宝慶寺の石仏

 東京国立博物館の東洋館には、中国や朝鮮、東南アジア、近東の文化財が展示されています。その中から中国の石仏を見てみましょう。

東京国立博物館東洋館1階1室にずらりとならんだ宝慶寺の石仏


 中国の石仏は東洋館1階の1室に展示されています。正面入口を入って右側に1室があります。展示室に入ると部屋の中央奥に大きな石仏が数点ならび、向かって左側奥に仏頭、そして右側に長方形の石に仏像が浮彫に刻まれた仏龕(ぶつがん)がずらりとならんでいます。細長いもので高さ約110cm、幅約30cm、横幅の長いものは高さ約110cm、幅約65~90cmあります。仏龕は陝西省西安の宝慶寺から持ち出されたもので、東洋館には全部で15点展示されています。

 宝慶寺の石仏は8世紀初頭、武則天(則天武后)の武周時代における秀逸な仏像群として、国の重要文化財にも指定されています。長安城内で光宅寺に七宝台という建物が建てられ、内部を荘厳にするため仏像が造像されたと考えられてます。儀鳳2年(677年)に舎利(釈迦の遺骨)が光宅坊に出現して武周革命の前兆だとして光宅寺が建立され、武則天は七宝の舎利宝塔である七宝台を長安3年(703年)に建てました。舎利は天下に配分されて弥勒信仰の基盤になりました。光宅寺廃滅後、仏龕群は宝慶寺(花塔寺)の明時代末から清時代初頭の六角七層の塼塔(せんとう、塼(タイル)で造られた塔)外壁と、同じころに建てられた仏殿の塼壁内面にはめ込まれました。

 いつかの仏龕には銘文が刻まれています。たとえば展示室奥に1点だけ離れて展示されている細長い十一面観音龕(TC-775)の両側には、七宝台造営の総監督だった僧徳感が圀(くに、皇帝)のため皇基の永個と聖寿の長生きを願って長安3年に十一面観音像を造ったと記されています。武則天のために造像されたことが明白です。

十一面観音龕(TC-775) 弥勒三尊仏龕(TC-720)


 徳感は、武周革命の際に武則天の即位が仏意にかなうものだとした『大雲経』の「大雲経疏」を撰述した1人でした。また徳感については、長安2年に僧俗一千余人とともに五台山にのぼり、文殊菩薩が西峰に出現したのを台頂から目撃して、図画に書き留めて報告すると帝がおおいに悦んだという逸話がつたわっています。武則天に近い僧徳感の指導のもと、七宝台の造営に結縁(けちえん)した官人たちからの協力などが、他の仏龕の銘文からうかがえます。

 中国史上唯一の女帝となった武則天は、浄光天女が転輪聖王(理想の君主)として即位するという『大雲経』の一節を根拠に、自らを弥勒仏の化身として神格化させ、全国に大雲経寺を建立させました。歴史的背景を考えると、光宅寺の七宝台および七宝台をかざった石仏群は、単に美術史上の名品というだけでなく、武則天の野心や策略を秘めた重要な歴史的資料ともいえるでしょう1)

 宝慶寺には多数の仏龕がありました。現在32点が確認されています。そのうちの多くが20世紀初頭に中国から持ち出されました。日本に21点あります。東博の東洋館に15点、奈良国立博物館に2点、九州国立博物館に2点、根津美術館に1点、奈良国立博物館に寄託されている個人所有の1点です。東京、奈良、九州の国立博物館所有となっている19点は、かつて細川護立(永青文庫)の所有でした。アメリカにも4点あり、ボストン美術館に1点、フリーア美術館に2点、サンフランシスコ・アジア美術館に1点あります。一方中国には7点しか残っていません。そのまま塼塔に残っている6点と西安碑林博物館に1点あります。

宝慶寺仏殿西壁にあった石仏
常盤大定,、関野貞『支那文化史蹟』
第九輯、1940年。
IX-35。
宝慶寺仏殿の見取り図
常盤大定,、関野貞『支那文化史蹟 解說』
第九卷、1940年。
32頁。


 中国から日本へ20点以上の仏龕を持ち出したのは、早崎稉吉(はやさき こうきち)という古美術商です2)。早崎は東京美術学校出身で岡倉天心の弟子でした。岡倉は日本美術に深い影響をおよぼした中国の古美術を調べるため、1893年に中国を旅行しました。早崎は岡本の中国旅行に随行して中国の遺跡や文物に深い関心をいだき、その後たびたび中国を訪れるようになります。とくに1903年から3年半におよぶ長期滞在で、西安や三原の学校で器械体操の教員に雇用されました。岡倉に同行した1893年の最初の中国旅行で早崎は宝慶寺の石仏を見て大層気に入り、そして10年後に何度も寺に通って交渉して、何とか手に入れます。

 宝慶寺の石仏群は金石学(古代の青銅器や石碑に刻まれた文字を研究する学問)の銘文研究によって、すでに清時代から広く知られてました。岡倉や早崎をはじめ日本人は、中国人学者とは異なる観点から、美術史的価値を石仏群に見出したのです。

 早崎は1904年2月8日に住職の道洲和尚と2点を削る約束をして、10日に銀30両を香銭として渡しました。ちょうど2月8日は日露戦争開戦の日です。つづいて1905年1月に2点を銀60両で、5月に1点?、1906年1月に3点を40両で、1907年4月には要求をエスカレートさせて15点を500両で入手しました。このうち1905年5月に入手した1点は宝慶寺の石仏かどうか不明です。つまり全部で22点を確実に中国から日本へと持ち出しました。

 1905年9月に日本はポーツマス条約を講和して、遼東半島(関東州)の租借権、東清鉄道の長春~大連の支線、朝鮮半島の監督権をえます。10月に関東総督府を設置、翌年11月に南満洲鉄道株式会社を設立しました。早崎の行動は、日本帝国主義の拡大と無縁ではないでしょう。

 1907年に一挙に石仏15点を購入した際に、早崎は地元有力者や名士たち約100人と交渉をはじめますが、なかなか話しが進まず、何度も足を運んで根気よく交渉を続け、寺の修復を交換条件にしてやっと売買契約書を交わしました。売買契約書もある売買だったので、戦争による戦利品、暴力的取得ではないのだとして、宝慶寺の石仏の持ち出しを正当化する意見があります。

 しかしながら、根気よく交渉を続けたとされますが、突如訪問して躊躇する相手に対して売るまで居座り続けるという、最近日本でも警戒されている悪徳商法の「押し買い」を連想させます。また寺の修復という相手の窮状を利用した条件なので対等な取引とはいいがたいでしょう。

 そして日本に移送した石仏を早崎は売却します。1906年に岡倉天心に1点を1,600円で、1908年3月に横浜の原三溪(富太郎)に2点を5,000円で、1928年3月に細川護立に石仏21点(宝慶寺の石仏は18点)を20万円で、1931年12月にふたたび細川護立に石仏22点(宝慶寺の石仏は1点)を2万円で売却しました。つまり宝慶寺の石仏を、早崎はまず1点を岡倉に売却し、岡倉はボストン美術館に納入しました。次に原三溪に2点売却し、さらにかなり時間がたってから細川護立へ大量に19点を売却したのです。

 武則天の権勢を記念して千年以上前に造られた石仏群は、こうして西安の寺から持ち出され、おもに日本人富豪のコレクションにおさまりました。清朝末期から資本主義に組み込まれた中国で、古い石仏も商品として貨幣価値に換算されて世界市場へと流出したのです。

 近年欧米諸国では倫理意識がたかまり、戦利品として奪われた文化財や植民地から取得された文化財が返還されています。売買で取得された文化財の正当性は世界でどのように論じられているのか、見てみましょう。

 2018年にフランスのマクロン大統領に提出され、近年の文化財返還の潮流を基礎づけたベネディクト・サヴォワ(Bénédicte Savoy)とフェルウィン・サル(Felwine Sarr)の画期的な返還レポート『アフリカ文化遺産の返還 新しい倫理関係に向けて(Rapport sur la restitution du patrimoine culturel africain. Vers une nouvelleethique relationnelle / The Restitution of African Cultural Heritage. Toward a New Relational Ethics)』では、市場での取得(購入)という経済的議論は、文化財の所有や持ち出しの正当性を担保するには不十分だと論じてます。

 ローマ共和政末期にシチリア島で文化財を略奪したウェッレースを弾劾したキケローの言説を引用しながら、征服された側が選択の自由を持っていたならば、先祖から受け継いだ聖なる品々を売ることは決して選ばなかったと考えられるので、経済的議論を退ける。征服した国で征服者による購入は、犠牲者の推定同意(presumed consent)を十分に正当化できない。

 植民地という権力構造の非対称性のなかで、実際には徴発に近い強制的購入だったという歴史的実態があった。植民地当局の脅しや報復などで地元の人たちが文化財の売却をうながされた。また現地で支払われた金額は、宗主国ヨーロッパの市場価格と比較してきわめて低額で安い対価だった。1931年にアフリカの民族調査で購入されたある仮面は7フラン(当時卵12個と同じ価格)で購入されたが、同年パリのオークションで同様の仮面が200フランあるいは1,150フランの高値で販売された。

 また市場を通じて戦利品だった文化財が資本化され、洗浄された。戦争で略奪された戦利品はヨーロッパへ運ばれた後、競売にかけられて美術市場へと流出した。博物館・美術館や個人コレクターが取得することにより、暴力的取得の歴史的背景が市場流通の過程で隠蔽され、最終的には寄贈や遺贈という形で公的コレクションに組み込まれていった3)


 近年オランダからインドネシア、スリランカなどに次々と文化財が返還されています。返還の前提となった2020年に公表された文化省文化審議会の『植民地コレクションと不正認識に関する勧告(Colonial Collection and a Recognition of Injustice)』を見てみましょう。オランダの政策では、たとえ購入あるいは寄贈された文化財だったとしても、とくに重要な物件は返還を検討するように勧告されています。

 オランダのコレクションにある植民地文化財はさまざまな方法で取得された。寄贈や購入、物々交換であっても植民地時代には植民者と被植民者の間にある不平等な権力構造を肝に銘じておかなければならない。というのは完全な同意にもとづく商い取引や寄贈でない場合があるからだ。植民地的状況では義務と自由の境界線が非常にあいまいな紙一重だったので、自発的なのか、あるいは不本意に占有を失った(involuntary loss of possession)のか判然としない。

 自発的に占有を失った、つまり購入や寄贈で取得された物件であっても、とくに文化的、歴史的、宗教的に重要な文化財の返還については、原産国がオランダの植民地であろうが他のヨーロッパ列強の植民地であろうが、返還要求を考慮すべきだ。この場合は歴史的不正義の是正という原則を適用するのではなく、原産国にとってきわめて重要だいう認識からである4)


 近年ドイツからアルジェリアにベニン青銅器が1,000点以上返還され、その他にも返還が続いてます。ベニン青銅器とは現在のナイジェリアにあった文化財で、1897年にイギリス軍による懲罰遠征で略奪され、ヨーロッパの美術市場で販売されてドイツの博物館に購入、あるいは寄贈されたものです。

 ドイツの返還指針として博物館用ガイドライン『植民地的状況で得られた文化財の取扱いガイドライン(Guidelines for German Museums. Care of Collections from Colonial Contexts)』が2018年に刊行され、2021年には第3版が公表されました。ドイツ博物館協会の出版物ですが、初版が刊行された時には当時の文化相が紹介しているので、政府公認の政策と判断して良いでしょう5)。ドイツでは原産コミュニティとの対話・協業が強調され、また売買による文化財取得の絶対的正当性を否定しています。

 植民地時代の文化財取得に関して、市場でヨーロッパ人向けに売られた土産物などは問題はない。しかし植民者と被植民者との権力格差による不当な価格、強要や困窮による譲与など植民地的状況の取得に絶対的正当性は考えられない。当時の法的・倫理的基準に反していたり今日の倫理規準に違反するような取得、また原産コミュニティにとって宗教的・文化的に重要な物件は、返還を検討すべきである。原産コミュニティとの対等な対話が不可欠である6)


 国際法学者カーステン・スターン(Carsten Stahn)による植民地文化財に関する近著『植民地文化財に向き合う(Confronting Colonial Objects)』を見てみましょう。彼は、植民地時代に市場や取引を通じて購入された文化財の所持について、合法的に購入したから正当だったと単純に言い切れないことを指摘しています。

 植民地時代の文化財持ち出しをすべて略奪または窃盗だったとはいえないし、また同意、交換、代償がふくまれていたから植民地的取得は合法だったとする根拠も疑わしい。複雑性を考慮して、適法と違法の異なる程度にしたがうスペクトラム・連続体(spectrum)、絡み合う合法性(entangled legalities)と考えるべきだ。不平等な力関係、支配側の圧倒的地位を利用して低い価格で取得したり、窮状に乗じた条件で取引がおこなわれ、自由な承諾ではなかった。

 ドイツ、オランダ、ベルギーなどの国々や一部の博物館では新たな倫理指針を策定し、所持の正当性を再検討している。ドイツのガイドラインでは、植民地的状況という幅広い定義を援用して不平等な権力関係、植民地的従属が公式に植民地化されていない、あるいは部分的に植民地化された19世紀の中国のような国々でも発展したのだと強調された。今日から観て取得の事情が不正ならば、また原産コミュニティにとってとくに宗教的、文化的に重要な物件で今日でも重要な意義があるならば、返還を考慮すべきだと述べられている。オランダのレポートでは、現代の基準からみて歴史的不正義であるならば是正するという原則が表明された。ベルギーの原則では移行期正義の方法が支持されている。人権と文化の権利が重視されて、文化遺産に関する人々の権利を認めることで文化遺産の返還を道徳的義務と導いている。

 所持の正当性よりも、人々と文化財との結びつき、文化に接する権利、つまり関係的正義(relational justice)が重視されている。人々と文化財との不可分性が19世紀から文化遺産法の基礎におかれた。文化遺産の重要性をコミュニティで認識することで人々の間で敬意や義務の関係が強化され、文化ナショナリストの意識を越えて、主権的利益、自決や少数者の権利につながるのである。固有の文化的物件への接近をコミュニティから奪うことは人権侵害に相当する7)


 植民地的状況で取得された文化財について、ヨーロッパ各国の政策および最近の国際法の専門書などによると、金銭を支払って購入したという事実だけで取得の正当性は認められないと述べています。形式上の合法性(当時の法律への適合)があったとしても、構造的な不平等や強制、あるいはコミュニティの権利侵害を伴っていることが多いため、現代では植民地時代に取得された文化財を所持する正当性が揺らいでいるのです。

 それでは宝慶寺の石仏について、まず石仏の価値から考えてみましょう。早崎が支払った石仏の値段が現在の価値に換算するとどの程度になるのか、計算してみましょう。

 1904年に上海宛参着払為替で日本円100円は77.89両(年平均)でした。100÷77.89=1.28、つまり1両は1.28円なので銀30両は39円になります。同様に1905年、1906年、1907年の購入金額を日本円に換算すると8)、それぞれ80円、58円、720円という購入価格になります。

購入 現地での
支払い(両)
上海宛参着払為替
100円に対する銀両
1両の値段
(円)
支払い
(円換算)
1904年2点 銀30両 77.89 ¥1.28 ¥39
1905年2点 銀60両 74.77 ¥1.34 ¥80
1906年3点 銀40両 68.69 ¥1.46 ¥58
1907年15点 銀500両 69.47 ¥1.44 ¥720
計22点
宝慶寺石仏の購入価格 

売却 受領額
1906年岡倉天心に1点 ¥1,600
1908年原三溪に2点 ¥5,000
1928年細川護立に21点(宝慶寺石仏18点)  ¥200,000
1931年細川護立に22点(宝慶寺石仏1点) ¥20,000
宝慶寺石仏の売却価格


 昔の円の値段を現在の価値に換算するには、決まった方法がありません。ここでは企業物価指数、米価、小学校教員給料のそれぞれの変遷倍率をもとに計算します。

 企業物価指数とは企業同士で取引される「財」の価格を対象とした指数で、1934~36年=1を基準にして価格変遷を算出します9)。2025年に企業物価指数は912.9、1904年には0.53でした。912.9÷0.53=1,722となり、1904年の企業物価は現在では1,722倍になります。38.52×1,722=66,342となり、1904年の39円は現在の価格で約6万6,000円です。同様に計算して1905年の80円は約12万9,000円、1906年の58円は約9万円、1907年の720円は約104万円になります。石仏の購入価格を合計すると現在の価値で約130万円でした。

 同様に売却した時の値段を現在の価値に換算すると、1906年の1,600円は約250万円、1908年の5,000円は約750万円、1928年の20万円は約1億6,500万円、1931年の20,000円は約2,440万円になります。売却価格を合計すると、約2億円になります。購入価格は売却価格の1%にも満ちません。

購入 企業物価指数
1934~36年=1
倍率 現在価格
に換算
2025年  912.9    
1904年2点銀30両(39円) 0.530  1722 ¥66,342
1905年2点銀60両(80円) 0.569 1604 ¥128,746
1906年3点銀40両(58円) 0.586 1558 ¥90,718
1907年15点銀500両(720円) 0.632 1444  ¥1,039,630
合計 ¥1,325,436
購入価格を現在価格に換算(企業物価指数を基準)

売却 企業物価指数
1934~36年=1
倍率 現在価格
に換算
2025年  912.9    
1906年1点1,600円 0.586  1558 ¥2,492,560
1908年2点5,000円 0.609 1499 ¥7,495,074
1928年21点200,000円 1.106 825  ¥165,081,374
1931年22点20,000円 0.748 1220  ¥24,409,091
合計 ¥199,478,099
売却価格を現在価格に換算(企業物価指数を基準)


 次に米価を基準に計算してみましょう。1893~1923年の白米中級品10kgの値段と10)、2021年うるち米単一品種コシヒカリ以外一般小売店5kg2,184円×2の米価4,368円との価格変遷から計算します11)。すると石仏の購入価格は約270万円、売却金額は約3億9,000万円になります。

購入 米価
白米中級品10kg
倍率 現在価格
に換算
2021年  ¥4,368    
1904年2点銀30両(39円) ¥1.221  3577 ¥137,786
1905年2点銀60両(80円) ¥1.177 3711 ¥297,804
1906年3点銀40両(58円) ¥1.362 3207 ¥186,755
1907年15点銀500両(720円) ¥1.489 2934  ¥2,111,352
合計 ¥2,733,697
購入価格を現在価格に換算(米価を基準)

売却 米価
白米中級品10kg
倍率 現在価格
に換算
2021年 ¥4,368    
1906年1点1,600円 ¥1.362  3207 ¥5,131,278
1908年2点5,000円 ¥1.380 3165 ¥15,826,087
1928年21点200,000円 ¥2.784 1569  ¥313,793,103
1931年22点20,000円 ¥1.543 2831  ¥56,616,980
合計 ¥391,367,448
売却価格を現在価格に換算(米価を基準)


 小学校教員給料をもとに計算してみましょう。市町村立尋常小学校で小学校本科正教員の資格ある者の月俸と12)、2024年の小・中学校教育職大学卒給料月額35万5,176円とを比較します13)。すると石仏の購入価格は約2,000万円、売却金額は約14億円になりました。購入価格は売却金額の1.4%です。

購入 小学校
教員給料
倍率 現在価格
に換算
2024年   ¥355,176    
1904年2点銀30両(39円) ¥15.018  23650 ¥910,901
1905年2点銀60両(80円) ¥15.209 23353 ¥1,873,988
1906年3点銀40両(58円) ¥15.608 22756 ¥1,325,143
1907年15点銀500両(720円) ¥16.378 21686  ¥15,608,294
合計 ¥19,718,327
購入価格を現在価格に換算(小学校教員給料を基準)

売却 小学校
教員給料
倍率 現在価格
に換算
2024年   ¥355,176    
1906年1点1,600円 ¥15.608  22756 ¥36,409,636
1908年2点5,000円 ¥17.992 19741 ¥98,703,868
1928年21点200,000円 ¥61.798 5747  ¥1,149,483,393
1931年22点20,000円 ¥58.635 6057  ¥121,149,153
合計 ¥1,405,746,051
売却価格を現在価格に換算(小学校教員給料を基準)


 1世紀以上前の価格を現在の価値に換算するのは非常に困難です。しかしながら宝慶寺の石仏売買に関しては、現在の価値に換算しておおよそ数100万円から2,000万円以下で購入、数億円で売却、そして売却金額に占める購入価格の割合は約1%だったと考えられます。

 破損しやすい古美術品の取扱いや移送に、早崎はとても神経をつかったといいます。1907年に石仏15点を購入した際に、多数の石仏を壁からはずすため移動費に200両14)、洛陽から鄭州までの運賃に176両を費やしました15)。けれども、その他の輸送費や保管費もふくめた原価率はさほど高くなかったと思われます。

 さて早崎が宝慶寺から石仏を購入したころ、日本でも著名な古刹である興福寺から仏像が売却されました16)。秀逸な古い仏像をめぐり、ほぼ同時に起きた売買の事例から中国と日本における文化財保護の違いを見てみましょう。

 1906年に興福寺は破損仏73点を売却しました。興福寺では経済的に困窮していたので、寺の堂宇の安置仏ではなく、土蔵の片隅に堆積して破損した仏像、由緒もなくまったく不用の什物や破損仏像を譲与して、寺門維持の基本財産にするためでした。処分された仏像の多くは東金堂に集積させていました。破損仏とはいえ、譲与後に補修されていくつかは重要文化財に指定されています。

 藤田伝三郎、大倉喜八郎、原六郎(原三溪とは別人)、益田英作(益田鈍翁(孝)の弟)など有名な大コレクターたちが買入れに名のり出ました。結局、原と益田による2人による公開入札となり、原の2万円に対して益田が2万3,000円で落札しました。益田は17点を選り抜いて庫におさめ、残りは益田英作の古美術店で売られました。

 益田が入手したと思われる目録が残っていて、価格も記入されていました。価格1,000円以上の仏像は計8点ありました。その他の大多数の仏像の価格は50円~300円でした。比較的大きい四天王立像が3点で5,000円、文殊菩薩座像が1点で3,000円、梵天帝釈立像2点で2,000円でした。なお四天王立像は現在重要文化財になっています17)

名称 時代 寸法 価格 現所蔵館
四天王立像 3点
(重要文化財)
平安(11世紀)~
鎌倉(12世紀初頭)
5尺5寸(約167cm)  ¥5,000 奈良国立博物館、
MIHO MUSEUM
文殊菩薩座像 1点 鎌倉(13世紀) 4尺(約121cm) ¥3,000 フィラデルフィア美術館
梵天帝釈立像 2点 奈良(8世紀) 4尺3寸(約130cm) ¥2,000 サンフランシスコ・アジア美術館
拝手毘沙門座像 1点 1尺1寸(約33cm) ¥1,500 所在不明
維摩居士座像 1点 6寸6分(約20cm) ¥1,000 所在不明
1906年に興福寺から売却された秀逸な仏像


興福寺旧蔵の四天王立像、増長天立像と多聞天立像
文化遺産データベース


 宝慶寺の石仏と比較してみると、早崎は1906年に岡倉天心に1点で1,600円、2年後に原三溪に2点を5,000円で売却しています。中国から持ち出された宝慶寺の石仏は、日本で当時の古美術市場の相場とさほど変わらない値段で売買されたと考えられます。宝慶寺の石仏と興福寺旧蔵の四天王立像は、ともに重要文化財なので両者は文化財として同じレベルの価値と考えられます。

 ところで19世紀後半に欧米列強の帝国主義国は、市場拡大を意図して東アジアに開国を迫ります。中国はアヘン戦争をへて1842年の南京条約、日本はペリー来航をへて1854年の日米和親条約の締結によって、世界市場に組み込まれました。海外に門戸を開いたことで東アジアから欧米へと、大量に文化財が流出して大きな問題となりました。

 日本では、お雇い外国人だったアーネスト・フェノロサ、帝国博物館(東京国立博物館の前身)初代総長だった九鬼隆一、文部省の岡倉天心らが文化財の調査と保存に奮闘し、保存制度の確立を目指します。彼らは日本美術再興のためにも文化財保護が重要だと考えていました。しかし文化財流出は止まらず、保護制度はなかなか整備されませんでした。

 たとえば京都の大徳寺から100幅あった五百羅漢図の一部がアメリカに流出しました。1894年に欧米で五百羅漢図の巡回展が開催され、ボストン美術館が10幅を1万ドルで購入しました。当初売値が1幅2,000ドルでしたが、一括購入ということで半額で10幅の買い上げとなりました。仲介したフェノロサの手元にも、謝礼として最上の3幅のなかから1幅が贈られ、フェノロサはそれを後にチャールズ・フリーアに1,640ドルで売却しました18)

 かつて京都府知事として寺院からの文化財流出に目を光らせていた北垣国道(きたがき くにみち)は、大徳寺の五百羅漢図売却の話しを聞いて大変立腹し、みだりに売却する寺を信用できないとして、供養のために寺に託していた母親の位牌をただちに取り戻しました。つづいて彼は、南禅寺にあった応挙の名画数十幅を川崎正蔵が巧妙な手口を使って手中に収めたとして貪欲なコレクターを非難し、府庁の監督怠慢、思慮のない僧侶と責めたてて、京都からの文化財流出を嘆いたことを日記に記述しています。

 日清戦争が終わり1895年に下関条約が締結されると、にわかに日本中でナショナリズムが高揚し古社寺と文化財の保存に関心が高まります。同年12月から開催された第9回帝国議会には文化財保護の請願が多数寄せられ、保存を審問する古社寺保存会の設置が建議されて、政府は内務省に保存会を設置しました。そして翌年の第10回帝国議会で古社寺保存法という日本で最初の文化財保護法が可決されました。こうして開国以来懸案となっていた文化財流出に歯止めをかける保護法が制定されたのです19)

 国宝に指定されると売却や海外流出が禁じられ、その一方で国宝の保存・修理のために補助金が支給されました。1897年12月から国宝に指定された物件が告示され、たとえば広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像や東大寺の盧舎那仏像(大仏)、興福寺では北円堂の乾漆四天王立像などが国宝に指定されました。

 堂宇に安置された秀逸な仏像は、持ち出すことが難しくなったのです。国宝に指定されていなくても、寺院からの仏像処分は行政的に厳しく管理されるようになったと考えられます。興福寺の破損仏譲与では、信徒総代会議、破損仏処置願を市役所に提出、許可願を県に提出、県知事の視察などいくつもの手順を踏んで実行されました。たとえ破損仏であっても軽々しく処分、売却することは不可能だったでしょう。

 同時期の日本の文化財保護の状況を念頭におきながら、早崎による宝慶寺石仏の取得を考えてみましょう。早崎は中国で仏殿や塔の壁から秀逸な仏像群を大量に抜き取り日本へ移送しましたが、はたして日本で同じような行為、つまり堂宇に安置されていた仏像をごっそり持ち出し、国外へ持ち出すことは可能だったでしょうか。

 文化財保護の観点から日本では堂宇からの仏像処分が困難となっていたのに、対して中国で金銭を積み上げて堂宇の仏像を半ば強引に買い取っても問題ないのでしょうか。

 興福寺の破損仏譲与では、寺側から自発的に処分の意向をしめして古美術商を通じて入札が実施され、売買が進みました。宝慶寺の場合は、日露戦争とともに突如日本人がやってきてしつこく買い取りを申し入れたわけですから、地元の人たちにとって、どこか遠くへと仏像が流出するのが目に見えてました。大量の買い取りに売買交渉が難航したのも、仏像の流出に地元の人たちが反対だったからに違いありません。

 早崎稉吉および岡倉天心は、東洋美術を西洋へ、とくにアメリカへ紹介した人物として、美術史学界では称賛されています20)。中国美術を海外に紹介するのであれば、大量の仏像を持ち出さずに、少数をサンプルとして見せれば十分だったでしょう。宝慶寺から大量に持ち出す必要性はなかったはずです。

 地元の人たちは中国美術を国外に紹介するために宝慶寺の石仏売却に同意したのでしょうか。持ち出した早崎も日本で購入した細川も、石仏を公開して社会に知らせることはありませんでした。ごく少数の知人に見せただけです。戦後細川が博物館に寄贈してやっと一般の人たちも見ることができるようになったのです。

 古美術市場へ日本の仏像の出品が制限される一方、中国からの物件が次々に市場に投入されたと想定されます。1920年代から1930年代にかけて中国から秀逸な仏像が流出して日本で販売され、富豪コレクターたちが競って購入しました。

 1928年に大阪の山中商会が山西省天龍山石窟から削りとられた仏頭など45点を大阪で販売し21)、根津嘉一郎が一括して購入しました。山中商会社長の山中定次郎は、天龍山の石仏を買い集めたのだと主張しましたが22)、山中自身が石窟から削って持ち出したのだと疑われています23)

 宝慶寺石仏の展示されている同じ東洋館展示室の向かって左側奥にならべられている仏頭のうち、根津嘉一郎氏寄贈とされる天龍山の菩薩頭部(TC-90)と如来頭部(TC-92)は、1928年に山中商会から販売されて博物館に寄贈された物件と思われます。

 同じく展示室左側中央に展示されている重要文化財の頭部と右腕の欠けた如来倚像(にょらいいぞう、TC-449)も、天龍山石窟から持ち出されたものです。1934年に山中商会が東京・上野で販売しました24)。博物館に収蔵されるまでの来歴は公表されていません。

天龍山の如来倚像(TC-449)、右奥に仏頭


 展示室左側中央奥に展示されている重要文化財の高さ約1.2mの如来三尊立像(TC-646)は、1929年に大東京火災海上保険株式会社(現あいおいニッセイ同和損害保険株式会社)の創業者だった反町茂作が、東京の古美術商から購入したとされています。その後文化庁をへて博物館の所蔵となりました25)

 展示室正面奥に展示されている重要文化財の約3.4mの菩薩立像(TC-375)は、山西省長子県から持ち出されたもので、1935年に根津嘉一郎が北京の古美術商とされる林家治三郎から購入し、1938年に博物館へ寄贈しました26)

 上野の博物館以外にも目を転じると、大倉集古館の正面入口にある重要文化財の如来立像は河北省涿州市東禅寺に安置されていたもので、高さ3mを超える大きな石仏です。大倉喜七郎が1929年に購入し、売買には、前述した上野の博物館にある菩薩立像(TC-375)を根津嘉一郎に売却した林家治三郎が関与したとされています。世界最古の大石仏が大倉集古館に収蔵されたとして、当時新聞でも話題になりました。

 1929年7月31日付朝日新聞によると、大倉の購入した如来立像は北京の古美術商が入手して数年間そのまま放置されていたのだが、たまたま北京を訪れていたアメリカのフィラデルフィア博物館のジェーン博士が15万ドルで買おうと内交渉を進めた、このことを知った日本人学者の関野貞が東洋の絶品をアメリカに持ち去られるのは残念だと、大倉喜七郎を動かし大倉集古館の収蔵になったと報じてます27)

 フィラデルフィア博物館のジェーン博士とは、フィラデルフィア美術館東洋美術部長だったホレス・ジェーン(Horace H. F. Jayne)のことでしょう。彼は1923~27年に東洋美術初代学芸員、1927~36年に東洋美術部長を務めました。第1次大戦で建設の遅れていた新しい建物が1928年にようやく竣工し、ジェーンは助手のイソベル・イングラン(Isobel Ingram)とともに日本と中国へ行き、展示のため日本の茶室や中国宮殿の部材などをもとめてました28)

 15万ドルというと、1928年の為替によると100円は46.5ドルだったので29)、1ドルは2.15円、15万ドルは約32万3,000円になります。同年に早崎が宝慶寺の石仏18点をふくむ21点を20万円で細川へ売却したので、如来立像は宝慶寺の石仏よりもさらに高額な価格で売買されたのかもしれません。中国の石仏をめぐる日本とアメリカによる争奪戦がうかがえます。

 倉敷の大原美術館にある重要文化財の如来および両脇侍立像(一光三尊仏像)は高さ約2.5mの大きな石仏で、欠損した台座や光背をふくめると制作当初は4mを超えたと推定されています。河南省新郷県魯堡村の百官寺にあったもので、魯堡村の国民学校の修理費をえるために売却され、1923年から1930年までの間に寺から運び出されたと考えられてます30)

 大阪市立美術館に所蔵されている山口コレクションは、中国の石仏125点をふくむ日本でも有数の大コレクションです。大阪の実業家山口謙四郎が、おおよそ1910年代から1930年代にかけて収集したと推測されています31)

 過熱する古美術市場の需要に応えようと、時には戦争による治安悪化を悪用して巨大な石仏を持ち出そうとした古美術商もいました。1928年に北伐中の中国の国民革命軍に対して、日本人居留民の保護を口実に日本軍が山東半島に侵略して済南(さいなん)事件がおきました。そして日本軍占領地から古美術商が石仏2点を持ち去ろうとしたのです。

 中国の新聞1928年7月24日付『申報』によると32)、数年前に臨淄県(りんしけん)龍池地方で中国人の不届き者が石仏2体、成化碑1基、壊れた碑を3万元で日本人に売ろうとしたが、地元住民の反対で取引は成立しなかった、今回、日本軍が済南および膠済鉄道(こうさいてつどう)沿線から青島まで占拠し、龍池が日本軍の守備範囲とするいわゆる20里以内(約12km)に入ったので、石仏と碑を欲しがっていた日本人が今月15日、人を引き連れて石仏と石碑をひとまとめに奪い去り、淄河店駅まで運搬して日本へ送り売る準備をした、この件を知った臨淄県政府および各諸団体は搬出を阻止しようと、日本領事館に快郵代電(至急公文書)を発信したと、報道してます。

 日本領事館の文書によると、結局翌年の日本軍撤退により石仏の搬出が困難となり、1928年7月13日の売買契約を取り消したと伝えています33)。石仏はそのまま放置されましたが、現在は青島市博物館で展示されています。

日本人古美術商が軍事占領地から
持ち出そうとした巨大石仏
『中国金石陶瓷図鑑 : 竹石山房[浅野翁余禄]』
中国金石陶瓷図鑑刊行会、1962年。
16~17頁、第40図。


 像高5~6mにおよぶ巨大石仏が山東省に点在し34)、高さが一丈八尺(約5.45m)に近いことから「丈八仏」とも呼ばれています。石仏を持ち出そうとしたのは大阪の古美術商浅野梅吉で日本へ運んで売却する目論見でした35)

 浅野は1928年の数年前に石仏と石碑を3万元で購入しようとしました。3万元とは日本円に換算してどのぐらいになるのでしょう。当時中国の貨幣単位には元と両の2種類あり、金融市場では銀両、一般の流通では銀元が主流でした。1銀元は0.7上海両だったので、3万元は2万1,000上海両です。1925年の為替によると上海で100円は53両です36)。1両は1.89円、2万1,000両は約4万円になります。結局3万元は約4万円です。

 さて浅野は日本で、いくらで売るつもりだったのでしょうか。大倉集古館の如来立像が15万ドル(約32万3,000円)でアメリカへ売られそうになったことを考えると、もしも浅野が日本で売却していたら、山東省の石仏もかなり高額な値段になったでしょう。いずれにしても、現地の取得価格よりも数倍以上の売価にしたと予想されます。

 軍事占領地からの石仏の持ち出しは、戦争犯罪になった可能性があります。戦時文化財保護を規定したハーグ条約(陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約)陸戦規則第56条で歴史的モニュメント、美術品の押収や破壊を禁止しているからです。日本は1900年、中国(清朝政府)は1907年に条約に加盟しました。

 19世紀中頃に西欧列強諸国に門戸を開いた中国は、日本と同様に文化財流出の問題に直面します。1900年の義和団事件で列強諸国による北京略奪をきっかけに清王朝の文物が大量に流出しはじめ、また中国西北地方の敦煌などから外国人探検家が数万点もの文化財を持ち去りました。すると中国でもナショナリズムが勃興して文化財保護の声が高まり、次第に保護制度が整えられて、ようやく1930年になって古物保存法という文化財保護の法律が制定されます。

 日本では1897年に古社寺保存法が制定されて文化財流出が食い止められましたが、中国では約30年遅れたため、その分次から次へと野放図に国外へ、とくに日本とアメリカへ運び出されました。帝国主義列強諸国が、アフリカ・アジアでさまざまな地下資源やプランテーション作物を搾取したように、中国から文化財を競って買い入れたのです。

 中国では1930年に古物保存法が制定されて文化財保護制度が整えられます。さらに1949年の新中国建国以後も、文化財保護は強化されてきました。今では宝慶寺石仏のような秀逸かつ歴史的に重要な文化財を、私物化したり国外へ持ち去ることは不可能でしょう。もしも持ち出したら違法文化財になります。

 宝慶寺の石仏は過去千年以上にわたり公共の財産として西安に安置されてきたわけで、中国が半植民地となって世界市場に編入されたため、日本へ持ち出されました。長い歴史のなかで100年ほどの短い帝国主義時代に、公共の財産だった宝慶寺の石仏が私有化されて中国から流出してしまったのです。

 宝慶寺の石仏が日本の博物館に存在することに、はたして正当性があるのでしょうか。3つの点から考えてみましょう。

 まず第1に文化財保護の観点から考えてみましょう。早崎稉吉は宝慶寺の仏殿から多数の仏像を持ち出しました。すでに日本では文化財保護制度が整備されて、堂宇から仏像を処分することが困難になり、仏像保護の目的や意義が明確に意識されていました。とくに岡倉天心は日本で文化財保護を先導した文部省役人だったので、文化財の評価と保護が表裏一体となっていることを十分に理解していたはずです。

 19世紀中頃に欧米帝国主義列強の圧力で東アジアは開国を余儀なくされ、その結果大量に文化財が流出して、日本人も中国人もともに強い憤りを感じざるをえませんでした。日清戦争後に日本人の間でナショナリズムが高揚して文化財保護が制度化されました。しかしながら岡倉や弟子の早崎にとって保護の対象となったのは日本のみで、中国は保護の視野から外され、欧米列強と肩をならべて競うようにして文化財持ち出しに熱中したのです。彼らの姿勢から欧米人がいだいたようなアジアへの蔑視、中国を劣等とみなす帝国主義的差別意識を見てとれます。

 宝慶寺石仏の現地購入価格は日本で販売された価格よりもかなり安価だったし、半ば強引に、また寺の修復を交換条件とする相手の窮状を利用した取引に、植民地主義がうかがえます。

 1894~85年の日清戦争の時に日本軍は遼東半島北部遼寧省海城の三学寺から石獅子2点を、また1904~05年の日露戦争の時には、遼東半島南端の当時ロシア租借地だった旅順から鴻臚井碑(こうろせいひ)、そして北朝鮮の咸鏡道臨溟駅から北関大捷碑(ほっかんたいしょうひ)を略奪しました。このような戦時文化財略奪に続くようにして、西安から宝慶寺の石仏が持ち出されたのです。

 第2に文化財の公共性を考えてみましょう。早崎は仏殿から大量に仏像を持ち出して、日本の富豪コレクターに売却して私有化させました。富豪コレクターは仏像を独占して、ごく少数の知人にしか見せませんでした。

 一般に寺院に安置されている仏像は個人の物ではないです。寺院あるいは僧侶の所有物でもはなく、限定的に所有を特定できる性質の物ではありません。仏像は公共の財産、みんなのものです。公共の財産として考えられる物は空気や水があげられるでしょう。空気は私たちの生活に不可欠です。ごくありふれた存在でも金銭で売買する物質ではありません。水も、河川や貯水池から取水されて給排水事業に料金がかかりますが、雨水や湧水など水そのものは無料です。仏像は信仰の対象であって、普段の生活では空気のような存在なのです。

 資本主義の発達とともに公共の財産が徐々に分割、私有化されて、商品として売買されるようになります。元来公共の財産だったものがさまざまな商品となって貨幣を媒介として流通しているのです。宝慶寺の石仏も公共の財産でした。中国が世界資本主義の貨幣経済に編入されたために日本へ持ち出しが可能となったのです。

 近年日本でも新自由主義(ネオリベラリズム)の思想が拡散され、市場原理が最重視されて金銭的価値があたかも万能であるかのような観念が蔓延してます。富裕層が豊かになる一方で貧困層が増大し、社会が分断されて格差が拡大してます。自己責任、自助努力が強調され人々は孤立化され、その反面公共の財産が私有化または切売りされて、助け合いや共生の暮しなど公共性が軽視されています。現代日本の感覚からすると、公共の財産の処分・売却にさほど疑問がわかないのかもしれません。だから仏像の処分・売却についても資本主義の論理から正当化されてしまい、公共性に目が向かないのでしょう。

 風光明媚な景色をずっと見ていたいという欲望から土地を買い占め、人が入らないように塀でかこって他の人たちを排除したらどうなるでしょう。たとえ適法な売買で土地を購入して塀を建てても、社会的には顰蹙をかうでしょう。宝慶寺の石仏は千年以上にわたって西安に安置されてました。石仏を日本へ持ち出し、富豪コレクターが独占したことで西安の人たち、つまり原産コミュニティは仏像に接する機会と、自分たちの歴史をうしなったのです。一体どのような必要性があって早崎はごっそりと石仏を取り出したのでしょうか。公共性を無視した我欲、物欲が感じられます。

 第3に宝慶寺の石仏に特有な資料的価値が考えられます。一般に寺院に安置される仏像は、先祖供養、心願成就や長寿を祈願して個人や結縁の人たちによって寄進されます。しかし宝慶寺の石仏は、供養や祈願を意図した単なる寄進仏ではなく、武則天の権勢を明示した仏像です。中国史上唯一の女帝だった武則天が武周革命を周知させるために建立した光宅寺に奉納された石仏なのです。今では光宅寺が消滅しているので、光宅寺の存在と、そして武周革命の歴史的意義を現在に伝える歴史的資料となっています。

 武則天時代の石碑は陝西省咸陽市の無字碑、河南省洛陽市の昇仙太子碑、河北省廊坊市の金輪石幢など少数しか残っていません37)。日本にある宝慶寺の石仏は、武則天の治世を伝える史書以外の数少ない資料の一つといえるでしょう。オランダやドイツの返還政策によると、原産国・原産コミュニティにとってとくに文化的、宗教的に重要な物件は、返還の検討を提案しています。武則天統治の実態を見事に提示している宝慶寺の石仏は、返還に相当する文化財だと思われます。

 東京国立博物館客員研究員の石松日奈子氏は、「強引な手段で奪い取るようなことはなく、相手の承諾を得るまで何度も足を運んで根気よく交渉する姿が印象的である。なかでも宝慶寺石仏の場合は売買契約書を交わしている。しかし、こんにちこのことを誤解や曲解を招かないように伝えることは容易ではないだろう」と述べて38)、早崎の取得を正当だったと擁護しています。とはいえ売買契約書だけでは正当性を十分に説得できないと認識しているのでしょう、「誤解や曲解を招かないように伝える」とは、どのような弁明なのか分かりません。

 最近のヨーロッパ各国の政策および国際法学の見解などから考察すると、宝慶寺石仏の所在場所は東京の博物館ではなく、元あった場所の宝慶寺で安置されるのが最も適しているでしょう。幸いなことに宝慶寺は現在でも西安にあります(西安市碑林区南大街)。六角七層の塼塔外壁に仏龕6点が現存しているそうです。原産コミュニティの西安の人たちと話し合いを深め、地元の人たちが返してほしいと希望するならば、すみやかに返還すべき文化財だと思われます。





1) 福山敏男「宝慶寺派石仏の分類」『仏教芸術』9号、1950年。31~43頁。
 杉山二郎「宝慶寺石仏龕像の研究」『国際仏教学大学院大学研究紀要』第4号、2001年。21~93頁。
 杉山二郎「宝慶寺石仏龕像再考」『国際仏教学大学院大学研究紀要』第5号、2002年。1~53頁。
 肥田路美『初唐仏教美術の研究』中央公論美術出版、2011年。239~296頁。
2) 石松日奈子(a)「永青文庫の中国石仏」『季刊永青文庫』105号、2019年。6~11頁。
 石松日奈子(b)「永青文庫所蔵 早崎稉吉筆「造像所獲記」」『MUSEUM』第683号、2019年。51~74頁。
 石松日奈子(c)「宝慶寺石仏と早崎稉吉」『MUSEUM』第701号、2022年。11~35頁。
3) Felwine Sarr and Bénédicte Savoy, The Restitution of African Cultural Heritage. Toward a New Relational Ethics, 2018. pp. 8~9, 11, 56~57,
4) Colonial Collection and a Recognition of Injustice, 2020. pp. 6~7, 39, 71.
5) Germany presents code of conduct on handling colonial-era artefacts, the Art Newspaper, 2019/02/05.
6) Guidelines for German Museums. Care of Collections from Colonial Contexts, 3rd ed. German Museums Association, 2021. pp. 4, 12~13, 26~27, 58, 75, 83, 149,
7) Carsten Stahn, Confronting Colonial Objects: Histories, Legalities, and Access to Culture, Oxford University Press, 2023. pp. vii, 342, 446~447, 465~467.
8) 『金融事項参考書 明治31年1月~明治41年3月』大蔵省理財局、1908年。778~780頁。
9) 「昭和40年の1万円を、今のお金の価値に換算するとどの位になりますか?」日本銀行。
10) 『物価の文化史事典』展望社、2008年。29頁。
11) 「調査品目の月別価格及び年平均価格-都道府県庁所在市(2013年~2021年)」統計で見る日本e-Stat。
12) 内閣統計局編「市町村立小学校教員月俸」『日本帝国統計年鑑 第31』1912年。534頁。
 内閣統計局編「小学校教員平均月俸」『日本帝国統計年鑑 第55回』1936年。297頁。
13) 第6表 職種別,経験年数別,学歴別職員数及び平均給料月額(1)全地方公共団体 小・中学校教育職「令和6年4月1日地方公務員給与実態調査結果」総務省。
14) 注2) 石松日奈子(c)。27頁。
15) 白川一郎「龍門石仏を発見した一日本人」『芸術新潮』第10巻第6号、1959年。293頁。
16) 藪中五百樹「明治時代に於ける興福寺と什宝」『立命館大学考古学論集』III-2号、2003年。884~890頁。
 山口隆介、宮崎幹子「明治時代の興福寺における仏像の移動と現所在地について」『MUSEUM』第676号、2018年。5~57頁。
17) 増長天立像多聞天立像
18) グレゴリー・P・レヴィン「アメリカにおける羅漢図」『うごくモノ』平凡社、2004年。165~84頁。
19) 森本和男『文化財の社会史』彩流社、2010年。303~304、318~321頁。
20) 注15) 白川一郎。284~294頁。
 大西純子「早崎稉吉の活動について」『MUSEUM』第656号、2015年。7~43頁。
21) 「中国古陶金石展観」(1928年)『山中商会经手中国艺术品资料汇編』一、上海书画出版社、2020年。232、300頁。
22) 「山西省天龍山佛蹟石窟踏査記」『山中定次郎伝』山中定次郎翁伝編纂会、1939年。109~110頁。
23) 常青・黄山『国宝流失百年祭』浙江古籍出版社、2021年。319~326頁。
 陈 文平・安夙『离家的国宝』中信出版社、2023年。28~40頁。
24) 「中国朝鮮古美術展観」『山中商会经手中国艺术品资料汇編』二、上海书画出版社、2020年。614頁。
25) 石松日奈子「東京国立博物館蔵 司徒永孫等三尊像」『MUSEUM』第682号、2019年。7頁。
26) 石松日奈子「東京国立博物館蔵 北斉天保三年魏蛮等造菩薩立像」『MUSEUM』第697号、2022年。5、24頁。
27) 『朝日新聞』1929年7月31日。
28) Jayne, Horace H. F. (Horace Howard Furness), 1898-1975, Philadelphia Museum of Art.
29) 『金融事項参考書 昭和4年調』大蔵省理財局、1929年。88頁。
30) 石松日奈子「新郷魯堡百官寺将来 北魏三尊仏立像」『國華』第125編第5冊、2019年。37頁。
31) 齋藤龍一「大阪市立美術館山口コレクション中国石造彫刻について」『大阪市立美術館山口コレクション中国彫刻』大阪市立美術館、2013年。8頁。
32) 『申報』1928年7月24日。
33) 「35.臨淄県龍池石仏二関スル件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B08061786500、商取引事故関係雑件/中国ノ部(満蒙ヲ除ク)(E.2.9.0.1-3)(外務省外交史料館)
34) 石松日奈子『北魏仏教造像史の研究』ブリュッケ、2005年。201頁。
35) 『中国金石陶瓷図鑑 : 竹石山房[浅野翁余禄]』中国金石陶瓷図鑑刊行会、1962年。16~17頁、第40図。
36) 『金融事項参考書 昭和4年調』大蔵省理財局、1929年。87頁。
37) 石野智大「武周村落制度史料の復原的研究」『明大アジア史論集』第18号、2014年。155~188頁。
38) 注2) 石松日奈子(b)。60頁。