ねこぢるが死んだのはショックだったが、
それ以上に当惑しているのは、そのことに、こんなに衝撃を受けている自分のことだ。

彼女の最近の作風からは、とてもそんな手段で自分の人生に決着をつけてしまうとは
思えなかったから、確かにびっくりはした。いや、びっくりしている。そのこと自体は、
不思議でも何でもない。
困っているのは、その衝撃の大きさの方だ。死人を引きあいに出すのもどうかとは思うが、
たとえば
バロウズが死んだときも、これほどびっくりしなかったし、
フェラ・クティが死んだときも、これほど悲しくなかったような感じだ。
(実はもうひとり、比較にあげたい死人がいるが、思うところあって省略する)
それがいったいどういうわけなのか、と考えてみると、
単に、それだけ、ねこぢるの作品がわたしの生活の中に入り込んでしまっていた、
ということなのかもしれないが、
今振り返り、過去の彼女の著作を読み返してみると、もともとねこぢるの作品の中には、常に
死のにおいが感じ取れたものだった。

ひとりで賽の河原にたたずむにゃっ太や、虚無の中で泣くにゃー子の姿は、そうしたにおいが
色濃く感じ取れる典型だし、作風の変わった最近の作品にも受け継がれている意味性の希薄な
暴力シーン、徹底的に救いのない被害者(それは虫であったり、猿であったりと、悲劇性を薄め、
よりこっけいなものとして読者に受け取らせるような脚色が施されてはいるが)
にたいする視線も、あたかも
被害者と加害者が結局は同類であり、いずれは同じ道を歩むものなのだ、
と暗示しているかのようだ。

たとえばにゃー子一家の幸せは、時折あらわれる外部の悲劇を吸い取り、それらの涙や血を糧と
して咲いた花のようにも思える。カースト制度が、自分より身分の低いものの惨状を
目の当たりにし、
「あのひとたちよりは、まだまだましだ」と、自分を納得させるための仕組みとして機能し、
ヒンドゥー教が、来世での輪廻転生のチャンスを提示することによってさらに悲惨なカーストの
ものたちを生き永らえさせている(自殺すると、上のカーストに転生したり、解脱できないから)
原動力となっていることを考えると、ますますそうした思いは確信に近づく。

だが、だとすると、なぜねこぢるは自殺したのか?
私生活について、完ぺきなまでに隠ぺいし続けていた彼女のことだから、実際どういう生活を
していたのか分からないし、何か深刻な問題を抱えていたのかどうかも分からないが、
最近の作品の中からは、それほど切迫した何かをうかがいとることはできない。
いや、もし何か、本当にものすごい問題があったのだとしても、なぜあれほど好きだった
インドの風土性になじまない、むしろ反するような死に方を選んだのだろう。

そのこたえは最近の作品の中にあるのだろうか。
というのは、今挙げたような初期の作品にたいして、「ガロ」以外でのメジャーな雑誌に
連載された作品群、たとえば「ねこぢるせんべい」や「ねこぢるだんご」、「ぢるぢる旅行記」
や「ぢるぢる日記」といった著作には、あきらかに欠落している何かがあるのだ。

それは、ある程度ページが与えられているが故の物語性が示す独特の人生観であり、
とらえどころのない不安や孤独感、諦観といった言葉で象徴することのできる、ある種の観念
である。
たとえば「自分さえよければ、他人の悲劇はどうでもいい。いや、むしろおもしろい」
という視線が伝わってくることに関しては、初期作品も後期作品も同じだが、そういう
「自分さえよければいい」というお互い同士は、裏を返せばどうしても理解しあえない、
近寄れない距離を保っている、ということでもあり、その悲劇性が感じ取れるのは、
初期作品だけだ。
だから、「ねこぢるうどん」の1と2を読まずに最近の作品だけを読んでいる読者は、
たぶんねこぢるにたいするとらえ方が、わたしとはずいぶん違うんじゃないかとも思う。
ねこぢるが、なぜ初期の作風から考えると微妙ではあるが明らかにそれと分かる「転換」を
したのか、その理由はわたしには分からない。
初期のような作風では、あまりにも暗すぎる、という本人なり編集者の判断があったのかも
しれないし、短編のオムニバスを好んで使った連載の形式のせいでもあるかもしれない。
ただ、本人がこうした作風の変化を本当によしとしていたのかどうか、彼女が自殺して
しまった今となっては、疑念を抱かざるをえないのも確かだ。

いずれ「ガロ」などで追悼特集が組まれるだろうし、その時にはもっと事情が
あきらかになっているかもしれないが、どうも遺書は公開されないらしいし、彼女の考えを
知るための、唯一の手がかりであるはずの連載の数々からは、近況を記していた
「ぢるぢる日記」ですら、何も得ることはできそうにない。
だが、そんな中でちょっと気になった連載があった。

「小説すばる」の連載の5月号には、妻を捨て、野良犬たちと一緒になって、
にゃー子やにゃっ太の施すえさをむさぼり食う男の話が描かれている。
また、同じようなモチーフが、「コミックビンゴ」のねこ神様のエピソードのひとつにも、東大に
合格しながら、「奴隷になりたい」とねこ神のところに相談にくる男の話としてあらわれている。
「まあいいんじゃないですか、職業選択の自由だし」と言葉を返すねこ神たち。
ここから伝わってくるのは、
「みんなすきなように生きればいい」というメッセージが、まずひとつ。
けれど、ただそれだけの話なら、同時期にわざわざ別の連載でまで、同じようなモチーフを
持ち出すわけがない。


1ねたがきれた。

2よほど面白いテーマだと思った。


以外の理由がもしあるとすれば、それはねこぢる自身が、自らをねこ神ではなく、
地面にはいつくばって犬のえさをあさる男や、奴隷になって工場でこき使われることを望む学生
のような存在だと考えていたから、
じゃないかと思う。
しかも、同時にそうした作品を描いている彼女は、これらのテーマを外から眺める視線をも
持っている。つまり、男や学生の選んだ道は、他人からは決して認められない、社会的には
蔑視されるような方向性であることも、ちゃんと分かっているのだ。

ということは、この文脈を現代日本ではなく、彼女が執着するインドに当てはめてみると、
社会的に容認されない方向性、というのは、つまりインドで言う自殺であり、
自分が自殺することが、肉親(漫画では妻であり、母。現実では・・・やはり山野一か)や
ファンにも決して認められないことだ、
ということをすでに知っていた、ということになる。

それでも自分の作った自分の神様はこうやさしく言ってくれる。
「いやお母さん、生き甲斐はひとそれぞれですし・・・」
たとえ死ぬことが「生き甲斐」であったとしても、ねこ神さまは、認めてくれるのだろう。

こうして考えていくと、ねこぢるがなぜ死んだのかという理由はともかく、
自分が死ぬことに関して、彼女はどんな思いでいたのか、ということについて、
なんとなく納得できるような気分になってきた。
そもそもあれだけひとの死から荘厳さや悲劇性をはく奪しようと試み続けた彼女なのだから、
自分の死も、そのひとつとして、同じように嗤ってほしい、そう思っているんだろう。
その点に関してだけは、わたしは確信している。今まででっち上げた、彼女の死にかんする
殴り書き以上に、絶対的な確信を持っている。
だからhideとかいうよくわからないひとの死と同じ方法を選んだ彼女の自殺を
「後追い」と報道するメディアや、
このふたりの死をちゃかして、ねこぢる追悼記事が並ぶネットの伝言板に
「警察が、バタフライナイフに続いてドアノブの未成年者使用禁止をよびかけている」
といったふざけた書き込みをしたやつのことを知ったら、彼女は笑うだろう。
きっと面白がってくれるに違いない。
そういうキャラクターだと思って、わたしはねこぢるを面白がっていたし、そうでなければ、
彼女の漫画をあれほど楽しみにするわけがなかった。

だから、わたしは自分がこんなに悲しい理由が分からないのだ。

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