敬天寺十層石塔の持ち出し

 高麗の都であった開城(ケソン)近隣豊徳郡の扶蘇山(プソサン)に廃寺があり、高さ13.5mの十層石塔が立っていた。この塔は高麗時代末期1348年に建立され、1~4層には仏の教えを説き聞かせる場面や塔の建立について説明する文などが刻まれ、5~10層には様々な仏坐像が刻まれている。現在ソウルの国立中央博物館のホールにそびえ立ち、人気展示物の一つとなっている。

 朝鮮石塔を代表する逸品であるが、植民地支配のはじまった20世紀初頭に日本人高官によって日本に持ち出され、国際的に批判が巻き起こって朝鮮に戻されたいきさつがある。

 1907年に大韓帝国皇太子純宗の婚儀で韓国を訪れた宮内大臣田中光顕が、敬天寺の白色秀麗な石塔に目をつけ、2月に京城(ソウル)の古物商近藤佐五郎に命じて数十人の労働者によって運び出した。もちろん強奪に対して地元の人たちは激高し、また報告を聞いた韓国統監伊藤博文も烈火のごとく憤り、即時長文の電報を発して激しく田中を責問したという。解体された石塔は3月に東京に到着しても行き場をうしない、上野の帝室博物館(現東京国立博物館)に梱包されたまま保管されることになった。

 この事件は、2人のアメリカ人とイギリス人ジャーナリストによって海外でも報じられた。ホーマー・B・ハルバート(the Rev. Homer B. Hulbert)とアーネスト・T・ベッセル(Ernest T. Bethell)である。2人は日本の朝鮮侵略に対して厳しい批判を繰り返していた。アメリカの1907年6月2日付ワシントンポスト紙は石塔強奪事件を詳述してから、ハルバートとベッセルが、ハーグ平和会議へ朝鮮代表を派遣するための資金を朝鮮の国庫から流用しようとした陰謀の疑いで、日本人によって逮捕されたという情報を伝えた。石塔窃盗に抗議する者たちの口封じのため日本人が口実にしたのだと断じた。

 寺内正毅統監、長谷川好道総督から再三の返還要求によって、田中はようやく1918年に石塔を朝鮮総督府へもどした。石塔は解体された状態のまま景福宮勤政殿の廊下に放置されたが、1960年にセメントで復元された。その後1995年にふたたび解体され、2005年国立中央博物館の屋内に復元された。



参考文献:
関野貞『韓国建築調査報告』1904年。92~93頁
After Four Hundred Years Japan Succeeds in Stealing One of the Famous Korean Pagodas, the Washington Post, 1907/06/02.
朝鮮公論社編『裏から観た朝鮮統治史』朝鮮公論社、1930年。63~65頁。
李亀烈(南永昌訳)『失われた朝鮮文化』新泉社、1993年。36~42頁。
黃壽永編(李洋秀・李素玲訳)『韓国の失われた文化財 増補 日帝期文化財被害資料』三一書房、2014年。310~313、317頁。
南永昌遺稿集『奪われた朝鮮文化財、なぜ日本に』朝鮮大学校朝鮮問題研究センター、2020年。90~92頁。