戦時日本軍による中国文化の破壊
王聿均(森本和男訳)
「戰時日軍對中國文化的破壞」『中央研究院近代史研究所集刊(台湾)』第14期、1985年。327~347頁。
1、はじめに
2、商務印書館の被災と正中書局の損失
3、各級学校に対する破壊行為
4、中央研究院の損失
5、文物略奪と知識人の受けた被害
6、まとめ
1、はじめに
中日戦争中に日本軍は、中国の教育、文化、学術施設を計画的に破壊した。その行為は多岐にわたり、著名な大学への爆撃、小中学校の破壊、書店(出版社)、博物館、図書館と、江浙(江蘇省と浙江省)沿岸の主要建築物の焼却1)、公私にわたる書籍・古物コレクションの略奪、文化人や学者への残虐行為など、枚挙にいとまがない。
これらの破壊行為は、戦地やその周辺地域に限らず、後方の各省にもおよんだ。人道主義と国際法を無視して、いかなる交戦国間においても稀に見るものだった。その目的は中国文化を徹底的に抹消し、大陸征服の野望を実現することに他ならなかった2)。そして中国知識人を威圧して心と精神を破壊し、愛国心と高揚した救国感情を抑圧しようとたくらんだのだ。これらの暴行は中国文物に多大な損失をあたえたが、日本軍の目的は達成されず、時には逆効果をもたらした。むしろ中国人の敵愾心と団結心を強化させた。本稿では、歴史的事実にもとづき、戦時中の日本軍による中国文化破壊の具体的な状況を個別に論述する。
2、商務印書館の被災と正中書局の損失
商務印書館は清の光緒23年(1897年)正月に創設され、長い歴史をほこる大規模な出版社である。本社工場は上海の閘北(こうほく)宝山路にあり、80畝(約53,300㎡)以上の敷地を占めて、総務処、印刷所、翻訳所、尚公小学校、東方図書館があった。その後棋盤街に新しい発行所を建設して、設備は日々充実していった。歴代の総経理である夏瑞芳、張元済、王雲五らの指導のもと、出版事業の方針が確立され、一方で固有の文化を発揚し、他方で西洋文化を紹介して、東西文化の交流をとおして、中国文化全体の発展を促進するというものだった3)。
出版事業の他に、商務印書館は実際の教育事業も行なっていた。たとえば職員や閘北地域住民の子弟を育成するため尚公小学校や幼稚園を設立した。とくに有名なのは、民国13年(1924年)に創設された東方図書館である。この図書館は「涵芬楼」を発展・拡充させたもので、宝山路の西側に位置し、敷地面積は11畝9分4厘3毛(約8,000㎡)だった。館の建物は最新式の5階建て鉄骨コンクリート建築で、蔵書は涵芬楼の原有にくわえて、長年にわたり多方面から収集され、総計488,395冊にもおよんだ4)。
民国21年(1932年)1月28日に日本の海軍陸戦隊が突然閘北を襲撃した(第1次上海事変)。翌日午前10時に空母から飛び立った日本軍用機が、宝山路にあった商務印書館の本社工場を爆撃した。総務処、印刷所、倉庫、木工所、発電室、給水塔、住宅、さらに東方図書館の建物がすべて爆撃で破壊された。黒煙が空をおおって燃え上がった紙の灰は数十里も飛び散った。翻訳所と東方図書館の機械工具、図版、中国と外国の書籍、目録カード、原稿、図案、そして印刷所の器具文具、鉛活字、機械部品、紙、原料、委託販売の書籍、委託販売の書画はすべて灰燼と化した5)。当時、日本の水上飛行機4機が交代で爆撃を行ない、日本の小田海軍大尉の記録によると、それぞれが500kg爆弾を多数搭載していたという6)。
3月2日に日本軍が閘北を占拠した後、再び兵を派遣して商務印書館に侵入し放火を続けた。その損害は甚大で、計り知れなかった。これに国内外は震撼し、上海市商会などの団体は、日本軍による文化破壊の暴挙を制止させてほしいと、公正な裁定を求めてアメリカ大統領フーバー(Herbert
C. Hoover)に電報を送った。中央研究院院長の蔡元培なども、国際連盟の「国際知的協力委員会(ICIC、International Committee
on Intellectual Cooperation)」に電報を送り、このような「文化事業と人類の進歩を破壊する残虐な行為」を制止させるように求めた7)。国際連盟の派遣したリットン(Lord
Lytton)調査団も、同年3月21日に破壊された東方図書館を視察した8)。東方図書館に限って言えば、その損失は中国と外国の書籍、写真、図表、地方誌、雑誌、新聞などがふくまれ、以下に列挙する。
東方図書館の損失9) | ||
a.普通書籍 | ||
1.中国語書籍 | 286,000冊 | |
2.外国語書籍 | 80,000冊 | |
3.図表写真 | 5,000冊 | |
b.善本書 | ||
1.経部 | 274種 | 2,364冊 |
2.史部 | 996種 | 10,201冊 |
3.子部 | 876種 | 8,438冊 |
4.集部 | 1,057種 | 8,710冊 |
5.何氏から購入した善本 | 約40,000冊 | |
6.方志 | 2,641部 | 25,682冊 |
7.その他(国内外の雑誌と新聞) | 40,000冊 | |
c.目録カード | 400,000枚 |
前記した善本書のうち、四部の古書籍は、会稽の徐氏、長洲の蔣氏、太倉の顧氏、豊順の丁氏、江陰の繆氏など、国内の著名蔵書家たちが次々と手放したものを、商務印書館が多額の資金で購入したものだった。多くは歴代の貴重な書籍、抄本や校訂された秘蔵書物である。雑誌類は国内外の著名刊行物で、最初から完全に揃っていて欠本はなかった10)。商務印書館が述べたように:「書籍の損失という点では、東方図書館の蔵書が最も甚大で、多くは宋元代の貴重な版本、明清代の優れた印刷本、国内外の著名な孤本や珍しい稀覯本で、その価値は計り知れなかった」11)。これらすべては、商務印書館が数十年の歳月と労力を費やし、日々積み重ねてようやく成し遂げたものだったが、日本軍によって焼き払われてしまい、東方文化にとって重大な損失となった。同館の初期の概算によると、これらの書籍の購入価格は約1,628万3,395元で、損失時の価値は原価の数倍に達し、その額は非常に驚くべきものである12)。
民国26年(1937年)8月13日に淞沪会戦(第2次上海事変)が勃発し、中日全面戦争がはじまった。商務印書館は再び真っ先に日本軍の砲撃を受け、宝山路にある総公司は占領された。第五工場、貯水池、製版工場、機務科、自噴給水塔などの機械工具、設備、そして原本の洋書、自社の書籍、器具、文具、紙などすべて日本軍のものとなった13)。国軍が淞滬(呉淞江から上海)から撤退した後、同館は文化事業の自由な発展を確保するため、総管理処を長沙に移転させることに決定した。編集部の職員が最初に出発し、香港を経て広東に行き長沙に移って、10月初めには湖南省で業務を開始した14)。まさに、挫折すればするほど奮い立つという状況だった。
商務印書館の推計によると、七七事変(盧溝橋事件)から民国34年(1945年)8月の日本降伏までの期間に、上海総公司と香港工場の資金が全額失われたほか、各地の分支館、工場、事務所の資産で、明確に損失が確認されたのは以下の通りである:
民国26年(1937年)9月に河北省保定・邢台分館の自社出版書籍、機器が、日本軍によって占領、略奪された。民国27年(1938年)10月10日に北平琉璃廠分館の自社出版書籍が日本軍憲兵隊に略奪された。青島中山路支館は、青島陥落後、残存財産保全のため敦源書店と改称したが、同年4月に日本の憲兵隊に没収された。漢口中山路分館の自社出版書籍は10月25日に占領され略奪された。民国28年(1939年)8月には、成都春熙路分館の自社出版書籍が爆撃された。翌年5月には、重慶白象街の店舗が日本軍用機の爆撃で焼失した。民国31年(1942年)6月19日には、天津大胡同分館の自社出版書籍、機器文具がすべて日本軍に略奪された。民国32年(1943年)8月23日には、重慶万県環城路支館の自社出版書籍と倉庫が、日本軍用機の投下した焼夷弾で焼失した。民国33年(1944年)6月に湖南省衡陽八元坊支館の財産は、陥落時に日本軍によって焼失した。9月に桂林桂西路分館は占領され略奪された。11月に広西省柳州培新路分館は日本軍によって焼失した。そし同館最大の2つの分館のうち、1つは南京太平路分館で、建物、書籍、原本の洋書、機器文具などが、民国26年(1937年)12月の首都陥落時にすべて焼失した。2つ目は浙江省杭州保佑坊分館で、その機器と自社出版書籍も、同年12月の杭州陥落時にすべて略奪された15)。上記合計で損失は1,313万7,683元となった16)。
さらに民国29年から30年(1940~41年)末にかけて、同館は香港からフランス領ベトナムのハイフォンおよびイギリス領ビルマのヤンゴンを経由して、各分支館と工場の書籍や物資を後方の重慶、成都、康定、南郷、蘭州、昆明、梧州、桂林などへ輸送しようとした。しかしながらこれらの書籍や物資は、ハイフォンとヤンゴンに滞留中、占領した日本軍によって略奪され、すべて失われた。購入時の原価合計は125万5,257元6角6分で、損失時には物価が上昇していたため、価値ははるかに上回っていた17)。商務印書館は、日本軍による度重なる爆撃、砲撃、放火、略奪、占拠によって大きな損害を受け、しかも同館は全国の教育界とも密接な関係にあり、また金銭で評価できない貴重な典籍も多く所蔵していた。日本軍がこれらを故意に破壊したのは、まさに中国文化を破壊しようとした明白な証拠である。
商務印書館に加えて、正中書局も戦時中に京滬(けいこ、南京と上海)の両地区で甚大な被害を受けた。南京では、河北路に位置する正中書局の総局と南京印刷工場が最も激しく破壊された。2階建て総工場1棟、製本室7室、グラビア製版室5室、地下室2室、材料倉庫10室、職員宿舎12室、3階建て事務所1棟、製品倉庫8室のすべてが破壊された。印刷工場の機械の損失は、全判印刷機12台、四六判印刷機4台、ドイツ製銅版四六判印刷機2台、ドイツ製三色版印刷機2台、大二号円盤印刷機12台、その他各種の銅版、機械、活字などで、数量は非常に膨大だった。それ他にも太平路の楊公井の入り口にあった南京発行所、戸部街の雑誌普及所、昇平路の分印所、盧蓆営の臨時事務所、黄泥岡の時事月報社は、占領されるか破壊されるかのどちらかだった。
上海では、四馬路復興里の正中書局上海分局、新閘路の上海印刷工場、戈登路の上海倉庫と出版分部、三馬路同安里の分局宿舎と倉庫が、すべて異なる程度で資産や設備に損害をうけた。とくに新閘路の印刷工場の損失が最もひどく、各種の印刷機がすべて日本軍に占領され奪われた18)。上記した2つの書店(出版社)はあくまでも一例にすぎない;中華書局、世界書局、大東書局、開明書店など、他の著名な出版社も多数被害を受けたが、資料不足のため、一つひとつ列挙することができない。
3、各級学校への破壊行為
中日戦争がはじまって以来、日本軍は中国のあらゆるレベルの学校と社会教育文化施設にとくに注意をむけて、目標として選び、恣意的に破壊する努力を惜しまなかった。戦場だけでなく、非戦地帯の学校も同様の被害を受けた。最初に壊滅的打撃を受けたのは、名声の高い南開大学(天津市)だった。南開大学は張伯苓博士によって創立され、長い歴史をもち、盧溝橋事件の前には3,000人以上の学生がいた。
大学の学部である文理商学院のほか、南開経済研究所と南開化学試験所があり、いずれも全国的に有名だった。経済研究所が発行する各種刊行物は、とくに国際的に高い評価を受けていた。張氏は一貫して「読書救国」を主張し、学校は規律を重んじ、学生の多くは穏健で落ち着いていたため、各校舎のすべてが日本軍兵営や日本軍飛行場に隣接していたにもかかわらず、何の騒動も起きていなかった19)。
しかし、民国26年(1937年)7月29日未明に日本軍が天津を攻撃し、同日午後2時半、日本軍用機2機が八里台の南開大学を無差別に爆撃しました。同時に日本軍砲兵隊も猛烈な砲撃を行ない、3時には秀山堂(事務室と文商学院の教室)、芝琴楼(女子宿舎)、木斎図書館(国内有数の図書館)が炎上し、その他にも秘書処、登録課、男子宿舎、教職員宿舎なども破壊された20)。
日本軍が南開大学を破壊しようとしたのは、計画的だった。日本軍用機はまず南開大学の上空を長時間旋回し、秀山堂の屋根に赤い旗を投下し、それを目標にして連続砲撃をしたのである21)。日本軍によるこのような文化施設の破壊行為は、人類文化史上きわめて大きな汚点を残した。また天緯路の河北省立女子師範学院、黄緯路の河北省立工業学院も同時に焼けた22)。
翌日(7月30日)、南開大学の校舎がまだ完全に破壊されておらず、建物の一部が爆破されて木斎図書館も部分的に焼失しただけだったので、日本軍はすべてを破壊しようと、午後3時頃に騎兵百名以上と数台の自動車で満載の石油を運び込んで、いたる所で放火した。秀山堂、図書館、教授宿舎は2回も焼かれ、思源堂(理学院の教室)および近隣の民家も焼かれて、十数ヶ所から煙が上がり、赤と黒の煙が空をおおった。街中から八里台の火災に注目が集まり、住民たちはみな嘆き悲しんだ。同時に日本軍用機4機が引き続き南開中学校に焼夷弾を投下し、日本砲兵隊も海光寺から継続的に砲撃した。
2日間の破壊工作により、南開大学は瓦礫の山と化した23)。張伯苓学長は、廬山談話会に参加したばかりで、南京で公務を処理していたが、この知らせを聞いて激怒して、記者団に談話を発表した:
「今回の敵による南開爆撃で破壊されたのは、南開の物質的なものにすぎない。しかし南開の精神は、この挫折によってむしろ一層奮い立つであろう。したがって私は今回の南開の物質的損失についてまったく意に介さない。むしろ創立以来の一貫した精神にもとづき、南開に新たな生命を吹き込むべきである。私は、この精神をもって、決して挫けることはない」24)。
蔣委員長(蔣介石)も張学長を特別に慰め:「南開は中国のために犠牲となった。中国がある限り、必ず南開も存在する」と述べた25)。8月1日に教育界の指導者である蔡元培、蒋梦麟、胡適、梅貽琦、羅家倫、竺可楨、王星拱ら7名は、国際連盟の「国際知的協力委員会」に電報を送り、日本軍による華北侵略の暴挙を訴えて次のように述べた:
「日本軍は、数千人の非武装市民を虐殺しただけでなく、爆弾や焼夷弾を用いて、南開大学と南開中学校の図書館、実験室、宿舎のすべてを意図的に破壊しました。南開は、張伯苓博士が33年間にわたり苦労して築き上げた学府です。文化と人道のため、私たちは、このような野蛮な虐殺と教育施設の恣意的な破壊行為を公に非難するように貴委員会に要請します。・・・そうすることで、公正が回復され、このような残酷な行為が二度と繰り返されないように願います」26)。
南開の破壊は、国内外の人々に同情、悲嘆、そして痛憤を呼び起こし、日本軍が中国文化を根底から破壊しようとしていることを明確にしめした。
8月13日に八一三滬戰(第2次上海事変)勃発後、日本軍用機はまず真如の暨南大学と東南医学院を激しく爆撃して、前者は半壊、後者は全壊した27)。8月15日に日本軍用機は最初に南京の中央大学を爆撃・掃射し、爆弾は図書館の後壁と付属実験学校の正門に着弾した。2回目の爆撃は8月19日午後6時ごろに行われ、中央大学の化学実験室が焼夷弾によって破壊され、大火が発生したが、すぐに鎮火された。この爆撃で大学の塀の中に250kg(550ポンド)の爆弾7発が落とされ、7、8棟の建物が損壊、校務員7名が死亡したと集計されている。大礼堂の演壇が爆破され、歯科専門学校の建物が破壊されたが、幸い貴重な図書や機器は事前に運び出されていたため、損害はなかった。男子宿舎と女子宿舎もすべて爆撃されたが、学生たちは避難していて、死傷者はなかった。8月26日の夜に中央大学は3回目の爆撃を受け、実験学校に甚大な被害をうけた。その後実験学校は安徽省屯渓に移り、さらに長沙の岳麓山、そして最終的に貴陽へと移転した28)。
その後、日本軍はとくに文化教育施設、なかでも学校を爆撃の標的とした。9月13日に国際連盟第18回総会がスイスのジュネーブで開催され、44ヶ国の代表が出席した。中国首席代表の顧維鈞博士は、政府公文書を国際連盟事務総長アヴェノルに提出し、日本軍による中国侵略の暴挙を訴えた。また補足声明を提出し、その中には日本軍の文化破壊を非難する一節があり、次のように述べられた。
「戦争勃発以来、日本軍は中国の教育文化施設を標的に選び、恣意的に破壊してきた。南開大学およびその付属中学校は、日本軍による放火によって焼失したのだが、これは日本軍が天津を占領してから、最も早い暴行の一つである。それ以来、各級学校が日本軍の空爆によって一部または全部破壊された事例は枚挙にいとまがない。南通の鍾英女学校、南昌の葆霊女学校、農学院と郷村師範学校、南京の中央大学とその付属実験学校、遺族学校、そして呉淞の同済大学などが、とくに著しい例である。とくに注目すべきことは、日本軍の空襲を受けた各学校が、同済大学を除いて、いずれも戦地から非常に遠く離れていて、戦闘とまったく関係がないという点である。同済大学にしても、実際の作戦地域にはなく、破壊された当時、中国軍はまったく駐屯していなかった。以上のことから・・・日本が中国全土に侵略行為を拡大させようと決意し、日本自身が認めているように、中国の政治機構を破壊し、中国文化を消滅させ、征服しようという妄想を実現させようとしていることが十分証明される」29)。
この声明は、国際的に一時的な同情を得ることはできても、侵略を阻止するには不十分で、事態の改善につながらなかった。上海市だけを見ても同市社会局の調査結果によると、8月13日の開戦から10月15日までの間に、大学の損失は662万3,159元、中学校の損失は219万9,954元、小学校の損失は25万9,129元、博物館・図書館・体育館などの社会教育施設の損失は186万元に上った(商務印書館の損失はふくまれない)。合計で1,094万2,242元となった30)。詳細な統計は、以下の表にしめされている31)。
上海市教育文化施設損失調査統計表 | ||
大学の部 | ||
校 名 | 詳細な被災状況 | 損害見積額(元) |
同済大学 | 全部爆撃 | 1,864,018 |
暨南大学 | 部分爆撃 | |
大同大学 | 部分爆撃 | 10,000 |
滬江大学 | 校舎を敵軍に占領される | 1,679,749 |
音楽専科 | 校舎を敵軍に占領される | 171,632 |
上海商学院 | 校舎を敵軍に占領される | 201,000 |
上海法学院 | 全部破壊 | 210,000 |
正風文学院 | 部分破壊 | |
同徳医学院 | 大部分破壊 | 150,000 |
持志学院 | 大部分破壊 | 500,000 |
復旦大学 | 大部分破壊 | 1,200,000 |
商船学校 | 全部破壊 | 406,760 |
東南医学院 | 全部破壊 | 230,000 |
市立体育専科 | 校舎を敵軍に占領される | |
総 計 | 14校 | 6,623,159 |
中学の部 | ||
校 名 | 詳細な被災状況 | 損害見積額(元) |
新陸師範 | 大部分破壊 | 109,000 |
立達小学 | 養鶏場全部破壊 校舎と学校用具部分破壊 |
25,500 |
呉淞中学 | 全部破壊 | 50,830 |
復旦中学 | 全部破壊 | 119,404 |
愛国女子中学 | 全部破壊 | 105.950 |
持志付属中学 | 全部破壊 | |
新民中学 | 詳細不明 | 40,000 |
育青中学 | 詳細不明 | 40,000 |
東南女子体育師範 と付属中学 |
全部破壊 | 150,600 |
澄衷中学 | 部分破壊 | 60,000 |
麦倫中学 | 全部破壊 | 82,800 |
滬北中学 | 詳細不明 | 50,000 |
惠群女子中学 | 全部破壊 | 100,000 |
建国中学 | 詳細不明 | 100,000 |
安徽中学 | 学校用具破壊 | 3,000 |
新亜中学 | 学校用具破壊 | 6,000 |
両江体育師範 | 全部破壊 | 110,000 |
浦東中学 | 部分破壊 | 2,000 |
市北中学 | 全部破壊 | 120,070 |
啓秀女子中学 | 全部破壊 | 221,000 |
大公職中学 | 部分破壊校舎損害 | 30,000 |
崇德女子中学 | 詳細不明 | 290,000 |
広東初級中学 | 全部破壊 | 140,000 |
嶺南初級中学 | 部分破壊 | 30,000 |
同徳助産学校 | 部分破壊 | 3,000 |
三育初級中学 | 詳細不明 | |
粵東中学 | 全部破壊 | 200,000 |
総 計 | 27校 | 2,199,954 |
小学の部 | ||
区別 損害校数 | 被災状況 | 損害見積額(元) |
閘北 8 | 戦闘域内の詳細不明 | 47,935 |
南翔 7 | 戦闘域内の詳細不明 | 50,185 |
江湾 9 | 戦闘域内の詳細不明 | 61,890 |
呉淞 9 | 戦闘域内の詳細不明 | 19,224 |
中心区 3 | 戦闘域内の詳細不明 | 54,356 |
廟行 8 | 戦闘域内の詳細不明 | 25,539 |
総 計 44校 | 259,129 | |
社教施設の部 | ||
名 称 | 詳細な被災状況 | 損害見積額(元) |
市博物館 | 全部破壊 | 390,000 |
市図書館 | 全部破壊 | 470,000 |
市体育場 | 部分破壊敵軍占領 | 1,000,000 |
商務印書館 | 詳細不明 | |
航空協会 | 詳細不明 | |
新中国建設協会 | 詳細不明 | |
工程師学会 | 詳細不明 | |
徳比奧同学会 | 詳細不明 | |
総 計 | 8ヶ所 | 1,860,000 |
教育文化施設損害統計 | ||
施 設 | 損害見積額(元) | |
大学の部 | 6,623,159 | |
中学の部 | 2,199,954 | |
小学の部 | 259,129 | |
社教の部 | 1,860,000 | |
総 計 | 10,942,242 |
10月20日に教育部は、収集・調査した正確な資料にもとづいて、開戦以来、全国の20以上の大学が全部または部分的に破壊されたと国民に発表した。被害を受けた大学には、天津の南開大学、保定の河北医学院と農学院、上海の同済大学、暨南大学、大同大学、復旦大学、大夏大学、上海商学院、上海法学院、持志学院、正風文学院、東南医学院、同徳医学院、音楽専科学校、商船専科学校、市立体育専科学校などがあり、南京では中央大学、歯科学校、広州では中山大学がある。滬江大学は占領されたが、重大な破壊がなかったため、このリストにはふくまれていない。北平の各大学は爆撃こそまぬがれたものの、日本軍による略奪と占拠の被害にあった。これらの事実から、日本軍が以前から周到に計画し、とくに学校を爆撃目標としていたことを十分に証明している32)。
12月12日に首都(南京)が陥落し、戦争前期の第1段階が終了した33)。国軍の主力は内陸に移動し、戦況はしだいに持久戦へと変化していった。しかし日本軍による学校を爆撃目標とする戦略は、依然として変わらず、しばしば長距離の空襲によって中国後方の大学・中学校を破壊した。
最初に被害を受けたのは武漢大学だった。民国27年(1938年)10月25日に武漢が陥落してから、日本軍は珞珈山(ろかざん)の武漢大学本部を占拠した。器具、衣服、船と車、家畜、機械設備、土地、建物など、68万元以上の損害が生じた34)。武漢大学の教員と学生は宜昌(湖北省)に避難していたが、11月17日に日本軍用機による追跡爆撃をうけ、化学薬品、動力室の機械、印刷用品、紙なども失われて、その損害は約14万元以上に達した35)。
民国28年(1939年)に武漢大学は再び四川省万県に移転したが、2月4日にまたもや日本軍用機による爆撃を受け、工場機械、電気機械、熱機械類などを失なって、損害は約3万2,800元、2,400米ドル、440英ポンドに達した36)。武漢大学はさらに四川省楽山の文廟に移転したのだが、同年8月19日正午に日本軍用機36機が楽山県城を猛爆撃して、同校の神龍祠第2男子宿舎が全焼。宿舎の備品、電灯と配線、学校図書、および教員、学生、職員の衣服もすべて焼き尽くされた37)。武漢大学の遷移過程は、まさに多災多難だった。
武漢大学にくらべて、中央大学は比較的幸運だった。羅家倫学長の先見の明により、移転が最も早くかつ最も順調に行われたので、図書や器具も全く損害を受けなかった。重慶に移転後に校地は4ヶ所に分かれ、1つは沙坪壩の本部、2つ目は柏溪で、1年生の新しい校舎だった。3つ目は成都で医学部と歯科専門学校だけで構成された。4つ目は貴陽で、実験学校が所在した38)。移転は早くから計画されたため、短期間で大学の規模はほぼ整い、学生数は激増した。民国28年(1939年)5月に日本軍用機による重慶の無差別爆撃が行われたが、中央大学は幸いにも難を逃れた。翌年(1940年)の夏から秋にかけて、四川省では晴天が続いて霧もなかった。5月から10月までの半年間に日本軍用機が長期にわたって重慶を空襲し、「疲労爆撃」と呼ばれた39)。
この時期に日本軍用機は中央大学に何回も爆撃を加えた。最初は6月27日で沙坪壩の中渡口に焼夷弾を投下、2回目は6月29日、3回目は7月4日で、この時が最も激しい爆撃だった。中央大学と隣接する四川省立重慶大学に合計200発以上の爆弾が投下され、100棟以上の校舎が破壊された。破壊された校舎には石門村の教授宿舎、学生第4宿舎、文学院の一部教室がふくまれ、農場にも多数の爆弾が投下された40)。ちょうど夏休み期間中だったので死傷者は少なく、数人にとどまった。
しかし教授たちの損失は甚大で、工学院院長の陸志鴻は古版の中国書籍8,000冊、欧文の原書500冊、教育系の戈定邦教授は中国語と欧文の書籍1,200冊以上、日本語の汪楊寶教授は、碑帖、書画、陶磁器、湘繡(長沙の刺繍)の多数の作品を失った41)。その他にも蕭孝嶸(心理系主任)、胡煥庸(地理系主任)、孫光遠(理学院院長)、羅根澤(史地系教授)なども、それぞれ部分的に損失を被った42)。
同時期の6月末に日本軍用機は重慶両路口にある川東師範学校も爆撃し、同校の大礼堂、事務室、図書館、大教室、学生宿舎、教職員第1・第2宿舎、医務室、食堂、付属小学校と幼稚園のすべての施設が破壊された。元々の建設費用は150万元だった。また「工」字形をした実験室の前半部分が破壊され、校門はレンガ造りの柱2本を残すのみ、学生の療養室の屋根も全壊、両端は爆破されて、同校は甚大な損害を被った43)。
重慶は5月に7回、6月に10回という激しい爆撃を受けた。5月27日に日本軍用機が重慶郊外北碚の夏壩にあった復旦大学を爆撃した際、復旦大学の教員と学生約20名が死傷し、教務長兼『文摘』旬刊編集長の孫寒冰教授が重傷を負って亡くなった。『文摘』は戦時中に多くの読者を持つ刊行物だったため、この訃報が伝わると、文化教育界はこぞって哀悼の意を表した44)。同時に劉航琛の長男の曉成もこの爆撃で殉難し、郝更生は片足を負傷した45)。
日本軍用機による連日の学校爆撃をうけ、重慶大学学長の葉元龍、復旦大学学長の呉南軒、中央大学学長の羅家倫が連名でアメリカ人に電報を送り、暴行を制止するため、ただちに鉄鋼と石油の対日輸出を禁止していただきたいと支援を呼びかけた。概略は以下の通り:
「5月21日以降、日本は連日のように百機以上の爆撃機をもって、大学や中学校、病院、住宅地を激しく爆撃し、無辜の男女や青年学生をいたずらに殺傷し、遺体が散乱しています。各学校の校舎や教室はことごとく瓦礫の山と化しました。これら目を覆うばかりの痛ましい惨状は、まさに日本人の非人道的暴行を暴露するものです。・・・この暴挙をすみやかに制止するには、貴国(アメリカ)の同情と協力が不可欠です。というのは日本はアメリカからの鉄鋼と石油の輸入がなければ、侵略戦争を継続することができないからです・・・この書簡を草稿している時も、日本軍用機が頭上で旋回していて、暴行がいつまで続くのかまったく分かりません。言葉は簡潔ですが、その意味は切実です。けだし文化破壊という日本の悪意にみちた行為は、私たちの後世の者たちの骨身に刻まれ、深い悲しみと憤りをいだかせるでしょう」46)。
この電文は、まさに戦時下の中国知識人の心の叫びを代表するものだった。
民国30年(1941年)の6月、7月、8月に日本軍用機は再び狂ったように重慶を爆撃した。とくに8月8日から8月31日までは、昼夜を問わず連続して激しい空襲を繰り返し、6時間以上の間隔もなかった。市民は食糧が途絶えて眠ることすらできず、きわめて大きな苦痛を耐えしのんだ47)。
この時期に中央大学はさらに2回の爆撃を受けた。1回目は8月23日で、沙坪壩1号中央大学畜産場が爆撃され、建物は破壊され、物が散乱した。2回目は8月31日で、中央大学の校門前の木造建物が焼夷弾で焼失した48)。幸い2回とも損失は大きくなかった。太平洋戦争が勃発すると、日本軍用機はもはや中国後方の城市を攻撃する余力がなくなり、各級の学校はしだいに正常な状態にもどりはじめた。
日本軍による中国各地の学校に対する破壊は、全面的なものだった。その損失の大きさは資料が不完全なため、正確な見積を出すことが困難である。主計処統計局の編集した『抗戰中人口與財産所受損失統計(抗戦中に人身と財産の受けた損失統計)』第6次彙編の数値によると49)、各大学の損失は全部で約2,957万5,000元、各独立学院の損失は全部で約513万元、各専科学校の損失は全部で約204万1,000元、合計すると3,674万6,000元となる50)。また教育部長の陳立夫の報告によると、民国28年(1939年)12月までに国立、省立、私立をふくむ専科以上の院校(大学)77校の損失額は全部で合計9,045万1,000元に達する51)。
上記の2つの統計数値はかけ離れている。しかも統計局の集計期間は31年(1942年)12月までであるのに対し、陳氏の報告は28年(39年)末まででありながら、その損失額は前者の数値より5,370万5,000元も多くなっていて、非常に疑わしいと言わざるをえない。統計局の数値に、遺漏がないとは言えない。
陳氏の報告は比較的詳細だが、欠点がないわけではない。韓啓桐の試算によると、各学校の損失に、戦後にすべて回収できる校地の価値を混合して計算すべきでなく、減額して計算すべきだ考えられている。その他に東北大学、貴陽医学院、福建学院、湘雅医学院、演劇専科学校、中央工業職業学校、華西大学、燕京大学、江蘇教育学院、山西医学専科学校、大同大学、広西大学など12の大学が陳氏の報告には記載されていない。これらの大学の損失については、他の信頼できる資料にもとづいて補足されるべきだ。一方、廈門大学、東呉大学、南通学院、広東光華医学院、無錫国学専修学校など12の学校については、教育部の最新の統計がある。したがって修正の結果、全部で89の大学の合理的損失額は、7,475万元と推定される52)。
小中学校の損失は、教育部による27年(1938年)1月末までの集計によると、蘇(江蘇省)、皖(安徽省)、冀(河北省)、魯(山東省)、豫(河南省)、察(チャハル省)、綏(綏遠省)の7省と、京(南京)、滬(上海)、平(北京)、津(天津)、青島、威海衞の6市で、中学校の損失額は6,557万元、小学校の損失額は9,649万元に達する。ただし、この集計には校地の価値もふくまれていて、推計は正確とは言えない53)。とはいえ、以上の統計から、日本軍が各級学校に対して一律に激しい破壊を加えたことが見てとれる。北は察(チャハル省)から南は閩(福建省)・粵(広東省)にいたるまで、ほとんど例外はなかった。
4、中央研究院の損失
中央研究院は民国17年(1928年)に南京で創立され、以後、物理、化学、工程(工学)、地質、天文、気象、歴史言語、心理、社会科学、動植物など10の研究所が相次いで設置された。物理、化学、工程の3研究所は、ガスや電力設備の都合で上海に置かれたが、その他の各研究所はすべて南京に設置され、全院の一般行政事務を処理する総弁事処も南京に置かれた54)。
民国26年(1937年)7月7日に七七事変(盧溝橋事件)が勃発して事態が急変すると、中央研究院の各研究所は内陸部へ移転を命じられた。当時、院長の蔡元培は上海で病床に伏していて、また総幹事の朱家驊は浙江省主席に就任したばかりで、常時南京で活動できなかったため、移転の業務は歴史言語研究所所長の傅斯年に委ねられた55)。各研究所は何度も移転を繰り返し、廬山を経由したり、長沙、南岳(湖南省)を経由したりして、それぞれ四川省、広西省、雲南省の3省に移った。蔡院長は同年末に上海から香港に移って療養したが、中央研究院の重要な事務については依然として指示していた56)。翌年に朱家驊は漢口に到着し、長沙に残っていた各研究所の所長たちとともに香港に行って院務会議を開催し、移転方法と方針を決定した57)。適切な措置が取られたので、受けた損失はまだ深刻ではなかった。
日本軍による中央研究院への破壊は、各大学に対するほど激しいものではなかった。その理由は3つある:第1に、研究院の10の研究所は南京と上海の2地区に分散して設置され、また南京の各研究所も1ヶ所に集中していなかったので、爆撃の明確な目標とならなかった。第2に各研究所の移転は、すべて事前に計画され、段階的に準備され、別々に移動した。重慶へ向かうもの、桂林へ向かうもの、昆明へ向かうものがあり、このように全体を分散させて移動する方法は、日本軍用機による追跡爆撃を避けるのに適していた。第3に、各研究所が元々所有していた書籍、機器、設備、ならびに長年にわたって収集した各種の研究資料は、たとえば天体観測所の鋼鉄製大型部品(貴重な部品であるレンズなどは事前に分解して運び出されていた)のような、重くて移動困難なものを除いて、すべて別々に新しい場所へ運び込まれて、通常通りに使用できた58)。これにより損失を最小限に抑えられたのだ。とはいえ、一部の財産の損失を避けることができなかった。
行政院賠償委員会に保管されている「中央研究院人口財産損失估計表(見積表)」の記載によると、研究院には職員335人、用務員119人、警備員11人がいて、幸い死傷者はなかった。ただし日本軍に8ヶ所を占拠され、爆撃を1回受けた59)。この表の調査期間は、民国26年(1937年)7月7日から28年(1939年)6月30日までである60)。表に記載されている各部門の被害状況を以下に詳述する。
1. 中央研究院総弁事処。元は南京の鶏鳴寺に設置され、職員19名、用務員10名がいて、重慶に移転した。首都陥落後に事務室・研究室など48室と書庫1棟をふくむ南京の建物3棟(社会科学研究所と合同で事務を行なっていた)は、すべて日本軍に占領された。器具(机と椅子、家具、タイプライター、印刷機、計算機など)1,050点は完全に損失した。図書4,000冊、学術雑誌1万1,000冊は、牯嶺(江西省)に移送され、アメリカンスクールが代わって管理していたが、その後全て損失した61)。
2. 化学研究所。元は上海に設置され、職員31名、用務員19名、警備員2名がいて、昆明に移転した。上海の建物1棟、計30室は損害もなく、占領もされなかった。わずかに文房具の筆・墨など200点、紙2万枚、化学薬品40瓶、木炭1万斤、実験服と用務員服各1点が損失した62)。
3. 地質研究所。元は南京の鶏鳴寺に設置され、職員28名、用務員13名がいて、広西省桂林市良豊に移転した。首都陥落後に南京の研究所の建物3棟50室は、日本軍に占領された。測量機器、書架、机、椅子など380点が損失した。図書約2,700冊はすべて運び出された63)。
4. 工程研究所。元は上海に設置され、職員30名、用務員5名、警備員3名がいて、昆明に移転した。上海の建物5棟、計82室は損害もなく、占領もされなかった。書籍40点、学術雑誌60点、機器(タイプライター、謄写版)3点、文房具・紙類1,200点、文書50件が損失した。他に書籍3,600冊があったが、漢口に輸送後散失した64)。
5. 天文研究所。元は南京の紫金山に設置され、職員12名、用務員30名、警備員4名がいた。民国26年(1937年)8月ごろに日本軍用機が南京市内の同研究所将軍港事務処を1回爆撃した。11月末に湖南省、広西省、雲南省の各地を経て、後に昆明に移転した。首都陥落後に紫金山の研究所の建物9棟、計94室は、すべて日本軍に占領された。そしてモーター、バッテリーなど218点、机、椅子、書棚など700点、自動車3台、自転車1台、文房具の筆・墨など400点、中国語書籍1,120冊、欧文書籍770冊、機器24点が損失した。各研究所の中で損失の多かったものの一つである65)。
6. 気象研究所。元は南京の北極閣に設置され、職員30名、用務員10名、警備員2名がいて、四川省北碚に移転した。北極閣の研究所は爆撃されなかったものの、首都陥落後に建物4棟60室はすべて日本軍に占領された。家具、印刷機、自動車、地震計2台、歩兵銃2丁は運び出すことができず、ことごとく日本軍に略奪された。幸い図書2,000部、文書400件、簿冊600冊はすでに全部持ち出していた66)。
7. 歴史語言研究所。元は南京の鶏鳴寺に設置され、職員82名、用務員8名がいた。はじめに昆明へ移転し、民国28年(1939年)に再度四川省南溪県の李荘に移転した。南京の研究所は日本軍用機による爆撃を受けなかったのだが、首都陥落後に建物2棟計50室はすべて日本軍に占拠され、家具1,500点は全部損壊、筆、墨、紙も完全に損失した。幸い中国語図書12万6,299冊、欧文図書8,342冊、および大量の機器や古物はすべて運び出されて、まったく損害はなかった。歴史語言研究所の中国文物保護への貢献は、確かに称賛に値する67)。
8. 心理研究所。元は南京の鶏鳴寺に設置され、職員20名、用務員8名がいて、桂林市良豊に移転した。首都陥落後に研究所の建物3棟、計36室と3階建て書庫1棟は、すべて日本軍に占拠された。損失した家具は102点(冷蔵庫、タイプライター、自転車をふくむ)、機器は283点(変圧器、顕微鏡、大小の電池とその他の部品をふくむ)。書籍約4,400冊は早くに運び出されたため、損失したのは学術雑誌約100冊のみであった68)。
9. 社会科学研究所。元は南京の鶏鳴寺に設置され、研究所は総弁事処のビルのなかにあった。職員63名、用務員8名を擁し、歴史語言研究所に次ぐ2番目の規模だった。はじめに昆明へ、さらに四川省南溪県の李荘に移転を繰り返して、歴史語言研究所と隣接した。首都陥落後に南京の研究所は総弁事処とともに日本軍に占拠され、器具および雑品1,377点が損失した。ただし重要な器具はすでに運び出されていたため、幸い損失はそれほど大きくなかった。中国語・日本語図書1万8,600冊、欧文図書2,700冊、学術雑誌2万7,200冊、合計4万8,500冊が損壊し、研究所の蔵書の半分を占めていたので、きわめて惜しまれる69)。
10. 動植物研究所。元は南京の成賢街に設置され、職員20名、用務員8名がいて、はじめに重慶へ、その後に重慶郊外の北碚に移転した。南京の研究所の建物大小11棟、計63室は、陥落後にすべて日本軍に占領された。損失したのは家具や什器440点、電気冷房機1セット、自転車1台、文房具150点、図書200冊、機器4セット、叢刊3,000冊、化学薬品200種類、普通薬品50種類、鳥銃3丁、弾丸3,000発で、各研究所の中で損失が比較的大きかった70)。
11. 物理研究所。元は上海に設置され、桂林市良豊に移転した71)。ところで賠償委員会の檔案ファイルには、同研究所の「人口財産損失估計表」だけ欠けていて、職員、用務員の人数の記載もなく、損失状況はまったく不明である。欠落とせざるをえない。
以上の記述をもとに中央研究院の損失状況を簡単な統計にまとめてみよう。研究院天文研究所の南京市内事務所は、日本軍用機によって爆撃されたことがあった。南京陥落後に、7つの研究所と総弁事処の元あった建物は日本軍に占拠された。器具の損失は約27万6,000元、交通機材の損失は約1万5,000元、文房具・紙類の損失は約4,600元、図書の損失は約6万5,800冊で約19万2,000元相当、文書の損失は80件、簿冊の損失は3,020冊(そのうちの多くは叢刊)で約8,000元相当、薬品の損失は290点で約5,600元相当だった。その他に燃料、銃器などは計算にふくまれていない。中央研究院は日本軍による甚大な破壊を受けなかった学術施設だったが、それでもかなりの損失を被った。他の文化施設が受けた破壊のひどさは、推して知るべしである。
5、文物略奪と知識人の受けた被害
日本軍による中国文物の略奪は、九一八事変(満州事変、1931年9月18日)からはじまった。東北大学は真っ先に被害を受け、同校教授王華隆の住居が破壊され、書籍8,905冊、地図5万5,700部が失われた72)。続いて瀋陽の清故宮文溯閣に保管されていた四庫全書の正本が奪われ、満鉄で保管された73)。
民国22年(1933年)初頭に日本軍が山海関を陥落させたため、政府は時局の危機をふまえて、北平の古物を積極的に南へ輸送した。前後5回にわたって移送が行われ、故宮博物院の歴代古物、北平古物館(内政部所属)、頤和園(北平市政府所属)の収蔵品合計1万9,640箱と別に62包が、全部京滬(南京と上海)の両市に分散して保管された。そのなかには四庫全書、青銅器、玉器、磁器、楽器、書画、档案、図書などがふくまれ、いずれも中国文化の精華だった74)。首都陥落前に数回の移送をへて、幸いにもすべて無事に後方へ輸送された75)。
南京中央図書館の重要な図書も130箱が重慶に運び出された。けれども江蘇省立図書館が南京郊外に保管していた図書はすべて戦火で焼失し、清朝末期の江南各公署の档案は全部日本軍によって運び去られるか、あるいは焼却された。国民政府の文官処と各部会、学校図書は、日本軍によって少なくとも60万冊以上運び去られた。北平図書館の一部書籍も、日本人や漢奸によって勝手に持ち去られた。略奪された中国語・欧文書籍は6,264冊に上る。この他に清華大学、輔仁大学、燕京大学、北平民国学院の書籍も、それぞれ異なる数量で損失した76)。
総計すると北平市では、公私の書籍約58万6,000冊、古物約2,800点、碑帖約2,100点が損失した77)。上海市で略奪された公共図書館の書籍は約40万冊であり、南京、北平に次ぐ多さである。天津、済南、杭州などでは、それぞれ約10万冊が略奪された78)。中央図書館が上海と香港で買い集めた散逸した個人蔵書が約3,000種、合計3万冊以上あったのだが、少数の孤本と貴重な善本書を重慶へ船で輸送した以外は、香港の陥落後にことごとく日本人に略奪された79)。
北平協和医学院の実験室に保管されていた北京原人の化石は、忽然と姿を消して今日にいたっても謎のままである80)。日本軍による中国文物の略奪は広く民間にまでおよんだ。とくに江南地方でおびただしく、個人コレクションも彼らの奪取の対象となった81)。海塩、南潯、鎮江、蘇州など各地の個人蔵書が、梱包されて運び去られたり、あるいは散逸して行方不明になったりと、概して同様な災禍に見舞われた。アメリカ国籍人の現地調査の推計によると、損失した中国の書籍は1,500万冊以上に達し、そのなかには希少な古書もふくまれていた82)。
以上の各施設および民間から没収された文物や書籍について、教育部の戦時文物損失委員会と行政院の賠償委員会による調査が行なわれた。さらに前者では文物専門家、古書店主、古物商らが招聘され共同しながら損失額が査定され、目録にまとめられて、その概要をうかがい知ることができる83)。しかしながら、実際の数量と内容とが必ずしも一致しているわけではない。
たとえば国立中央博物院準備処で略奪された文物について記録が残っている。同処は民国34年(1945年)の抗日戦争勝利後に、李済博士が主任、曾昭燏が代理主任幹事となって、戦時中に同処から奪われた文物についてリストを作成し報告している。
第1部は民国26年(1937年)8月に日本軍が北平を占領した後に運び去られたもので、すべて専門設計委員の王振鐸が保管していた書籍・拓本・書画類、器物類など合わせて88点だった。書籍は乾隆帝時代の刊本が多く、器物は刺繍を施した屏風、宋代と清代の磁器、洪憲時代(袁世凱が使用した元号、1916年)の蓋付き茶碗などであった。元来は北平南海・懐仁堂の北平研究院が代わりに保管していたのだが、北平陥落後に略奪された。金属加工類、木工類、エビ焼き炉類、動力類、計器類、電気類は合わせて29台と9セット、数百種類にもおよぶ。たとえばイギリス製旋盤、日本製プレス機、その他に研磨機、丸ノコ、片手ハンマー、硬度計、厚さ計、製図機器、電気メッキ設備などがあり、保定の後衛街にあった王振鐸の自宅の留春園機械廠に保管されていたのだが、民国26年(1937年)12月にすべて日本軍に没収された84)。
第2部は、曾昭燏(当時専門委員)が南京の傅厚岡34号に保管していたもので、古物類85点と箱1つ、書籍類55点と棚2つ、衣類などである。書籍は湖北官書局と金陵官書局の刊本で、そして碑帖、法帖、各種の拓本が多かった。古物は南斉時代の石仏1体(棲霞山斉塔内)、山西省趙城県の仏寺の壁画4枚、乾隆帝時代の五彩の籩豆(へんとう)など8点、同治帝時代の五彩の蓋付き碗20点、そして古墨、硯、対聯(ついれん)、書画などだった。南京陥落の時に日本軍に略奪された。その他に書籍2箱がベトナムのハイフォンに輸送されたが、滇越鉄道が爆破されたため雲南省に輸送できず、民国30年(1941年)に日本軍がベトナムに進駐した際、やはり没収された85)。
(1937年)12月13日に日本軍は南京を陥落させた後、寧海路8号の私立金陵女子文理学院の宿舎に侵入し、書籍、古物、書画を多数略奪した。重要なものとして2種類あった。第1類は合計1,700冊の図書で、湖北官書局版『十三経注疏』、毛辺紙本の王応麟『玉海』、古香斎本『史記』、汲古閣本『漢書』『後漢書』、竹簡斎本『三国志』、掃葉山房本『資治通鑑正続編』、金陵局刻本『文選』、掃葉山房本『子書三十三種』、漢碑30種がふくまれていた。
第2類は古物、玉器、金石で約50種類以上あった。これには星雲鏡5面、蟠螭鏡(ばんちきょう)3面、菱花鏡3面、宋代の鏡4面、玉製の素璧1個、玉璜と玉珩10個、銅製の漢印3顆、銅製の六朝印5顆、銅製の唐印5顆、石製の虎符1個がふくまれていた。青銅器には虁鳳(きほう)紋尊1個、虁龍紋角尊1個、青銅剣1柄、青銅戈4点、青銅帯鈎2点があった。その他にも南京の陰陽営23号に同校の古文字、経典、器物などがあって、殷墟の亀甲獣骨文字183片は、もともと劉鉄雲の所蔵品で、きわめて貴重なものだった。敦煌千仏洞の唐代人の書写した四分戒経1巻(長さ一丈あまり、巻軸仕立て)。壁画の天女像1幅、緙絲(こくし)の山水画1幅(ガラス製額装)、大理石の插屏(木製台座)、その他貝製の器、康熙・乾隆帝時代の磁器、山水画や書画多数も、すべて日本軍に没収された86)。
寺廟、鋳造像、鐘鼎、碑塔、廬墓(墓廟)などの破壊については、晋(山西省)、魯(山東省)、豫(河南省)の3省で最もひどい状況だった。山東省の章丘、高密、海陽、鄒平、蒙陰、平陰、荷沢、沂水、済寧、郯城などの地では、廟という廟は残らず破壊されたと言っても過言ではない。最も著しいのは各地の孔子廟で、礼器や楽器が損壊されたり、建物が取り壊されたりした。高密の晏子像、荷沢の僧格林沁(センゲリンチン)像、郯城の孝昌碑と郯子墓、沂水の古塔は、いずれも破壊されて失われた87)。
山西省の太原、河津、解県、朔県の各地の仏教・道教の廟、たとえば純陽宮、菩薩廟、大仏寺、三清殿、その他の神廟、たとえば城隍廟、文廟、娘娘廟、二郎廟、関帝廟、大禹廟などは、略奪されるか、爆撃で破壊されるかして、取り壊された。所蔵されていた古画、玉璧、金鐘、銅や鉄の仏像、漢代の瓦製香炉などは、およそ民国28年から32年(1939年から1943年)の時期にすべて盗み去られた88)。
河南省南陽の玄妙観と諸葛廬にあったすべての古物、書画、古跡、建築は、それぞれ民国27年(1938年)春と民国34年(1945年)2月に破壊された。洛陽の龍門石窟、鞏県の石窟寺は、民国33年(1944年)に一部が破壊された。泌陽県の5ヶ所の古跡は、民国30年(1941年)2月に破壊された。その他にも記録に残されていないものの、開封や鄭州などの地でも少なくない損失があった89)。日本軍による廟宇や廬墓、その他の古跡の破壊行為から見ると、明らかに時間をかけて策を練り、様々な手段をもちいて中国の歴史的伝統や、人々の心に根付いた信仰や倫理観念を破壊しようとしていたと言えるだろう。
個人コレクションに関しては、略奪された数量が数えきれない。たとえば杭州の王鯤徒は、民国27年(1938年)冬に杭州が陥落した際、日本軍に東周時代の長方鼎、梁代の石造観音像、秦代の鏡、漢代の鏡、香炉、端渓硯など多くの古物を奪われ、その価値は計り知れない。福州の左賦才は、民国33年(1944年)10月に、宋明代の骨董品、磁器、花瓶などを多数奪われた。桐郷の范文治は、民国26年(1937年)11月に、精巧な磁器の様々な花瓶、磁器の仏像、朱塗り碗、陶器、古銭など40、50種類を略奪された90)。上記した3人は、いずれも著名なコレクターであり、とくに損失の大きかった人物である。
学者に対する略奪例として、燕京大学教授の顧頡剛があげられる。真珠湾攻撃後に顧氏は苦難の末に重慶に赴いたが、彼が北平の燕京大学に残した書籍、書画、碑帖、金石、書簡や手稿などは、すべて日本軍に略奪された。以下に、彼の被った損失を列挙する:
略奪された顧頡剛のコレクション | |
普通書籍と雑誌 | 30,000冊 |
明と清代初頭の善本書 | 6,000冊 |
鈔本書 | 500冊 |
小説と歌の本 | 3,000冊 |
史料 | 500冊 |
稿本書 | 300冊 |
書簡 | 30,000件 |
原稿と印刷された講義 | 2箱 |
以上書籍類 | |
碑帖 | 30件 |
印譜 | 20部 |
金石拓本 | 100種 |
コロタイプ版書画 | 10種 |
書画 | 40件 |
以上書画類 | |
印章 | 150顆 |
写真 | 1,000枚 |
古錢 | 650点 |
古鏡 | 3面 |
石刀 | 2柄 |
古経 | 2卷 |
以上古物類とその他91) |
生涯を学術に捧げてきた学者にとって、蔵書や稿本は生命にも等しいほど大切なものである。日本軍が公私を問わず一様に文物を略奪したことは、中国知識人に対して極めて大きな迫害と言えるだろう。
民国30年(1941年)12月8日に日本海軍と空軍は真珠湾を奇襲して公然とアメリカを敵と見なし、もはや何の遠慮もなく、すぐさま兵を派遣して燕京大学を封鎖して、教員と学生を学校から追い出した。その後逮捕状が出されて、逮捕された教授は陸志韋、張東蓀、洪煨蓮、鄧之誠、趙紫宸、衞爾遜(Wilson、アメリカ籍)、陳其田、趙承信、戴艾楨、蔡一諤、蕭正誼、袁文樸の12名で、いずれも著名な学者だった92)。その他にも侯仁之、周学章、林嘉通、劉豁軒の4名の教授と十数名の学生も拘束された。彼らは日本軍の監獄でひどい侮辱を受け、生きるのが嫌になるほどだった。イギリス籍の教授林邁可(Michael
Lindsay)と班維廉(William Band)は、この知らせを聞いて西山に逃れ、各地を転々としてから太行山の遊撃隊に参加した。校務長の司徒雷登(President
John Leighton Stewart)は遠く天津に出張中で、北平に戻るとただちに軟禁され、終戦になってやっと自由の身となった93)。
日本軍は知識人に対して、迫害に加えてさまざまな手段で殺害した。『文摘』の主編だった孫寒冰は爆撃で死亡し、滬江大学学長の劉湛恩は暗殺された94)。作家の陸蠡は上海で逮捕され日本憲兵隊の拷問を受けて死亡95)、創造社の巨匠だった郁達夫は南洋に逃れ、名前を変えて災いを避けようとしたが、民国34年(1945年)8月の日本の降伏後間もなく、スマトラで日本軍に誘い出されて殺害された96)。上述した数名は、比較的有名で世間に知られていた人物にすぎない;戦地の無名の教育関係者で、無辜の罪で命を落としたり、首を斬られたりした者はさらに多くいる97)。日本軍の中国知識人に対する憎悪が、ここからも見て取れる。
6、まとめ
1937年から1945年までの中日戦争は、歴史家によって第2次中日戦争と呼ばれているが、実際には民国20年(1931年)の九一八事変(満州事変)にさかのぼることができ、戦争はこの時点ですでにはじまっていたと見なせる。この14年にもおよぶ長い過程において、日本の攻撃は局地的なものから全面的なものへと拡大し、徐々に侵食するやり方から一気に飲み込む方法へと変化し、中国を徹底的に征服し、大陸政策の夢を追い求めようとした;対して中国では、ついに全国民的な抗戦が起こり、国家の独立を守ろうと、軍と民衆が立ち上がり、日本軍の優勢な武力に抵抗して、次々と倒れても後に続くという壮烈をきわめたのである。
交戦国が相手を抑えつけて勝利を勝ち取ろうとするのは、戦争では当然のことであるが、残酷な手段をもちいて、意図的に相手の文化を破壊する例は、それほど多くない。ハーグ陸戦法規の慣例に関する条約第27条の規定によると、宗教、美術、学術、古物といった文化に関する一切の施設とその財産は、軍事目的で使用されていない限り、交戦国はできる限り保全に努め、破壊してはならないとしている98)。そのため国際間において2国または多国が交戦する場合、おおむねこの規定が遵守されているのだ。
1940年8月から10月にかけて戦われた「バトル・オブ・ブリテン(Battle of Britain)」で、ドイツ空軍はイギリスの重工業地帯とレーダー基地を猛烈に攻撃し、ロンドンからスコットランドまで爆撃したが、オックスフォードやケンブリッジといった歴史ある著名な大学は無傷だった。1944年に連合国軍の航空機がドイツ領内を大規模に爆撃した際、ケルン市はほぼ壊滅したのだが、数百年の歴史をほこる双尖塔のケルン大聖堂は、無事にそびえ立っていた。そもそも歴史文化の成就と結晶は一国だけのものではなく、世界の共有財産であり、全人類から尊重されるものである。
日本軍は戦争中に計画的に中国文化を破壊し、有名な書店(出版社)を焼き払い、公立・私立の大学や博物館、図書館を爆撃し、学術施設を占拠し、書籍や文物を略奪し、大学教授を逮捕し、知識人を虐殺した。これら一連の暴行は、中国の歴史文化を根こそぎにして、知識人の意志を動揺させ、中国人の精神的防壁を打ち破ろうとしたのであり、その意図はまったく底しれない。歴史研究には異なる立場や視角があるといわれている。たとえば英仏百年戦争(1337年~1453年)について、イギリスとフランスの歴史家はそれぞれ異なる評価をしている;歴史的評価が相違するのは仕方ないが、しかし歴史的事実を歪曲したり改竄したりしてはいけない。
本稿は文献史料、新聞雑誌、当時の人々の著述にもとづき、事実を詳述して分析と概述を加えることで、40年前の中日両国間の戦争と悲劇について、歴史の忠実な証言を残すことを目的としている。
中華民国74年(1985年)3月11日修訂稿
注
1) 張一望「愁雲魅影之上海」『淪陷前的上海』漢口羣力書店、民国27年(1938年)。76~79頁。
2) 国民政府が国際連盟第18回総会に提出した「補充声明」『上海大公報第三版』民国26年(1937年)9月14日。国際連盟第18回総会は1937年9月13日にジュネーブで開催。
3) 何炳松「商務印書館被燬紀略」『東方雜誌』第29卷第4号、民国21年(1932年)。3~9頁。
4) 行政院「商務印書館聲請歸還切物說明及表格」『賠償委員會檔案(以下『賠委會檔案』と略す)』卷号 a74151。『東方圖書館紀略』(図版1冊ふくむ)東方圖書館複興委員會、民国22年(1933年)。A Description of the Oriental Library Before and After the Destruction
by Japanese on February 1, 1932, Board of directors of the Oriental library, 1932.
5) 「商務印書館因敵日侵略損失報告清單(甲) 」『賠委會檔案』卷号 a74151。
6) 前掲注4)。
7) 「商務印書館聲請歸還刧物說明及表格」C.『賠委會檔案』卷号 a74151。何炳松、前掲注3)参照。
8) 「國聯調查團於二十一年三月二十一日參觀被燬後之東方圖書館」『商務印書館申請賠償報告附圖』。
9) 商務印書館「聲請歸還劫物表格」A. 『賠委會檔案』、破壊された資料の詳細説明。何炳松、前掲注3)、9頁。
10) 「商務印書館被物資詳細說明」『賠委會檔案』。商務損失報告清單(丙)『賠委會檔案』。
11) 前注。
12) 前注。書籍購入時の価格合計は1,628万3,395元。何炳松の統計によると1,633万504元で、賠委會の数値とやや異なる。商務損失報告清單(甲)参照。
13) 商務印書館財產損失報告單(丙)附一『賠委會檔案』。
14) 『東方雜誌』第34卷18・19期期合刊所載の商務印書館編審部の遷湘写真5枚および説明。
15) 前掲注13)。
16) 前掲注10)。商務損失報告單(丙)参照。
17) 「商務印書館因日本侵略所受損失清單(乙)」『賠委會檔案』。原価損失1,25万5,257元6角6分。
18) 「正中書局財產損失」戰時在京滬兩地物資損失清册。『賠委會檔案』a016022。
19) 「南開簡史」『上海大公報第三版』民国26年(1937年)7月31日。
20) 「日軍仇視文化機關」天津專電『上海大公報第三版』民国26年(1937年)7月30日。
21) 黃炎培「弔南開大學並急告教育當局」『上海大公報第二版』民国26年(1937年)7月31日。
22) 前掲注20)、中央社天津7月29日電。
23) 「文化的劊子手」中央社南京及天津三十日電『上海大公報第三版』民国26年(1937年)7月31日。
24) 前注、張伯苓談話。查良鑑「八十南開精神永在————永懷張伯苓先生的偉大愛國情操」『臺北中央日報中央副刊』民国七十三年(1984年)10月17日。
25) 查良鑑、前注。
26) 中央社南京一日電『上海大公報第三版』民国26年(1937年)8月2日。
27) 『東方雜誌』第34卷第22・23・24号合刊、民国26年(1937年)。日本軍用機が中国の文化施設を爆撃する図6枚。
28) 羅家倫「炸彈下長大的中央大學」『文化教育與青年』商務印書館、民国32年(1943年)、222~234頁。吳相湘『第二次中日戦争史』下冊、綜合月升社、683頁。『東方雜誌』第34卷第22・23・24号合刊、民国26年(1937年)。図版。
29) 中國向國聯大會提出之「補充聲明」第四項『上海大公報第三版』民国26年(1937年)9月14日。
30) 「市社會局調查統計滬教育文化機關損害數額之說明」 『上海大公報第三版』民国26年(1937年)10月17日。
31) 前注、上海市社會局調查統計教育文化機關損害數額詳表。中学校の部の各学校の損失見積と総額には、1万800元の差がある。
32) 「教育部搜集公布、全國大學二十餘校被毀」『上海大公報第三版』民国26年(1937年)10月20日。
33) 張玉法『中國現代史』下册、東華書局、民国66年(1977年)。596頁。抗戦前期を3段階にわけ、第1段階を1937年7月から12月まで、つまり盧溝橋事件から南京陥落までとしている。本稿もおおよそこの区分に依拠している。この本は東華書局歷史叢書の1冊である。
34) 「國立武漢大學財產損失報告單」(民国27年10月至28年6月)『賠委會檔案』編號 a6925。
35) 前注、「武漢大學財產直接損失彙報表」(民国27年11月17日、湖北宜昌)。
36) 前注、「武漢大學財產損失彙報表」(民国28年2月4日、四川萬縣) 。
37) 前注、「武漢大學財產損失報告單」(民国28年8月19日正午、四川樂山)。
38) 前掲注28)、羅家倫「炸彈下長大的中央大學」『文化教育與青年』227~232頁。
39) 吳相湘『第二次中日戰爭史』下冊、綜合月刊社、民国63年(1974年)。585~588頁。
40) 羅家倫「炸彈下長大的中央大學」、吳相湘『第二次中日戰爭史』下冊、588頁。筆者も現場を直接目撃。
41) 「中央大學教職員財產損失表」『賠委會檔案』編號26956。
42) 前注。
43) 「四川省立川東師範學校慘遭轟炸損失表」『賠委會檔案』編號26915。
44) 「郊昨晨空戰」中央社訊『重慶大公報第三版』民国29年(1940年)5月30日。孫寒冰、名は錫麒。江蘇省南匯出身。アメリカのワシントン大学修士、ハーバード大学で研究。復旦大学社会科学科主任、国立労働大学経済学科主任、暨南大学政治経済学科主任を歴任。著書に『合作主義』など。戦時中に『文摘』を編集して名声が高かった。樊蔭南編『當代中國四千名人錄』香港波文書局、一九七八年復刻版。
45) 前注。
46) 前注。中央社訊。
47) 吳相湘『第二次中日戰爭史』下冊、558~589頁。
48) 中央大學教職員財產損失表『賠委會檔案』編號a6956。
49) 民国28年(1939年)に行政院の制定した「抗戰損失查報須知」以後、各中央機關と地方政府がつねに継続して報告し、これをもとに主計処統計局が『抗戰中人口與財産所受損失統計』を編纂、31年(1942年)末までについて第6次彙編が編集された。韓啓桐『中國對日戰事損失之估計(一九三七~一九四三)』中央研究院社會科學研究所叢刊第24種、中華書局。民國35年(1946年)。
50) 前注。
51) Chen Li-fu, Chinese Culture and Education during the Last Three years,
In The Chinese Quarterly, Vol. VI, No. 4, Autumn 1940. pp. 612-615.
52) 韓啓桐『中國對日戰事損失之估計』第4章第4節教育文化事業第1目「專科以上學校」、54~55頁。原著は『江西統計月刊』2卷3期、『時事類編抗戰特刊』(民国26年11月出版)、上海新聞報(民国27年10月7日)などの資料も根拠にしている。
53) 前注、第4章第4節第2目「中等學校」、第3目「小學校」、55~56頁。
54) 王聿均、孫斌合編『朱家驊先生習論集』中央研究院近代史研究所、民国66年(1977年)。77~83頁。朱家驊「抗戰以來中央研究院之概況」民国31年(1942年)10月10日。陶英惠「蔡元培與中央研究院」『中央研究院近代史研究所集刊』第7期に引用の「中研院十七年度總報告」、「第一屆評議會第四次年會紀錄」(油印本)、「中研院職員錄」(29年9月印行)
などの資料から、各研究所の成立日と、所長名、出身地を以下の表にしめす。
所 名 | 成 立 年 月 | 所長の姓名と出身地 |
物理研究所 | 17年(1928年)7月 | 丁燮林(江蘇省泰興) |
化学研究所 | 17年(1928年)7月 | 荘長恭(福建省) |
工程研究所 | 17年(1928年)7月 | 周仁(江蘇省江寧) |
地質研究所 | 17年(1928年)1月 | 李四光(湖北省黃岡) |
社会科学研究所 | 17年(1928年)5月 | 陶孟和(天津市) |
天文研究所 | 17年(1928年)2月 | 余青松(福建省同安) |
気象研究所 | 17年(1928年)2月 | 竺可楨(浙江省紹興) |
歴史語言研究所 | 17年(1928年)10月 | 傅斯年(山東省聊城) |
動植物研究所 | 23年(1934年)7月 | 王家楫(江蘇省奉賢) |
心理研究所 | 18年(1929年)5月 | 汪敬熙(山東省済南) |
55) 朱家驊年譜長編草稿(未刊稿)、二十六年十月記事。
56) 前掲注49)。「抗戰以來中央研究院之概況」
57) 『朱家驊先生論集』104~109頁。「三十年來的中央研究院」(民国47年(1958年)6月9日)。
58) 前掲注54)。
59) 「中央研究院人口財產損失估計表」『賠委會檔案』編號第 4425號附件
60) 前注。
61) 前注。「中央研究院總辦事處人口財產損失估計表」。
62) 前注。「化學研究所人口財產損失估計表」。
63) 前注。「地質研究所人口財產損失估計表」。
64) 前注。「工程研究所人口財產損失估計表」。
65) 前注。「天文研究所人口財產損失估計表」。
66) 前注。「氣象研究所人口財產損失估計表」。
67) 前注。「歷史語言研究所人口財產損失估計表」。
68) 前注。「心理研究所人口財產損失估計表」。
69) 前注。「社會科學研究所人口財產損失估計表」。
70) 前注。「動植物研究所人口財產損失估計表」。
71) 前掲注56)。
72) 『中華民国よりの掠奪文化財総目録』SR陝西省、東北区「東北省公私文物損失數量及估價目錄」。
73) 四庫全書は全部で8部あり、7部が正本である。そのうち4部はそれぞれ、北京の文華殿後方の文淵閣、瀋陽清故宮内の文溯閣、北京の円明園内の文源閣、熱河避暑山荘内の文津閣に収蔵されて、「北四閣」と呼ばれる。残りの3部は、江蘇省鎮江の金山寺内の文宗閣、江蘇省揚州の大観堂文滙閣、杭州の聖因寺内の文瀾閣に収蔵され、「南三閣」と呼ばれる。他に副本が1部あり、翰林院に保管されていた。八国連合軍の役(義和団事件)や太平天国の戦乱を経て、文淵閣、文溯閣、文津閣、文瀾閣の4部のみが残存していた。文溯閣の四庫全書正本は、14年間略奪された後、抗日戦争勝利後に中国に返還され、蘭州(甘粛省図書館)に運ばれて保管された。
74) 『民國二十三年申報年鑑』。65~66頁。
75) 北平故宮博物院の統計によると、南京の倉庫にあった古物は元々1万9,580箱であったが、首都陥落前に運び出されたのは1万6,627箱であった。したがって陥落後の南京に残されたのは2,953箱となるはずである。韓啓桐『中國對日戰事損失之估計』、57~58頁。
76) 『中華民国よりの掠奪文化財総目録』ON「北平市公私文物損失數量及估價目錄」。掲載された損失一覧表では、第8項の清華大学で北平陥落時に損失した中国語・欧文書籍が約3万4,900冊あまりあり、最も多い。
77) 前注。北平市における公共図書館の損失は合計44万8,957冊と別に5箱、個人図書の損失は13万7,471冊と別に4箱であった。
78) 「全民通訊社」の調査による。盧溝橋事件後の日本軍による各城市図書館の略奪状況については韓啓桐『中國對日戰事損失之估計』、56~57頁参照。
79) 呉相湘『第二次中日戰爭史』下冊、688~691頁。香港で略奪された古書は、抗日戦争勝利後に駐日中国代表団が発見してふたたび南京に輸送された。
80) 前注、690頁。北京原人の化石は、日本軍によって運び去られたとも、秦皇島に運ばれてアメリカの船に積み込まれたが、日本軍によって撃沈されたとも言われている。
81) 張一望『淪陷前的上海』、76~79頁。
82) 韓啓桐『中國對日戰事損失之估計』、57頁。
83) 『中華民国よりの掠奪文化財総目録』凡例第2条。
84) 「國立中央博物院籌備處工作人員戰時財產損失報告表」『賠委會檔案』編號a6954。
85) 前注。
86) 「私立金陵女子文理學院古物文獻損失報告」『賠委會檔案』編號 a6908。
87) 『中華民国よりの掠奪文化財総目録』I中國被日劫掠文物續編、山東省・山西省。
88) 前注。
89) 前注。ON北平市、河南省「公私文物損失數量及估價目錄」。
90) 前注。C中國被劫掠文物目錄、副本三(私人古物)。
91) 「燕京大學財產損失」『賠委會檔案』編號 86902。民国35年(1946年)3月9日に平津区特派員弁事処より、燕京大学学長の陸志韋が顧頡剛のために申告した損失が転送されてきた。
92) 『重慶大公報第三版』民国31年(1942年)2月7日。北平を脱出した燕京大学教授張長弓の談話。
93) 梅貽寶「燕京大學成都校始末記」『伝記文学』民国73年(1984年)2月号。46~47頁。
94) 劉湛恩は湖北省漢陽出身でコロンビア大学で哲学博士。大夏大学、光華大学の教育学教授、YMCA全国協会教育部門総幹事、上海職業指導所主任を歴任し、廬山談話会に参加した。後に滬江大学学長に就任したが、上海陥落期間中に日本人によって暗殺された。樊蔭南編『當代中國四千名人錄』香港波文書局1978年復刻版。
95) 陸蠡は浙江省天台出身で散文作家、翻訳家。『海星』『竹刀』などの散文集を著し、ツルゲーネフの『ルーヂン』と『煙』、ラマルティーヌの『グラツィエッラ』を翻訳した。上海陥落後に租界に留まっていたが、不幸にも民国31年(1942年)4月に日本軍に逮捕され、厳しい拷問をうけて5月13日に喀血して死亡した。わずか35歳だった。李立明『現代中國作家評傳』上册、香港波文書局1980年版。183~188頁。
96) 郁達夫は太平洋戦争勃発後、シンガポール文化界抗日連合会の主席を務めた。民国31年(1942年)1月末にシンガポールが陥落すると、趙廉と改名してスマトラに逃れたが、民国34年(1945年)8月29日に殺害された。享年50歳。『傳記文學叢刊民國人物小傳』第2册、89~81頁。
97) 黎東方『抗戰時期的文化教育』第三節「殉難的戰區教育人士名錄」には全部で30数頁にわたって数百名におよぶ姓名が記載されている。
98) 韓啓桐『中國對日戰事損失之估計』第四章第四節「教育文化事業」、54頁。
王聿均(森本和男訳)
「戰時日軍對中國文化的破壞(戦時日本軍による中国文化の破壊)」『中央研究院近代史研究所集刊(台湾)』第14期、1985年。327~347頁。