塾日記 2005.3.1−31 3月13日. 受かった.合格だ. 12月、学校からは受けるな、無理だというところを受けさせることにした. 本人のやる気があったし、元々頭の良さがあったので、こっちも尻を叩いた. その後も毎日塾に来たし(それも4時〜9時までだ.)見事な集中だった. だが実はこっちはけっこうびびっていた. もし落ちたら. しかしとりあえず私立は受かっているし、親も許してもくれるだろう. といって兄貴の後を受けて、受験御願いしますと入会してきたのだから、期待に沿わなくてはいけないし… こっちもプレッシャーだった. だが1月、2月と受験が近づくにつれて本人根性が入ってきた. 集中が高まった. だがぽかが多いのだ. 答の欄を一列間違える. 問題を、大問一題やり忘れる. そんなとんでもないミスを平気でやるのだ. だから受験直後、自己採点で合格点をかなり上回る点を電話で聞いても安心できなかった。本人気付かないミスがあるかもしれなかったからだ. 結局は杞憂だった. 学校から無理だといわれたところを合格させた. 塾の仕事としても合格だろう. だが本人合格してから今日まで教室に来ていない. まぁ、一気に気が抜けたのだろう.この辺りの集中力の高低の差、これが集中力そのものの 来週は来てくれるだろう. あとは高校3年生。 昨日3月12日、東京歯科大受験が終った. 電話があった.小論文、面接とも大丈夫だったと. 2月の中ごろ突然3年ぶりに教室にやって来て論文が書けない何とかしてくれ言われた. やれるだけやった. 3年前は文章そのものが書けなかった. 千葉東に入って3年、さすがに文章は書けるようになっていたが、ネタとなる自分自身の考えが足りなかった. 短い間だったが、環境問題、人種、政治、経済問題、日韓、日中、日米間の歴史、 医者としての覚悟、心構え、豊かな人生とは、幸福とは、あとは天声人語、余禄、等を題材として小論文が出てくるということで、天声人語、余禄を読ませ、テーマを与え書かせた. きちんとやってきた.思ったよりも自分の考えがまとめあがっていった. 感心した. だが一番気になったのは面接だった. ナイーブな子なのだ. 気が弱い、といってもいい. 医者がそれではまずい. 患者の体を預かるのだ. 責任を背負い込む意志の力が必要だ. 毅然と立ち向かう意志の力. それを面接で見せなければならない.面接官に感じさせなければならない. そんなことを本人に言った. 短い間だったが、できることはした. 来週の水曜日、結果が出る. 少しは役に立った? と聞いたら、とても役に立ちました.突然押しかけて申し訳ありませんでした. 中学の時もそうでしたが、本当にありがとうございました. 結果の如何に関わらず水曜日には伺いますので. きちっとそう言った. 感心した. こういったことを言えるとは思わなかった. 感心した. 嬉しかった. そんなこと言ってもらえると本当に嬉しい. やってて良かったと思う. あとは結果だ. だが結果はどんな結果でも一番ふさわしい結果がやってくるのだと彼に言った. やることをやれば結果は周りから見て良いも悪いも関係ない. やることをやれば出た結果が自分にとって一番の結果なのだ。 と彼に言った. 自戒. でも結果だ. 水曜日. 青い水晶の嵐の年銀河の月 3月17日. 東京歯科大、補欠の3番目.惜しい. 日本歯科は受かっている. 親と共に教室に来た. 母親も補欠とはいえ、えらく喜んでくれた. 突然やって来て、親身に教えてくれ、論文も書けるようになった.本当にありがとう感謝してます. 何度も二人して頭を下げてくれた. これは嬉しい.感動する.日頃増員だ、ピンポンだ、電話掛けだと営業一色の毎日の中で、授業に対してのここまでの感謝はほんとにほっとする. ビールを1ケース持ってきてくれた. そして封筒を.まぁ1万ぐらいと思っていたが3万入っていた.久々だ.給料が13万であればこの3万は大きい. 最初に来た時に5000円の商品券をくれたので全部で40000円. ありがたいねぇ. 喜んでいる顔. 嬉しい. 青い水晶の嵐の年太陽の月 合格! 電話があった. えらく喜んでくれた. こんなに表情豊かに喜びを表せる子だったんだ、と思うほど、喜んでいた. くちゃくちゃの笑顔が見えた。 それなりに俺も役に立ったんだ. 少しはね. 役にも立つさ. いい加減やってこなかったんだから. 青い水晶の嵐の年太陽の月23日. 3月29日. 突然ピンポンとなり、出てみると、知らない二人の青年. お互い硬い表情. 「佐々木です.」 「? ………」 「………」 「む? 佐々木?直仁か!ってことは、おまえ、和人?」 「そうです.」 二人の青年が笑った. だが兄貴はすぐに思い出せたのが、弟は顔が違う. 「和人?」 「そうです.」 記憶の中では、絶えず冗談をいい、ケラケラ笑い、机の下に潜り、教室を走り回る小さなやんちゃだった. 弟は小学2年、3年、4年、兄貴は小学4年、5年、6年、中1とみた。 共に途中で止めた。 時々のメールや年賀状でのやり取りしかなかった. 今日は、兄貴は慶応の法学部に、弟は千葉高に合格したので報告に来たとのことだった. 大したもんだ. 慶応に千葉高だ. そういえば、ほかにも、学習院、明治、青学、千葉大、上智、早稲田(ほか多数)、この2,3年受かったと聞いている. もっともこっちが見たのは小学、中学校だけだから、直接合格の力にはなってはいないのだろうが、しかし少しは役には立ったはずだ. ほかにだって、介護士や、看護婦、というのがたくさんいる. まぁそれにしたって、別に僕の力があったからというわけでもないのだが、しかし、少しは、すこしは、彼らの人生の役には立ったはずだ(ろう、きっと.少しは、少しぐらいは.) 何かと千々に乱れる50歳. このまま死に行くだけの50歳といじけている今日この頃、彼ら3人の突然の登場はありがたい. 生きていた良かったとつくづく思う. 思うのだ. ほんとに. こういうのがなかったら、4月にでも入ったら桜の開花と共に死んでやろうかと思っていたくらいだ。 いつもぎりぎりのところで、こんなことが起こる. 街でお母さんと会い、あの時先生にみていただいて本当に良かった.先生の指導がなかったら、今ごろどうなっていたか. としみじみ街角で突然話される. こっちがもういい加減こんな世の中には爆弾でも投げまくって死んでやると思っている頃に、会うのだ. だからありがたい. だからもうちょっと生きてみようと思う. 生きてみてもいいのではと思う. とはいえ、それって、真綿で首を絞めるっていう感じもあるんだけどね. |