北関大捷碑(ほっかんたいしょうひ)の持ち出し

 高さ約2メートルの石碑で、日露戦争中(1904〜1905年)に、日本軍によって朝鮮半島から持ち出され、その後靖国神社に置かれていた。移送されて約100年後の2006年に、靖国神社から韓国を経由して北朝鮮へ返還された。

 碑文には、豊臣秀吉の朝鮮侵略の時に、朝鮮民衆の義勇軍が最強の加藤清正の軍を撃退したことが記されていた。石碑は民族的な誇りの象徴であり、返還されれば間違いなく国宝なると、韓国ではきわめて高い歴史的評価が与えられていた。しかし日本での価値はきわめて低く、靖国神社に放置されたままハトのふんで汚れ、神社の宮司ですらその存在を知らなかった。

 この碑はもともと、北朝鮮の咸鏡道臨溟駅にあったのだが、日露戦争の時に後備第二師団麾下の後備歩兵第一七旅団長池田正介少将が見つけ、師団長三好成行中将の帰国にともない日本へ託された。 軍部にとって、この碑は、朝鮮の「自国軍ノ強勇ヲ誇脹臚列シ加藤軍ヲ撃退セル旨明記シ併セテ自国軍ノ忠勇義烈ノ者ヲ旌表スル碑文ヲ刻シタル記念碑ニシテ我国ニ取リテハ寧ロ好マシカラサルモノ」として、日本に移送されたのである。皇居で戦利品を収蔵展示する御府の1つである振天府で展示される目論見だった。

 日露戦直後の1905年12月に、この石碑の下付願いが、熊本県飽託郡花園村本妙寺から熊本県知事を通じて陸軍省に提出された。しかし陸軍省としては、加藤公が撃退されたと付会される石碑の存在が世間で知られることに難色をしめし、下付は実現しなかった。そして、石碑は人目のつかない場所に放置されたのである。

 持ち出しに際して、「建設者ノ子孫ニ諮リテ其承諾ヲ得」たとしているが、明らかに日本陸軍による戦時略奪行為であろう。すでに日本では第一回目の陸戦条約が批准、公布されていて、軍部、特に高級将校はハーグ平和会議の内容を熟知していたはずである。故意に行なう歴史記念物の戦時押収が戦争犯罪であることを、当然認識していたに違いない。それゆえ持ち出す時に建設者の子孫に承諾を得たと、わざわざ不自然な言訳を付け足したと考えられる。

 1999年に韓国側から返還要請が靖国神社に提出された。石碑は北朝鮮北部に建立されていたので、返還には南北間の合意が必要とされた。2005年10月に、靖国神社と日韓両政府が石碑の返還合意文書に調印し、石碑は韓国へ移送された。2006年3月に、石碑は韓国から陸路で北朝鮮へ運ばれ、開城市で記念式典が挙行された。

 なお同じく日露戦争の時に、中国・遼東半島の当時ロシア租借地だった旅順から鴻臚井(こうろせい)の碑を日本軍は持ち出し、日本へ移送した。この碑は、皇居で戦利品を収蔵展示する御府の建安府の前庭に、今もおかれている。残念ながら立入禁止で非公開である。



参考文献:
「加藤清正征韓記念碑下付出願の件」『明治38年 「満大日記 12月上」』防衛省防衛研究所所蔵(アジア歴史資料センター、Ref. C03026852200)。
「加藤清正撃退の碑」『歴史地理』第8巻第1号、1906年。
「加藤清正撃退の碑」『考古界』第5篇第8号、1906年。
崔書勉「七十五年ぶりに確認された咸鏡道壬申義兵大捷碑」『韓』第7巻第3号、1978年。