始球式

                              

  再び球場に足を踏み入れるとは、石原は思いもしなかった。三十 

 年も昔に、野球界とは縁が切れたはずだ。地方球団の若きエースは、 

 この町では知らぬ者のない存在だった。どこに行っても、店のオヤ 

 ジは金を受取ろうとしない。高校を出たばかりの身には、どうにも 

 居心地の悪いものだ。そんな事がかれこれ三年。そして四年目のシ 

 ーズンが終った頃、球団に呼び出された。八百長疑惑。そして、彼 

 は永久追放された。 

  その後も、この町で彼を知らぬ者はなかった。エースを失って成 

 績が低迷すると、そのすべてが覆い被さってきた。「馬鹿野郎」と 

 いう罵声や、石や、拳が浴びせられた。球場に近づくことはなかっ 

 たが、よその町に行くこともできなかった。勤め人として、地道に 

 暮らしてきた。 

  月日は過ぎ、人は歳をとり、球団が身売りすると、石原は忘れら 

 れていった。彼も五十を越えた。そんな時、一通の手紙が届いたの 

 だった。 

 「以下の者の永久追放を解除し、公式記録を回復する」 

  それが何を意味するのか、よく分からなかった。間もなく新聞記 

 者が彼の自宅に押しかけ、喜びの言葉を聞きたがった。郵便受けに 

 入りきれないほどの祝福の手紙。そして、開幕戦での始球式。 

  新築されたドーム球場の控え室で、追放当時の窮屈なユニフォー 

 ムを着ても、自分が何をしているのか分からない。天井の低い通路 

 をくぐって、顔を上げるとカクテル光線が眩しい。グラウンドに踏 

 み出すと、ワッと湧く。全周に人が溢れ、フラッシュが無数に点滅 

 している。一歩一歩マウンドに向かう。三十年間忘れたつもりでい 

 たマウンドが近づいてくる。そして、そこに辿り着いた。 

  審判に一礼して、左打席の打者を睨み付ける。ロージンを弄んで 

 からボールを掴むと、指が縫い目にしっくりと掛かった。ひとつ、 

 ふたつ息を吸い、ゆっくりと振りかぶる。特徴の有る反り返るよう 

 な姿勢から、両腕を前後に引き延ばし右足を力いっぱい蹴り上げる。 

 五十歳のエースの体が跳ね上がり、指からボールが放たれる。彼は 

 自身の最後の投球になるであろうそれが、いつまでもキャッチャー 

 に届かないことを祈っていた。観衆も、審判も、すべての者がその 

 一球を見逃すまいとした。 

  しかし、ボールは瞬く間もなくミットに吸い込まれていた。ため 

 息がドームに反響する。スピードガンは動いていたものか。機械が 

 どう言おうとも、そのときそこにいたすべての者にとって、その投 

 球は三十年前の石原そのものだった。