パサージュ−47 水深30mほど,1人の男が泳いでいる. スイっと頭が下がり垂直になり男が海底に降りていく. 男の倍ほどもある海蛇がゆっくりと底を這っていたのだ. 男は海蛇の泳ぎを真似て上になり下になりしばらく泳ぐ. 岩穴に蛇が入っていくと男はまた頭を上げ昇り始めた. 黄色の小さな魚達の群れの中に入る. 裸の男の体に小さな魚達の小さな口先がくすぐったく,男は体を左右にくねらせた. 細い体.揺らめく長い髪. 右目に石が刺さっている. 若くはない. 男はまた底へ向かった. 食事の時間だ. 昨日はすぐに藻や海草が見つかった. ここ何ヶ月か食料に不自由することはない.だからこのあたりを回遊することに決めたのだ. 今日もそうだ. 海草の林が遠くまで続いている. 太陽の光にきらきらと光る.細い光の帯が海底から伸び上がる.男の体が光の帯に照らされる. 今日は昨日より明るい. 見上げると太陽の光が波に揺れている. 海草が体に巻きついてくる. 柔らかで厚みがあり引くと心地良い手応えがある. 男は林の中をゆっくりと移動しながら海草を口に運ぶ. 食事が終わったら岩陰で眠ろう.ゆっくりとした潮の流れに 体を任せよう. そして大勢の子供たちが手をつないで輪になってゆらゆらと回っている姿を夢見よう. 陸地では住めなかった. 息を吸えなかった. においは耐えられなかった。 人々の視線や言葉は痛く重く理解できなかった. 最初家の風呂場で息を止め体を沈めた. 1日繰り返した. 家を出た. 海沿いの町でホームレスになり,1日海に入った. 少しずつ沖へでた.しかしいつも浜辺に帰った. 帰るしかなった. 陸地の空気に吐いた. 頭が痛く涙が出た. 子供たちが大きな尖った石を投げた.逃げ回った. 指が3本潰された. 右目に石が突き刺さった. 大人は最初から相手にしなかった. 夜,満月の夜,沖に出た. 帰るつもりはなかった. 気がつくと岩陰で横になっていた. 死んだのだと思った.だが,生きていた. 両手で水を掻くと,思ったよりもはるかに長い距離を素早い速度で移動した. うれしかった.ほんとに嬉しかった. 海の重さがちょうど良かった. 海の音は体を優しく包んでくれる. 海には色々な音があるのだ. 小さな魚たちの水を突っ切る高くカーブする音. 大きな亀の低く響く途切れ途切れの呟き. 鯨の重なり合い低き渡る鼓動. 潮の流れる分厚く広がる音. 潮に巻き起こる砂の舞い上がる音. 潮にはためく海草の伸びやかな音. 蟹や海老が地をかく硬い音. 潮と潮とがぶつかり合い渦巻く錯綜する音. 海底の軋む音. 海底を走るひび割れの不安な響き. 一斉に移動するプランクトンの軽やかな音. 男は耳を澄ませる. 青い海の中,流れに身を任せ,首を傾げ,遠くを見つめる. 男は耳を澄ませる. 周りには何もない. 青い海. 男は大洋の中漂う. 身を屈め,目を閉じる. そっと手を握る. 男は身を屈め大洋の中漂う. 涙が流れる. 涙が潮の流れに流れていく. ゆっくりと流れて行く. それはきっと丸い地球をゆっくりと回って行く. 戻った時男はいない. 男は漂う. 静かに,静かに,静かに,静かに,静かに,静かに,静かに,
2001.8.15 |