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4.焦がれる心 「いっぱい、出したね」
男の発した言葉を、ティーダは半ば他人事のように聞いていた。 内股を伝う液体の生暖かい感触。 もはやそれが自分のものなのか、シーモアのものなのか、彼には判断出来なかった。 かなり無理矢理な行為だったため、激しい痛みが残った。 「綺麗にしておかないとね」 そう言って、シーモアは横たわったままのティーダの隣でさっさと身支度を整え、立ち上がった。 「雑巾でも借りてきますから、君はそれまでにちゃんと服を着ておきなさい」 そして部屋の外へ出ていこうとして、もう一度振り返り、 「外から鍵を掛けていきますから、ご心配なく」 すぐに扉は閉じられ、鍵を掛ける音が響いた。 男が出ていったあとも、ティーダはしばらくの間動けずにいた。 どんな言葉も、感情も、浮かんでは来ない。 ただまばたきだけが、間断なく繰り返される。 最初に思い浮かんだのは、仕事のこと。 (…今……何時だろう……?) 台本を、チェックしておかなければならない。 シーモアに犯された気怠い身体を引きずるようにして起きあがると、ティーダは服を着ることもせず、バッグに手を伸ばした。 (だいほん……) 半分夢遊病のようにバッグをまさぐり、手に触れた小冊子を掴み出す。 めくった一ページ目。ワープロ文字が並ぶ中、余白部分に手書きで添えられた小さな文字が目に入った。 『午後2時、スタジオ入り』 アーロンの字。 ティーダはそっと、その字を指でなぞった。大切そうに。愛おしげに。 不意に甦る、アーロンの言葉。 『お前が頑張ってるのは、俺が知ってる』 うん。……頑張るよ。頑張る……… 『ティーダ……』 「アーロ……ン…」 掠れた声と共に、涙がどっと溢れた。 こぼれた滴が台本を濡らし、その小さな手書き文字を滲ませる。 「あー…ろん……っ」 ティーダは台本を裸の胸に掻き抱き、嗚咽混じりに、大切な名前を呼び続けた。 こんな汚された身体で、どうしてまだ尚その名を口にできるのか、自分が不思議だった。 結局その日はろくに台本もチェックできず、いつもの『Tidus』らしからぬポカをやらかして、番組関係者を驚かすと共に、苦笑させた。 「NG大賞でも狙い始めたの?『Tidus』くん?」 ADが笑って茶化すのを、ティーダは力無い笑顔で受け止め、小さく「すみません」と謝った。 「良いご身分よね。人気アイドルは失敗もNG大賞で済まされちゃうんだもの」 出演者の一人、女優のドナが聞こえよがしに囁くのを耳にして、ティーダは俯いた。 この中堅女優とはよくバラエティ番組などで一緒になるのだが、ティーダは彼女が苦手だった。 いつかアーロンに話した、自分の悪口を言っていた人物というのが、他ならないこのドナだった。 ――――耳を貸す必要などない。 そうアーロンは言ってくれた。 でも今回は、努力を怠った自分が悪いんだ。悪く言われて当然だよな…… しっかりしなきゃ……。 到底、しっかりできるような状況下では無いというのに、ティーダは必死で心を奮い立たせようと努力した。 いつものクセで、スタジオの隅に目を泳がせた彼は、けれど当然、欲しかった優しい視線を見つけることは叶わず、代わりにシーモアの蛇のような瞳と目が合い、小さく震えた。 …何処をどう間違ったか、ちょっとしたつてでアーロンが紹介された新しい仕事は、遊園地の警備員だった。 全くもって柄ではないのだが…と少々渋ったが、この不況下、文句をたれてもいられないと諦め、とりあえず面接を受けに都内のテーマパークへと足を運んだ。 「どうぞ、楽にしておかけになって下さい」 通された部屋にいたのは、恐らく自分とあまり歳が変わらないと思われる、穏やかな物腰の男だった。 ここで働くことになれば、この男が上司ということになるのだろう。 それも悪くはない、と思えるほど、アーロンは第一印象で彼に好感を持った。 「前のお仕事は、なぜお辞めに?」 ブラスカ、と名乗ったその男は、柔らかな声で問うてきた。 「……はい……」 どう答えるべきか逡巡していると、横で様子を窺っていた中年の男―――ブラスカと大して歳は変わらないと思われるが、恐らく部下なのだろう―――が、あっ、とアーロンを指さし、 「ブラスカさん、こ、この人、この間新聞で…。確か15のタレントに手を出したとかいう男ですよ!」 アーロンは心の中で舌打ちした。 まずい。 報道から一週間……決して長いとは言えないその期間で就職活動など始めるのは、やはり性急すぎたか。 ブラスカという人物に好感を抱いただけに残念だったが、この職場は諦めるしかあるまい。 「失礼した」 立ち上がってその場を辞そうとするアーロンの背中に、ブラスカの声が飛ぶ。 「お待ち下さい」 アーロンは驚いて振り向いた。 「新聞報道というのはあれでしょう。大衆的な…なんというか、芸能面ですとか、週刊誌が好むような?」 「……は?」 何が言いたいのか、とアーロンは眉を顰める。 ブラスカは穏やかに微笑んで、 「私はそういうのはあまり信用しないのです。得てして、事実の歪曲されたものが多いですからね」 「……はあ」 どうにも調子の狂う男だ。 「……けれどそんな男を雇ったとなれば、ここの信用問題に関わるのでは……?」 なぜ面接に来た自分がこんなことを言わねばならんのだ、と、事の不条理さを感じながらもアーロンはそう言ってブラスカの目を見た。 「そうですよブラスカさん!訳アリなのはやめた方がいいですって!」 部下の中年男も、アーロンの言葉に便乗する。 「キノックは黙っていなさい」 ブラスカが意外にもぴしゃりと言うと、キノックと呼ばれたその男は首を縮めて押し黙った。 アーロンはふと、エイブスプロのマイカ社長とリンを思い出した。 気が強いだけで無能な上司と、それを影で操る秘書。 それとは180度異なる、目の前のブラスカとキノックのやりとり。 後者の方が、ずっと好ましい。 ブラスカはアーロンに向かって続ける。 「人間、それぞれ多少の差はあっても、訳有りな生き物でしょう? それに、黙っていれば誰も貴方が週刊誌沙汰になったなんて気付きませんよ」 「……黙っていていいんですか?」 ブラスカは微笑んで、 「経歴は問題ではありませんから。大事なのは今ある貴方。 ……貴方は誠実な方だ。一目で分かりましたよ」 こうして、アーロンの新たな職場は決定した。 穏やかで芯の強い上司と、小狡そうだが小心そうな同僚のいる職場。 制服を着てテーマパーク内を巡回する、今までと全く違う仕事に多少戸惑ったが、 マネージャーというハードワークに比べれば、遙かに気が楽には違いなかった。 ―――ただひとつ、ティーダが何処にもいない、そのことを除いては。 逢いたい。逢うのが無理なら、せめて声が聞きたい。 何度も何度も、携帯に手を伸ばしかけ、けれどティーダには、電話する勇気が無かった。 きっとアーロンは既に新しい生活を送っていて、そこには自分の知らないアーロンがいて…… 今更電話しても、困らせるだけかもしれない。 それに…… 時間さえ有れば新しいマネージャーに犯され続けている自分が、アーロンを想うなどもう許されないことではないのか? だけど……。 逢いたい。 胸の中で、爆発しそうな想い。 逢いたい……。 このまま、逢えなかったら。 逢えなければ…… 「死んじゃいそう……だよ」 今日もまた、控え室でシーモアに犯された裸の身体を自分で抱き締めるようにして丸くなり、 ティーダは譫言のように繰り返す。 「オレ、死んじゃいそうだよ、アーロン……」 無表情な瞳から、涙が一筋、ポロリ、とこぼれた。 「最近どうしたんだ、『Tidus』?」 写真集の撮りも最終段階に入ったその日の仕事。 カメラマンのワッカがティーダに近寄り、顔をのぞき込んだ。 「元気、ないな?顔色悪いし、少し痩せた」 この前撮った時は、あんなに活き活きしてたのに。 ワッカがそう呟くのをぼんやり聞きながら、ああそうか、この前この仕事をした日、あの日はホントに、幸せな朝だったなと、ティーダは想う。 「なんか辛いこと、あんのか」 気遣わしげに掛けられた、優しい言葉。 もう随分長い間、誰からも貰えなかった暖かな言葉に、ティーダの涙腺は緩んだ。 「ワッカ……オレ…」 「ん?」 涙ぐむティーダに、ワッカはそっと顔を寄せる。 「どうした?」 「……彼は、少し情緒不安定なんです」 不意に背後から飛んできた声に、ワッカは驚いて振り向く。 マネージャーのシーモアがいつの間にか近寄ってきていて、ワッカを咎めるように見つめていた。 「モデルが気に入らないというのなら、撮影はまた後日に回しましょうか?」 刺々しいその言い方に、さすがにワッカもムッとして、 「そんなことは言ってねぇだろ。オレはただ『Tidus』の体調を気遣って……」 「大丈夫だから、ワッカ」 その険悪なムードを取り払うように、ティーダは努めて明るい声で割って入った。 「大丈夫。続けよう」 ワッカは何か言いたげに口を開きかけたが、シーモアの睨むような視線を受け、黙って肯いた。 ゴメン、ワッカ。 モデルを続けながら、ティーダは心で謝り続ける。 今のオレには、ワッカの望む最高のモデルになること、できそうもない。 心がさ、もう。 もう、生きてないんだよ。 その日、控え室で、シーモアはいつもより更に乱暴にティーダを抱いた。 「誰かに助けを求めようなんて、思わないことです」 「…っい……ぁ」 強引に抜き差しを繰り返しながら、シーモアは囁くように続ける。 「君は私のものだ。いい加減、観念したらどうです?」 「う……っ…く……っ」 後ろからぐいっ、と奥まで突き入れられて、ティーダは声を上げることすらままならず、 ただ身を捩って悶えた。 やがて、意識は白濁した。 ティーダのマネージャーを降りてから既に2週間以上が経過し、さすがにアーロンにも、少年のスケジュールの動向はもう分からなくなっていた。 ほとぼりが冷めたら連絡を入れようと思っていたのだが、きっかけが掴めない。 むやみに携帯に電話して、事を荒立てるような事態にだけはしたくなかった。 自宅に電話するのが一番なのだが、多忙なスケジュールをこなす少年が、いつ自宅にいるか。 しかも眠っているところを起こしたりするのは、最も避けたいことだ。 度々ブラウン管の向こうで見かけるティーダは、日増しに衰弱しているように、アーロンには見受けられた。 しっかり眠っているのだろうか…? 警備員の仕事をこなしながらも、ただそのことばかりが気がかりで、彼は落ち着かなかった。 「……気になりますか?」 昼休み、警備員室で所在なげにつけられていたテレビのCMに、ティーダの姿を見つけてチラと目をやり、ブラスカは隣にいたアーロンに尋ねた。 アーロンは目を上げてブラスカを見た。何のことを問われているのかは、すぐに分かった。 「気にならない、と言えば、嘘になります。…いや、気になって仕方がない……」 ブラスカには特に、ティーダとの関係や、あの報道に関することは話していなかったが、この聡い上司は薄々事情を察しているようだった。 「連絡を入れたくても、ああいう仕事をしていては、なかなか捕まらないものなんでしょうね」 「…ええ」 ブラスカは一口、手元のコーヒーカップを口に運んで、次の瞬間、驚くべき台詞を口にした。 「『Tidus』くんは今日、午後9時に仕事あがりだそうですよ」 「……は?」 アーロンはその、あまりにこの場に似つかわしくない発言に、言葉を失った。 「ええ、ですから、午後9時に……」 「……どうして貴方がそんなことをご存じなんです?」 のんびりと会話を続けようとするブラスカの言葉を遮り、アーロンは早口で尋ねる。 ブラスカというこの男、まさか世の中の全ての事象を見透かすことができるのだろうか、と、半ば本気で思いかけたくらいだ。 と、ブラスカは少し照れたように微笑って、 「娘がね、『Tidus』くんの私設ファンクラブの会長をしてまして。 出待ち、というんですか。それのために、スケジュールを把握しているらしいんですね」 「……」 極めて現実的な回答が帰ってきて、アーロンは再び言葉を失った。 そして、自分と大して歳が違わないであろうブラスカに、ティーダと同じ歳の娘がいるという事実を知り、更に驚いた。 「結婚がね、早かったんです」 そう言って、ブラスカは穏やかに微笑んだ。 午後十時半。 自宅に帰り着き、さてシャワーでも浴びようかという時間に、電話が鳴った。 ティーダの自宅マンションにかかってくる電話は、仕事関係者からに限られている。 ……こんな時間に、何だろう? 明日のスケジュールに変更でもあったのかな、とぼんやり思いながら受話器を取った。 「もしもし…」 『ティーダ、か?』 突然耳に飛び込んできた懐かしい声に、一瞬、呼吸が止まる。 「アー…ロン?」 『ああそうだ。元気でやっているか?』 アーロン……アーロンの、こえ。 ティーダは受話器を握りしめたまま、へたっと床に座り込んだ。 『ティーダ?』 涙が溢れた。 「アーロン……」 何も言葉が出てこなくて、ティーダはただ、彼の名を呼ぶ。 『毎日しっかり眠ってるか?食事は、ちゃんと摂ってるのか?』 逢いたい。今すぐ会いに来て。キスして。Hして。 心の中に、怒濤のように言葉が溢れてくる。 でもどれも、きっとアーロンを困らせるものばかりで。 もう我が儘を言って、迷惑をかけるのは耐えられなかったから、ティーダはそれらを必死で抑えこむ。 「ちゃんと…寝てるよ?食事も、摂ってるし……」 『……泣いているのか』 努めて明るく言ったつもりなのに、気付かれてしまった。 「……っ……だっ…て、久しぶり、だったから……っ」 声が震えた。涙が、溢れて止まらない。 「アーロン、オレのこと…嫌いになってない? オレの我が儘で、あんなことになって、事務所、やめさせられて……」 『お前の我が儘ではない。』 低く優しく、その声は語りかける。 『俺が抱きたいと思った。だから抱いた。後悔などしていない』 新たな涙が、ティーダの頬を伝う。 『愛している、ティーダ……』 耳元で囁かれた、愛の言葉。 受話器越しにキスされたような感覚にとらわれ、ティーダはきゅっと、目を閉じた。 アーロンが好きだ。好きで好きで……。胸が、苦しい。 その後、アーロンのことを色々聞いた。 都内のテーマパークで、警備の仕事をしていること。 上司の娘が、『Tidus』の追っかけをしていること。 それらの話を、ティーダは新鮮な驚きと共に聞きながら、時々クスクス笑った。 心の底から笑ったのは、本当に久しぶりだった。 『お前の方は、どうなんだ、ティーダ?』 少し経って、今度はアーロンが尋ねた。 『新しいマネージャーとは、上手くやっているのか?』 ……一番、聞かれたくないこと。 ティーダは両手でぎゅっと、受話器を握りしめた。 「うまく、やってるよ。よく気がつく優秀な奴でさ、しっかりフォローしてくれてる……」 『……そうか。それなら、いい……』 本当のことなど言えなかった。言えるはずがなかった。 言ってしまえば何もかも、崩れていきそうで……。 そしてティーダは最後までアーロンに、逢いたい、とは言えなかった。 「……また、電話して?」 『ああ』 「お休み、アーロン……」 受話器を置いた後に襲ってきた静寂は、耐え難いほどに、切なかった。 ティーダはベッドに潜って、声を殺して泣いた。 アーロンの声を聞いて、逢えないことの苦しさが、明確な形になって少年を襲った。 逢えないのなら、明日なんて来なければいい。 朝迎えに来るのがシーモアだというのなら、永遠に夜のままでいい―――― ティーダは、嘘をついている。 直感的に、アーロンはそう思った。 『上手く、やってるよ』 僅かに歯切れの悪い少年のあの話し方は、何かを隠している証拠だ。 新しいマネージャーと、上手くいっていないのだろうか。 そしてそれが、ティーダを苦しめているのだろうか? だとすれば、俺に出来ることは何だ? いや、それよりも何故、ティーダはそのことを相談してくれないのか。 アーロンはしばらく思考した後、電話帳をめくり、慣れない番号をプッシュした。 翌朝。 午前7時のスタジオ入りに合わせて、6時にティーダを迎えにやって来たシーモアは、何度呼び鈴を鳴らしてもティーダが出てこない事を訝った。 まさか、自殺を謀ったわけでもないだろうが……。 管理人を呼んでマスターキーを使い部屋に入ったシーモアは、しかし少年の姿を見つけることは出来なかった。 仕事に向かうときの荷物はそのままで、無くなっているのは携帯と、財布。 失踪――――逃亡? 何にしてもこれは――――事務所の一大事であることに間違いない。 シーモアは僅かに唇を噛んで舌打ちすると、急いで事務所に連絡を入れた。 「『Tidus』の姿が見あたりません。…ええ。……失踪しました」 |
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