今、自己開発セミナーのリバイバルを恐れる訳

 因みに今というのは1997年の3月です。

 かつて今自己開発セミナーが流行ったのは1990年頃でした。その頃はバブル真っ盛りって言うんですか、パーっとした時期だった。パーっと言っても、それは物質的金銭的なもので、なんか知んないけど忙しかったりして、心理的には空虚感が蔓延してたような気がしたなあ。

 その空虚感を突いたのが自己開発セミナーだった。

 「あなた自身を見つめ直してみませんか」(そーだーなー、でも時間無いしなー。)「3日間であなたが変わります。12万円かかりますけど。」(あ、そう。カネ回りはとりあえず悪くないしね。)「今のままのあなたでいいんですか。」(世の中もどんどん変わるし、自分も変えなきゃね。)「自分に投資しませんか。」(竹内宏も投資しない奴はバカだって言ってたな。)

 と言う訳で、こういうものが流行る素地は時代の空気にビルドインされていたのだった。

 しかし放っておいてもお客が勝手にやってくるほど世の中甘くはない。そこでセミナーが採った戦略が「勧誘」だった。このときマルチ商法のダマしのノウハウが入り込んだのはどうやら事実らしい。その結果、職場・友人関係・地縁・血縁の中にセミナーの勧誘が入り込み、人間関係を破壊した挙げ句に消費者問題化し、そのうちバブルも弾けて時代の空気も変わってしまった。セミナーとしても強引な勧誘を続ける訳には行かなくなって、その結果人も集まらなくなる。一部大阪方面のセミナー(実名攻撃。ライフスペースだ)は本当にヤバい方に暴走しているらしいが、大多数はおとなしくなって細々と続いているらしい。

 と言うのが私が知ってる今までのセミナー問題についてのアレコレである。つまり、セミナー問題というのは、私の認識では、とっくに片づいてしまった過去のエピソードというものなのであった。

 ところが、最近、あるスジからセミナーに誘われて困ってるという相談を寄せられたのである。最初は「ふーん、そんなの今時、まだあるの。」という印象だったのだが、だんだん心配になってきてしまったのである。

 前回のセミナーブームで特に問題になったのは職場での勧誘活動だった。

 ヒトが職業人となる課程というのも、一種洗脳の手順を踏んでいる。昔、カローシするまで働くバカなモーレツサラリーマンみたいな人種がいたけれども、これもカイシャに洗脳されて、それがまた利きすぎた哀れなオヤジのなれの果てだった。そういう洗脳社会に別種の洗脳スタンダードが介入しようとして抵抗されるのは当たり前だ。

 また、会社というのは本来利益共同体であるべきものだから、上下の力関係とか損得関係が生じている。そこにセミナー勧誘が乗ってしまうととんでもないことになるのは火を見るよりも明らか。ハマった課長が勧誘を始めたとして、これに抵抗できる係長や主任やヒラが何人いるだろうか。出入り業者、外注会社、関連会社などにまで勧誘が及んだ場合、もっと酷いことになる。

 会社が純然たる利益共同体であればまだなんとかなったかもしれない。純然たる利益共同体の場合、目的や手段が明確になっているハズだから、本来の目的以外の余計な要素を排除する機構が働くことになっている。ところが日本のカイシャの場合、地縁・血縁共同体の性格も入り込んだグチャグチャの共同体となっているので、多少理屈に合わないことでも、ドロ臭い人間関係その場の雰囲気・空気に人の行動は支配されているのだ。(これでムリな高度成長とか、理屈に合わないバブル経済を実現した訳だけれども)こういう中で、勧誘してる課長に向かって「あんたのやってることは間違ってる」と言える係長や主任やヒラは何人もいないはずだ。

 ニッポンの職場の人間関係というのは上記のようなややこしいダイナミズムで動いているのだが、セミナーにハマってるヒトは単純な世界観を注入されているのでそんなことには頓着しない。それでヘーキで勧誘活動を展開するのだが、それが問題となるのはこんな訳だからだ。

 ここまでがかつてのブームの時の話。ところが今、ニッポンの職場のダイナミズムの原理は変わりつつある

 たとえば、バブルが弾けてみると不良債権の山ができている(現場が突っ走るから)。頼みもしないのに勝手にカローシして会社に迷惑かけるバカがいる。生産調整の必要が生じてクビ切りをしたくても簡単にはできない。これらは皆、本来利益共同体であるべきカイシャがグチャグチャ共同体になっていることから生じた弊害である。

 グチャグチャ共同体というのは、高度経済成長を実現するために政策的に作られたものだ。終戦直後のイナカのムラ共同体を政策的に破壊して、それで生じた余剰人口を第2・3次産業にシフトしたという歴史的経緯があるが、これを急激に行ったことで生じたのが、ムラ共同体のエトスを内包したニッポンの企業社会なのである。(私はこのへんの経緯を卒論のテーマにしてるくらいだから信用してくれていい。) それで日本は高度経済成長を実現して心の貧しい経済大国になることができたし、アホなバブルに踊ることもできた訳だ。

 でも良かったのはここまで。今では前記のような弊害ばかり目につくようになっている。問題になっている「規制」も所詮はムラのルールだし、業界横並びや談合もムラの中のかばい合いである。ムラの中のムラビトでいる限り近代的合理性を身につけることはできない。今、このことの歴史的限界が露呈してしまっている。つまり、グチャグチャ共同体の歴史的使命は終わってしまったのだ。とっとと引退して下さい。この引退のプロセスが現在進行中なのである。

 とまあ、経済史的な理屈はこのようなものなのだが、ニッポンのカイシャの中にいるのはトップを含めて企業内ムラビトだから、状況やなすべきことをはっきり自覚してるのは皆無だろう。とは言え問題があるのは明白だから、場当たり的に施策を乱発することになる。曰く、「賃上げしません。」、「残業代は出しません。」、「退職金も出しません」、「欠員補充しません。逆に要員を削減します。人手不足はパートや派遣でなんとかしなさい。」、「終身雇用はないものと思え。」 今まで安穏と暮らしてきた一般の企業内ムラビトは突然こんなことを突きつけられてとまどっています。

 というような状況の中で、ニッポンの職場のエトスは現在変化しつつある

 つまり、今の職場社会には過渡期の不透明感・不安定感が広がっている訳だ。かなり根本的なところで社会変革が求められているのに、人の意識や社会システムがついて行けていない。こういうものが変わるのにはかなり時間がかかるだろう。また、着地点も全然見えないので、こうした混乱状態は暫く続くんだろうな。私は資本主義や近代経済学の原点に戻ればいいだけだと思っているんだけれども。
 ここに、セミナーじゃなくてもいいけど、そーゆーヘンなものが介入してきた時、どういうことになるかは予想がつかない。

 あ、ウソ。ホントは予想してます。ニッポンの人口の一定数はどうしてもムラビトだから、企業に居場所がなくなった企業内ムラビトはムラを求めて彷徨うことになるだろう。(モナド化したムラビトがノマド化する、なんてね。) こうしたニッポン・ムラ難民がヘンなものに引き寄せられる可能性は充分高い。現に資格商法とかに引っかってるのがムラ難民予備軍だったりしてますし。

 これが私の、「今、自己開発セミナーのリバイバルを恐れる訳」なのです。


終わり





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