『淫夢〜ラベンダーの記憶』


 雅美がその夢を見るようになったのは、1ヶ月ほど前からだという。横になったまま、ゆらゆらと漂う感覚に襲われ、身動きができなくなる。徐々に全身に暖かさを感じ始めると、腰の奥の方で波のようなものが湧いてくる。

 「来る」と思うまもなく、その波は雅美の中を駆け下りると、性感となって性器全体をもてあそぶ。目の前に、鮮やかな光があふれて、雅美は全身を激しく痙攣させる。

 目が覚めると、いつも雅美は、自分の下着が浅ましいほどに濡れているのに気づくのである。夢には性的な行為も、男性さえも現われないのに、その都度、いってしまう。まるで、得体の知れない夢魔に、自分の体を犯されているような恐ろしさに耐えられず、雅美は、美砂の診療室にやって来た。

 雅美はごく普通のOLに見える。今日は土曜日で仕事も休みなので、カジュアルなピーコックブルーのジャケットにベルベットのスカート、ストレッチブーツといういでたちだが、決して派手ではない。顔立ちは、確かに美人の部類には入るのだろうが、化粧やアクセサリで飾り立てた美しさではない。いかにも抑制の効いた、理知的な美しさに見える。とても、夜毎の淫夢に下着を濡らしているようには思えなかった。もっとも、美砂の診療経験からすると、日常生活でいつも理性的に振る舞っている人は、往々にして性に対する欲求が強い。先日も弁護士をしている27歳の女性が、相談に訪れた。法律事務所で企業関係の仕事を担当している彼女は、深夜0時を過ぎると、無性に体が疼きはじめるのだという。下着を着けずに薄手のワンピースだけを身に纏うと、ふらふらと近くのコンビニエンスストアに出かけてしまう。そして、店員や他の客の視線を感じると、膝を伸ばしたままで下の方の棚を覗き込んだりしてしまうのだと言う。いわゆる露出癖なのだが、見られることに、ある種の被虐感があるらしい。

 雅美の場合もこのようなものなのかもしれない。ただ、夢に誰も人間が登場しないというのが、引っかかる。被虐願望のある女性の夢は、そのものずばりのレイプシーンであることは、それほど多くない。言葉や、視線といったものにいたぶられる夢を見ることも多い。ただ、それらは背景に男性の欲望が込められたものである。

 とはいえ、雅美の夢に、これといった解釈ができるわけでもなかった。症状は夢だけなのである。それも甘美な快感に満ちた夢。しばらくは、このまま治療を続けていっても危険はないだろう。そのうち雅美が自分で解決する事ができるのではないか、と美砂は見ていた。こうした患者の多くは、自分を見詰め直していくことで、立ち直っていく。医師にできることは、あくまでそのための手伝いをすることだけだ。

 「先生、今朝気づいたんですけど、私の夢って色も付いているし、匂いもするんです」

 「匂いですか」最近の人の夢は、老若男女を問わず色が付いている。そう不思議なことではない。しかし、匂い付きの夢の話は、あまり聞かない。「嗅覚というのは、視覚や聴覚に比べると、原始的な感覚と言われているわね。そういう意味では、性的なものと関係はあるかもしれないけれど。ところで、今朝の夢ではどんな匂いがしたの」

 「それが、わからないんです。何か、甘いあけびの実のような感じの匂いなんですけど、ちょっと違う感じなんです」

 残念ながら、美砂は、あけびの実の匂いを思い出せなかった。あけびのような匂いの正体は、見当も付かない。あけびの匂いがする香水をつけた男性にでも関係があるのか。

 「そう。夢に匂いが付いているのは、別に問題はないと思うわ。でも何の匂いなのかしら」美砂は、雅美が自分の夢をしっかりと見つめ、出口を探そうとしていることに安心した。「あまり気にしすぎもよくないけど、目が覚めたときに、自分の夢を思い出してみるのはいいことよ。焦らずに楽にやってみましょう」

 それが、雅美と交わした最後の会話になるとは、美砂は思ってもいなかった。

 「患者のプライバシーは、一切、明かせないということですか」不機嫌そうに煙草の煙を吐き出すと、痩せすぎの神経質そうな刑事は続けた。「しかし、彼女はもう死んでしまったのですし、われわれも聞いた内容のすべてを公表したりはしませんよ。話してくれてもいいんじゃありませんか。それとも、何かまずい治療でもしていたんですか」

 挑発するような口調に辟易しながらも、美砂は譲らない。

 「死者にも、いえ死者にこそ名誉を守る権利はあります。生きていれば、説明も反論もできますけれど、それができないんですから」

 雅美が自宅のマンションから飛び降りたのは、最後の診察からちょうど2週間後のことだった。その日に診察の予約が入っていたのだが、彼女は現われなかった。刑事の話によれば、状況を見る限り、自殺であろうということだ。動機があいまいだったが、調べてみると、最近になって、レディースローンから多額の借り入れをしているのがわかった。美砂に話を聞きに来たのも、単に動機の確認のためなのだと、彼は強調した。しかし、美砂の態度を変えることはできない。

 「医師には守秘義務というものがあるというのは、ご存知ですね。申し訳ありませんが、お引き取りください」

 そう言うと、美砂は、痩せすぎの刑事と、先ほどから無言の大柄な刑事をまとめて追い出した。

 美砂は、雅美の奇妙な夢の正体を考えてみた。しかし、いっこうに答えは見つからなかった。あの夢を見続けたことで、自殺したのか。それとも、借金に追いつめられて、夢を見るようになったのか。それとも、自殺と夢とはまったく関係がないのか。最後の仮説は不自然に思えた。痩せすぎの刑事の態度は、単なる確認のために来たようには見えなかった。何かが隠されている。

 そのとき、不意に机の上の電話が鳴った。

 「先ほど伺いました、鎮西と申します」

 美砂は刑事の置いていった名刺を見直した。鎮西頼房とある。無口な方の刑事だった。それにしても立派な名前だ。

 「忘れ物ですか」

 「いいえ。実は彼女の死亡については、いろいろ奇妙な点があります。先生の意見を伺いたいと思いまして」