数量国語学序説

                              

  「いつもハジメのファミリーネームを忘れてしまうんだ。ウノだ 

 ったか、ウニだったのか」ディエゴは、すまなそうに僕に確認した。 

  「ぼくは宇野だよ。ハジメウノ。もっとも、名簿なんてファース 

 トネームで書けばいいのさ」 

  日本語学科高木研究室のメンバーは十名。そのうち、四年は僕と、 

 榊真二、台湾からの留学生である美恵、アルゼンチンのディエゴだ。 

 日本語の文章を因子分析するという、実に地味で芸術性のない研究 

 をしている。「夏目漱石の作品における色彩語の出現頻度の変化」 

 とか「係り助詞と場面転換の相関について」とかいったものだ。他 

 の研究室の連中からは、いずれコンピュータで文章の出来を採点を 

 するのではないか、と陰口を叩かれている。 

  「僕の胸に番号が見えるんだろう。真っ赤な文字で1と書いてあ 

 る」緋文字をなぞらえて、ディエゴに語りかける。正直なところ、 

 外国人であるディエゴが日本人の名前をどのように捉えているのか 

 は良く分からない。 

  「たしかに、君の名前をそういう風に憶えているね。名前が1で、 

 ファミリーネームも1だからね。でも、人間を番号で呼ぶのは好き 

 じゃないよ」寂しそうに答える。 

  ディエゴの父親は、監獄で死んだ。それでなのか。それとも、彼 

 が思い出すのも嫌な、兵役のことを言っているのか。どちらにせよ、 

 日本人である僕には縁のない話だ。美恵の恋人も、いま兵役に就い 

 ている。だからといって、僕が引け目を感じる必要はないのだと思 

 う。 

  「美恵は、恋人とうまく行ってるのかな。離れ離れだけど」僕は、 

 向こうの机に向かっている美恵に聞こえないよう、小声で言った。 

  「さあ、どうかな。彼女、日本人みたいにこの国に馴染んじゃっ 

 ているけど。もしや、永住するって言うんじゃないかと思っている 

 んだ。たしかに、この国は面白いからね」そこらの日本人より綺麗 

 な発音でディエゴは答える「それに、ハジメはそうなって欲しいん 

 だろ」 

  「いや、僕は……」 

  「日本の小説では、こういう時、雪国の温泉に二人で逃げるんだ 

 ぜ」ディエゴが偏見じみたことを言ってみせる。 

  それもいいかな。そう思う。美恵は僕にとって失いたくない人だ。 

 美恵も十分に分かっていると思う。 

  そのとき、僕らの内緒話が聞こえたかのように、美恵が振り向い 

 た。 

  「ハジメ、今度のゼミ合宿、温泉なんてどう?」 

  僕は、どぎまぎしながらも、大きく肯いていた。