「凶悪犯」の少年は本当に「凶悪か」 2000.11.8

 

少年法が改正され、刑事処分対象年齢が16歳以上から14歳以上へと引き下げられた。また凶悪犯に対しては実名報道になる。

理由は少年達の犯罪の凶悪化とその確信犯的な動機にあるという。つまり今なら刑務所にも行かなくてすむ。死刑になどなりはしない、と彼らが思い犯行に及んでいるというのだ。

ここで言わなければならないことは、彼らは犯罪を自殺と考えているということだ。友達を、先生を、親を、子供を、見ず知らずの他人を、兄弟を、殺すことで自分自身を殺そうとしている。それは自己処罰であり、と同時にしかし最後の自己救済でもあるのだ。

 

一つの例だ。

 

彼は小学生の23年生ぐらいの時までに一番必要な親や周囲から認められる誉められるという経験をしなかった。生まれてきたことの賞賛を受けなかった。だから自分自身も生まれてきてよかったという経験をしていない。

きょとんと不思議そうに一人部屋に座る子供の姿が目に浮かぶ。周りに誰もいない。いても自分に誰も関心を向けない。テレビだけがなっている。もしかしたら邪魔者扱いされているのかもしれない。

不思議なことだ。生まれてきたのに、ここにやってきたのに、誰も目を向けてくれない。誰かの目の中に映る自分の姿を見ることができない。

不思議なことだ。彼はそうやって、小学校の低学年を過ごす。誰も自分を見てくれない、話しかけてくれない、認めてくれない、誉めてくれない。

 

周囲への判断力がつき始める頃、彼は気付いた。自分は一人だと。人は机がそこにあるようにそこにある。親も兄弟も他人も同じだ。人はそこに石が転がっているようにそこに転がっている。繋がりはない。繋がる可能性はない。繋がるという気持ちがない。繋がりたいとも思わない。思えない。切り離されている。孤立している。ぽつんと離れている。その距離は絶対だ。1センチも1000キロ、2000キロと同じだ。

いやそれ以上の絶対の距離。

 

人は不思議な存在となる。

動いている。しゃべっている。笑ったり怒ったり時には泣いたりする。それは不思議な光景だ。何がつまっているのだろう。頭や体の中に何が入っていてああなるのだろう。何が人を動かしているのだろう。何であんなに1日の中で表情が変わり、言うことがあるのだろう。彼らの仕組みはどうなっているのだろう。

 

自分の中にはない仕組みが彼らにはある。彼らと僕とは、違う。ぼくに無い物をみんなが持っている。僕をそれを持っていない。なんて不公平なことなんだろう。何で僕は参加できないのだろう。何で僕は切り離されているのだろう。近くの声は遠い所から聞こえ目の前の顔は遠い所に見える。体は冷たく自分の声は空っぽな体の中で響き、くり抜かれた自分の体が部屋や教室や通りを輪郭だけで揺れながら移動して行く。

苦痛でもない。生きることはその場その場で期待され、あるいは決められていることを続けていくことで、それ以上でもそれ以下でもない。

虚しくもない。喜びや認められる安心感を知らないのだからどうということもない。

ただ不思議な感じだけがする。ジグソーパズルの最後の一枚。しかも形の違う最後の一枚。入りっこないその空間を見る。一体何のゲームなんだ。

 

朝目が覚めて空腹で食事をしまた空腹になって食べて眠くなり目が覚め、起きる。

それがどこまでも続く。自分の体は何かを望んでいる。食べること眠ること。それはわかる。しかしそれ以上の事はわからない。いなくてもいい自分。でも生きている自分。意味もなく価値もなく。命は残酷に生きようとする。生きたくもないのに。

 

 テレビや街はいかにも楽しげに騒がしい。

何がそんなにうれしいのだ、楽しいのだ、悲しいのだ、不思議だ。ただ不思議だ。

 

だが命とは残酷なものだ。生きようとする。変わること、動くことを要求する。人とのつながりを求める。

 

だがその手立てを知らない。方法を知らない。手段が思い浮かばない。想像できない。おずおずと伸ばした手は激しく拒否される。あるいは無視される。敵意。誰に?はねつけた相手。いやそれ以上に自分と自分を取り巻いているもの全てに。

しかしぼんやりした敵意だ。

頭がすっきりするような敵意ではなく、ただ胸がむかつくだけの敵意。苛々するだけの敵意。でも以前の何もないからっぽの状態よりはいい。前へ進んだような気はする。何かがわかったような、何かがわかるような。

敵意と憎悪が支えとなる。壊すこと潰すことが自分を明かす手段となる。

 

しかし誰もそのような方法を手立てとはしていない。笑い合っているではないか。

なぜ自分はみんなと同じ方法をとることができないのか。憎んだり壊したり潰したり、そんな方法をとらざるを得ないのか。取る事しかできないのか。

 

さらにのそこに繋がり拒否する行為、イジメが加われば、後は時間の問題だ。

 

そりゃそうだろう。

そんな毎日を暮らしていれば心はどろどろに溶け膨張していく。

膨らんでいく。どこまでも膨らんでいく。

あとは何かがそれを突付けばいい。そして破裂する。飛び散り、崩れる。

 

イジメがなくても、彼は考える。

なぜ人と違う?

なぜ人を憎むしかない?

俺はおかしい。

俺は狂ってる?

俺はいてはいけない?

 

だが命は残酷だ。

生きることを命じる。

 

狂っている俺が生きなくてはならない。いてはいけない俺が生きていかなくてはならない。生きてはいけない俺が生きなくてはならない。その理由は?

彼は憎しみでしか他人と繋がれない。だから彼は憎しみの最大値、殺意を向ける。その時にその殺意を向けられた相手の目の中に映る自分を見る事で自分の生きている意味を知ろうとする。

だが殺すことでしか自分を確かめることのできない彼はそうした自分を罰せざるを得ない。命がそうさせるのだ。命は生きることを正しいとする。そして命は生きるためには他をも殺す。命は矛盾だ。

 

自分を罰するとは自分を殺すことだ。そうすれば自分を救うことができず、自分を救おうとすると他人を殺すことしかなく、それも自分の救いにはならない。

彼に行き場はない。

そして彼はそれを意識できないまま1年、3年、5年、10年、を過ごす。

 

どれほどの苦しみだろうか?

どれほどの辛さだろうか?

どれほどの悲しみと苛立ちと虚しさを抱え込んだことだろう。

しかもそれは一瞬の休みなく彼の頭を彼の意識を彼の感じ方考え方を蝕んでいったのだ。夢の中でも、だ。

人はそれに耐えられるだろうか。

人間はそれほどに強いものだろうか?

 

そんな彼らを凶悪の一言で切り捨てるのか。

 

もちろん100人の彼がいれば100人の事情と状況がある。

だが以上挙げた心の風景は彼らの心の基本的な風景だ。

 

彼らの言葉を持たないが故の虚ろな表情と突然のヒステリックな言動から、彼らを切り捨ててはいけない。

彼らは信じられないほどの苦しみを強制された。

時代が強制した苦しみ。

と書いてしまうと嘘になる。

それを超えているからだ。

 

時代の犠牲者。

そう書いても嘘になる。

それを超えているからだ。

 

彼らを我々が持っている言葉の中に閉じ込めないこと。

 以上の風景すらも実は的外れだと思うこと。

 

それが唯一彼らの苦しみを理解するための最低限のルールだ。

そう思う。