空色の風が頬を撫ぜた

                              

  蝉の聲がひっきりなしに降り注いでくる。林の中を歩いていても、 

 夏は周りに満ち溢れていて、首筋を汗が滑る。田舎の叔父の家に泊 

 めてもらい、山の涼しい夏を過ごそうという考えは、見込み違いだ 

 ったようだ。従妹の一恵の家庭教師まですることになった。夏休み 

 の間中、この町に滞在することにしているが、この退屈な日々がこ 

 れからどのくらい続くのかと思う。十七の夏は始まったばかり。秋 

 はまだ遠い。 

  林をただ歩く。何か日常に変化を与えてくれるものを探して。視 

 界が開けたそこに、小川が。水量は僅かだが、水晶のような硬質の 

 輝き。駆け寄ると、足元から冷たい輻射が顔を照らす。目を瞑り耳 

 を澄ます。蝉の聲がふと止まる瞬間。ほっと息が漏れる。 

  目の前の茂みが急にガサゴソと鳴り、驚いて目を開く。翡翠色の 

 薄手のワンピースが、強い逆光に透けて輝いた。丈の長い草を割っ 

 て出てきた女性は二十代後半というところだろうか。彼女は、顔を 

 赤らめて目を伏せた。 

 「貴方、宮司さんのところに東京から来とられる……」 

 「はい」 

 「見んかった事にしてつかあさいね」 

  とりあえず肯く。それから、僕たちは暫く小川の傍らで話した。 

 東京の話をすると、彼女はとても嬉しそうに聞いてくれた。無邪気 

 に笑う彼女が眩しい。 

 「素敵な場所ですね」 

 「ええ」 

  彼女は恋人とこの小川で逢い引きを繰り返していたそうだ。とこ 

 ろが、春先に男は別の女と東京に出ていってしまった。それでも、 

 ついこの場所に来てしまうのだと言う。 

 「未練がましいでしょう。でももう忘れられそう」 

  そういうと、彼女は僕の瞳を見つめた。陽射しに頬が熱く火照る。 

 僕は小川の水を掬いぐいと飲む。 

  家庭教師を午前中に片づけると、僕は毎日小川に通った。いつ行 

 っても同じ光景が待構えている。静かで美しい小川と、夏の陽射し。 

  その日、僕は少し遅れた。夏休みも終りに近づいて、一恵の宿題 

 を見てやらねばならなかった。小川が見通せる所まで来たとき、彼 

 女の声が聞こえた。 

 「嬉しい。きっと帰ってきてくれるって信じとったの」 

 肩を抱いて小川を見つめている恋人らしい男が見える。彼女はとて 

 も幸せそうで、少女のようだ。僕は、そっとその場を離れると元の 

 道を戻り始めた。 

  梢を翳めて駆け下りた空色の風が、軽やかに頬を撫ぜた。それは、 

 あの小川の水のように夏の興奮を冷ましてゆく。夏の終りはそこに 

 来ている。