高橋尚子。死を越えて。 金メダルを取った翌朝6時,高橋尚子はいつも通り走りに出た。 走る事が日常になっていれば,前日のレースで硬くなった体と心をほぐすのに一番良い方法は,やはり走る事だ。 高橋は走りに出る前にこう思ったという。 「世界は変わっていると思う。 バラ色に輝いているっていうか,全然違うものになっているんじゃないかと思った。」 高橋は外に出た。 「でも,風のにおいも,風景も,昨日やおとといと変わらなかった。 自然は少しも変わっていなかった。 私も変わる必要がないと思った。 いつも通りでいいのだと思った。」 目の前の風景が変わっているという確信は,それ以前の経験がとてつもなくそれまでの日常を超えたものである必要がある。 確かに高橋は前日オリンピックで金メダルを取った。 それはそれまでの日常を大きく超えた経験であったはずだ。 しかし,ぼくには試合当日,「ひとみ」の音楽に実にリズミカルに,自然に,いやそれ以上にとても可愛く, 愛らしく踊っていた高橋の,風景が劇的に変わるという言葉に違和感をむしろ覚えたのだ。 なぜ金メダルの翌朝の光景に高橋はいつもと違う光景を期待したのか。 高橋は今回のオリンピックで勝つために,ロッキー山脈で高地トレーニングを行った。 3500mでのトレーニングだ。 しかもそこでのテーマは,「絶対の自信をつけるため」だった。 ロルーペもシモンも,私ほど練習はしなかった,という自信。 3500mで走る。それも全力で。今もどこかで走っているに違いないロルーペやシモンよりも,はるかにきついトレーニングをいま自分はしている。 この苦しみは世界の誰も経験した事がない。 それを得たいがためのトレーニングだ。 だがそれは想像を越えている。 そんなトレーニングはこれまでに誰も行っていない。しかしだからこそやる価値がある。 酸素が薄い。 呼吸が浅い。 筋肉はすぐ重くなる。 体がまるで動かない。 頭がボーとする。 意識が薄れていく。 自分が何をしているのかが時々わからなくなる。どこにいるのかを確認しながら走る。 体が重い。知らぬ間に息ができなくなる。呼吸する事を,意識する。息の仕方を復習する。 意識が薄れていく。しかし走らなくてはならない。その為に来た。しかし足が重い。無理やり足を上げる。無理やり足を回転させる。無理やり体を前に押しやる。 腕と足と,上体を下半身と,呼吸と体の動きと,ばらばらばらばら。 着地の感覚もばらばら。 何もかも確かでない。でも良い。このまま走りきる。走りきることに意味がある。 この無茶苦茶の中で,あそこまで走る。あそこまで登る。あそこまで動ききる。倒れない。あの木まで走る。あの岩は越える。あの切り株までは走る。止まらない。止まったらここに来た意味がない。 これまで走ってきた意味がない。死んでもいい。ここで死んだなら納得できる。ここで死んだなら納得できる。 あの木まで走る。あの岩まで走る。 突然息苦しくなる。体が地面に引かれる。重くなり,倒れる。 息の仕方がわからない。 激しい鼓動。心臓は狂ったように打ち続ける。心臓だけが助けを求めて叫び声を上げる。 でも息の仕方がわからない。 体が崩れる。 心臓の音がすごい。息ができない。息ができない。息ができない。息ができない。 恐らくそんな経験を高橋はしたのだと思う。 このまま死ぬんだ。 そう思ったのだ思う。 科学的なトレーニングと,死を経験させる非人間的なトレーニングの両方を経験した時,高橋は金メダルを取ることができたのだと思う。 小出監督はあえてそれを選んだのだと思う。 高橋をプロ選手とする時,監督は命を賭けて練習する選手はそれに報われなければならない,と言った。 そしてレース。 金メダル。 高橋は死と,栄光を経験し,その後の世界を見たかった。 世界は変わっているはずだ。自分は生きながら死んだ。そして生き返った。そんな普通にはあり得ない経験をした自分に世界はどう映るのか。 世界はいつも通りだった。 同じ匂いと輝きだった。 自分の生き死にに関係なく自然はいつも通りだった。 自然は偉大でもなく,無力でもなく,いつも通りの姿で,自分を受け入れた。 大きな大きな器の中に自分はいた。 意味など問わずに,受け入れてくれている。 良いも悪いも関係ない。 自然は大きく何もかも受け入れる。 高橋は自分もいつも通りでいいと確信する。 走ることに限らず,そこまでの経験を人はすべきだ。 それが幸せへと繋がる。 誰もが経験できる事ではないが,それを望む事は人の人生にとって必要な事だ。 もちろん事は大小でない。オリンピックにでる必要はないし,ロッキーに行く必要もない。 大きな事は小さなことの中にあるからだ。 自分の人生の中でどこまで自分を追い込めるか。 自分の持ち場の中でどこまで自分を深められるか。 ここではないどこかに行くのではない。 ランナーはランナーの場所で。各自は各自の場所で,自分を追い込み要らぬ物を削ぎ落とし,自然と1対1の関係を作る。 地球上の一つの小さな生物としての自分と,その小さな命無くしては成り立たない自然,地球。 それは同等の関係だ。 どちらが優位というわけでない。 互いに互いを必要とし,互いが互いを生かし合う。 その命の交流,エネルギーの交換。 高橋をそれを翌日の朝,実感したのだろう。 死ぬほどの経験をしたからこそ,何も変わる事のない自然に,その自然の大きさと深さとを実感できたのだ。 小さな命と大きな器。 互いに交流しあう世界の秘密を高橋は走ることで深々とその朝,経験できたのだ。 2001.3.14 |