塾日記 2002.7.1~31

7月2日.火曜日.

 

卒業生が来た.今高校3年.

おと年から留学したいがどうだろう、と何回か相談に来ていた.

その度に早く行け行けと言っていた。

去年行って1週間前帰ってきた.

 

見事に変わっていた.

前は論理的に話そうとしてうまく話せず口篭もったり、色々感じるとこがあってもうまく言葉にできず、苛ついていた事もあった.

それが姿勢がすっと伸び、顔が上がり、輪郭がはっきりとした.

 

話もきちっとゆっくり、しっかりと話せる.

一丁前の大人、青年になった.

気持ちの良い変わりようだ.

たった一人で英語の授業を毎日受けていたのだ.

聞けばステイ先のおじさんが飲んだくれでいつも夜遅く帰ってきて、食事はそのおじさんのも作っていたとのことだ.

色々あったろうにたいしたもんだ.

 

変われるのだ.

蝶がさなぎから出て飛び立つように変われるのだ.

いいよな.

これからなのだ.何もかも.

 

77.日曜日

英検4級合格したと女の子が来た.

するはずの無かった子だ.

それをこの2ヶ月で合格させた.

でも先月で退会.

合格通知を見せに来たのだ.

 

大人しい子.

家ではパワフルな祖母と母親の間で静かにしていた.

この祖母と母親はすごかった.

面談でもないのに突然来て、教育談義をぶつ.

人の迷惑など関係ない.

人はいいのだが、エネルギーが有り余っているのだ.

その子はいつも二人の間に入って、二人を無視して自分のバランスを保っていた.

 

いつも教室では部活や授業の話を聞いた.

授業が終わってもなかなか帰らず、本や雑談で時間を過ごした.

2ヶ月前、友達と一緒に塾に行くと言い出した。

初めての自己主張だ.

祖母も母親も驚いた.

本人の意見は変わらず、初めての事なので、それもいいだろうという事で、またぼくもまだ中2なのだから、いいだろうと言った.

もちろん良くないのだが.

しかし本人の事を思えば、それもあっていいのだ.

いつまでも人の意見に乗っかっていてもしょうがない.

最後の2ヶ月は英語中心でやった.

宿題も十分にやれなかったが、誉めまくり、誉めまくりで、のせた.

 

ギリギリで合格.

おっとりとして、真面目で、可愛い子だった.

 

7月10日.水曜日.

卒業生からメールが来たり、教室に来たりと忙しい.

期末試験なのだ.

だから部活もないし早く帰れるし、そしたら塾にも寄ってくれるのだ.

うれしいうれしい.

 

メールでは高2の女の子から、今倫理が面白いときた.

倫理の授業が楽しいと言うのだ.

 

今自分が考えたいと思ってること、考えなきゃいけないと思っている事が、倫理の教科書に書いてある.

ソクラテスとかプラトンとか、キリストとか釈迦とか……

 

塾にいた時はとにかく元気一本、バスケ大好き、突撃少女!ッて感じで、無邪気な笑顔の可愛い子だった.

 

それが今人の生き方で色々と考えている.

真っ直ぐな子だったから、中学のときは真っ直ぐに笑い転がり、今は真っ直ぐに人の生き方に突っ込んでいるのだろう.

 

プラトンの洞窟の比喩を書いて送ったら、えらく感激した.

変わるんだ.

 

720日。土曜日。

 

相対評価から絶対評価へ。

大きく評価の仕方が変わった。

 

2の生徒が教室に入るなり言った。

あいつら目立つからいいよな。

 

コツコツとやる地味目の子だ。

 

確かにそれはある。

個人の意欲・関心・興味を評価の対象にする。

しかし生徒の数は変わっていない。多いのだ。

 

そこで一人一人の意欲・興味・関心を見る。

 

生徒の内面を評価するのだ。

やはり目立つ子は印象に強く残る。

大人しい子が損をしていると感じるのもありえる。

 

それは学校の先生も感じているはずだ。

今学期のあの子の意欲はどうだっただろうか。

興味は,関心はどうだったろう。

 

学校の先生が問われている。

我々が個別指導塾として20年間やってきた,一人一人の心を絶えず見つつ,そこから指導を行う。

だが学校では難しいことだ

 

先生がどこまで一人一人を感じ取れるか。

それが問われている。

ところが先生は変わっていない。

同じ先生だ。

 

評価方法が変わるのに,評価する人間はそうした評価方法の中でまず育っていない。またその評価の仕方を教える人もいない。文部科学省からの指導書だけだ。

 

「生きる力」もそうだ。

「生きる力」の無い先生が教えている。

「生きる力」を教えられてこなかった先生が教えている。

当然混乱がこれから起きる。

結局,意欲・関心・興味を計る為の,物差しができそれに数値を当てはめることになる。

自然な流れだ。

評価は機械的になる。

生徒もそれがわかってくればそれに合わせて教室での振る舞いを決めていく。

意欲・関心・興味を演技で上げていくのだ。

しかもその評価も他人と比べて上か下かは分からないのだから,上がっても大してうれしくもない。

嬉しくもない数字の為に演技をする。

教室は今より嘘っぽくなっていく。

 

偏差値の出る大規模なテストがだから必要だ。

偏差値で個人の内面,人格,人生までも決めてしまう愚を除けば,その日その時のその単元の学力の客観的な評価を調べる為のものとして偏差値の出るテストは必要なのだ。

 

今回のような絶対評価の通知表は,指導の目を一人一人に向け,生徒の気持ちを感じ取るという評価をする側の意識を変えるという点に於いて,意味はある。だが同時に客観的にその子を判定できるテストがあってこそ,そうした評価も生きてくる。

車の両輪なのだ。

 

いつもこの国は両方無ければならない物の一方から一方への極端な動きを懲りずに繰り返す。

 

いつだって大切なものはその真ん中でその両方を含み静かに浮かんでいる。