絶体絶命日記2003.6.1-31

 

赤い惑星の月の年 水晶の月12月5日.

6月3日.

 

とりあえず慣れたが,一体この音は何だ?

真夜中も今も(午後2時)鳴っている.

ウ〜〜〜〜〜〜ンという高い音.

小さなモーターが鳴るような,共鳴版,共振棒?(隣の音を受けて共振し鳴り出すU字型をしたもの),の響きのような音。

一日中聞こえる.

耳栓をしても関係ない.

耳に入ってくる.

それから時々メロディをとる.

短く音程を上げ下げする.

うるさくて眠れないということはないのだが,気にはなる.

もう1年以上前からだ.

 

ま,いっか.

 

赤い惑星の月の年 水晶の月12月9日.

6月7日.

 

ケータイを買った.

シャープJ−SH53.

ウォークマンと電子辞書とデジカメを一緒にしたかった.

いまの所音楽はOKだ.聴ける.次はカメラ.デジカメモードにすると連写とズームが効かない.これはちょっとキツイ.写メールモードにすると連写は効くが,画像が弱い.

撮った写真をここにのっけたいのだ.

辞書は英和,和英,国語,カタカナ語の入ったやつ.

液晶はきれいだからたぶん使えるだろう.15000円もしたが,空きメモリーが59MBある.メモリーカードを買った思えばいいだろう.ここに曲を入れる.

問題は画像だ.

夜実験.

それにしても電話は使う予定なし.電話番号教える相手もいないしな.

親には教えた.何かあったときのためだ.だから電話はかかってきてほしくない.

 

画像に問題なければこれはかなりの機械だ.

ウォークマンと電子辞書とデジカメと電話が1台に.それも手のひらサイズ.大したもんだ.

赤い惑星の月の年 水晶の月12月16日.

6月14日.

たいしたもんだ.これが携帯の写真.30万画素だが十分だろう.満足したぞ.

 

赤い惑星の月の年 水晶の月12月19日.

6月17日.

 

つまり変わりたいのだ.

もうこの同じパターンの生活が19年続いている.

19年といえば長い.

変わりたいのだ.

 

毎日塾には子供が来る.

子供は1日1日変わるから,それに合わせてこちらも変わっていかなければならない.よく見ていないと教えられない.

だから毎日は新鮮だった.

今もそうだ.

中3もそろそろ顔が引き締まってきた.にもかかわらず甘い,甘い.であれば誰かがサポートしてやらなくてはならない.その仕事は面白い.責任もある.

金も感謝もこちらが期待する価からはあまりにも程遠いが,しかしやりがいはある.

だから19年も続いている.

19年も続いてしまった.

30から始めてもう直ぐ50だ.

やめる機会もなく,続いてしまった.

 

だがいつも思っていたが,ぼくの教え方の基本は,まずかれらのストレスを取る事から始める.だから彼らの話を聞く.その為にこちらの思いや今はまってる事や考えている事を積極的に話す.だがそれは彼らの話を聞く為だ.

彼らは相手が話していい相手だどんどん話す.

むかつく事や腹立つことをどんどん話す.

すっきりしたら勉強に入る.

それで気持ちのバランスも取れ成績も上がる.

 

 

だがこっちには何も残らない.彼らのゴミ箱になるばかりだ.

彼らも卒業してしまえばぼくのことなど忘れてしまう.

3、4年は覚えていてくれるかもしれないが,それまでだ.

ゴミ箱はゴミ箱でしかない.通り過ぎていくだけの場所,それがぼくだ.

 

 

何かを彼らに伝えることは考えなかった.

それは彼らのストレスになる.

彼らの心につまっている感情の塊を溶かしてやり,それを筒を通して外へと流しだしやる.その時の筒,透明な何も突っかかる事のない筒,になることをぼくは考えた.

彼らにとって,重荷にならない透明な存在になることを選んだ

 

だから彼らはぼくを見ていなかったはずだ.

ぼくが彼らの記憶に残らない存在となった時にこそ,ぼくは彼らの役に立っていたはずだからだ.

 

 

それが何かつらくなってきた.

やはりそんな仕事を誰も評価してくれない事がつらいのだろう.

確かに時々,街でお母さん方と会う.そこで感謝の言葉を言われる.

卒業生も時々来てくれる.

 

 

だがこちとら人間ができていないのだ.

もっともっと感謝してほしい.もっともっと評価してほしい,と思ってしまうのだ.

情けない.

ほんとに情けない.

だが自分を殺す事が仕事で,自分を目立たせみんなからの賞賛を浴びたいと願っているこの身にしてみれば,バランスが取れていないのだ.

だって20年近く,殺してきたのだ.

そう殺してきた.

ぼくは人のため,子供のため,になどできないのだ.

立派な先生ではない.

当然の事だ.

我が強すぎる.

我の強い人間に教育はできない.

 

全くこんな毎日が20年続いているのだ.

しかも毎日は楽しいのだ.

よしっと思うのだ.

子供たちの顔をじっと見回し,わかったのどうかを確かめ,リラックスし,満足し,よしっと思って帰っていくかどうかを後姿で確かめるのだ.

目と目が合ってにこっとし合えたらエネルギーがどぉぉぉおおおとこちらに流れ込んでくる.互いに力を流し合うのだ.それがこの仕事の評価だ。真の評価だ。

 

 

 

 

 

 

だがそれでもつらい.

それでも辛いという事が,つらい.

 

第三者の評価がほしいのだ。

これまでの19年が人の役に立ったのか。社会の役に立ったのか。

みんなぼくとの何年かを覚えていてくれているのか。

彼らは立派になっているのか。

それが知りたいのだ。

そして誉めてほしいのだ。

よくやったと誉めてほしいのだ。

浅ましい。

 

この先どうなるのだろう.

もう人生は折り返しだ.

あとは死に向かっていくだけだ.

しかも来年は教室も危ない.

中3が抜ければ,経営的にさらにきつくなる.

こんだけやって,これだ.

 

 

50で旅に出ようか.

四国を巡ろうか.

四国を走ろうか.

何回も何回も走ろうか.

我を落として,子供たちとの思い出を思い出しながら,走ろうか.

ぐるぐると走って,

大きなごつごつとした樹の幹に背中を持たせかけ,白骨化するのだ.

 

このイメージがもう何年も前からある.

5年も10年も20年も四国の山の中を走る.

そして最後,樹の幹を背に樹液の流れる音を聞きながら,死ぬ.

そんな人生なのだろうか.

 

それでも死ぬ瞬間は納得し満足し,笑えるのだろうか.

そんな人生の何十年かを「全てよし!」と言って目を閉じる事ができるのだろうか.

 

やはりつらい話だ.

 

これから何かが起きるのだろうか.

自分の都合でしか人生を望んでいなければ,このままだろう。

自分を開いて,毎日を覚悟をつけ,生き切っていれば起きていい事が起きるだろう。

自分を守り我を張っていれば何も起きてはくれないだろう。

我はシールドとなる。運は避けて通る。いや運はそのシールドに跳ね返され飛び散っていく。

自分で自分を追い込んでいるのだ。

全て不幸は自分が作っている。

不幸はそれがわかっている人間を好んで襲う。お互いいい友達なのだ。

せめて潔く生きる。

できることは当たり前にやって,できないことはやらない。

あとはまかせる。

潔く生きる。

 

手の届かない事は,あきらめる。諦めるしかないのだ。

そんなことは一杯ある。

いっぱいあるのならいっぱいあきらめる。

 

 

潔くあきらめる。

ホントに潔くあきらめる。

 

 

潔く,いさぎよく,イサギヨク,潔く。

 

赤い惑星の月の年 水晶の月12月27日.

6月25日.

 

親が携帯を買った.

同じのを買った.

いいことだ.

以前にパソコンを買ってメールを送っていたが結局パソコンはわからん,相性が悪いと言ってもう全然使っていない.

 

携帯を買ったといったら早速同じのを買った.

これで写メール使っていろいろ写真送れば良い親孝行になるだろう.

孫の写真でも送れば一番なのだろうが,いないのだからしょうがない.

教室の生徒の写真だとか今度の富士登山競走だとか,そんなもんしかないが,しょうがない.

親孝行と思ってくれればあり難い.