パサージュ68

体育倉庫にはくるくると巻かれたマットや,積み重ねられた跳び箱,ばらばらになって横たわる鉄棒やハードル,大きな籠には幾つものバレーボールがシーンと静かに行儀よく息をひそめていて,動かない.

ぼくは倉庫の中の一番高い場所,跳び箱の一番高い段の狭い場所に体を丸めて眠っている.

乾いたざらついた匂に頬を押し付ける.

 

夏休みの午後4.

倉庫の中は窓も4つある入り口も全部開け放され,夕方の涼しい風が吹き抜けていく.ぼくは跳び箱のてっぺんでその風に当たってうとうとしている.

 

今日はどの部活も休みだった.

ぼくは誰もいないグラウンドを走りたく,午後から1人で学校にやってきた.

誰もいないトラックには,地面を蹴るスパイクの音と強く吐き出す息,遠くの林のせみの声以外には何もなく,走っている自分自身の小さな体を宙空から見下ろせそうな気がして,気持ちが落ち着いた.

 

いつもはサッカー部や野球部の連中の声,小うるさいコーチの偉そうな怒鳴り声で,苛々していたのだ.

今日はそれがない.

何もない.

地面にはくっきりと自分の影が小さく濃く映りどこまでも離れない.

じっと下から見つめられているような気がする.

5000mのトライアルを5本やった.

真剣にやった.

どれも全力で走った.試合と同じに走った.へとへとに疲れた.

本来これが練習なのだろう,と思った.

いつもはうるさすぎるのだ.特にあのコーチだ.

自分のストレスを俺たち中学生で発散させようとしている.

奴の声のイライラがこっちのやる気をそいでいくのだ.いい大人なんだからそれ位の事には気付いてほしい.

馬鹿ばっかだ.

昨日も走っている俺を見ながら英語の若山があごひけあごひけ,しっかり走れ!と声を張り上げた.

奴は俺とうまく行っていると勘違いしている.いつも何かと生徒に話しかけ,生徒の心がわかる先生と周りから言われ自分もそうだと勘違いしているのだ.

能天気で無神経な頭の悪いあほだ.こっちが合わしてやっているだけなのだ.

いい加減にしてほしい.

 

あいつらもそうだ.

チャラチャラと女といちゃつきながら大声で,いい酒入ったから取っとくぜとこれ見よがしに手を振って帰っていった.奴らカッコもつけられないくずどもだ.毎月5万ずつ上納して,それで偉そうに街を歩いている.

暴走族に守ってもらっているのだ.

 

あれはどうしようもない男だな.

兄さんから聞いた.

ぼくの兄さんは中学を卒業して10年,この街の組で若頭をやっている.

一昨年の地震の時,この組は一番に街の被災者の救援に駆けつけた.

何でもいいやくざなんだと街で評判のやくざなのだ.

それもあってぼくを見る目は複雑だ.何かあったら兄さんが出てくる.そう思っている奴もいるわけだ.

関係ないが,ぼくは模擬試験ではだいたい5番以内にいつも入っている.

だから先生からの受けもいい.部活が終われば受験だ.

英語の点はほとんど90点以上なので若山なんかが偉そうに声をかけてくる.

 

誰もいないのがいい.

みんないなくなってしまえばいい.

馬鹿ばっかだ.

勘違い野郎,カッコづけ野郎,

もっと静かに話せないのか.

もっとまともに話したり,うなづきあったりできないのか.

 

まぁいい.

今はとても静かだ.

風も心地いい.

こんな日があったっていいだろう.

ぼくは狭い跳び箱のスペースに体を丸くする.

気持ちのいい睡魔がやってくる.

せみの声が大きくなる.

 

ハ〜ハ〜ハ〜.

ぼくはさっきのトライアルの自分の声を夢で聞いているのだと思った.

実は4本目で自己新を出したのだ.

6秒も縮めた.

嬉しかった.

試合は2週間後だ.

感じがつかめた.

これで県大6位以内が見えてきた.

ぼくは眠りながらにやりとした.

ハ〜〜〜!

大きく息が吐き出された.

ぼくは目を開けた.

開け放たれたドアの向こうに,くっきりと切り取られた縦長の長方形の向こうに,まだ夏の午後の照りつける太陽のかっとした白い輝きの中,その子はいた.

確かテニス部だ.

長い髪を後ろで一つにまとめ,顔は真っ赤に紅潮している.

肩が大きく上下し,目は釣り上がったままだ.水道の前で息が収まるのを待っている.

ほんの10m先だ.ぼくには気付いていない.

 

テニスコートはここからは遠い.きっと倉庫の前に置いてあるローラーを引いていたのだろう.

整地用のローラーを男子たちが練習でよく引いていた.けっこうきつい練習だ.ぼくも借りて何回か引いたが,50mを10本が,やっとだった.

女子がやっているのは見たことがない.

きっと彼女はそれをやったに違いない.

誰もいない今日を狙ったのだ.

 

両手を腰に当てて,じっと一点を見たまま体は硬直したままだ.

少しずつ息が収まっていく.

それにつれて目と肩から力が抜けていき,膨れ上がっていた顔が小さくなっていく.

フ〜〜〜.

大きく息を吐いた.

そして目を閉じ,ゆっくりと息を吸い,また大きく息を吐いた.そしてそのまま顔を太陽に向けた.

細いのどに浮かび上がった筋に汗が光り,形のいい鼻が見え,唇から白く小さな歯が並び,額からツーと汗が頬,あご,,と流れ落ちていく.

空に向けていた顔をさっと下に向けると,両指を髪の毛の中に入れ,かしゃかしゃっとかき回した.

まとめていた髪が解け,彼女はさっと首を振る.

長い髪が飛び立つ鳥の羽のように円を描いた.

汗が飛び散る.

そしてそのまま体を倒すと,水道の栓を一杯に開き,飛び散る小さな滝の中に頭を突っ込んだ.

水の匂いと髪の匂いと汗の匂い.

ぼくは横になったまま深呼吸をした.

黒々と垂れ下がる髪の先から次々と水滴が光り流れ落ちていく.ぼくはさらに深く吸った.

 

その時流れ落ちる細い滝から頭を引くとくるりと彼女が顔を回した.

その顔がぼくの方に向いた.

水に濡れ太陽に光る小さな顔がぼくに向いた.

 

白い小さな滝のしぶきの向こうに,ふっくらとした赤い唇と白い歯,黒々とした二つの目,すらりと伸びた鼻,細いあごの線,そして彼女はその二つの目でじっとぼくを見つめていた.深い深いひとみ.

 

 

彼女はぼくを見つめたままゆっくりと唇を開けた.

そして小さな滝のしぶきにその唇を近づけていく.

ぼくは体を起こそうとした.

でも体は動かない.

せみの声が大きくなる.

 

首も肩も細い.

あんな細い体でローラーを引いたのだ.

小さく膨らんだ赤い唇が白いしぶきに近づいていく.

黒々とした目.

次第に濡れたように輝いていく.

そしてつりあがっていく.

せみの声.水道の音.

突然の睡魔.

ぼくは慎重に体を起こし始めた.

慎重に慎重に。ぼくは地面を蹴るスパイクの音を思い出そうとした.

 

                                2004..11