

  毎日遅くまで働いて、家庭を顧みない私を、妻はなじった。どん 

 なに説明しても納得しなかった。同じ会社で働いていたにも関わら 

 ず、理解しようとしない。 

 「しばらく、お義母さんのところに行くわ」 

  既に両親と死別して実家を持たない妻は、私の実家に娘を連れて 

 行ってしまった。幼稚園はちょうど夏休みだ。東京に私は一人残さ 

 れた。 

  

  玄関は開け放たれている。声をかけようと覗き込む。 

 「お父さん」 

  佳苗が後ろに立っていた。 

 「お母さんは」 

 「お買い物。佳苗お留守番できるんだよ」 

  お利口さんだな。娘の頭を撫でてやりながら、妻に何と言うべき 

 か考えた。結婚して、生きる世界がすっかり狭くなった妻に、何を 

 説明できるだろう。会社の状況。景気の先行き。働くということ。 

  

 「あっ、蜻蛉」 

  佳苗の指差す方を振り返ると、赤く成り始めた太陽を包むように、 

 アキアカネの群れが低く近づいてくる。初め逆光に黒く、やがて透 

 き通るように黄金と紅玉の色をして、幾百幾千の蜻蛉が、通り過ぎ 

 てゆく。私は佳苗と身体を寄せ合って流れの中に漂う。額を寄せて 

 覗き込むと、幸せそうに微笑みかえす。夕陽に自分たちも赤く染ま 

 りながら、この街で暮らすのも悪くないと考えはじめた自分が、妙 

 に気恥ずかしく思えた。