絶体絶命日記 2003.9.1−30 白いスペクトルの魔法使いの年 月の月2月11日. 9月1日. 変わらないか.がらりと. 今日もいつものクズの日々だ. 正直1本、生真面目1本で、正しく生きている.生き続けている. 何も報われない.こらえ堪えての日々.いっそのこと何もかもをチャラにしての関東大地震.
情けない.ありがちなこの気持ち.しっかり生きていない証拠. 分かっている. 自縄自縛.事情自爆.自浄自爆. いいね.最後はこの自浄自爆だろう. 白いスペクトルの魔法使いの年 月の月25日。 9月16日。 この16日を真ん中に前後2日間、南関東にマグネチュ−ド7.3以上の地震が起きると研究者が発表。 実家には飲料水2リットル×5、ラジオ付きランタン、非常灯、缶詰、十得ナイフ、を持っていった。 地震などないとは思う。 だがあったら大変だということで持っていった。14、15日と泊まり、墓参りをして帰ってきた。 今のところ何もない。心底信じてはいないから帰ってきた。信じていればこちらに連れて帰ってきたところだ。 別に世の中まるで地震の事では騒いでいない。報道がないのだ。 2チャンネルでも今のところ冷静だ。馬鹿なアラシもいるにはいるが、自制が効いていると思う。 世間は阪神の優勝で大盛り上がりだ。 だがこんな時に起きるのだ。思っても見なかった事が。阪神・淡路大震災だってそうだった。そしてそのあとにオウムだった。 人の暗い想念が自然災害を引き起こす。 となるとこの阪神優勝で破目をはずしたエネルギーは、いくらかでも暗い想念を吹き飛ばしたか。 いやそれ位で吹き飛ぶほどの邪念でもないだろう。 きっとどこかで誰かが命をかけて地震のエネルギーを押さえようと必死になって戦っているのだろう。 もしかしたらそうした人は今回は複数に及ぶのかもしれない。 そして地震のエネルギーと自分の命を相殺させ、人知れず死んでいっているのだろう。 そんな気がする。 だれも知らないところで、人のために人知れず多くの人が死んでいく。 そんな気がする。 もしかしたら子どもたちは夢の中で地震と戦ってくれてるのかもしれない。 そんな気もする。 子供たちは自分たちが夢の中で邪念と闘っていることも知らずに、毎日布団の中に体を小さく丸くして入り込んでいくのかもしれない。 眠そうにあくびをしているのはその疲れなのかもしれない。 そんな気がする。 みんな心の奥底で、知らずに、今戦っているのだ。 何もしてないのは俺だけだ。 それにしても藤原紀香が 「眠れない。この1週間のうちに何かとんでもない事が起きそう。不安で眠れない。」 などとHPで書いているのは気になる。 白いスペクトルの魔法使いの年 月の月27日。 9月19日。 このまま地震もなく、何事もなく終わるのだろうか。 だがもちろん今この瞬間にも起きる可能性はある。 そしてその瞬間に僕が死ぬ可能性ももちろんある。 今日一日で交通事故で死んだ人は何十人といるし、世界に目を向ければ死者の数は何千人といたはずだ。 そして誰もが自分がこれから死んでいくのだとは思っていなかった。 まさか俺が、何で私が、もっといきたい、生きていたい。 そう思いながら死んでいったはずだ。 一体なぜ、あの美しい瞳を持った子供たちが、腕を吹き飛ばされ、足をもぎ取られ、腹をえぐられなければならないのか? 虚ろな目を空へ向けなければならないのか? そう思えば僕がこのまま生き続けていく保証はないし、さらに言えばその理由もない。 その境目はどこにあるのだろう。 死ぬべき人間が死に、生きるべき人間が生きのびているとも思わない。 その理由が明確でない事が、生きることの辛さだ。 生きるべき理由がはっきりしていれば、それを行えば良いし、それを認めたくなければ死ねばいい。 だが生きる理由、生きのびた理由は明確ではない。 今日1日死なずにいて、ここでこう1日を振り返る事ができている理由はわからない。僕が今日、死なずにすんだ何か善い事をしたというわけなのか。 その御褒美に今日僕は生き延びることができたのか。 善きことなどした覚えはない。 今日も心の中で何度も子供たちを罵倒し、軽蔑の言葉を投げつけた。 その罰で帰り道、車にズタズタに轢かれたってよかった。 そして生きていて欲しいと多くの人に願われながら死んでいった人たちは数多くいたはずだ。 死んでいい者が生き延び、生きてほしい者が死んでいく。 生も死も、その分かれ目などない。 たまたま、生き、死んだというだけなら、それもすっきりしていていい。 死ぬも生きるも理由などない。 生きているから生きる。 死ぬ時は死ぬ。全ては偶然。 そう思い切り、振り切れたら、それも素敵な事だ。 その時には生きる時の不安や心配や後悔や反省などなくなるだろう。 あるのは目の前の光景、目の前の時間だけだ。 本来はそれが生きることなのかもしれない。 生きていることの生き物としての実感を実感し、良い悪いをこえる。 軽蔑も罵倒も生き物には当たり前にある。 善も悪も合わせての生き物だ。 それを分けることに人間の過ちがある。 そう考えることもできる。 できるが実行はなかなかできない。 今日も重い、ずっと重い。重かった。 みんなは幸せになってほしい。 そう思う気持ちも嘘ではないのだ。 もちろんみんな死んでしまえばいいとも思っているが。 どこまでガキなのだろう、俺は。 またぐるぐる回っている。 エンドレスだ。無意味の循環。無意味な循環。空回り。空回り。 白いスペクトルの魔法使いの年 電気の月 9月23日。 カラオケ行きたい。歌いたい。スピッツ歌いたいけど、できればハモリたい。 そう言えばそれが夢。ハモッて歌いたい。12弦ギター、PPM、SM。 誰かと組んで歌えたら。中学以来の夢。ほんとなんだよな。 歌いたい。 せめてカラオケででもといっても、オヤジ一人で行くのも気が引ける。 だから行ってない。 今日はまだ今9時。 これから酒飲んで酔っ払って、その勢いで、スピッツ歌おう。 下から怒鳴り込んできても酔っ払って知らん振りで。 それで行こう。 悲しいね。 白いスペクトルの魔法使いの年 電気の月10日。 9月30日。 しっかりとこの国を見る。 この国の悲しさを見る。 その悲しさの幾分のいくつかは、自分自身にも重なる。 だから証言者だ。 目撃者だ。 見るものだ。 する者ではない。 現場にはいるが、傍観者だ。 ただ見る。逃さず見る。 それを小さな言葉で書きとめる。ここに書き留める。 震える文字で書きとめる。 もう時間はない。 いまさら残されている時間などないのだ。 できる小さな範囲で、残しておく。 こんな人間がいたのだから、これからの何年か後にもこんな人間がいる可能性はある。そんな人間のためにその何分の1の参考になるものを残しておく。 それだけだ。 それがせめてもの矜持なのだ。 それぐらいは許してほしい。 それぐらいは見逃してほしい。 それだけの代償は払った。 49年生きてきたというそのことで、その代償は払った。そう言わしてほしい。 それほどに辛いのだ。 それほどに今もそしてこれからも何もないのだ。 復讐を考えてはいない。 参考だ。 何かの参考になれば。 だがしかしそうであれば、ここで語っていない事は多すぎる。 本当の事は8割しか語っていない。いや9割、95%はいつも言っている。 問題はあとの5%だ。 その5%に全てがある。 そしてそれは言えない。 言わない事で自分を支えている。 そのことだけで支えている。 |