日本語教師のへの道 2010.7 宇宙の月8日 7月4日 とりあえず、テストが終わった。キツカッタ。 みんなの前での実技はキツカッタ。緊張した。 何とかしのいだ。まあまあだったと思う。 でも同期の女の子3人、先生になる為のテストに合格、7月からは生徒から先生になる。 大したもんだ。何が立派かというと、仕切れる。自分の意見を堂々と言える。 自分の力を100%出せる。うまくいこうがいくまいが、気にせずどんどん前に進む。気にしない。平気平気で前へいける。 大したもんだ。 だいたい、半年コースで、まだカリキュラムが終わっていない時期に職員採用試験を受験するという積極性がすごい。 その辺が真似できない。 大したもんだ。 そして実際みんな、いい子達だ。 真っ直ぐで、明るくて、元気で、どんどん前へ前へと進む。 大したもんだ。 こっちは半年が終わった時点で、実習。10月に日本語教育能力検定試験受験。そのあと、採用試験。 それで行く。 海外に出たい。ずっとこもっていた。外に出たい。 周りを気にせず、自分の感覚と感性と考えと思いだけを全開にして、相手の役に立ち喜ばしたい。喜ぶ顔を目の前で見たい。見たいのだ。 磁気の月6日 7月31日 とりあえず終了した。 カリキュラムの8割を終えたので、日本語教師になる為の420時間を終えたという事で終了証をもらえた。 ただまだ実習はしていないし、サボった分の振り替えもある。 8月21日に実習の予定をきめる。 まだ残っている振り替え分を終えてからの実習が一番あるべき姿だ。 となれば、8月24から9月9日で残り分を終えてその後に実習だろう。 問題は外国人の前へ出ての実習。もちろんそれが仕事なのだから、やって当たり前だしやらなければならないことなのだが、緊張する。 もともと外国人でなくとも人が怖いのだ。 人がいやなのだ。 他人の恐怖。 人前でその人に飲み込まれ混乱しパニックに陥ることへの恐怖。 そんな他人への憎悪。 それが基本にある。 だから本当は山にこもり木こりにでもなって一生を過ごしていければそれが一番いい人生のあり方だと思うのだ。 そしてしかしそうして過ごす一日一日はその一日の寂しさを呪いながらの一日一日なのだ。 人が恋しい。 人と言葉を交わしたい。分かり合いたい。 抱き合いたい。 その間を一瞬一瞬行ったりきたりするのが僕の人生なのだ。 だから人と会うことを仕事に選ぶことで人と会うことを自分に強制している。 好きだが嫌い、嫌いだが好き、嫌悪しながら心から望む。心から望みながら目をそらす。 恐れを捨てること。 心配しないこと。 取り越し苦労で頭をいっぱいにし、容量を超え、頭真っ白にして、すごすごと引き返すことをしないこと。 恐れを捨てること。 平気に目の前の状況に没入すること。 それを楽しむこと。 別に日本語教師になるためにどうのこうのではない。 死なずに生きていくための方法がほしいのだ。 恐れないこと。 ノーガードで入っていくこと。 その勇気。 入れば問題はないのだ。 実際これまでいつもそうだった。 何だ大丈夫じゃないか。 やっぱやればできるのだ。 入るのが大変なのだ。 そしていつも入れない。 恐れないこと。 平気で笑って、入っていくこと。 しっかりと見て、聞いて、入っていけば問題はないのだ。 ただそこまで近づけない。 遠くから眺めるだけで時間は過ぎ、終わり、帰るしかなくなくのだ。 悪いことばかりを思う。 悪いことは強く思うから、実現する。 だから起こらないような遠くの場所に自分を置く。 悪いことが悪いことを引き寄せる。 次々と引き寄せてくる。 良いことを思える力がほしい。 だがきっと思う前にやってしまうのが一番いいことなのだろう。 思い始めるから悪いことが入ってくる。 見る前に跳べ。 それができれば問題はない。 できないからここまで追い込まれ、最悪の状況の中に突き落とされる。突き落とされた。 良いことを思え。 思う前に入ってしまえ。 入ったらよく見、よく聞く。 そうすれば何をすればいいのかが自然と降りてくる。 それに従えばいい。 実際そうだった。 それは知っている。 だが今はできない。 恐れを捨てる。 平気に笑って、入っていく。 できる分けないのだ。 誰か助けてくれ。 そう思う。 でも誰も助けてくれない。 大事な人なら、必要な人なら、どこからともなく助けというのは来てくれるものなのだ。 大事な人ではないから、このまま朽ちていくのも別に問題とはならない。 このまま死んでも誰も気づきはしない。 だがそんなことなら、いちいち悩むこともないのかもしれない。 何をやっても何をしても、価値のない、クズのやることなのだから、問題はない。 どうせ俺のやることなのだから、誰も気にせず、誰にも迷惑をかけることもなく、だから何も気にせず、さっさとやってしまえばいい。 さっささっさとやってしまえばいい。 どうせ誰も誰一人、見てもいず、気にもしていない、いてもいなくても全く変わりのない無価値の人間一人、いちいち取りこし苦労も過ぎこし苦労も必要はないのだ。 ただ疲れるのだ。 疲れる。 そろそろもう限界なのだ。 こんな内容、17の時と全く同じだ。 何も変わっていない。 進歩も変化もない。 だが17の時に思ったのは、今思っている純粋と誠実を思う気持ちを捨てない、50になっても今と同じことを思っていなければならない。若さゆえの思いだったということのないように。 だから今は黙る。 50になっても同じことを思っていたならば、それが本当の気持ちだったという証なのだから、その時から語ればいい。 そして56になり、17の時と同じことを思い、だからもう疲れきって、考えを進化することはできず、ただ体を生きながらえさせることだけで精一杯になっている。 お笑いだ。 大笑いの悲劇。 疲れた。 何か奇策はないか。 何か奇跡はないか。 馬鹿が。 |