日本語教師のへの道 2010.2

 共振の月23日

2月1日

 

いや〜〜いきなり当てるもんな。

 

一年クラスにも我々半年クラスは入っている。でければ半年ではクリアーできないからだ。

だからいきなりすでに半年以上通学している人と同じ授業を課せられる。

 

もともとこの学校は理論より実践。

やってみて失敗して覚えていくという考えらしい。

 

実際日本語を学ぶ外国人たちもそうやって覚えていくのだから、先生にしても恥をかいて恥をかいて覚えていくということなのだろう。

 

で、いきなりまだ実技のじの字もしていないのに(まだ開講式と、本科、戦火の区別と学習のポイントしかやってないのに)、イ形容詞の過去と否定の実技をやらされた。

一度先生が見本を見せ、通年クラスの人が一度やり、そのあと、じゃあ新しい人やってみようか。といって当てられた。

来るな来るなと思う間もなく、じゃあ○○さん、どうぞ。

 

何とかやれた。

目の前50人近くの教室ぎっしりの人を前にして、何とかしっかりみんなの眼を見ながら、みんなの反応を確かめながら、やれた。

 

なんだか自分の輪郭がしっかりし、落ち着けた。

こんなことをやるのがやっぱ自分には合っているのか。

そう思いながら、やった。

 

そのあとほかのメンバーは、いきなりさせられるんだ。

きつくねぇ〜〜〜

全然何も教えてもらってないよね。

これあせるよね。

よくできましたね。

完璧じゃないですか。

どして?

 

 

まあまあうまくやれたみたいだった。

 

 

これでもし立ち往生して、どもって、顔真っ赤にしてたら明日からもう登校拒否だった。それ位今弱まってるのだ。瀬戸際にいるのだ。

 

うまく乗り切れた。

自信になった。

24年の年月は伊達でも無駄でもなかったのだ。

もっともっと自信を持って、ということはもっともっと気楽に、平気に、リラックスして、自分を余裕のスペースにして、入ってくるもの、入れるべきものをどんどん自然に入れていってしまうのだ。

大丈夫だ。

俺はそれほどの無能ではない。

 

銀河の月1日

2月7日

 

クレオール、ピジン、ダイグロシア、オーディオリンガル、アーミーメソッド、歯茎硬口蓋、破裂音、摩擦音、弾き音、拍、音節、シニフィエ、シニフィアン、チョムスキ−、普遍文法、言語獲得装置、スキーマ、スクリプト、‥‥

 

とりあえず、理論面に関しては、一度全部見ているから、新しい情報はない。

だから、授業で習うことはもう二度と勉強しなおさくてもいいように、授業中に頭の中に叩き込む。

今度みんなに教えていく時にしっかりと教えてられるようにと意識して覚えていく。

 

あとは実技。

これを学ぶ。

恥をかいて学ぶ。

平気でみんなの前でやりきる。

家で復習する。鏡の前で練習する。

練習していくのだ。

 

 

学校に通うようになって2週間。

教室の中は8割が若い女性。

キャッキャ、キャッキャと騒がしいが活気があっていい。

というか、この人達、実技はいいとして、理論教えられるの?というか、基礎教養あるの?という感じ。

 

でも教室を活気付けてくれし、みんな可愛い。

といって、よく見ると結構年取っている。30過ぎてる子も三分の一。

 

可愛いまま、のりのまま、年をとってしまう。

調子に乗って、気がついたら、40.

よくあるパターンだろう。

 

まあ、関係ない。

420時間しっかり勉強する。

あと400時間。

6月いっぱいで終わる。

もっともっと学校での時間を濃密なものにしないといけない。

質問をする。

先生との関係を密にする。

420時間もっと密にする。

 

行って授業して帰るでは終えない。

 

 

銀河の月7日

2月13日

 

また当てられた。

実習の時間だからしょうがないのだが、よく当たる。

だが、みんなの前に出ると落ち着くのもまあ、少し事実。

まな板の上に乗せられるから、覚悟がつくのだ。

やるしかないと腹をくくれるから、ほっとする。

そして実際、みんなの前に出ると、落ち着く。

 

そりゃ、24年、みんなの前でやってきたのだ。

その経験は消えてはいない。

 

ナフルのテキストの復習をしている。

理論面の総復習だ。

 

今年の10月、日本語教育能力検定試験。

絶対合格する。

それも満点に近い点で合格する。

だからこの2月から、検定試験を見据えての勉強を始めている。

つまり復習だ。

去年の4月から10月までやった勉強、ナフルのテキストの復習、ノートの見直し、大事な箇所をコピーした文書の見直し、理論面では全てを頭の中に入れ、定着させる。

 

 

それができれば余裕で実技に意識をまわせる。

 

堂々とみんなの前で演じる。

未来の生徒のために。

恥をかく恥をかく。

 

 

銀河の月16日

2月22日

 

講演に行った。

日本語教育はどうあるべきか。

 

○外国人が表現したいことを表現するための日本語を教える。

 

○摩擦と向き合う。

 

○アジア人への差別をなくし、英語偏重をやめ学校教育の中にアジアの言葉や歴史を取り入れる。

 

○しかし英語は共通語。

 

○外国人の話す日本語を理解する耳を持つ。日本人が変わる必要。

 

 

例えば、「私は頭が痛いから会社を休む。」

     「あなたはコーヒーを飲むか。」

 

を訂正する時間を、言いたいことを言うための時間に当てるべきという事なのか。

摩擦が起こらないように事前に回避するよう気を使うのが日本の大人だが、そうではなく起きたトラブルと向き合う方に時間と気を使う。

 

そういうことなのか。

 

それともそう思って外国人と付き合って丁度いいという意味なのか。

 

その辺が分からない。

言いたい事を言い合ってその摩擦と向き合う力を交渉力といって、評価すべきだということなのか。

 

だが言いたいことを言って、言い合って世界中に揉め事が起きまくっているのだ。

言いたい事を抑え相手のことを慮り察し、周囲との輪を第一にする日本人の対応は、これからの世界に必要なことではないのか。

 

規則やルールを第一に置き、それに合っている合っていないで互いを主張し摩擦を起こすより、決められたルール規則に従うのではなく、それを曲げてでも周囲との和を図る。それがこれからは大事になるのではないか。

 

その周囲が、自分の暮らしている地域、自分の町だけ、自分の国だけでは問題が起きるが、その周囲を世界にまで広げていけば、和を尊ぶということが世界ルールになるはずだ。

 

摩擦と向き合うということが、どこでのレベルなのかが、よく分からない。

日本で暮らすのに必要な察する、察せられる、自分の思いを抑え周囲と合わせる事を大事にするという事を十分に教えた後での摩擦なのか。

 

 

教えずに起きる摩擦と向き合うのか。

 

 

なぜ日本人が自分を主張せず、ニコニコ微笑みを浮かべているのか。

 

もちろん周りの目ばかり気にして、自分の意見がない。

あっても表現する力がない。

 

ということではどうしようもない。

 

 

だが日本人はきっと、自分固有の意見を持ちそれを主張することより、周囲で起きる意見の違いをしっかりと見極め、双方が満足する新しい意見を作り上げることが得意であり、それが日本人の役割となるのではないか。

 

日本人は調整役。

もめている中に静かに入り、それぞれの意見に耳を傾け、それぞれが満足できる着地点を考え、それを提示し、また持ち帰り、調整し、というような役割を担うのが日本人なのではないか。

 

リーダーとしてみんなの先頭に立つのではなく、地味なそんな役割こそが日本人がこれから世界の中で果たしていく役割だと思う。